Happiness~殴り込みには黄金の二挺を~
飛行場から逃げおおせるまでに追手が来ることはなかった。
追うことを諦めたのか、それとも泳がされたのかは定かではない。フレデリカとして全社であってほしかったし、ヘンリエッタも同じだろう。サイファーは後者のほうがいいのかもしれない。
久しぶりのロンドンの街並みが見えるまで、時間はかからない。ガーニーはかなり快速で進んでいる。サイファーがハンドルを握っているせいだろう。どうも飛ばしたがりらしい。
最後にロンドンを見たのは十五の頃だった。あの頃は自分でも心底恨みたくなるほどに無力だった。自分を捨てて、愛情も興味なく、打算でフレデリカを利用する義理の両親のもとに預けた、顔も知らぬ実の両親が憎かった。
アーカムに渡って義理の祖父と二人暮らしになってからは、心の故郷はアーカムだった。実の両親も、義理の両親も、親子のつながりというものは忘れ去っていた。自己防衛の一つだ。自分を追いつめるものに関する記憶など、さっさと忘れるに越したものはない。だから義理の両親から絶えず投げかけられた冷淡な視線、あれは選民を見る目だと察するほどの見下す眼差し。
――それを、ロンドンの街並みが思い出させる。
蒸気機関による煤煙の害は永遠の命題とされてきた。だが化学技術の発展が生んだフィルター上の触媒装置を、煤煙排出用の煙突に取り付けることで一気に空は青さを取り戻しつつあった。自分がロンドンを去ったころから比べて、ぐっと空は青く、そして空気は吸いやすい。
なのに、頭の中で写真の像が焼き付くように、瞬きながら何度も思い出される。
あの見下す眼が完全に焼き付いてしまって、どうあがいても掻き消せない。
――消し去りたいのに。
――忘れ去りたいのに。
――風化させたいのに。
けれども、けれども。
焼き付けられた記憶は火傷に等しく、苛むように存在を主張する。それは身体の震えとなって表に現れる。
ヘンリエッタはそれに気づいた。隣に座っているのだから、当たり前と言えば当たり前か。
「大丈夫かい?」
「だ、大丈夫です」
「乗り物酔いがぶり返した、というわけじゃなさそうだな」
さすがにサイファーにはお見通しだったらしい。ハンドルを握っている関係上、こちらを向くことはできないはずなのに。いつもは精神の繊細な機微や、心の浮き沈みには鈍いように見える。だが本当は気づいているうえで、あえて鈍いフリをしているのかもしれない。
「思い出したくないことでも、よみがえったのか?」
「…………はい」
「僕もそうだ。ロンドンに来れば、いやでも思い出すことがある」
「忘れられないのか、彼女のことが?」
「…………まぁね」
やはりサイファーにも思い出したくなくても、いやでも思い出してしまうことはあるらしい。誰だって一つや二つは、そういうものを持っているはずだ。それは彼も例外ではないらしい。メイザースの反応からして、どうやら女絡みではあるらしい。
もしや痴情のもつれか。それとも叶わぬ想いでもあったのか。
きっと自分より人生経験があることは分かり切っているから、そういうことの一つや二つはあっても、まったくおかしくはない。むしろないほうが不自然だ。それは先入観のようなものであったし、同時に願望のようなものでもあった。経験豊富な頼りがいのある存在だ、というイメージを抱いている。
「どのみち、どうあがいたとしても過去は変えられんよ。起こっちまったことは、起こるべくして起こったことなんだからね」
「でも……やっぱりちょっとだけ、つらいです」
「古傷を抉られるのがつらかったら、真横にいる親友に慰めてもらうことだ。一人で耐えるよりは、きっと楽だ」
ヘンリエッタは手を握ってくれた。少しは震えも和らいだような気がしないでもない。
そんな余韻も見えてきたものが掻き消してしまった。
「サイファーさん、あれって……?」
「天下のリッツ・ロンドンだ。知らんのか?」
「いえ、知ってます、知ってますけど!」
「スイート取ってもらっているから。人生初だろぉ?」
もうひっくり返りそうだった。
英国王室から
ヘンリエッタもなんか固まっているようだし。
「とはいえ、フレデリカは普通に行けそうだけど、僕とヘンリエッタはダメみたいだからな。ここは裏ルートで入る」
「お嬢さんたち、今から見るものは他言無用だ」
メイザースに釘を刺され、思わず口を覆った。
ガーニーはリッツ・ロンドンの裏手へと回る。そこには従業員と思わしき人間が、三人ほど待機している。ガーニーはリッツ・ロンドンの建物を向くようにして停止した。
すると従業員たちは、どこから出したのか暗幕のような布を持ってガーニーの周辺を囲む。次の瞬間、蒸気の排出音と同時に石畳の道路が陥没する。いや、地面そのものが昇降機と化してガーニーを地下に導いている。
止まった先は駐車場のような場所だ。いくつものガーニーが並んでいるが、どれも一目で高級車だとわかるものばかりだ。ぼんやりとした橙色の光を放つガス灯の明るさが、逆にガーニーの放つ高級感というものを引き立てているように見えた。
「ここは表立って招待できぬ人間を通すための裏口だ。今回のことは内密に頼みたいことでな」
「そりゃ穏やかじゃないな。どうも他国が攻めてくるというわけではないらしい」
「それなら貴様を呼ばん」
「それは一体、どういうことなんですか?」
「お嬢さんのお顔に免じて言っておくとすれば、外ではなく内側の問題なのだ」
「スパイでもいたのか?」
「実をいえば、内乱一歩寸前なのだ」
ガーニーを駐車したと同時に、全員が沈黙した。
「詳しい話は部屋でしよう」
そこから昇降機を通り、廊下を通り抜けるまでずっと無言だった。
スイート・ルームの煌びやかさも、まるで目に入らなかった。
他国に比べて異常すぎるとさえ思えてしまう蒸気機関技術により、揺るがぬ盤石の体制を築いている大英帝国で内乱が起きるとは信じ難かった。しかし、しっかりとした基盤の上にある平和を気に入らず、それを変革しようと目論む人間もいるのかもしれない。
「事の発端は半月ほど前だ。極右政党の集会演説に武装集団が襲撃を仕掛け、死者三十四名、重体五名、重軽傷者二十四名を出す大事件が起きた。犯人たちは依然として不明だが、目撃者の証言では軍隊のような理路整然とした動きだったらしい」
「極右とはいえ右寄りの連中だぞ? それに襲撃に手慣れているということは市街戦のスペシャリストということになる。そんなのは
「そうだろうな。正直に言ってい舞えば、犯人たちの動機もわからん」
「きっとイかれ狂ってんだろうよ。どう考えたって正気の沙汰じゃあない」
「そんなわけはないだろう。もっと損得の絡んだ理由でなければ、特殊作戦群並みの戦闘力を有する連中を動かすわけがない」
「どちらにしても、まったく手掛かりがないということですよね?」
「ああ、フレデリカ嬢の言う通りだ」
「そんな事件を僕らに丸投げする気か? テムズ川の水と紅茶で頭でもイっちまったのか」
メイザースの告げた状況を整理すれば、指一つ動かせないほど何もわかっていないらしい。そんな状況でやとわれのサイファーたちにできることなど、何一つとして存在しない。
「そうだ。お前たちに依頼するのはイかれた作戦だ。ローラー作戦ともいうがね」
「つまり怪しそうなヤツを片っ端からぶちのめして来いと。大英帝国も大胆になったな」
「それは少し無茶ですよ」
「黙れ。ゴミだめを漁るのがお前たちの務めだ」
ここにきて本性を現したように感じられた。
メイザースから放たれるのは上に立つ者の風格。下で支えるものを意に介さず、容赦なく踏みつけることができる者の貫禄だ。大英帝国の中枢に立っているとでもいうのか。こうして依頼するために招いているのだから、おそらくは相当な地位に立っているはずだ。
サイファーの言っていた『大英帝国の切り札』であるがためか。
「へぇ、そんなに僕が生きているのが気に食わんか?」
「……ああ、そうだ。飼い主を失った狂犬が、なぜ生きていられる? 危険極まりない化け物が、野放しになっている現状は、とても耐えがたいものだ」
「――さっきからッ!」
フレデリカがテーブルを叩いていた。
いつの間に淹れられていたのか、におい立つ紅茶の入ったカップも皿も宙を舞うほどだ。平手でたたきつけた手は小刻みに震え、怒りのほどを顕著に示していた。
「狂犬だの、化け物だの、あなたはサイファーさんの何を知っているというんですかッ! この人は確かにひどい人かもしれないけれど、そこまで言うことはないはずです!」
「お、落ち着かないか」
ヘンリエッタの制止もあまり耳に入らなかった。とにかくサイファーをひどい言葉で揶揄した、目の前の英国紳士然としたメイザースが許し難かった。
ふん、と鼻を鳴らすと、
「何も知らんのは、君のほうだ」
「――ッ」
ぎりり、と歯噛みしてしまっていた。
その時にはメイザースはフレデリカに興味を失ってしまっていた。視線はサイファーのほうに向いていた。
「ここまでお前を思ってくれるお嬢さんがいるとはな。どんな手を使った?」
「なにも。お前さんとは違って、変な色眼鏡をかけていないのさ」
「色眼鏡、だと?」
「僕と同じくらいの活躍をしよう、なんて気負わなくてもいいのにね」
ぎりり、と今度はメイザースが歯噛みしていた。
確実に図星を突かれたような顔で、憤怒に染まっている。
「そんなわけ、ないだろう」
「……ま、今はそういうことにしておいてやるよ。フレデリカも落ち着くこった」
場に満ち満ちていた怒りはようやく鎮火したようだった。しかし、フレデリカの方はいまだに小刻みに震えているし、メイザースの拳も流血せんばかりに握りしめられている。完全に消えてはおらず、燻ってはいるらしい。
サイファーは特に気に障った様子もなく断りもなしに葉巻を吹かしてさえいる。
ヘンリエッタは混乱していた。主にフレデリカに関して。サイファー絡みの件で、なぜあそこまで激昂したのか。親密な仲とはいえ、こればかりはわからない。メイザースと同じことを聞いてしまいそうだった。
「ま、あまり情報をくれないのなら、こっちで好きにやらせてもらうよ」
「どのみち、スマートにはできん貴様だ。あのリボルバーしかもっていないのだろう。こいつを持っていけ」
革のトランクケースをテーブルに置いた。
蓋をあけ放ってみれば、そこには二挺の銃が鎮座していた。七・五インチもの長銃身とそれに合わせたスライド。反動抑制のために、スライドの左右を切り抜いて穴をあけ、そこから銃身に開けられたガス・ポートが左右合わせて十八個もあけられている。ダブル・カラムの複列弾倉は十数発以上は余裕で納めるだろう。象牙のグリップ・パネルには奇怪な怪物が精魂込めて彫金されている。
「RSAFの技術者総出で作り上げた。お前のリボルバーには劣るだろうが、きっと名銃だ」
「……イヤミか、てめぇ!」
確かに名銃であることはサイファーも一目で見抜いた。だが、どうしても気に入らない一点がある。
「こんな金ピカ拳銃ひっさげて歩けってか!? 成金のバカ息子じゃねえか!」
「似合うと思ったんだがな、メッキは私が指定したんだぞ」
「おーし、わかった。試し撃ちの第一号はお前さんにしてやる」
言うやいなや、黄金に輝く二挺を手に取って、弾倉を銃把に叩き込む。
「サイファーさん、落ち着いてください」
単なる偶然か。それとも運命なのか。
自分に『落ち着け』といさめた相手に、落ち着くように言う羽目になるとはフレデリカは思いもよらなかったのである。
◇◆◇◆◇
アーカム第十二層。
ここには清濁併せ持った空気が満ちている、と表現する人間もいる。住みやすくもあれば、住みにくくもある。安全と言えば安全だし、危険と言えば危険だ。アーカムの光と闇の狭間であるがゆえに、その両方を孕んでいるのだ。
だから、ここにはいろんな人間が集う。
この男がいても不思議ではなかったのかもしれない。
「イイ銃だなァ。ええ、おィ?」
アーカム45――アーカム中層で出回っているM1911の違法コピー――をぶら下げるように持ちながら、ねっとりと絡むような口調で店主に語り掛ける。ここは中層の市場だが、露店で護身用の拳銃くらいなら取引されていたりもする。
アッシュ・ブロンドの髪は逆立て、鎖状のネックレスやブレスレットをジャラジャラとぶら下げている。見るからにパンキッシュだ。おまけにジャケットからスラックス、ブーツにチョーカーまで黒革ときている。完全にパンクだ。背丈は一八〇センチ後半くらいか。鍛え上げ、引き絞られ抜いた肉体美は見事なものだ。
この風体だけで店主は警戒していた。確かに怪しいと言えば怪しいのだが、もっと別の理由だ。このご時世でパンクが流行っている場所はただ一つだ。
――新大陸。
未だ大英帝国から独立せんと虎視眈々と目を光らせ、再起の炎を燃す。束縛を砕き、自由を求める流れにパンクが収まったのは当然と言えば当然か。であれば、最悪の場合はアーカム中層を拠点にして大英帝国へのスパイ活動を行う新大陸のレジスタンスかもしれない。
ここが戦場になるほどの問題だ。店主はひどい冷や汗をかいていた。
「おい、弾もくれよ」
「お、お代はいただけるんでしょうね?」
「心配すんなよォ、女王陛下なら束になるだけある」
「なら、いいんです。ええ」
「そうだなァ…………ちょっと試し撃ちしてみるか」
「え?」
銃把に弾倉を叩き込んだ瞬間が、店主の見た最後の景色だった。
レミントンM1860ニュー・アーミーが脳漿をぶちまけた。近くにいたアーカム統治局の保安官が散弾銃を抜こうとしたのを、彼は身体は動かさず、アーカム45だけを握る腕だけを動かして照準した。保安官の化学が吹っ飛び、お次は額に射入孔が開く。
市場は大混乱と化した。
「さぁて、飛行場はどっちかなァ?」
言葉の端々に抑えきれぬ狂気を孕ませながら、レミントンM1860を仕舞って、露店から失敬したもう一丁のアーカム45に変えて二挺拳銃のスタイルをとる。
保安官や流れのガンマンが集い、パンクの男を取り囲む。
「おう、いいねェ。まとめてかかってこいよォ」
次の瞬間、拳銃を乱射し始める。とはいえ、狙いを完全に定めていないというわけではない。むしろ、一瞬で照準を済ませて発砲している。たった一人に弾倉の弾丸を全部撃ち込むほどの勢いだが。
高笑いしながらの連射は当然と言えば当然だが、長く続くわけがない。あっという間に予備の弾倉まで使い切って、二挺のアーカム45はホールド・オープンして熱気を放っている。
「ありゃあ」
「なんてマヌケだ」
「笑えるぜ」
嘲笑した保安官とガンマンの首が飛んだ。
男の手に握られているのは太刀と打刀。名刀であることは言うまでもない。
先ほどよりも凶悪な笑みを浮かべて、彼は獲物のほうを向く。
ジャケットの前をおもむろに開けた。そこに極彩色の刺青で書かれていたのは『I am John Do』の文字。それが鎖骨から股間のあたりまで、単語ごとに区切られて自己主張している。
それから二時間後、アーカムの飛行場から一機の
客室乗務員も、機長さえもいなかった。皆、物言わぬ。
◆◇◆◇◆
一夜が明けた。
リッツ・ロンドンのベッドは相当に寝心地がよかった。フレデリカもヘンリエッタも大満足が継続している。
サイファーは別の部屋だ。男女が一緒というのは、やはり体面的には問題らしい。ただ、フレデリカにとってはヘンリエッタと一緒のほうが気兼ねしなくていい。
寝汗がひどかった。シャワーを浴びたくなる。
隣のベッドにいるであろうヘンリエッタはいない。シャワーの水音だけが聞こえる。お先にいただいているらしい。
汗を流せたのはそれから二十分後のこと。いつもの仕事着に着替える。
黒いコート、白のブラウス、濃紺のスカート。金糸のバラが映える白のストッキングは同色のガーターで吊る。コルセットでウェストを絞り、その上からさらに二挺を保持するためのホルスターも巻く。前屈と背伸びをして、動きやすさを確認した。
最後に腰まで届く長さの金髪を、青空を映したようなリボンで結わえる。これで完成だ。
「さて、どうしようか?」
ヘンリエッタが問いかけてきた。恰好はいつもとそんなに変わらない。長袖のブラウス、茶色のベストを着て、黒いスラックスだ。茶色のボブは潤いを得て、その艶を三割増したように見える。そしてフレデリカは見上げねばならないほど長身だ。一七五センチは優にある。充分に見目麗しい女だ。
「とりあえずサイファーさんのところに」
「そうだろう。だいたいのことは、決めているのだろうから」
ということでサイファーの部屋の前に来たのだが、さっそく歩みを止めてしまった。
叫んでる、すごい叫んでる。
大声で誰かと電話をしているようだった。リッツ・ロンドンの部屋は防音性は抜群なのか、誰も飛び出してこないのが不思議だった。もしかしたら、ここのフロアに宿泊しているのが、自分たちだけの可能性があるが。
おそるおそる、三回ノック。たしか三回が作法だった気がする。
返答はない。大声だけが聞こえる。どうも聞こえていないらしい。
思い切って扉を開けた。鍵は掛かっていない。
「なんつークソッタレだ。アーカムの市場を真っ赤に染めて、何がしたかったんだよ」
「あの……サイファーさん?」
「ああ……悪い、驚かせたな。ワイアットから連絡が来てな、アイツにはめぼしい連中のことを調べてもらっていたんだが、昨日のお昼ぐらいにアーカムの市場で銃を乱射したバカがいたらしい。保安官七名が死亡。目をかけていた荒事屋のガンマンは十人も死んだ。これがどこぞの組織の差し金だったら、とっくに戦争が起きてる」
「そんな…………犯人はどうなったんですか!?」
「ワイアットが現場に急行した時には、残っていたのは死体だけだったらしい。吐くほどグチャグチャだったそうだ」
「ひどいものだな。何を考えているんだ、その犯人は?」
「たぶん色々とぶっ飛んじまってるんだろうよ。ただ、悪い知らせばかりでもない。ロンドン中のギャングやマフィア、過激派政治団体をワイアットに洗ってもらったおかげで、第一の調査対象の目星を付けることができた」
ニヤリと不敵な笑みを浮かべながら、数枚の写真をテーブルの上に並べる。
どこかの会館の写真だ。相当大きい。階層は五階もある。
「後ろ暗そうな連中が何人も出入りしてる、デカい貨物を大量に運び込んでいた、行方不明者が出入りしているのを見た。とにかく怪しい噂が絶えないところという話だ」
「それって…………ただ疑わしいだけですよね?」
「なに言ってやがる。疑わしきは五臓六腑まで見るのが常識だろ。クロだったら、ぶちのめす。シロだったら、腹いせにぶちのめす。相手がごねようもんなら、黙らせるためにぶちのめす。ま、いつも通りって話だよ。それに突入するときの建前だって用意してある」
「ああ、まったく腕が鳴るというものだよ」
「え、ヘンリエッタはそういうタイプでしたっけ?」
指の骨を鳴らし始めた親友に、フレデリカは戸惑いを隠しきれない。どちらかと言えば理性的だと思っていたヘンリエッタが、実は手のほうが先に出るタイプだということを今更ながら認識した。サイファーという比べ物にならないくらい、とりあえずぶちのめすという特級と比較していたのがマズかったのかもしれない。
こうなってくると、本当にストッパーになれるのは自分しかいないんじゃないか。そんな危機感を抱いてしまう。
「作戦だけど、僕は正面から行く。そうなるとひどい騒ぎになるだろうから、その混乱に乗じてヘンリエッタは屋上から、フレデリカは裏口から突入しろ」
「抵抗したら?」
「武装要員は殺っちまえ。非戦闘員は巻き込まれちゃ寝覚めが悪いんで、適当に気絶させるなりして無力化すること」
「目的地は、どこになるんですか?」
「ワイアットが調べた限りじゃ、デカい地下空間の存在が確認できているらしい。ひとまずはそこを目指そう」
「本当にキナ臭いな」
「一体、何の施設ということでやっているのかねぇ? ここまで怪しいと逆にシロに思えてくる」
「行ってみなければ、そんなのわからないと思いますよ」
そのフレデリカの言葉で一行は移動することにした。
ガーニーの中で車窓から件の建物を、三人して張り込んでいるのであった。
人通りもそれなりにある中、その建物だけは何か妙な雰囲気というべきものを放っている。たとえるなら白いシーツに一滴だけ落ちた黒いインクの染み、白い羊の中に一匹だけいる黒山羊。何かが異端と言っていいのだ。存在してならないような気がする。そういう思いに駆られるのだ。
「アタリな気がするんだが」
「私もそう思います」
「キナ臭い感じがプンプンする」
その異様な雰囲気というものを三人とも感じ取ったらしい。
フレデリカとサイファーは銃の遊底を引き、ヘンリエッタはナイフの調子を見ている。
そのとき、建物から壮年の男が出てきた。割と頭髪が寂しい感じだが、瞳には溢れるほどの生気が満ちている。くたびれた見た目とはアンバランスなエネルギッシュさを感じさせる。
「ちょっと声かけてくるわ」
「え、あの人にですか?」
「二人とも、一応ガーニーから降りとけ」
そのまま、割と大股で男性に近づいていく。
「あー、ちょっといいかい?」
「ん、なんでしょうか?」
男は見た目からは想像もつかない、明朗とした丁寧な口調で答えてくれた。擦れているところなど一切感じさせない。
「ここって、いったいどういうところなんだい?」
「ああ、あそこは『幸福な社会を求める会』の会館ですよ。もっとも、割と最近になってできたところなんです。私もちょっと前に入会したばかりなんですが」
ここでサイファーは男の口から『幸福』というワードが出た時点で、カルトのにおいを感じて内心げんなりしていた。
――やだなぁ、カルトは話し通じないし、いい気分で仕事できないんだよ。
とは言え、気持ちよさそうに話す男を邪険にできそうにはない。心は痛まないが、体裁が悪い。
横目でフレデリカとヘンリエッタのほうを見れば、生暖かい視線を感じる。唾が無性に吐きたくなった。
「そうだ、今から私と一緒に講義を聞きに行きませんか? 今の社会に存在する理不尽な苦しみを何としても取り除かねばならない、そのための危機感というものに目覚めるはずです!」
「いや、その、気持ちはうれしいんだがな……僕には――――」
「ささ、早く行きましょう」
思った以上に男には力があったらしい。否応なしにサイファーは会館の中に引っ張られていく。
ちら、と二人のほうを見たらヘンリエッタはすでに腹を抱えている。減給を心に決めた。
会館の中は外とは裏腹に、暖かで明るい印象を与えさせる。暖房機関が程よく働いているおかげか、ロング・コートを脱がずとも暑苦しさを感じない。かと言って肌寒さもない。
天井を見れば、ステンド・グラスまではめ込まれていた。暖かな雰囲気の源は、ここから来ているのかもしれない。日輪をモチーフにして、陽光が降り注ぐ構図で描かれている。
――たしかに、陽の光に当たっていれば幸せになるかもしれんが。
――ずっと浴びてると、暑苦しいだけなんだよ。
階段を上がって二階。そこからすぐの部屋が講堂だった。かなり広く、百五十人くらい収容しても余るくらいだ。
「お好きな席にどうぞ」
「んあぁ…………」
ここまで来たのだから、ちょっとぐらい講義を聞いていてもいいだろう。そう思って一番出口に近い席に陣取った。
それから二十分ほど経ったか。行動は
えらく恰幅のいい男が登壇する。体格も上物のスーツに負けないほどのボリュームで、首に至っては垂れた脂肪と革で埋没しているような状態だ。浮かべている笑顔は非常に穏やかそうな性格である、という印象を抱かせる。
「みなさん、ごきげんよう」
軽い挨拶から講話が始まった。
扉に鍵がかけられた。その向こうに人の気配を感じる。
「いいですか? 幸福の始まりは平等から始まるのです。占有は決してしてはならないことだ」
軽く聞き流す。
腕も足も組んで、完全に聞く気がない姿勢を作ってみた。
壇上の演説者は気づいていないようだが。
「金銭は悪だ。格差を生む」
軽く聞き流す。
こっそり
「暴力はいけない。弱者を踏みつけることは、人としてあってはいけない。そんなことをするのは化け物だけだ」
大あくびしてみた。
面白いぐらい演説者は気づいていない。
「政治家や貴族が政治を取り仕切るのは終わりにしましょう。国民の総意で国を動かすのです」
メイザースは元気かなー、と鉛色の空を窓から見上げた。
「我々、『幸福な社会を求める会』はすべての人が理想的な幸福を得ることに………どこへ行かれるんです?」
サイファーはついに我慢できなくなった。
「ションベンに行くんだよ」
「なんですか、それは? 幸福を求める研鑽の心が足りない証拠です。そして得たものを分け合い、等しく幸福になる。すばらしいことだとは思いませんか? それを尿意一つで目覚めの講話の途中で席を立つとは――――親、見ない顔ですね。何者ですか?」
「あぁ? 僕はてめぇらみてえなカルトぶっ飛ばしてぼこぼこに殴って鉛球しこたまぶち込んだ後、政治家と貴族から女王陛下の束をもらう幸福の独占が生きがいのアーカムから来た荒事屋だ」
カルト、と言ったあたりから演説者の額には青筋が浮かんでいた。
「ええい、こうなれば教育です。金と暴力と淫楽に染まった心を、浄化して差し上げなさい!」
扉が跳ね開けられた。
黒いスーツの二人組が現れた。ガタイはかなりいい。身長は一九〇を優に超えて二メートルに差し掛かろうとしているし、体重も軽く百キロはあるはずだ。
一人が踏み込みと同時に電光石火のボディ・ブローをサイファーに打ち込んだ。
普通の男ならこれで何もできなくなる。最悪、内臓が破裂する。
だが、この男は違う。
「ありがとよ。これで、あおいこだ」
軽く突き飛ばすように、平手で押した。
それだけで二メートルに迫る巨躯が吹っ飛んだ。もう一人は吹っ飛んだ相棒を呆然と目で追うだけだ。そのまま窓を突き破って、たまたま運悪く駐車していたガーニーの上に落下する。屋根はへしゃげて、窓ガラスは爆発したように粉砕されて、破片が飛び散った。
ここで、もう一人が踏み込んだ。頭部狙いのハイ・キックが唸る。
「軽いな」
その蹴り足をサイファーは難なく掴んでいた。ネギの類を束ねてへし折ったような音が響く。追って男の絶叫が響き渡った。男の脛は握りつぶされ、完全に修復不可能だ。
「オラ、退場しろ」
そのまま、吹っ飛ばした男がいるほうとは反対側に投げる。モルタルづくりの壁だ。投げ飛ばされた巨体は堅固な壁を砕くための質量弾と化し、自ら開けた大穴から地上に落ちていった。
「この化け物めェ!」
演説者は銃を抜いた。小さなリボルバーだ。口径は九ミリもないはずだ。
発射された小さな礫を首を傾けるだけで避けた。
「大正解」
その両手に握られていたのはメイザースからの二挺。黄金に輝くロング・スライド・カスタムのアーカム45を、両手を交差する形で構えていた。機関銃かと思うほどの連射をサイファーは放つ。一挺に左右九個ずつ開けられたガス・ポートから白煙が上がるほど撃ちまくる。
血肉と脳漿で不可解な図を背後に描いた演説者が倒れた瞬間、聴衆は一気に恐慌した。
「うわあぁぁぁぁぁぁああ!!」
「に、逃げろぉ!」
「助けて、人殺しよ!」
我先にと出口に殺到する。その過程で老婆を突き飛ばそうが、転んだ女を踏みつけようが、恐慌に入った人々は逃げることしか頭にない。その様は、あまりにも滑稽で。
「みんなして我先に逃げるかね。幸福は分け合うもの、という教えはどこに行ったんだよ」
多くの気配がここから去っていき、新たな大量の気配がこちらに向かってきている。
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