第10話
マンションに戻ると、テペヨロトルにはテレビを観ててもらうことにして、司は早速調理に取りかかった。
無地の白いエプロンを身につける。
献立は一汁二菜だ。
メインとなるのは鶏の竜田揚げである。
司がネットで調べたところ、昔の軍船で作られたのがきっかけで、その船の名前がついたとか、竜田川という川から名前がついた――なんて諸説あるらしい。
から揚げと何が違うのかというと、衣に小麦粉ではなく片栗粉を使う点が挙げられた。
副菜には菜の花のおひたしを作る。
テペヨロトルにはお花と言っておいたものだ。
たぶん食べないだろうなと思いつつも、テペヨロトルが知らない食材なら、もしかすれば食べるかもしれない。
それらに加えて味噌汁にご飯という、日本の食卓的な内容を目指すことにした。
これだけを一人で作るとなると大仕事だ。作業の順序も大切になる。
まず、ご飯を炊くことにした。炊飯器に決められた分量のお米と水を入れてボタンを押す。無洗米なので水の分量だけ気をつければ良かった。
炊飯器の液晶画面に「炊きあがりまで55分」と表示された。まるで制限時間だ。炊きあがりまでの、約一時間のうちに竜田揚げが揚がっているのが望ましい。
次に司は二つの鍋でお湯をわかす。
大きめの鍋と小さめな片手鍋だ。お湯が沸くまでの間、竜田揚げの作り方をスマホで再確認した。
集中しているせいか時間の進みが早く感じられる。
片手鍋のお湯はすぐに沸いた。
さっそく味噌汁を作る。
顆粒だしと、さいの目切りにした豆腐を鍋に落とした。
わかめの味噌汁が簡単だと思ったのだが、外国の人は海草類を消化する酵素を持っていないと、どこかで聞いたのを思い出して豆腐にした。
沸騰直前に火を止めて、味噌を溶き入れれば、豆腐の味噌汁の出来上がりだ。
そうしているうちに、ちょうど大きな鍋のお湯が沸いたので、司は菜の花のおひたしに取りかかった。
水洗いした菜の花をつぼみと茎に切り分け、太い茎の方から順番に時間差をつけてサッと茹で、氷水でしめた。あとは水気を切って小皿に盛り、鰹節を振りかけて醤油を垂らせば完成だ。
「司、何か手伝う?」
「うわああッ!」
突然、背後から声をかけられて司は肩をびくつかせた。
いつの間にかテペヨロトルがリビングからキッチンに来ていたらしい。
彼女はくりっと丸くさせたエメラルド色の瞳で、司の顔を見上げて首を傾げる。子リスのような仕草が愛らしい。
「どうしたの?」
「ちょっと……驚いただけだ」
「ふーん」
「これから包丁を使うから、少し離れててくれ」
「はーい!」
テペヨロトルは両手をあげつつ二歩下がった。
彼女に気付かないくらい、自分が調理に集中していたのかと司は思う。
全体の計画を立ててご飯が炊ける時間をゴールに設定し、それぞれの作業を進めていくというのはなかなかに難しい。
ボヤボヤしていたら、あっという間に時間が無くなってしまう。
司はレジ袋から鶏モモ肉を取り出した。
ネットに配信されていた動画を思い出しつつ、鶏肉から脂の塊のような部分や筋を丁寧に取り除く。
それから一口よりやや大きめサイズに切っていった。
慣れない包丁仕事に手間取ったが、この一手間をかけるだけで、臭みが取れてより美味しくなるらしい。
「うわああッ!お肉だぁ!」
テペヨロトルがまたしても、司の隣に立って無邪気に笑った。
包丁を使うから離れてと注意したのだが、どうやら彼女の好奇心は収まらなかったらしい。
背伸びをしてまな板の上を見つめる。
鶏肉にテペヨロトルの視線は釘付けだ。
「司、これ食べるの?」
「あ、ああ」
「生で食べちゃだめ?」
「たぶん、だめだと思う」
鶏のお刺身もあるが、専門のお店で出される鮮度がひときわ良いものに限られる。
「えー、せっかくなのに?」
「テペヨロトルはこの国の美味しいものをいっぱい食べに来たのに、来日早々お腹を壊したら困るだろ?」
「そ、それは困る。お腹痛くなるの辛いから」
テペヨロトルは自分のお腹のあたりを両手でいたわるようにさすった。
彼女はお腹を壊して失敗した経験でもあるようで、司の説得は効果てきめんだった。
「それじゃあ、テペヨロトルは下がって」
「はーい」
今度は少し残念そうに、少女は二歩下がる。
「向こうの部屋でテレビを観ててもいいんだぞ?」
「司をもっと見てたいから」
テペヨロトルが大きな瞳をキラキラさせて見つめてくる。
彼女がそうしたいというなら、司にも拒む理由はない。
炊飯器が沸々とした熱と音を奏でだした。ご飯ももうすぐ炊きあがりそうだ。
司は竜田揚げの調理にかかる。
コンロに中華鍋を用意した。油を注いで火にかけ温めておく。
その隣に揚げ物の油を切るための金網付きバットを置いた。
それとは別に広めのバットを用意して片栗粉を出す。
どれくらいが適量か解らないが、とりあえず小山ができる程度にした。
そしてボウルに鶏肉を入れると、醤油をドボドボと肉が浸るまで注ぐ。
手早くもみ込むこと十秒。
この時間が長くなると下味が付きすぎてしょっぱくなる。
司は醤油を纏った鶏肉を両手で持ち上げ、ギュッと絞る。
余計な醤油を切って、すぐに片栗粉の入っているバットに移した。
軽く手を洗って今度は菜箸を手に取ると、熱しておいた中華鍋の油に箸を入れる。
ネットで調べたところ、きちんと油が温まっていれば、菜箸の先端からぷくぷくと気泡が出るらしい。
まだ気泡はぽつぽつとしか出ていなかった。
「これは何をしてるの?」
「うわっ……と、ええと……油が温まったか確認しているんだ」
もう三度目だというのに、少女の声に驚いてしまった自分が司には少し恥ずかしい。
テペヨロトルは椅子を持ってきて、料理をする司の後ろに置くと、その上に立っていた。
「危ないから近づかないようにな」
「はーい!」
それでもテペヨロトルは椅子の上から動かない。
そこが彼女の特等席なのだろう。
自然とテペヨロトルの姿が小さな頃の自分と重なった。
家政婦さんも今の自分と同じ気持ちだったのかもしれない。
見られるというのは、少しプレッシャーだ。
そうこうしているうちに中華鍋の油もほどよく温まり、司は揚げ物との対決の時を迎えた。
「よし……やってみるか」
下味のついた肉に片栗粉をまぶす。
片栗粉のキュッキュッと鳴るような感触は初体験だ。
粉をすり込むようにしてまんべんなく鶏肉を覆ってから、余計な粉を軽くはたき落とす。
「ねえねえ、それをどうするの?」
「揚げるんだ」
彼女には揚げ物も珍しいのだろうか。
いや、たぶんテペヨロトルはまだ子供だから、知らないことだらけなんだろう。
勝負の瞬間が訪れた。
食材を熱した油に投入する。いやが上にも緊張が高まった。
司はそっと慎重に鶏肉を鍋の中央部に落とす。
ジュワアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!
小気味よい音と、醤油の焦げる香ばしい匂いがキッチンに広がった。
「なになにこれ?すごい音!」
テペヨロトルが椅子の上に立って、ひざをもじもじ、身をぷるぷるともだえさせ、そわそわしだす。
司も浮き足立ちながら告げた。
「大丈夫だ。ここまで計算通りだから」
「う、うん。大丈夫なんだね」
司は菜箸でくっつきそうになる鶏肉同士を引き離した。
ひとかたまりになってしまっては、仕上がりが残念なことになる。
まんべんなく揚がるようにと、つい箸でつついてしまいたくなるところを、じっと我慢する。
くっつきを防止してからは、不用意に箸で鍋の中をいじらない。
これもネットの教え通りに従った。
そしてコンロの火力を少しだけ強めた。
お肉を投入すると油の温度が一時的に下がってしまうので、こうして180℃前後を維持するといいらしい。
油のパチパチと跳ねる音が、力強いフォルテから繊細なピアニッシモへと変化した。
司の耳はそれを聞き逃さなかった。
次々と鍋の中から竜田揚げを引き上げ、金網を敷いたバットに移していく。
全体的に白っぽい見た目だが、きちんと揚がっていた。金網の上で休ませている間に余熱できちんと中まで火が通るというのだ。
「うわぁ。うわぁ!」
バットで油が切れるのを待つ竜田揚げを見つめて、テペヨロトルは歓喜の声をあげた。
揚げるのは二人前だ。
司の戦いはまだ終わらない。
もう一度作業をしなければならなかった。
「しまった、計算違いをしてしまった」
一度目の使用で片栗粉を入れたバットには、わずかしか片栗粉が残っていなかった。
「司、どうしたの?」
「片栗粉が足りな……ハッ!?テペヨロトル。お願いがあるんだが」
「なになに?」
「片栗粉をここのバットにあけてくれないか」
「はい!」
快活な返事でテペヨロトルは司の視線の先にあった、片栗粉の袋を手にした。
「どれくらいですか?」
「俺がストップって言うまで頼む」
彼女がバットにさらさらと白い粉を撒く。
「えーと……ストップ。ありがとう。助かった」
「どういたしまして」
テペヨロトルは得意げに胸を張った。
司は補充された片栗粉を使い、竜田揚げの二巡目の作業に入る。
結果、鍋の大きさの都合で揚げる作業が三巡目までかかってしまったが、司は初挑戦ながらも無事、竜田揚げを完成させた。
そして、ほぼ同時に炊飯器から、炊きあがりを知らせる電子音が鳴るのだった。
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