Hug~蛮勇二人、死闘はここに決す~
蛮勇二人は鍔迫り合いのまま、にらみ合う。
野太刀と双太刀は火花さえ散らすほどの勢いで擦れ合う。その担い手双方が常軌を逸した膂力を以て振るっているのを、雄弁に物語っている。
しかし、身体能力――特に筋力の差はジョンのほうに軍配が上がっている。
故にサイファーは押され出した。技術などという概念を嘲笑うような、とにかく豪放で一直線な力で押すのだ。
だがされるがままの男ではなかった。一直線に向かってくるなら、受け流すのみ。方法だけが技術ではないのだ。どの瞬間が受け流せるか、というタイミングをとるのも技術だ。相手の力を利用するためには――意識の隙間につけ込むのだ。
例えば――相手を押すことしか考えていないとき。
サイファーはごく自然に力を抜いて、ジョンの身体を後方へと受け流しながら柄頭で一撃する。地面に沈み込みながら、一気に滑っていく。その距離は五メートルを優に超えた。大地を抉る、というブレーキがありながらこの距離まで滑ったのは、それだけジョンの力は桁外れということだ。
「ハハッ、やっぱアンタ最高だわ。あぁ、これ何回目だっけなァ、言ったのはよォ」
「知るかよ。何回も言った覚えがあるのは、それだけお前さんのボキャブラリーが貧弱ってこった」
「傷つくなァ、それは」
「どのみち死にたくなるくらい、身体のほうも傷つけてやるよ」
言うが早いか、いつの間にか納刀しておいた状態からサイファーは抜刀を放つ。ジョンとの距離を鑑みれば、確実に当たらない距離だ。銃の出番と言える五メートルもの距離を、長いとはいえ五尺――正確には
だが――ジョンの身体には斬線が走る。抜刀の軌跡が生んだ延長線上にある左肩から右わき腹にかけてを一閃した。そこから一気にいくつもの斬線が走る。空間切創による遠隔斬撃であり空間ごと斬る絶対斬撃だ。それも一つに終わらず、ジョンを取り囲むように輝線が走る。斬撃はひとつではなかったのだ。
連続発生した空間概念丸ごとの斬撃を食らっては、いくらジョンもその身を幾重にも斬り刻まれ、身体のパーツ一つも原型を残さずに血肉の塊となってわだかまる。
――普通なら、死だ。
――これだけ刻まれても復活するなど、ありえない。
――もし、復活するとしたら…………。
うずたかく積まれただけの血肉が、力強く鼓動を打ったように感じられた時だ。
流動する鮮血が渦を巻くや、肉片を巻き込んで一気に立ち上がった。赤い鮮血の竜巻は三メートル近くも伸びあがり、やがて二メートルに満たない高さまで落ち着いた。まるでマントのごとく向こう側を悟らせない。ただ、何が起こってるのか想像はつく。
――ぱしゃん。
終わりは呆気なく。
登場は鮮烈に。復活を彩るため。
「俺様、大・復・活!」
「ハッ、そうなると思っていた」
――復活を遂げたのだとしたら、それはこの世ならざる存在だ。
抜刀したままの野太刀を今度は正眼の構えに移す。それも腕を引く形の。中段を狙う突きの姿勢だ。おそらくは極東の剣術に詳しいものが見れば、平突きの構えだと悟るだろう。しかし、先ほどジョンは幾重にも刻まれたというのに、衣服さえ元通りにして復活した。そこに平突きの一撃など蟷螂の斧でしかない。
対するジョンは自然体だ。構えをとっているサイファーのほうが、弱く見えるほどに堂々としている。この男の戦闘はもはや獣だ。その闘争本能は状況に応じて、一番理想の体勢を導き出す。
疾風怒濤――そうとしか形容できないサイファーの踏み込みは、たった数歩でジョンとの距離を瞬く間に詰める。正中線上の急所――眉間、鳩尾、股間――を無慈悲に貫き通す。
ただ、最初の眉間への一突きが決まった時点で、ジョンの太刀は振り上げられている。鳩尾への一撃が決まった時には両方とも振りあがっていた。そして最後の一撃が薄皮を裂いた時だ。
「痛ェんだよッ!」
ジョンの二刀は大嵐となった。文字通りの意味で。
単純な振り下ろし一つが大気をうならせ、巨大な真空空間を生み出す。失われた空気を埋めようとする動きが猛風を生んだのだ。無論、それだけに留まらず衝撃波さえもが生み出され、猛風で指向性を帯びながら前方へ一直線に飛翔する。
斬撃と烈風に衝撃波。この三つを同時に受ければ、いくらサイファーといえど深手は免れない。誰もが窮地に陥った、と悟った時だ。
「ンあ!?」
サイファーの姿はなかった。あるのは宙を舞う灰色のロング・コートと同じ色のテンガロン・ハット。
次の瞬間、ジョンは血塊を吐いた。右横にいつの間にか立っていたサイファーの手が、その脇腹に突き刺さっているのだ。
「やられてばかりと思わないでくれ」
「コートと帽子で、変わり身をやるとはなァ……」
「切っても突いても効きそうにないんでな。こうさせてもらおう」
手を引き抜いた刹那に野太刀を一閃。切っても突いても殺せないというのに。
だが――斬撃だけで終わることはなかった。ジョンの内から爆ぜる青白い
ぼっ、というぐぐもった音と裏腹に、庭園の一角は鮮血と肉片に染まった。
埋め込んだ弾丸は六発。その一斉炸裂はジョンの上半身と下半身が皮一枚と脊椎の神経だけで繋がっているという、常人であれば即死確定の深手をもたらした。だが――彼にとって深手は深手ではない。その程度では死の臭いすら感じることはない。
「あー痛ってえ……むしろ許せるぞオイ!」
「そのまま帰ってくれるとありがたいんだけど」
「ンなわけねェだろ、この一発は絶対に返すぜ」
二刀を×の字にして背負った鞘に納めると、ジョンは奇怪な銃を出した。拳銃にしてはやたらと大きく、円筒弾倉を備えたものだ。それを両手に二挺だ。
「ブローニング自動小銃を片手サイズギリギリにまで詰めてみた」
「お前バカだろ」
「ちなみにアーカムの市場で買ってきた、アーカム生まれのコピー品だぜ」
「ちくしょうめ!」
頑丈そうな白磁の生垣、その物陰めがけてサイファーは飛び込んだ。遅れて弾丸が地面と生け垣を叩く。
生け垣は粉砕され、粒子状になって舞う。砂煙も、また。二種類の煙が両者の姿を隠していく。
アーカム製の銃器はイギリス本土をはじめとする外界で出回っている物とは一線を画する。数多くの植民地を持ち、他国を大きく突き放す蒸気機関技術を有するイギリスの繁栄を支えるのは特異なる超機関アーコロジー『アーカム』の妖技術だ。
あらゆる新技術と表に出ない妖技術のるつぼがアーカムなのだ。
――下層製じゃなきゃいいが。
下層にいたっては中層より上に行かないよう、ジョン・デリンジャーが頑張ってくれている。中層までの製造品であれば食らっても平気なほうだ。ただかなりの防御加工を施したロング・コートがないのが手痛い。カッコつけての身代わり戦術なんてやらなければよかった。
両手に握った二挺のソード・オフしたブローニング自動小銃が、ついに暴力性を完全に解き放つ。凄まじい連射を行う片手サイズにまで切り詰めたBARは暴れ馬と化したはずだが、ジョンは反動を片手で悠々と抑え込んでいる。蔓薔薇の庭は千々に弾け飛んだ。
「逃げ回ってばかりかァ!?」
「じゃあ、ちょっと待ってくれんのか?」
「ンなもんお断りだ」
「だろうな!」
その言葉を皮切りにサイファーは跳んだ。着地と同時に走り出す。
ジョンがそこを逃すわけがない。弾丸の猛射は容赦なく嵐となって襲い掛かる。ほとんど転がるようにして、巨体は逃げ回る。
「なァんだよアンタァ! 逃げ回ってばっかかよォ!」
落胆の意を込めながらジョンは叫ぶ。
それにサイファーは拾い上げたものを掲げた。
灰色のロング・コートとテンガロン・ハットだった。
「ちょっと待ってくれたら、こんな拾い方をしなくて済んだのにな」
いそいそと羽織って、そして被る。
「ああ、ちなみに先ほどの僕とはまるで違うよ。このコートと帽子を着た僕は相当強いと自分でも思ってる。正直、気分の問題なんだけどさ。でも、そういうのって大事だと思うんだよ」
「なァンなんだよそれはッ!」
猛射が再開された。心なしか連射も強まっている気がしないでもない。
サイファーは巨銃を抜いた。庭園を駆け抜けながら、照準を合わせようと試みるも五発も立て続けに食らう。全部、腹に食らった。その衝撃に危うく体を丸めそうになる。そうなったら、その隙を絶対にジョンは逃がさないはずだ。腹筋に食い込んで、あっけなく落ちた弾丸を一瞥すると引き金にかけた指に力を籠める。
チチ、と音を立てて撃鉄が起き上がっていく。
――暴れられているのも、今の内だぜ。
連射は三〇秒も続かなかった。円筒弾倉に入っていた弾丸は百発より多くはないだろう。
弾切れを起こした二挺を投げ捨てた瞬間に、引き金を引き切った。
弾丸はジョンの鳩尾に命中した。青白い炎が突き抜け、どす黒い煙と人体の焦げるきな臭さが広がっていく。鼻と口から黒煙を噴き上げながら、ジョンはのけぞった。業火と液状化した重金属の奔流を弾頭から放つホーレス特製の魔弾は、不死身と言っていい肉体であっても相当堪えるものだったらしい。
「がぁ……ッ、お゛っ」
二度目の銃声――というよりは砲火――が上がり、青白い火線は一メートルも伸びた。それも同じ魔弾だ。引き金を引く手をサイファーは止めない。
着弾の度に青白い爆炎が体内を駆け巡り、のけ反っては蹲ったりする様は奇妙な踊りにさえ見える。
そして二十四発目を撃った時には、ジョンの身体は炭化しているも同然だった。生肌の柔らかさは欠片も感じられず、焦げて乾き切った炭の感触だけが残っている。巨弾を六発やっと収められそうな
「砕け散れッ!」
この男にしては珍しく裂帛の気合とともに放った回し蹴りは、人型をした炭を粉々に粉砕した。姿勢を戻しつつ、身を翻しつつの再装填も忘れない。
ついにジョン・ドゥは倒れたか。この不死身の荒事屋は。
いや、砕け散った炭は半液化した。液体とも個体とも言えない、タールめいたぶよぶよが一点に集って隆起する。一瞬にして二メートルを行かない高さ――一八七センチ――にまで伸びあがると、真闇を押し固めたような人型に人肌の色と温もりが取り戻されていく。
ぴっちりとした黒いレザーのパンク・ジャケットも元通りだ。
「そう来ると、思っていたが、ねッ!」
顔面への一発が復活したてのジョンに叩き込まれる。
さらに休む間も与えずの足刀がこめかみに打ち込まれる。ぐらり、と体勢が揺らいだところにダメ押しと言わんばかりの蹴り上げが入る。ジョンの身体は垂直に打ち上げられた。
そして締めくくりに身を引いて大きく力を溜めてからの一撃が、ジョンの胸――ちょうど心臓の真上――に叩き込まれた。拳は胸骨を粉砕して、手首のあたりまでめり込んだ。喀血の飛沫がかかる前に、その身体が吹っ飛んだ。
「げ、がっ……はあ、あ……ひ、ひどいな。内臓と肋骨が、ストレート一発でほとんど潰れた」
「僕が思うに、いくら不死身でも痛いのはイヤなようだな」
「あんただって、そうだろォが」
「……痛みの先に死があるなら、僕は両手広げて受け入れられるよ」
「へ、へへっ……そうかァ、あんたもそうなのか。俺様と同じだァ」
「でも、最近はそう思うこともなくなったがね」
静かに、鞘鳴りの一つも立てずに鯉口を切る。
抜かれた長大な刃は光を宿さぬ漆黒に染まっている。サイファー・アンダーソンの権能によって染められたのだ。森羅万象を打ち砕くことを許された、その絶大なる権能を緩く円弧を描く刃は孕んでいるのだ。それがジョン・ドゥの身に宿る不死身を砕くのかは、ほとんど賭けに等しいのだが。
ただ、この男にはとても似合わないとさえ言える静かで流麗な所作は、様になるだけの鍛錬に支えられていると悟らせるほどの迫真さだ。身体から発せられる殺気はジョンのみならず、二人の戦いを見ていることしかできないフレデリカとヘンリエッタ、それにメイザースにさえ一陣の風が吹いたと錯覚させるほど濃密だ。
それに対してジョンは――狂相の笑みを以て返す。両手に双刃を構え直して、突貫の姿勢をとった。
「すげェな、
「ふぅん……本気、ねぇ」
平突き――サイファーも突貫で応じるというのか。
化け物二匹のぶつかり合いは、さらなる高みに手をかけつつあった。この先にあるのは、おそらく超常の領域。かの
地面を蹴った瞬間は同一。
ただサイファーは刃を、あろうことか引いた。鞘に納めたのだ。
ジョンは戦闘放棄ともいえる行為に、何の反応もない。ただ狂ったような笑みを維持したまま、双刃を容赦せずにサイファーに突き立てた。
刃と黒血が背中から突き出た。
「さっきのが“本気”の殺気だと思っているようじゃあ……まだまだってやつだ」
刃を突き立てられたまま、サイファーの手がジョンの顔面を掴む。
「握りつぶす気か? そんなのは無駄だぜ」
「いいや、そのつもりだ――――顔じゃないけどね」
「なん――」
言葉は断ち切られた。
叩き付けられたのは衝撃波としか言えない。全身の毛が逆立つほどの何かが、自分の身体を駆け巡っているとジョンはありありと感じさせられた。骨格が、細胞一つ単位が、悲鳴を上げている。その機能を放棄するほど。
ジョンの身を襲った“何か”は周囲にも影響を及ぼした。蔓薔薇を育てるための肥沃な土壌は、サイファーを中心にして急速に枯れていった。そして、土壌の恩恵を受けていた蔓薔薇にいたっては原形さえとどめず液化していく。原因が茎や蔓、美しい花弁を構成する植物細胞が一つ残らず破裂したが故の結果だと誰がわかったであろうか。
「――潰してやる」
その言葉が最後だ。
サイファーの手に持ち上げられる形になっていたジョンは、身体を一度だけ痙攣させるとピクリとも動かなくなった。手を放すと同時に、糸の切れた操り人形めいて崩れ落ちた。その眼は虚ろで、鼻水も涎も垂れ流しだ。
「久々に、本気で殺気をぶつけてやったが……ちょっと効き過ぎたな」
不死身の男を再起不能にし、土を枯らして、植物を液化させた元凶が『殺気』だと誰が信じられようか。
物理的にその身を滅ぼせぬなら、精神を握りつぶす。しかし、これほど単純にして破壊的なことはないだろう。ただの殺気一つが物理的影響を持つなど、超常の産物でしかない。まさしく化け物としか言いようがないだろう。
「やり過ぎだ、サイファー」
「……やっぱり?」
「君の美しく、可憐で、有能な従業員二人が一秒もたずに気絶した。後始末はしておこう」
「助かる」
「今日は思い出の場所で休むことだな。お前もかなり消耗しているだろう。最後に刺されたのが、おそらく一番聞いているな」
サイファーの外套には傷一つない。だが逞しい胸板には、ジョンから受けた双刃の刺し傷がまだ残っている。普通なら肉体のほうが再生するのが早いのだが、こういう例はサイファーには初めてのことだ。新大陸最強の異名を支えるのは、その不死身の身体だけではないということか。
「そのまま動くなよ」
メイザースの指が傷の上を叩く。ただ、それだけで白煙を上げながら塞がっていく。
「あまり動かんようにな。無理矢理、肉と血管を繋いだ。明日には馴染んでいるはずだが」
「どういう風の吹き回しだ? 僕が傷を負っても、治してくれたことなんて今までなかったぞ」
「私の口からは言わん。フレデリカ嬢から箝口令を敷かれていてな」
「何かしたのか? 場合によっちゃあ……」
「むしろ逆だ。それに傷を治さなかったのは、さっきのが精一杯というのもある。治癒は苦手でな」
そして、ふとジョンのいるほうに目を向けてみると――。
「逃げられたな」
「這いずり回ってでも逃げたのか、引きずられたのか……」
ジョンのいた場所には足跡はない。何かを引き摺ったようにも、這いずったようにも見える痕があるだけだ。死に物狂いで這って逃げたのか、何者かが二人に悟られないほど静かに迅速に回収したのか。
「失態だな」
「あぁ、失態だ」
メイザースのぼやきに、サイファーが続く。
蔓薔薇の園に、むなしい風が吹いた。
◇◆◇◆◇
――目覚める。
時計を見て、愕然とした。あの時からかなりの時間が過ぎている。日はすでに沈んで、夜の帳が最も盛る時だった。
サイファーがジョンの顔を掴んだあたりから、一切の記憶がない。もう少し正確に言えば、あの衝撃を叩きつけられる瞬間までは覚えている。それから頭頂からつま先まで、自分の生を根こそぎ否定するような衝撃が駆け巡ったのだ。
状況はどうなったのか。
それだけが気になって、ほとんど跳ねるように起き上がった。
人の気配がひどく薄い。
おそらく建物の大きさに反して、いる人間の少なさから来ている。たぶん一人しかいない。それが誰なのかも、大腿察しがついていた。ほとんど確信に近いほどに。
「サイファーさん……」
「お、目覚めたか」
「ヘンリエッタは……?」
起き上がった時、自分はベッドに寝せられていたがヘンリエッタの姿はなかった。サイファーのいる部屋に行くまでの間、ほかの部屋を見て回ったが誰もいなかった。
「メイザースと一緒にお出かけさ」
「大丈夫、なんですか?」
「僕と一緒よりはマシだろう?」
「それもそうですね」
「ひどいな、冗談のつもりで言ったんだが」
「私も冗談です」
「上段に冗談で返されたか、一本取られたな」
サイファーはすでに一杯やっているようだ。グラスに注がれた透明の液体は、おそらく好物のスピタス・リキュールだ。いつも通りの原液まんまをロックで。
「フレデリカもどうだ?」
スピリタスの瓶の横に白ワインのものまである。数少ないフレデリカが嗜める酒だ。
「少しだけ、いただきます」
夕食を食べてないが、誘いは無碍にできない。
ただ、チーズやフィッシュ・アンド・チップスを初めとする大量のつまみがあったので、これらが代わりになるのだろう。健康的にはよろしくないが、たまにはこうやって羽目を外すのもいい。外し過ぎさえしなければ。
白ワインを一口。ぶどうの生み出すくど過ぎない甘みの中で、アルコールの熱さが心地よい。
ほう、と一息。酒に強くないのは変わっていない。たぶん、一杯飲み干すにも一苦労する。
「赤くなるには、まだ早いんじゃないか?」
頬はすでに熱を持ってしまっている。アルコールが入ると、すぐにこうなる。
「私、そこまで強くないんですよ」
「好きなように飲めばいいさ」
チーズを一つ食べてから、グラスのスピリタスを飲み干す。
グラスを置いた音がきっかけになった。
「フレデリカ、お前さん何を見た?」
「…………」
「メイザースが珍しく僕の傷を治してくれた。何かあったのか、と聞いてみたら『フレデリカに口止めされている』ということでな」
「それ、は……」
言い澱んでしまう。あの過去はサイファーにとって知られたくないものだろうから。
メイザースに冷たく接されても言わなかったのだから。というよりメイザースに対して怒りたい。他言無用だと言っておいたのに。
「怒ってるわけじゃない。その眼は見たくないものだって、見せてしまうものだからな」
観念するしかない。
このまま黙っていても、いずれ押し切られるのがオチだ。
メイザースに話したのと同じ内容を、サイファーにも語った。途中で頭を抱えていたのが気になったが。
「
「ほんとうに、すみません。メイザースさんに話してしまって……」
「いや、きっとそうすると思った。見ちまった以上は、な」
「嫌だったんです。あそこまですれ違ってギクシャクしてる、あなたとメイザースさんを見たくなかったから……」
「まったく、そこまでする義理もないだろうに」
サイファーの言う通りだ。寝食共にして、不自由のない生活をさせてもらっている。その代わりに家事全般を務めて、仕事も手伝っている。でも二人の確執に介入するほどの義理はない。これは完全に自分のわがままだ。
「拒絶しないんだな? きっと薄々人間じゃないと思っていたんだろうが、これで確信に変わったんだが?」
「その通りです。予感はしてましたけど、でも今までの態度とか優しさとかは人の温かさがありましたから」
「…………お前さん、普通に真顔で小っ恥ずかしいこと平気で言うよね」
「そんなことないと思いますけど」
「僕は照れる、からかってごまかす……でも“優しい”か。こんな僕には最も縁遠い言葉だと思っていたがね」
優しい、というとサイファーはいつも怒る。というよりは照れ隠しだろう。今まではそう思っていたが、その根本にあるものは違ったものだ。
化け物、として扱われてきたが故の荒んだ心。持つべきものではないプライド。そうして作られていったサイファー・アンダーソンという名の“化け物”としての柱が揺るがされることへの危惧からだ。暴力の権化、傍若無人、傲岸不遜の存在だった。
でも今と初めて会った時を比べてみれば、違いはある。きっとサイファー本人は気づいていないだろうが、少しづつ優しさを知って温和になりつつある。丸くなった、というよりは器が大きくなったような気がしないでもない。暴力的な意味で手が早いのは変わっていないが。
「その……今でも“最期”にしたい、という想いはあるんですか?」
「……最近は、そうは思わなくなった。理由は教えないけど」
「意地悪ですよ、そういうの。そんな人はフィッシュ・アンド・チップスの皮が歯に挟まって、なかなか取れなくてもどかしい気持ちになればいいんです」
「なんか地味にきついな。というか酔ってる? 酔ってるの?」
「一杯目で、酔うわけないですよぉ……」
「思った以上にキてるな、こりゃ。水でも飲め」
「二杯目が欲しいです」
「あげませ――って自分でつぎやがった。二日酔いになっても知らんぞ」
「たまには飲みたい気分になるんです」
飲みたい気分、とは言ったが本音を言うならサイファーが飲んでいたから飲みたくなった。彼と同じ酒宴の時間を共有したかったのだ。メイザースから言われた言葉に従っているわけではないが、一人で飲んでいるよりは誰かと同じ時間を過ごすほうが楽しいはずだ。
サイファーも拒絶の意を見せているわけではないし、むしろ彼のほうから誘ってくれた。
「いいですね、こういう時間」
「この仕事が終わったら、ヘンリエッタも一緒も誘ってどこかで飲むか」
「フランクさんも誘いましょう」
「いっそあいつの店でやるのもいいな」
「グッド・アイディアですね――あっ!」
ふらっときた。
思った以上にアルコールが回っている。
とん、とサイファーにしなだれかかるような形になってしまった。
「す、すいません。いま離れま――」
身を引こうとして――できなかった。大きな手が肩を掴んで、引き寄せる。縛り付けるように、縫い付けるように、離さないための大きな力で。
そのまま抱きしめられた。まるで母親にすがる子供のように、必死で、切実な抱擁だった。
「さ、サイファーさん……!?」
「悪い、もうすこしだけ、このまま」
戸惑いはしたが――拒絶しようとは思わない。きっと、ここで受け入れねば、彼は壊れてしまうだろうから。サイファーという男は強い化け物であり、弱い人間でもあるのだろう。
いま、この瞬間に弱さが噴き出てしまったのだ。化け物として気を張って、長い時を生きていた中で積み重なってきた弱さが。
「……このまま、好きなだけ抱きしめていいですから」
「悪いな、本当に」
そっとサイファーの大きな背に手を回す。心なしか震えているような気がした。
◆◇◆◇◆
わずかな光源で最低限の視界を確保した中、暗闇の中で動く人影。
そこは地上ではない。日も差し込まぬほどに深い地の底。崩落防止に鉄筋とモルタルで補強した地下トンネルだ。縦横無尽に血管めいて張り巡らされ、その中心はある場所へと繋がっている。今は語られるべきではないが。
立ち上がることを忘れた男――ジョン・ドゥを取り囲む黒服たち。
その中で異彩を放つのは二人。近衛隊の制服を着こんだ初老の男。その傍らにもう一人。彼だけは明らかに回りと何かが違うように思えた。まるで、この地下深くにいるべきではない、もっと物理的にも立場的にも高みにいるべき存在としか思えない。
指一つとして動かせず、自由になるのは眼球だけ。この状況でもジョン・ドゥは笑みも作れぬというのに、瞳の狂気だけは消えないままだ。染みついているとでもいうのか。
「やはり生き残った
「とはいえ、我々だけではあえなく返り討ちにあうのも事実。サイファー・アンダーソンに対抗できるのは、この老骨とカトリックの
「どうして、こうも苦しいほうに行くのかな。黙っていれば、この大英帝国は今以上の幸せに包まれるというのに。僕はこの国が好きだ。僕の今を生んでくれた、この国が大好きなんだ。僕を支えてくれた人尾をはぐくんだ、この大英帝国を愛している。だから、この幸せをほかのみんなと分かち合いたい――と思うのは月並みだよね。だから、
そのとき、彼の眼は何を見ているのか――何かを見つめていたのか。
展望の明るい未来か。それとも未来への不安か。それとも、
老人は知っている。彼の凄まじい危うさを、そこから生じる支えられずにはいられないという一点から恐ろしく発展した、一種のカリスマ性を。危ういが故に人を引き付ける、という魔性なのだ。
一度でも、その深淵を覗き込もうものなら――引きずり込まれないという強い決意も太古の化石と化す。老人もその一人だ。捉えられてしまった、愚か者の一人にすぎない。
――ああ、恐るべし。
瞑目して、胸中で呟いた。
「さて、君は正直言って期待外れだったよ。わざわざ大金を払ってまで新大陸から呼んだのに、無様に潰されてしまうなんて。扱いも難しいようだし、殺すこともできない――だからこうしようと思うんだ」
蒸気圧の大出力で駆動する
「ちょっと上等なコンクリートが混ぜられてる。君をそこの穴に入れて、これで密封する。邪魔されないようにするには、これが一番だよね」
彼はジョンの目の前まで顔を寄せる。
いまだ眼球しか自由にならない、そう思われた。周りの黒服も、老人でさえも。
ブッ、と飛沫が飛んだ。ジョンはつばを吐いたのだ。
「ケッ、一矢報いて……やったぜ」
やっと絞り出した言葉はそれ一つだけ。
黒服の手によって、ジョンはあらかじめ掘られていた穴の底に投げ落とされた。回転を止めた混合器からは、速乾性のコンクリートがジョンを固めるために流し込まれていく。
これまでか、としか言えない状況でジョンはただ一つ。
――なぁ、サイファー・アンダーソン。
――俺様をぶっ倒したんなら。
――こいつらも、ちゃんと止めてくれよなァ。
そして、穴はコンクリートで満たされた。
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