魔戦、正気の薄氷を打ち砕き

 散弾を不可視の糸が薙ぎ払った。

 数百、数千もの糸が網状に絡み合い、散弾を斬り捨てて無力化させる。その技巧の凄まじさに思わず、サイファーは口笛を吹いてしまった。

 その音を頼りにウォルターは糸を飛ばす。

 傍目から見れば、不可視の何かが大理石の床を抉り取りながら猛スピードで進んでいくように見えただろう。銃弾ほどではないが速い。

 サイファーは真上へと三メートルも飛んだ。灰色の外套が翻り、魔鳥の翼さながらに広がった。いつの間に抜いたのか愛用の刃渡り五尺にもなる野太刀は、大上段に構えられている。そのまま振り下ろせば頭頂から股間まで一刀両断だ。

「それは悪手というものですよ」

 ウォルターが腕を交差するように引いた瞬間、洋館二階のテラス部分の柱がブツ切りになったかと思えば、一つ七〇センチはくだらない瓦礫が飛んでくる。かなり速い。いかなる手段をもって飛ばしたのかは不明だが、確実に音速を超えている。

 散弾を装填されたままの『Howler In The Moon』を左手に、野太刀を右手に構える。

 サイファーが目まぐるしく動く。真っ先にこちらに飛んでくる瓦礫から迎撃に入る。一つ一つが炸裂する散弾だから、少しでも当たれば脆い瓦礫は砕け散る。それでも対処しきれないときはウォルターの糸の技巧にも負けぬ自信がある剣技で、五尺もの野太刀を振るうのだ。

 飛来する瓦礫が砕かれるたび、礫と煙が視界をふさぐ。

 その中に光る銀線をサイファーは見逃さない。

 独特の軌跡を描きながら、四方八方三六〇度から迫る死の糸を薙ぎ払う。剣風一つで千々に両断された糸がむなしく床に落ちる頃に、サイファーも同じタイミングで舞い降りた。

「ずいぶんと細い糸だな。おおよそ千分の一ミリから、さらに細い糸が絡み合ってる」

「わかりますか」

「相手の凶器がわかんなきゃ、アーカムじゃ一週間も生きてられない。ケース・バイ・ケースで違う太さの糸を使い分けているのか?」

「そこまでお見通しですか」

「まだ手はあるはずだ。そうでなきゃ、お前さんの技なんて大道芸に過ぎないよ。それにフレデリカがいないことにも気づいてないようだしな」

「おや、いつの間に」

 サイファーの隣にいたはずのフレデリカは、先ほどのぶつかり合いの間に消え失せていた。

「お前さんに散弾を撃った隙に、先に行かせた。アイツを守りながら、お前さんの相手はできそうにないんでな」

「ふむ、それは良い判断と言うべきでしょう。戦いの場としての判断なら」

「……なるほど、やっぱりフレデリカの目を狙ってるのか」

「ええ、私たちの雇い主は。私個人としましては眼以外の全てをいただく約束を、すでに取りつけてまして」

「そうかい……髪の毛一本、血の1ミリリットルもやる気はないけど、さ」

 腰だめからの振り抜き一刀!

 空すら切り裂く鋭さと野太刀の重量など感じさせない素早い振り抜きを、野太刀を腰にためたまま、地面を蹴っての縮地から放ったのだ。並の装甲なら易々と切り裂いてしまう、尋常なる荒事屋なら乾坤一擲の一撃だ。

 それをウォルターがひょいと後ろへ飛んだだけで避けたのを見るや、さらに二撃三撃と野太刀を振るっていく。攻撃を一度だけに留めず複数回重ねる手腕は歴戦の者だけがなせる技だ。しかも一撃一撃が必殺の威力を秘めているとなれば、達人相手であっても十分な脅威だ。

 長物の刀をくるりと回し、正眼に構えてからの轟突――に見せかけて後ろへと飛び退いた。サイファーの手に刀はない。あるのは奈落のごとき黒を銃口に孕んだ『Howler In The Moon』の回転式拳銃にしてはあまりにも大きすぎる巨体だ。

 月まで届く――そう確信できるほどの咆哮だ。

 放たれた弾丸は通常弾として使う弾丸とは違う、体に機関改造を施した者たちに使う弾丸だ。通常弾とは弾頭重量は五倍、銃口初速は七倍に迫る。

 咆哮は一度――放たれた弾丸は十二発。仰ぎ撃ちファニング・ショットのような特別な撃ち方をしたわけではない。撃鉄を起こしてから、引き金を引く動作は一回分だというのに。

「なかなか楽しませくれる!」

「そりゃどうも」

 規格外の巨弾を複数の糸を組み合わせて斬り捨てながら、ウォルターは笑っていた。

 それに応じるサイファーも――笑っている。

 この二人は笑っている――戦いを、命のやり取りを心から、魂の底から楽しんでいるのだ!

「お前さんとは敵じゃあなけれりゃ、割かし楽しくやっていけると思うなぁ」

「私も――ええ、同感です。どうやら根底の思考回路は同じらしい。私は芸術家として多くの美しいものを画布の上に描き出し、その中に命の輝きを見出そうとした。時には生きる希望を失い、死を乞う未亡人の喉笛を掻っ切って、死にゆくさまを描き出したことさえありました」

「凝り性だな――そして、お前さんは命を輝かせるには、死という名の輝きが必要だと悟った」

「そう――生を最も尊く気高きものとして感じるには、なによりも純粋な死が必要だという結論に至りました。いつしか――私自身も死を追い求めるようになっていたのです」

「そうかい――フレデリカを手に入れて、どうする気だよ?」

 それを聞いたのが皮切りだ。

 ウォルターの笑みに狂気が宿った。瞳に闇が渦巻いた。

「肉体的な方法で死にアプローチするのは飽きまして――精神的な方法で死にアプローチしてみようと。つまりは心を壊すんです。あの黄金の瞳を抉り出される様は絶対に描くとして、その後が肝要だ。心を少しずつ壊死させて、彼女の精神が彼女でなくなっていく様を思う存分描き出していきたい高尚たる魂の輝きを彩るのがあの美貌ともなればそれは最高の芸術となって昇華されることでしょう!」

「…………させるかよ、そんな真似は」

 狂ってる、と言うこともない。

 壊れてる、と言うこともない。

 サイファーは否定しない。ウォルターの狂気を。

 ――僕とて、同じ穴の狢、というヤツだ。

 ――ヤツは死に求めた。僕は戦いに。

 ――命の価値、輝きというものをな。

 ――僕もヤツも、五十歩百歩だ。

 内心の自嘲に気付く者は、この場にいない。当人だけを除いて。

「あなたは、どう……なんです?」

 一気にまくし立てたのか、肩でウォルターは息をしている。

「僕はねぇ……戦いの中にいないと、自分が生きてる感覚を感じられなくってね。お前さんも生の輝きを描き出す中で、ずっとぬるま湯に浸かっていた自分の命が活性化するような感覚。それを味わっちまったんだろ?」

「そのとおりですよ……だから私は平穏も安定も捨てた。命を失う感覚を味わうことで、人は自分の命の価値を噛み締めて幸福を味わえる」

「ホント…………敵として会いたくなかったよ」

 言い終えた途端、緩く弧を描く刀の刃は黒く染まっていく。

 常闇よりも、なお暗く、重く、そして黒く。その刃から放たれるのが、尋常の剣技ではないことなど容易に想像がつく。

「初っぱなで、くたばってくれるなよ」

 黒き刃を一度納刀、構えを居合の型に変更する。

 縮地もせずに振り抜いた。刃は空を斬る――その程度に収まるのが尋常の剣技だ。刃の届かぬ遠方を斬り裂く技を、人類は未だに編み出してはいない。

 だが――サイファーの一刀は裂いた。

 未だに誰も断ち切れなかった空間を!

 その銀灰色の眼に映る景色が一刀を振るった軌跡に沿って、見るも鮮やかに、ズレる。

 そこにウォルターはいない。技の危険性を本能的に察したのか。

「今のを初見で避けるとは……刀が振り抜かれてから空間切創が起こるまでは、きっかり0秒なんだが?」

「ならば私がどういう存在かも、わかったも同然では?」

「ああ、この世の道理に縛られないためには、自身の存在価値というものを上にシフトさせるか……この世ものではない何かに成り果てるか、だ。お前は――死者か」

「ええ、主ともいうべき男の力で、浅ましくも現世に居続けていられるのです」

「操り人形――というわけでもなさそうだ。面白そうだ」

「私も――あなたのような人間は初めてだ」

 ――ぱぁん!

 空気の炸裂する快音と共にウォルターはサイファーへと接近した。その後に続くのは糸の大瀑布だ。触れたものを千々に裂く鋭さを秘め、サイファーの曲を斬り裂かんと迫る。

 糸は幾万にも増えた。死の糸が重なり合って生まれた波状攻撃を、黒く染まった一刀を右回りに一周。

 黒き力が剣閃となって三六〇度すべてを斬り捨てる。周辺一〇メートルもの範囲が切り刻まれ、ついにサイファーの一刀はウォルターの身を捉え、原形を残さぬほどに斬り裂く。

「ほほう…………ダミー、か」

 後ろ手に巨銃を構える。銃口の先には――変わらぬ姿のウォルターが。

「あれだけ細い糸なら光の反射を使って色を出し、体内に至るまで模倣することも不可能じゃないな。あれだけの糸の量は僕を刻む目的もあったが、ダミーの維持も兼ねていたのか」

「恐ろしい洞察力です。主が脅威に感じるのも頷ける」

 ウォルターの姿が洋館の柱、その陰に消えた。長い銀髪も、黒づくめのシャツもスラックスもコートも見えない。

「ですが、それだけ興味をそそられるということです」

 言い終わりの声が急にしゃがれた、と思った時には掻き消すような銃声が鳴り響いた。

 飛来する弾丸を巨銃の弾丸で撃ち落とした。弾丸を弾丸で撃ち落とすのは、なにもフレデリカの専売特許ではない。ただサイファーの場合は巨銃を後ろ手のまま、という条件が加わるが。

「一度は会ってみたかった。お前にな」

「ワオ! 僕って有名人?」

 振り返って、もう一度『ワオ』という羽目になった。

 ウォルターの姿がいない代わりに、着流しを来た老人が立っていた。彫りの深い顔が災いして、どこの出身かは判断できない。その両手が保持するのは銃床内部に反動消去機構を搭載した五〇口径自動小銃M3エクスキューショナーだ。

「お前さんが『主』という男かい?」

「そうだ、斑鳩重臣という」

「……なるほど、確かに主だぜ。その体の中に千はくだらない命が渦巻いてやがる。何らかの方法で取り込んだんだな?」

「正確には千と六三だ。儂は獲物を殺すことで取り込み、その命を自在に使役することができる。生き返らせずにな」

「たしかに、動く死体のほうが都合がいいこともあるわな」

「そして……その力は儂自身にも適用される」

 ほぼ不意打ちで放った空間切創は重臣を捉えることはない。

 しかし、その範囲は段違いだし、斬撃の数も増えていた。ウォルターに放った数は一つだが、今度はより大きな斬撃を幾重にも重ねていた。

 内壁が爆弾でも炸裂したように吹っ飛んだ。多重空間切創は標的か何らかのものに当たれば、切断と同時に周囲の空間を粉砕するのだ。

 出来上がった穴には廊下が覗いている。そこに重臣は獣の敏捷性を思わせる、超人的な機動で飛んだ。

 右手の黒く染まった野太刀を鞘に納めると、サイファーは『Howler In The Moon』を抜いた。そして鞘を背中に背負うように保持した。紐の類はないが、背中に合わせただけで離れることはなかった。重臣の後に続いて飛んだ。

 廊下を歩きだして早々に内心は驚きに満ちてしまった。

 ――なんだ、こりゃ。

 ――ここまで弄るか。

 廊下はあり得ない構造をしていた。道はいくつにも折れ曲がり、距離を考えればエントランス・ホールを突き破ってもおかしくないものさえあるが、それらは破綻することなく迷路として機能している。

 サイファーはすでに正体を看破した。空間操作も極めれば一平方メートル四方に山一つ分を圧縮して修めることも不可能ではない。世界を形作る盤石である空間を操るということは、距離も、面積もまやかしとなる。

 何も考えず歩き出したところに、眼前を弾丸が横切った。

「おっと…………一キロ先からの狙撃か。あの銃にはスコープもついてなかったのに、あの爺さんなかなかやるな」

 弾丸の飛んできた方向に子供が石を投げて遊ぶような感覚で、右手の巨銃をぶっ放した。装填されていたのは特製の弾丸だ。ホーレスが費用を相当吹っ掛けてきたが、いざ使ってみると代金相応の価値があった。

 ぼっと彼方で青白い火の玉が灯った。

「むむむ、当たってないか」

 そのまま狙撃が放たれた方へと、躊躇うことなくつかつかと歩き出す。

 巨銃は構えたまま、じっと果て無き廊下の先を睨みつけている。その巨銃をおもむろに右へと振るった。飛来してきた弾丸を撃ち落した。七〇口径と五〇口径という破格のサイズがへしゃげて、くっつき合って床に落ちる。

「悪いが、かくれんぼは嫌いでな」

 撃鉄を起こした。叩く弾丸は先ほど撃った特製の弾丸だ。

「出てこい。僕はシンプルなのが好みだ。まだるっこい戦いは大嫌いでね」

「こうでもしなければ、すぐに殺されてしまうよ」

 声だけの返答に足音荒々しく、ずかずかと進み始めた。

「そうかい、だったらお望みどおりにしてやる」

 壁紙を張られた壁はコンクリではない。年代物の洋館だけに、材質も相応の木の建材だろう。

 そこに向けて引き金を引いた。

 青白い火炎の花が咲き誇った。花弁に触れたものを等しく炭化させる、地獄の猛火を秘めた青き花であった。これではただの焼夷弾だが、放たれた火炎の温度は実に摂氏七〇〇〇度を優に超え、弾頭内部に火炎と併せて圧縮封入された重金属を爆圧でジェット流にさせる。猛き流れと化した重金属は秒速九〇〇〇メートルを維持し、あらゆる装甲を融解貫通させる

 青白き花弁は火竜の燃え盛る舌も同然に壁と床を舐め回した。

 だが、激しく燃え盛るはずの火は呆気なく消え失せた。元より普通ではないこの場所では、住まう者の都合で物理法則が歪められていても何ら不思議でもない。

「こちらだぞ」

 その言葉と同時に銃火が爆ぜた。

 サッと身を引いたのは経験則からか。自慢の巨躯があった壁には小型の爆弾でも炸裂したような痕が二つ。大口径小銃の破壊痕は一方的に無残な印象を与えるほど大きい。

 弾丸が飛んできた方向は背後。振り返って目に映ったのは、どこまでも続く一枚の壁。

 ――いつの間にこんなモンを。

 記憶が正しければ後ろは廊下があったはずだ。これだけ大きなものをリアルタイムで創るとなれば、相応の巨大なエネルギーが発せられる。それさえも感じなかったということは、それだけ洋館を覆うの強さを物語っている。

 また銃声が轟いた。

 目の前の壁から炸薬の燃焼ガスを彗星のように引きながら、二発の巨弾がサイファーの両眼へと飛来する。半身になって躱したのは、意図的なことか、それとも偶然か。

 反撃の弾丸はあの特製の弾丸だ。

 壁に殺到するたびに青白い火炎の毒華を咲かせ、焼け焦げ抜いた大人の頭大の破壊痕を色濃く残す。サイファーも同じく二発撃ったために破壊痕も二つある。穴から覗けるものは何もない。

 銃を保持したまま、左右に振りつつ、周辺を警戒する。

 しん――――静寂が王座にいる。

 静かだ。ここに何もいないような。生命の息吹など、自分も含めて端から存在しない。それほどの錯覚に囚われそうだった。それでもサイファーの極限ともいえる集中力は衰えることなく、壁の向こうにいるであろう射手の存在を捉えようと試みているのだ。

 巨銃を支える腕がだらりと垂れる。銃の保持すら捨てて、索敵にすべてを費やす。

 ――どこだ。

 足音がした気がした。

 ――どこだ。

 体臭のような臭いがする気がした。

 ――どこだ。

 壁の穴に着流し姿がうつった気がする。

 ――――どこだ?

 引き金を引く音がする。

 ――見つけた!

 床を蹴って一気に飛んだ。それと同時にフルオートと錯覚するような連射が襲い掛かる。

 その中から当たるものだけを選んで撃ち落とし、残りは壁の向こうの射手へと撃ち込む。二十四発という六発しか込められそうにない大きさの輪胴から薬莢を排莢し、新たに全弾を込め直す。二十四発分排莢し、二十四発分装填するまでの時間はコンマ〇・一というわずかな時間だ。

 それだけの猛射を食らっては壁はボロ雑巾も同然だ。

 体当たりをぶちかまして、思い切りサイファーはぶち破った。

 向こうにいた重臣の顔を掴んだ時、違和感からの驚愕が襲い掛かった。

 ――こいつは。

 ――囮か!

 老人の身体はライフルだけを残して、千々に散る。形作っていたのは――幾重もの糸。



 ◆◇◆◇◆



 不気味なほどの静寂の中をフレデリカはひたすら駆けていた。

 散弾が炸裂した瞬間に『行け!』と言われて、ほぼ反射的に走り出してしまった。

 一対一にでもしなければ、きっと勝てない相手だったのだろう。となると今は自分の身を守る必要がある。

 両手に二挺を構えたまま、周囲を警戒しつつ歩みを進める。

 ふと人の気配を感じた。

 ──誰かいる。

 思わず引き金に指をかけた。この状況を考えれば、味方なんてサイファーだけなのだから誤射の心配はない。無抵抗の一般人がここにいるとは思えないし、仮にいたとして射殺してしまっても心は動じないような気がした。

 少しずつ戦いに慣れていってる。

 気配のするほうから足音までした。確実に人がいる。

 一歩、一歩を慎重に踏み出していく。

 気付かれれば反撃の可能性だってあり得る。危険は潰すに限るのだ。

シャ―ッ!」

 獣の声に等しい。いや、この唸りは蛇のものだ。

 半身を蛇身に変じた元人間と思わしき何かが飛び出してきた。顔には人間の名残を残すが、両腕だけを残して骨格ごと蛇だった。その口はフレデリカを一飲みにせんと、総体の関節をすべて加速装置にして飛び掛かった。

 二挺をフルオートでばら撒いたのは、敵の姿を確認してからの反射的な反応だ。

 弾丸はすべて柔らかな鱗でしか覆われていない腹へと撃ち込まれた。苦悶に身を激しく痙攣させながら、蛇人間は床に湿った音を立てて飛び込むように崩れ落ちた。そこでフレデリカの目は信じられないものを見た。たしかに撃ち込んだはずの弾丸が、肉の隆起によって押し出されていることに。

 へしゃげた弾頭が床に落ちていく様を呆然と見つめてしまっていた。

 その背後より忍び寄る獣に気づいてはいない。大木さえ一噛みでへし折ってしまう咬筋力と並の合金よりも強靭な牙をもってすれば、頭蓋骨を噛み砕くことなど容易だ。しかし、獣は後姿だけで気づいてしまった。老若男女人種を問わずに見惚れさせる可憐なる美しさを。それが獣ではありえぬ邪な感情を生む。

 喰らいついた口は宙を噛んだ。

 下顎より冷ややかな鋼の冷たさを感じた、と思った時には獣の頭蓋は爆散した。『全にして一、一にして全』の名を冠する魔銃がコンビで歌声を上げたのだ。返り血はすべて天井に散った。獣の真下で屈んでいたフレデリカには一滴も滴らない。

 だが、その時にはフレデリカを人ならぬ何かが取り囲んでいた。

 大型の類人猿、ライオン、虎、グリズリー、鰐、牛といった獣たちだが、どこかしらに人間としか言えない特徴を有している。彼らは獣しか持ちえない独特の獰猛さを常に発していながら、その瞳の奥には人間の狡猾さを宿しているのだ。

 洋館の壁が打ち震える。それは単なる振動から少しずつ、あるものへと変わっていく。ひどくしゃがれた老人の声に。

『ようこそ、瞳を持つお嬢さん』

「……誰ですか」

『では自己紹介だ。一介の碩学ホーランドという』

「なぜ、いきなり私に語りかけてきたんですか?」

『交渉だ。私が欲するものは、君だけが有している』

「目はあげません」

『義眼を用意しよう。生身の目と同じ、ちゃんとものが見えるやつをな』

 その時、獣たちが一斉に牙をむいた。

 脅しだ。これでも首を縦に振らなければ、眼球以外の全ては彼らによって弄ばれ抜かれた挙句に貪り食われるだろう。

「ウォルターという人、あなたの仲間ですよね?」

『そうだ』

「なぜ、あれだけの人があなたに協力を?」

『報酬を与えた――君の眼球以外をくれてやると』

 告げられた凄惨なる盟約をフレデリカはどう捉えるか。

 息を飲むのか、それとも失神するか。

 だが、可憐なる唇から出たのは――糾弾だ。

「約束を反故にするということですか」

『反故にはならん――君がその瞳をくれるのなら』

「だったら分かり切っているはずです。あなたのように仲間との約束一つ果たそうとせず、自分の目的を最優先して、約束は反故にする。そんな人に私の目はあげられません」

『交渉決裂か――では彼らに貪られるがいい。そいつらは人類のさらなる進化を探る過程で生み出した。人間と獣を組み合わせたのだよ。獣たちは獰猛でありながら、シンプルにして力強い団結を築き上げる。それを人間感情の簡便化に取り入れられないかと思い、掛け合わせたのだ。結果は失敗でな、このように本能と欲望だけの怪物に成り果てた。だが捨てるにも惜しいのでな、様々な強化処置を施して番犬代わりにした。あの時の私は人類の進化に恒久的世界平和への道を探っていたが、それは大きな間違いだと気づくのに十年はかかった』

「失敗した理由、私にはわかります」

『ほほう、聞いてやるぞ』

 半獣半人も動かなかった。

「強すぎたからですよ。人の知恵と獣の力が一緒になれば仲間の力なんて必要ありません。それでは団結なんてものは望むべくもないでしょう?」

『ふうむ、一人で集団に匹敵する力を得れば、欲望のままに行動することは道理か。ならば、サイファー・アンダーソンがアーカムの中層に燻ぶる理由は? 彼ならば力がもたらす恐怖で全世界を牛耳れるぞ』

「それは――問題が間違っています。サイファーさんは望んであそこにいると、私は思うんです。理由がまるでわからないですが、それだけ人の感情って難しいものだと思いますよ? それこそ恒久的な平和と同じくらいに」

『よし、我が研究室へ招いてやろう。生き残れれば、な』

 半獣半人が一斉に飛び掛かってきた。

 その全てが我欲にまかせての猛進だ。強靭な獣の肉体がぶつかるのも、フレデリカを捉えなかった爪や牙が他の半獣半人を傷つけても、すべての集中力を投じてフレデリカを食い裂くことに没頭している。

 様々な強化処置を施した、とホーランドは言った。だが一匹の半人半獣を撃ち抜いたときは、きちんと殺すことができた。脳の損傷だけは治しようがないらしい。となれば狙う箇所は決まりきっていた。

 スウェイ・バックをしながら、冷静に弾丸を脳天に叩き込む。

 脳漿と血飛沫が毒華めいて宙に散った。鼻を覆うほどの血臭と硝煙と獣臭さが空気を凌辱する。

 二挺と時間遅延能力を以て、フレデリカは最大の対応力を発揮した。飛び散る血潮も、吹き飛んだ頭蓋の欠片も、破壊された洋館の建材も、フレデリカを凄惨に美しく彩っている。マズル・フラッシュはストロボのように断続的に美貌を照らし、半獣半人たちの脳裏に焼き付けていく。

 それでも獣の大群は全く勢いを衰えさせず、むしろ数を増してさえいる。

 だが半獣半人は気付かなかった。おそらく渦中のフレデリカとて気付いてはいないはずだ。そのあどけなさを多分に残す顔と豊満なる肢体より溢れ出る正体不明のエネルギーを!

 それはフレデリカの両腕より玉虫色の奔流となって二挺を包む。放たれた弾丸は同じ色の軌跡を描きながら、二匹の半獣半人に命中した時だった。

 電撃が炸裂したような閃光が辺り一帯を青白く染め上げた。半獣どもはどこにもいなかった。残っていたのは、耳かき一杯分の炭のようなものだった。

 雷としか思えない青白い光は獣たちのほとんどを焼き尽くし、わずかな炭だけしか残さなかったというのか。

 銃口から白煙を噴き上げる二挺を手に、ぶるりとフレデリカは震えざるを得なかった。サイファーの人間離れした戦いぶりは見慣れたものだが、それと同じだけの力を自分が持つとはにわかに信じ難かった。瞳が何も告げなかったのが余計に不安を煽る。

 それでも気持ちを奮い立たせて歩き出した。

 招かれている、と確信できる何かがあった。近いものを上げるとすれば気配とか殺気に近い何かだ。実際に質量を有していると錯覚するほどの、非常に強い人間の思念と言っていい。それがフレデリカのいる廊下の奥、そこにある大仰な鉄扉――ではなく備品庫としか思えない小さな扉から発せられている。

 恐る恐る歩みを進めた。

 一歩一歩を踏みしめるたびに、狂気の深淵へと近づいていく。尋常の世界では理解できぬような叡智の数々が蠢き、正気の世界を塗りつぶさんとうずうずしているように感じた。

 小さな扉を震える手で押した。

 わずかな軋みと共に扉が動いて――一気に引き込まれた。暗闇の中を猛風に運ばれ、ガーニー並みの速さで運ばれていった。上下左右に速さも時々変わりながら、強烈な大気の奔流にもまれ抜いた。終いにフレデリカの身体は柔らかな何かに、強かに叩き付けられた。その衝撃は常人なら全身の細胞が粘液状と化し、間違いなく即死しているはずのものだがフレデリカは気付かない。ほぼ無傷だったのだから。口の脇からあふれた血を、少し口内を切った程度にしか考えてなかった。

 起き上がった瞬間、息を飲んだ。呼吸も忘れてしまった。

 しかし――壁も床も呼吸をしていた。蠢いていた。研究室というのであればコンクリートかリノリウムに代表される化学素材の床が常道だというのに、触れてみれば生体と変わらぬ温もりと血流の脈動を感じた。無論見た目も。

 巨大な生物の腹の中に取り込まれた気分だ。だが天井には血管と思しき鮮やかな朱と青黒い肉の管に交じって、鉄のパイプが幾重にも折り重なっている。

「お嬢さんには辛いだろうが、なにとぞご勘弁を願いたい。さて、我が研究室へようこそ」

 老碩学が座る椅子も生皮を剥がれた赤い肉の色を放っていた。整えてもいないもじゃもじゃの白髪、スラックスとシャツに白衣までくたびれている。だが一番目を引くのは左目だ。白目の部分は黒く染まり、瞳孔は深海のような色をしている。

 扉から放たれている猛烈な殺気ともいえる強い思念の主は、確実に老碩学が放っていたものだと確信した。眼差し一つだけでも、不可視にして無質量の思念が形と重みを備えた何かになってぶつかってきているように感じた。

 風体はライバルに負けて学会を追放された三流学者のようだったが、気迫は今にも人界を侵略せんとする魔の軍勢を率いる魔王の参謀を思わせた。

 立ち上がる所作一つでフレデリカは逃げ出しそうになった。何もかもをかなぐり捨てて泣き出しそうになりそうだった。心は身動き一つで折れかけていた。

 逃げない、と己を奮い立たせたのは正解だったのか。

「飲み物はご要りようかな?」

「いりません」

「どうも嫌われているらしい。これ以上、薬物をばら撒く気はないというのに」

 一歩近づいた。老碩学の背中には鋼と肉のチューブが接続されている。

 座っていたひじ掛け付きの肉椅子を介して、この部屋と一体化しているようだ。いや、洋館全体とも合体しているのかもしれない。

「怖い顔だな。それほどまでに私の力が恐ろしいかね?」

 重圧が少しだけ和らいだ気がする。ちょっとぐらいは気を利かせてくれるだけの配慮があったらしい。

「これは、ちょっとしたきっかけで芽生えた借り物同然の力だ。本来であれば風と共にあるための権能を授けられるのだが、私が呼び出したものはいささか事情が違っていてね。この地球程度のレベルであれば、思いのままとなるだけの力に目覚めたのだ。その力と同じことができるきっかけは、君だって持っているのだよ」

「私には、何もできません」

「いいや、できるのだ。その瞳は幾度となく君の窮地を救ってきたはずだ。あの失敗作たちを退けたエネルギーをどう説明する? しかも我が研究室に来た時だってそうだ。あの勢いで叩き付けられれば、真っ当な人間では即死だ。遺体は原型をとどめず、この町の超医学を以てしても蘇生は不可能だろう」

 フレデリカは何も言わない。言えなかった。絶句している。

「その力を以てすれば実現は容易だ。私が呼んだものは『彼方なるもの』を垣間見ただけだが、その瞳をもってすれば『彼方なるもの』の向こうにも手が届く。その果てにあるものが真なる全能の力だ。この世を思いのままに変える力だ。人の感情というものは存外に大きいせいで、いかに空間を歪めようとも“同一世界における異なる結果の同居”を成し遂げるには私の力では不足だ。全人類全ての幸福の成就を以て成し遂げられる。これが私の理論だ。さぁ、その眼をよこせ!」

 ついに老碩学からの重圧は物理的な干渉力を帯びた。

 フレデリカはついに地に伏せた。肺腑にあった空気はすべて押し出され、窒息寸前の苦しさにあえぐ。

 ホーランドは、ゆっくりとフレデリカに近づいてきた。眼差しはあくまでも柔らかく、紳士的な物腰であると言えた。

「さぁ、瞳を抉り出して、私に差し出すのだ」

 血塗られた要求を――フレデリカは撥ね退けた。

 差し出された手を払いのける。

「人を思いのままに操って成し遂げる平和に、私は加担する気はありません! 両目も、血の一滴もあげません!」

 啖呵を切ってから二挺を抜いた。フルオートで一気に引き金を引く。

 老碩学の痩躯は爆発したと言ってよかった。爆炎の代わりに出たのは滾る血潮だ。背中から一気に噴き出て、接続されていた鋼と肉のチューブも接続部から弾け飛び、ついには臓腑も細かい肉片となって床と壁に天井まで赤く彩った。

 身体中に大穴を開けた矮躯は仰向けに倒れようとしていた。背中と床が触れ合うまで三〇センチの位置で、ぴたりと止まった。そのまま老碩学は起き上がった。直立した矮躯に肉と鋼のチューブが蛇のごとくくねりながら殺到し、老碩学の背中に再度接続された。

「そうか……交渉決裂か」

 顎をしゃくった。

 それを合図に入ってきたものに、フレデリカは目を疑った。

 ウォルターは誰かの襟首を掴んで、この研究室まで運んできた。おそらく運ぶのに難儀したであろう巨躯、膝を通り越すほどのロング・コート、ガンマン必需品のテンガロンハットにシャップスにジーンズとブーツ、肩甲骨の辺りまで伸びた橙に近い茶髪。これらの特徴を一つ一つ押さえていかなくても、フレデリカには誰なのかすぐにわかった。わかってしまった。

「サイファー、さん…………」

 信じられなかった。

 意識を失って、コートの襟首を掴まれて、うな垂れている彼の姿が。意識を失って、敵の手に落ちていることが。

 ウォルターの手が、まっすぐと突き出される。

 一条の銀が飛んだ。

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