無限、老碩学の夢は万象を産み落として
抜け道を通り過ぎると空気が一気に重たくなった。
この重圧にフレデリカは覚えがある。肌が粟立つ独特の感覚は幻想生物とかしたベアトリクスや、天使のごとき姿へと身を変じたベンジャミンと対峙した時と同じものだ。現世を冒涜し嘲笑する異界の者どもだけが放てる瘴気というべきものだろう。
「ひどい空気です」
「僕も同感だ。ここはデリンジャーの管轄外の最下層近くかもな」
「管轄外?」
「デリンジャーでも下層は手に余るというわけ。特に最下層とその付近は」
「近くでもここまでの空気なんて……」
「いつもなら、もう少しだけ薄い」
アーカム最下層は夜の闇に包まれている、と錯覚してもいいくらいに真っ暗だ。
荒れ放題の石畳を照らすのは前時代的なガス灯だ。それも弱弱しく、フィラメントの切れかかっている電球のように明滅を繰り返す。二人の影は物陰から忍び寄る怪物のように、何度も現れては消える。
空気と、暗さと、様々な要因が絡み合って得も言われぬ不気味さに包まれている。
人の営みがあったであろう家々の数々はすべて廃墟だ。それでも視線を感じるのは気のせいではない。
不意に家の間の影が揺れた。
金属光沢に覆われた体が現れた。人間離れした容貌が多い下層と言えど、こんな見た目をしているのは一人しかいない。
「DM」
「よぉ、デリンジャーが言うには、相当な暴れっぷりだったと聞いたぜ」
「何の用で来た? ここが冷やかしじゃすまない場所だとは、お前さんだって重々承知のうえだろう」
「それはわかってる。自慢の次元防御も紙ぺらみたいに引き裂く連中だって、ここには存在している。でも、いつまでも蚊帳の外ではいられんからな。あれを見てみろ」
真夜中と同じくらいの暗闇でも、金属光沢で輝く指の指す先は異様に際立って見えた。
それは何の変哲もない石畳の階段だ。だが長さが異常だ。石段の先は全く見えないほど遠い。現実ではありえるはずがないものだと、サイファーもフレデリカも本能的に察した。特にフレデリカの目は正体を告げていた。
――前方の石段に大規模の空間歪曲を確認。
――石段の長さは無限大に延長されています。
「これって……」
「フレデリカのお嬢ちゃんは気付いたようだな」
「おまけに不用意に足を踏み入れれば、後方の空間を遮断して間髪入れずに異空間に隔離。あとは永遠に石段を上がったり下がったりしている内に、餓死するか精神が参ってキューだ」
「だから俺が手助けする」
石段のほうに向きなおってDMは指を鳴らした。
打ち鳴らした指先から波紋が広がる。見たまんまの、水面に石を投げたのと同じ波紋が揺らぎながら、ついに石段に到達した。
途端に天地が揺れる。ガラスに描いた絵に大きなハンマーか、工事用の杭でも打ち込んだように、目の前にあった無限の長さを誇った石段が爆砕した。それと同時にDMが膝をついた。
柔軟な生肌と同じ質感を有する、金属光沢を放つ肌に浮かぶのは瀑布のごとき汗。
「俺はここまでだ」
「助かった。僕もあれを力づくで破るのは、ちょっとキツイ。専門家が出てくれたおかげだ」
「ありがとうございます、DMさん」
「どういたしまして。アンタみたいに綺麗でかわいい女に礼を言われるのは男冥利に尽きる」
「一つだけ教えておこう。フレデリカを褒めたって、出てくんのは恐ろしくウマいカレーだけ」
「機会があれば、ぜひいただきたいね」
そのまま口を真一文字にしてサイファーは歩き出した。
フレデリカは振り返って、ぺこりとお辞儀。DMは手を振って応えるだけ。
そのまま歩き続けること、およそ五分。何かあったわけでもなく、フレデリカは口を開く。
「勝算は……どれくらいありそうですか?」
恐る恐る聞いた。
サイファーはきっと自信家だと、本人の言動や周囲の評価から推測している。こういう実力を疑うような質問は、たぶん機嫌を損ねると思って、あまりしなかった。
「さっきの石段のおかげでな、思っていた以上にだいぶ下がったわ。こんなことまでできるとは思わなかった」
以外にも冷静に、理知的に返してくれた。
真剣な時はきっとこうやって、努めて冷静に出ているのだろう。あの感情的で、粗暴なのは、格下相手ゆえの余裕というものだったのか。
やはり付け焼刃の自分とは、一線を画する暴力だ。
粗暴に暴れ狂うこともあれば、研ぎ澄ませた刃のごとく冷静に振るわれることもある。
プロフェッショナルの暴力。
その表現が、ひどく、ぴたりと合う。
「あれだけの空間歪曲ができる相手だ。無傷ではいられないかもな」
「どうやってああいうものを作ったのでしょう?」
「空間歪曲自体は下層じゃ珍しくもないことなんだが、さっきのは長さが問題だ。空間の構成要素に無限大の情報を書き込めば不可能じゃあないが、それができるとなると普通じゃない。碩学はあらゆることに通じ、異なる学問から新たな知識を生み出すとされるが……あそこまでとなると笑えんな」
「碩学は……そんなことまで、できるんですね」
「知識もまた力だ。覚えておくといい」
思わず大学のバベッジ教授を思い出した。彼も名の知られた碩学であり、発明した品々は数知れず。
それでも、こんな超常現象を起こせるとは思いも寄らなかった。現実を書き換えるほどの偉業を碩学は成し遂げるというのか。この世を覆うテクノロジーのほとんどが碩学によって生み出され、今や世界になくてはならない存在へと昇華したとしても、現実を書き換えてはならない。
それは犯してはならない領分だと、フレデリカの本能が、双眸が告げる。
「もしくは碩学じゃなくて、もっと別の何かかもな」
「そう推測する理由は?」
「いくら碩学でも無から有は生み出せない。あれだけの肉体変異を起こす薬物を作るには、やっぱりそれなりの材料が必要だろ?」
「たしかに納得です」
「利害関係はどうあれ、協力関係を結んでるんじゃないか?」
「そういう存在は……どうやって協力関係を結ぶのですか?」
「方法はいくらでもあるが、一番安全で安パイなのが道具をきっちり揃えて、きちんと呪文を唱えて召喚する方法だ。呼び出した後に備えて生贄が五体もあれば、さらにいい。そのための呪物やら道具は下手すると中層でも買える」
――ちょっと待って冷静に考えるととてもマズい気がします。
言いようのない、得体のしれない恐怖が背中に冷汗を浮かばせる。このアーカムは超常存在と背中合わせだとはサイファーと行動を共にするあたりから気づいてはいたが、形を変えて突き付けられると改めて恐ろしくなる。
「お前さんは呼ぼうとか考えるなよ」
「命令されたって呼びませんから!」
「それならいい。きっと呼び出した瞬間に盲目だ。その目ン玉がのどから手やら職種やらが出るくらいほしい連中はゴマンといるからな」
――これ、それだけすごいものなの?
――そう思うフシが、ないわけではないけど。
――もしかして、私は爆弾を抱えているの?
にわかに心臓を締め付けられる。こんな恐怖を味わったのは初めてだ。
近いものを上げるとすれば、マフィアをファミリーごと一網打尽にできる証拠をひょんなことで掴んだ下っ端の気分だ。目に移るすべてが自分を狙っているような、それが一番近い。
「だけど僕の目が黒いうちは、そんなことはない」
「……照れちゃいそうです。こんな状況なのに」
「たしかに。アーカム最下層でするような話じゃないな。こういうことを言うやつに限って、トーキーや小説じゃすぐに死ぬんだよな」
「わたし、自分の身ぐらいは、自分で守れます!」
「フレデリカ、そりゃ杞憂というヤツだ。目ン玉抉り出されるほうの心配をしろ」
「それ……考えたくなかったのに」
「それでも考えとけ。最悪のパターンというヤツは、常に考えておくものさ」
最悪のパターン。
考えたくはなかったが、それでも無理矢理想像力を働かせてできる限り考える。
真っ先に考えたのは自分が死ぬこと。本来であれば残っているのがベストだというのに、無理を言って同行している。やられてしまう可能性は濃厚だ。
──もしかしたら、サイファーさんが……
思わず振り払った。
そんなことあるわけない、という思いが大半を占める。
でも可能性としては存在する、という考えが隅に巣食う。
あの大きな背中が眼前から消えることに、言いようのない恐怖が芽生えてくるのだ。自分でも、それほど恐れる理由がわからないほど。抑えようのない身の震えが何よりの証拠だった。
――せめて。
――せめて、あなただけは。
無事を祈るのは変な気がして。
でも、それでも、せめて祈る。
――大事な人、なんでしょうか。
――いつから、それだけ。
――こうやって祈るぐらい。
――大切に、なったのかな。
――私は、守られるほうなのに。
腰だめのホルスターに鎮座する二挺に触れる。変わらぬ木製グリップパネルの硬さと温度が、力の象徴として鋭利な刃のごとく存在を主張する。
射手にその引き金を引かれる瞬間を今か今かと待ち続ける。忠犬であり、狂犬であると言えた。
だからこそ心強い。
その二挺に冠せられた名は『全にして一、一にして全』なのだから。
「さて、第二関門にご到着か」
「……扉?」
「お次は無限大の厚さを持つ扉か。まったく無限大の大安売りだ。スピリタスなら良かったのに」
「……どうするんです?」
「目だけつむっててくれ、無理矢理ぶち破る」
思わず目を閉じた。
本能的な動きだった。そうしなければ、危険だと本能が叫んだのだ。
降りかかってきたのは、凄まじい重圧。手足が冷え切って、感覚を失った。
常世の全てを否定する何かが、瀑布のごとく流出している。空気も、空間も、何もかもを冒涜し、嘲笑う“あってはならないもの”が現実を侵している。
――なに、これ。
――これは。
――サイファーさんが、やっているの?
ベアトリクスの全てを砕きつくしたとき、ベンジャミンの翼を捌いたとき、得体の知れない暗黒が様々に姿を変えて展開した。その時も言いようのない何かを感じたし、いつもの灰色のロングコートは漆黒へと変わっていた。
――けれども、今は。
――比べものに、ならない。
何が起こっているのか、何をしているのか。
まるでわからない。目の前の超常現象の詳細をことごとく看破してきた黄金の双眸とて、視界に対象を修めねば真価を発揮することはない。
それに重圧が、恐怖が、瞼を閉じさせる。見てはならぬ、と本能が悲鳴を上げて目を開かせない。
「────ッ!!」
声にならない悲鳴を上げたのは、うねる力を感じ取って。
渦潮か、それか竜巻のごとく、抗うことなど考えさせないほどの暴威となって、存在している。
それが一気に、膨張する!
──激震!
空間そのものが打ち振るえた。
奔流と化した力が無限大の質量を貫いていくのを、視界がない中でも不思議とわかる。この世に存在するはずのない、無限という途方もない量を蹂躙する力。性質も、その量も、この物理法則の支配する現世にて絶対である無限を、踏みつけて、蹂躙し、砕きつくす。
破壊!
はぁ、と息を吐くのを確かに聞いた。
フレデリカの心はそれだけでひどく揺らぐ。ただサイファーは一息ついただけなのに、その声音だけが――たまらなく恐ろしい。
噴いて出てきそうなのを必死に抑える。下手をすれば恐慌に陥りそうなのを、理性と気概をもって抑え込む。恐怖に震えることはしたくなかった。自分を守ってくれる、大事な彼を恐れたくはなかった。
そして重圧は唐突に消えた。
「目、開けていいぞ」
おずおずと目を開けた。
目の前に、いた。見慣れた銀灰色の双眸と、橙に近い茶髪、それなりに整った顔が。
「大丈夫か」
「……はい」
「そっか…………なかなか、肝が太い。アレの近くにいた人間は、等しく僕を避けるんだがな」
「避けたりなんて、できるわけありません」
「フレデリカが二人目か……」
「二人目って……」
「……そうだな、歩きながらでも話そうか」
無限大の質量と厚さを誇った扉はなかった。大地より重い質量も、それを支える歪められた空間もなかった。
あったのは扉もない、長い門だ。距離は長かったが、せいぜい三〇〇メートルくらいだ。ちゃんとむこうぐぁが見える。
「はじめて会った時のことを覚えているか?」
「ええ、それは忘れられなかったですよ」
「顔を見たときな、びっくりしたんだ」
あの時のサイファーは自分の見た目で選んだのか。ただ綺麗すぎるだけで、それだけなのに。
男であれば無理もないことだが、なぜかモヤモヤとした気持ちになる。
「雰囲気かなぁ……僕を避けなかった一人目と、フレデリカがそっくりでな」
「そっくり、だったんですか?」
「フレデリカほど綺麗ってわけじゃなかったけど、金髪とか身長とか元々の青い目とか似てた。探せばいそうな特徴だけど、ここまでそっくりだったのは驚いた」
「それで、私を……」
「最初は本当に興味本位だった。その一人目とは忘れることができないくらい、色々と運命的なアレコレがあってな。ベアトリクスの一件が済むまでと思ってはいたんだが、色々と似ているところが多すぎて、結局のこと今に至ってるんだ」
「その人は、今はどうしているんですか?」
「死んだ」
後頭部を殴りつけられた。
そう錯覚するほどの衝撃が襲う。
――まさか、サイファーさん。
――私と、その人を重ねて、いるんですか。
黒い靄のようなものが、心を覆ったように感じた。
しかし、それはわずかな時間だけ。漆黒の霞はサイファーの言葉が吹き晴らす。
「だけど、フレデリカは、やっぱりフレデリカなんだよな」
「え……?」
「あいつはひどいお転婆だった。生傷なんか作らない日はなかったし、やたらと出かけたがるし、なれもしない料理に手を出して炭にした肉は数知れず。おまけに絶壁だった。引っかかりもないくらいにな!」
「うわぁ……」
「それでも、僕に真摯に向き合ってくれた、忘れられないお転婆だったのさ。その時の同僚は顔を見るたびに文句と説教しか垂らさないからな」
「私は……あなたと向き合えているのでしょうか?」
思わず聞いてしまった。
懐かしさから来るものだったのか、ほころんでいた顔が翳る。
マズいことを、聞いてしまったか。後悔が押し寄せた。
「向き合えてなかったら、きっとここにはいないよ。僕がすべてを終わらせるのを黙って待っている」
これも思わず口に出した。これは小声で、聞こえないように。
――良かった。
胸中に訪れた安堵が何から来るのか、気に留めることもしない。ただ、ただ、噛み締めて味わった。
「僕もな、フレデリカみたいな娘は久しぶりだった。こうして隣をいつも歩いてくれる、お前さんみたいな娘は」
「私も、その…………あなたが隣にいてくれるのが、なぜか嬉しくて、心強く感じて」
少しの間。
ちょっとの間。
わずかな間。
足音だけが響く。暗く、長い門の道に響き渡って。
「そばにいても、いいですか。これからも」
「お前さんが構わなきゃ、気が済むまでいてくれていい」
「それでは改めてよろしくお願いします」
「それじゃあ、こちらも改めてよろしくな」
差し出された手を取った。
門の終わりは、すぐそこに。
◆◇◆◇◆
――ぴぅん。
空気を震わせる音。
妙に甲高く、耳に着く音を操り手の耳は聞き逃さない。
「第二関門さえ突破しましたか。しかも力はまるで衰えた様子を見せない」
「あれはそういう存在だ。限界など、ハナから存在せん」
「私とて抑え込めるかどうか、少々保証できかねます」
「……臆したか?」
老人の声は地響きと化した。埃が降ってきたのを、操り手は感じた。
少し前から、この老碩学の力は比例的に上昇している。今、こちらに向かってきている二人の前に立ちはだかった、無限の階段と無限大の扉は彼が生み出したものだ。
その手段も、ただ思考しただけで生み出されるのだ。
神の領域だ、と操り手は思った。
思考一つで人類の手繰る科学では成し遂げられぬ無限を生み出し、掴むことさえできぬ空間を捻じ曲げる。
もし直接その手を振るえば、言葉を紡げば、それ以上の何かが起こる。自分の推測は十中八九、現実になる。その確信が操り手にはあった。
「まさか、サイファー・アンダーソンは確実に抑えます」
「ならいい。あの男は恐ろしい。たとえすべてを跳ね返す力を持とうが、念じただけで相手を殺す力を持とうが、いかなる力を以てしても届く前に砕かれる。お前の技の秘策とやらに掛けてみるとしよう」
「破られたことはありません。そばにいる彼女では知られることもないでしょう」
「あの眼を侮らないほうがいい。アレの真価はすべてを見抜くことではない。世界の全てを知るのみならまだしも、
老碩学の目はぎらついている。
彼は狙っているのだ。フレデリカの黄金の双眸を。
「狙っているのですね」
「わかるか。今や、この世界は私の思いのままだが、この力をくれた存在のように《彼方なるもの》をこえてはいない。夢幻の世界に手をかけ、その力を手にすることが最終目的だ。夢幻の力を手に入れれば、人々の夢と現実は融和し合い、夢は現実となり、不自由な現実は崩壊する」
「その先にあるのが――恒久的な平和というわけですか」
「夢――理想がぶつかり合うことなく、確実に叶うとなれば人々は満たされる。しかし、夢想のごとく干渉し合うことなく、平等にかなえられていくのだ。争いの中に生の充足を見出すものと、平和を愛する者が共存する事さえできるのだよ」
「なるほど……では、その
「なんだね」
「眼以外は――私がいたただきます。中々にいい対象となってくれそうなので」
操り手の姿は――いずこへ。
◇◆◇◆◇
門を抜けた先――そこはゴシック調の洋館だ。
日も届かぬゆえに植物の育たないアーカム最下層であるにもかかわらず、壁の蔓バラは青々と茂り、毒々しい紅の花弁を広げている。
そして、空気が違う。
肌が粟立つレベルでは済まない。むしろ馴染んでさえいる。それも双眸は、大歓喜だ。
その状況を伝える際は、酷く淡々としていたが。
――状況、周辺一帯の環境は夢幻郷と三割程度の類似性を示しています。
――最適化が行われた今の身体にとって、人界以上に馴染む環境です。
そう、むしろ体は軽かった。重ささえ感じていない。なのに五感はひどく鋭敏になっていた。今なら羽毛が宙を舞う音も、子虫の足音も、空気の質量も、感じることができないものを察知できるような気がした。
「環境が書き換えられている」
「ここの空気、人間では耐えられそうにないですね」
「足を踏み入れただけで発狂する。これで平気だとすれば……わかると思うが」
「大丈夫です。自分の身体が普通じゃなくなったことなんて、もう気にしてませんから」
「……そうだな、発狂しなくてラッキーくらいに考えときゃいいさ」
言うとおりにすることにした。
デメリットなんてほとんど無いようなものだから、いっそメリットにだけ目を向けているのが最善だ。
ここで気をもむ必要性など、皆無なのだから。
洋館の庭はずいぶんと広い。
どのくらいの大きさかと聞かれても、パッと出てこないくらい大きい。
庭木や花壇は枯れ果てている。蔓バラだけが青々としていただけあって、ほかの植物が枯れ果てているのは不気味に思えてくる。
「まるで幽霊屋敷ですね」
「もしかしなくても幽霊屋敷だ。こんなとこに住むヤツなんて幽霊にイカレ野郎、そしてキチガイと相場は決まっているんだ」
「真っ当な人は空気だけでアウトでしょうけど」
「違いない」
そこから、さらに一歩。
踏み込んだ瞬間、何かが渦巻いた。目で見れるものではない。なぜならば、それは――感情!
それも生を欲する死者のそれだ!
「走れ!」
二人揃って駆け出す。
駆け抜ける石畳の両脇、その地面がぼこぼこと隆起していくのを見ないようにしながら。
わずか一分でフレデリカが気付いた。
「距離が縮まりません!」
「クソッ! 死者をよみがえらせて驚かせた隙に、空間歪曲をキめるとはな」
サイファーは巨銃を抜いた。コートの形を崩さずに収める保持方法は彼のみぞ知る。
砲と言っていい巨銃が咆哮する。
放たれたのは直径六ミリ程度のばら弾が三〇発近くも放たれた。
襲い掛かる相手は隆起した地面より現れた、生者の命を求める亡者。腐りかけて蠅のたかる肉体に、偽りの生を断ち切るばら弾が撃ち込まれる。
ばら弾一つ一つが着弾した瞬間に炸裂する。
小規模の爆発を起こし、腐りかけてぐずぐずになった肉体は跡形もなく吹き飛んだ。餌食となった亡者の数は二〇を優に超える。この圧倒的な面制圧力は他の弾丸では成しえない。
「意外に脆いな。普通の弾でもよかったか」
「腐りかけですから。頑強さは望むべくもないですが……」
フレデリカの黄金の双眸が周囲一帯を見回した。
亡者は地面から矢継ぎ早に這い出してくる。その数はすでに五〇を超え、洋館の庭を埋め尽くそうとしていた。尽きぬ増援が相手となれば、違った脅威となる。
「ジリ貧になりそうだ」
「弾丸は温存したいんですが……」
フレデリカの武器は二挺のみだ。弾が尽きてしまえば徒手空拳しかない。心得がないわけではないが、亡者を相手取るならば銃のほうがいい。
それに後にどんな脅威が待ち構えているか不明だ。それに備えて弾丸を節約しておくのは道理であった。
「仕方ない。ぶった斬るか」
「いくら斬っても同じことだと思いますけど……」
「いや、斬るのはここだ」
「ここ?」
いつの間にかサイファーの手には五尺もの野太刀があった。片方の手で指さすのは――地面。
「出力は落ちるが――まぁ、十分だ。
黒く――漆黒に、暗黒へと染まっていく。
外套ではない。優美な弧を描き、刀工が腐心して描いたのであろう波紋が映える野太刀が染まっていくのだ。森羅万象を撃ち砕き、蹂躙することを許された黒き力。それと人並み外れた技巧で振るわれる野太刀が織り成すのは――歪められた場の両断であった。
振るった一刀は空間に黒い剣閃を刻み付けた。そこから力が流し込まれる。森羅万象を撃ち砕き、蹂躙することを許された暗黒の権能が!
歪められた空間が消滅すると同時に、あれだけいた亡者も幻となっていた。庭園にはサイファーとフレデリカだけが残されていた。
「うん、この状態で振るっても、これだけの威力を叩き出せるか。これからは積極的に使っていくことを考えとくか」
「……歪んだ空間を、斬ったんですか?」
空間が歪んでいたことは双眸が伝えている。
「ああ、極東の剣術と僕の力を合わせた。片方だけじゃ成し遂げられなかったろうよ」
「そんなことまで……」
「今さら驚くようなことでもないだろう。こちとら無限大の扉もぶち破っているんだ」
そんなことを言われてしまっては、もう感覚はマヒしたも同然だ。空間一つぶち壊したとしても、もう驚かない確信が出来てしまう。
ただ、それに慣れてきている自分がいることをフレデリカは気付いている。そこから抜け出すことが出来ない事も、併せて。
洋館の正門に今度こそたどり着いた。今度は歩いて一分もしない内に。
押し開ける前に、五メートル近い大きな扉がひとりでに開く。ホラーものの小説や
「おっと」
「うわっ!」
洋館に足を踏み入れてから、少し歩みを進めたあたりで扉が勢いよく締まった。
埃が舞い上がり、洋館中の蝋燭が灯っていく。古びてはいるが汚らしくはない。
エントランス・ホールは意外と広かった。中央から奥の壁に向かって階段があり、そこから二階へ向けて左右に分かれている。典型的な形だが、伝統的な美しさと様式美がある。
左右へと分かれる分岐点の踊り場に一人の男が立っている。
目を見張るほどの美丈夫だ。微笑みかければ女であれば誰だって堕ちる顔を彩るのは、腰まで流れる銀色の長髪だ。ロングコートもシャツもスラックスも全て漆黒だったが、目の前の彼には良く似合っている。フレデリカには見覚えがある。
「あの時の……」
あの不貞の行いを忘れてはいなかった。
「初見の方も、再びの方も、両方ともいらっしゃるので自己紹介を。ウォルターと申します。この立場になる前は画家をしておりました」
「へぇ、絵描きが荒事か。世の中というのは、どうにも良くわからんもんだ」
「あなたが斬っていったアレ、お気に入りだったんですよ」
「たしかに貴女ほどの大きさとなればデザイン性に富むものは少なさそうです。たしか上から九五、五六、八五でしたか。一六一センチの身長に対して、破格のスタイルですね」
「意外といい趣味をしているな」
「光栄です、と返しておきましょう」
フレデリカは二人の会話なんて頭に入ってない。具体的にはスリーサイズを暴露されたあたりから。
しかも女の目線から下着のことまでのたまった。そもそも大きさだけで下着選びに悩んでいることまで感づかれるなんて、きっと自分のように弄んだ女性が多いに違いない。そんな感じで顔面蒼白だが、思考はひどい暴走状態だ。
「フレデリカ、オーダーメイドの金くらい出してやる」
「…………余計なお世話です」
完全に意気消沈してしまった。
本当に余計なお世話だった。オーダーメイドくらいしかデザイン性の高いものはないが、そこまで世話してもらうのは嫌だ。その気になればフルカップのシンプルなもので構わない。ヘンリエッタは『もっと着飾れ』と言ってくるが。
そのときウォルターが飛んだ。
人間では決して成しえない挙動だ。翼でもあるように舞い上がって、ふわりと舞い降りた。エントランス・ホールの階段を一足飛びに跳躍し、両手を振り下ろす。
――ぴぅん。
空気が弾ける。
床と壁に斬線が走った。
類似の痕跡を残す凶器をフレデリカは既視している。だが、もっと鋭く、数も多い。
「どうやら、そちらのお嬢さんは似た凶器を見たことがあるようですね」
「どうせ金属の糸だろう。だが衣服の隙間まで潜り込む技巧の持ち主は、僕でも知らないな」
答えたのはサイファーだ。ウォルターの意外そうな顔に、いつものシニカルで不敵な笑みを以て応じた。
「ちっとは楽しませてくれ」
巨銃から散弾が放たれた。
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