殲滅、覚悟と勇気をいただいて
武装の準備はし終わった。その頃には何人か階下になだれ込んできたことを物語る、物々しい足音が少なくとも十以上は聞こえていた。殺気が叩き付けてきても、フレデリカの思考は本人も不気味に思うほどに平静だった。だから闘志は程よく燃えて、総身に力を取り戻させている。
シリンダーをスイング・アウトした『Howler in the Moon』を見つめたまま、サイファーはフレデリカのほうを見つめていた。
気にするのも無理はないと言えた。狂的なまでの感情の本流を、銃弾に乗せて一人の男をいたぶって凌辱したのだから。おそらくはベアトリクスを殺してしまったあの日から、その心には狡猾なまでに存在を隠した悪魔が巣食っていた。悪魔は闇という名の毒素を放ち、幼気ささえ感じさせる女を一時的に怪物に変えた。
「頼むから無理だけはしてくれるな」
「大丈夫です。今度はきちんとできますから」
聞いたことのない冷たい、平坦な声だった。およそ心に吹雪でも吹き荒れてなければ出せないような、抑揚の存在しない声だ。
いつもは朗らかに笑って、殊勝と言っていいほどに自分に良くしてくれる彼女に、こんな一面があるとは夢にも思わなかった。
きっと自分は狂戦士に斧を与えてしまった、とサイファーは内心悔やんでいる。それはフレデリカ自身の望みでもあった。襲い来る全てを自力で撥ね退け、迎撃するだけの力を深層心理は渇望していた。牙を得たのが狼か、狂犬か、内に飼っていたものが後者であれば、得た牙は己の喉笛を食い裂き、両眼を抉り出し、
「もう下に来ているわ」
ソード・オフしたショットガンのフォアエンドをコッキングしながら、不安をキャサリンは階下に向けている。
実戦を経験したことが皆無というわけではなかったが、彼女の専門はあくまでも変装に必要なメイクに服の見立て。拳銃にナイフ、大型散弾銃にベルトリンク給弾式の機関銃を持ってしゃかりきになるのは別の人間の仕事だ。万が一に備えて、部屋に飛び込んでのフォローを入れようと思ってついて来たのが運のツキだった。
「別に後ろのほうでブルっていてもいいんだぞ?」
「それはそれで女が廃るってものよ」
「猛々しいな。男ウケは悪そうな気がするけど」
「黙って見てるなんて性に合わないのよ」
「私も……おとなしくしてる気はないですから」
フレデリカから放たれる気迫ともいうべきものは、ぐんと勢いを増している。年は二〇と少し、顔立ちはティーン・エイジャーにも見えるあどけなさから想像もできない重々しさを伴っている。
一皮むけたといえばそれまでな気もするが、その範疇には確実に収まり切っていない。
本質が何か別のものに変わったようだった。優しげで、儚げで、穢れに染まり幾度も折れても挫けぬ心は感じられない。自分を追い詰めてきた全てへの意趣返しを果たさんとする、今も砥がれつつある殺意だ。老若男女の価値観を越えて心に響くだけのニンフのごとき美貌が後押ししているように感じられた。
「いざとなったら僕が突破口を開く」
「一回で何人いけるでしょうね?」
「実は柄にもなく動揺してて、いつもの余裕と冷静さは半分だ。何人か外すかもな」
階下への階段の一団目を踏んだ時に、濃密な殺気が三人を叩く。キャサリンは取り落としそうになった散弾銃を慌てて持ち直した。やはり荒事の経験というものは土壇場で生きてくるというものだ。
サイファーの手にはいつものリボルバー。近代に類を見ないほどの破壊兵器だ。
「見え見えだぜ」
階下で待ち受ける者の目にひょっこりとリボルバーが顔を出した。
建物中のガラスに陶器が粉砕するほどの銃声が鳴り響く。腹の底まで響くほどの轟音は、襲撃者たちにはかり知れない恐怖を植え付ける。
上半身が内側に爆弾でも仕込まれたと思うくらい爆散した。それが三人。
ぶちまけられた赤黒い汚物は酒場の一階を広く染め上げる。下半身だけの死体がどうと倒れた時、襲撃者たちの闘志は一気に大爆発する。
「野郎、やっちまえ!」
「ぶっ殺せ!」
「仇は取ったらぁ!」
獲物を抜いた時、灰色の風が吹いた。
一人の襲撃者が自分の手首が地面に落ちるのを見た。床に落ちた瞬間を見届けるには首を下に向けるしかないが、彼は首を動かした覚えは一切なかった。最後に見た光景は刻まれた首のない己の身体が、バラバラになって崩れ落ちる瞬間。きっかり三秒後に彼は息絶えた。
それは他の者たちも同様だ。十数人がなますに切り刻まれた。
その元凶は階段の踊り場から酒場の入口まで一気に切り抜けたのだ。
サイファー・アンダーソンはその手に五尺もの野太刀を携え、酒場の入口に立っていた。
超人的な膂力にまかせての疾走と神速の剣戟は十数人もの男たちに、何十もの死の刃となって襲い掛かっていた。男たちはその体を複数にわたって刻まれていたのだから、その刀の腕前がどれだけ凄まじいかをはっきりと示した。
「や、やろぉ……ッ!」
「……正真正銘の化けモンだな」
敵うはずのない存在を前にして残った五人の男たちがとった行動は、サイファー以外の排除に移ることだった。
タンと靴音が響いた。フリルとレースで飾られたゴシック・ドレスに合わせたブーツが床を打った。その手には四〇〇ミリに迫る二挺拳銃が握られている。
その顔立ちは女に飢えていた男たちの心を激しく打つ。
見たことがないほどに美しくも、可愛らしい。少女から女へと変わる境の黎明のごとき、儚くもこの場に確かに存在している。それでも二人の男は冷静だった。油断するな、と鉄火場を潜り抜けてきた経験と本能が警鐘を鳴らす。
二人の武器はウィンチェスターM94とM1912トレンチガンだ。三〇口径のライフル弾は下手な装甲は簡単に貫通するし、切り詰められた銃身から放たれる算段は規格外の殺傷範囲を誇る。
散弾を避けたところをライフルで撃ち抜くという連携が二人の得意技だった。いつからコンビだったかなど修羅場の戦慄が塗りつぶしたが、それでも磁石のごとく荒事には二人でいた。ボスは二人の連携を気に入って、常にペアでいるように命令するくらいだった。
――兄弟、俺はなさけねえくらいブルってるぜ。
――心配すんな、俺もだ。
トレンチガンが火を噴いた瞬間に、もう一人も身構えた。
有効射程距離は拳銃にも劣るが、散弾の売りは点を集めた面の制圧力だ。スラムファイアで休まずの二発目を撃てば、逃げ場ほとんど無いに等しい。
フリルとレースが視界から消えた。
並外れた俊敏さに驚く暇もない。相棒のもう一人は跳んだ先をすでに追っていた。
三〇口径のフルサイズ・ライフル弾を食らえば、たとえ鋼の筋肉を持っていたとしても無事では済まない。さらに弾丸は特製だ。強固な合金の被膜は厚さ一〇ミリ以内なら大抵の装甲を貫通するが、その下には数倍に広がる工夫を施した鉛だった。内臓を切り裂いて、掻きまわし、摘出しようが鉛中毒が苦しめる。
腹に撃ち込もうものなら広がる灼熱にのたうち回るだろう。
歪んだ笑いを浮かべていた。狙いは冷静に、どす黒い感情を乗せて引き金を引き絞った。
妙な音がした。銃声がした刹那の後、金属と金属のぶつかり合う、異様な音が。
まさかドレスの下に装甲でも仕込んでいたか。疑念は瞬時に彼女の身体の足から下まで見回させた。いや、金属板の類を仕込んでるようには見えないし、やたらデカい乳はどう考えたって本物だと結論を下した。裏付けるように体のどこにも銃創が存在しない。
――どういうことだ、クソが!?
反射的な神速のレバー・コックからの第二射は正答の判断だった。
それも同じ結果に終わった。
自分と女の間にあるひしゃげた弾丸がある予感を浮かばせる。
――まさか。
――弾丸を弾丸で撃ち落としているのか!?
さらに第三射を撃った時、予感は真実として叩き付けられた。ライフル弾を撃ち落すために、目の前の女は二発の弾丸を寸分違わず、自分の銃弾に撃って当てている。信じられるわけがなかったが、三度もの発砲は紛れもない真実を雄弁に語る。
「兄弟!」
「おうよ!」
三発目の散弾と同時に獲物を持ち替えた。
M94から二挺のM1911に。こうなれば一発で勝負するよりも、複数の弾丸で勝負した方がいい。多くの弾丸に一工夫を加えれば、闇雲な乱射はヴェールを脱いで狩り人の矢と化す。
弾丸の数は左右の弾倉の合計と薬室の分で計十六発だが、実際に狙って撃った弾丸は六発ほどだ。自動拳銃の連射には自信があるから、雁に女の技量がでたらめであっても弾丸をすべて撃ち落すことは不可能なはずだ。
それも散弾を飛んでよけながらでは拍車がかかるだろうと計算に入れていた。行動は完璧だった。
弾丸が交錯する。
散弾銃が吠える。拳銃が鳴く。二挺は七回の怒号を轟かせる。
それでも銃創は一つとしてない。いくつかの弾丸――合計にして十発が――壁に撃ち込まれている。撃ち落とされた弾丸は六発分だけ。
「残念ですけど、読めてるんです。六発しか私を狙ってないのも、万が一にも奥が一にも外したときは仲間が仕留めることも」
相棒の思考もぴったりと息を合わせたように、M1911の二挺拳銃を外した時に備えていた。だがトレンチガンの引き金に指をかけたまま、脳漿をぶちまけて倒れていた。脳幹を吹っ飛ばされては一切の行動もできずに絶命する。
交差するように構えた二挺は右手を息絶えた相棒に、左手は自分に向けられている。両手のM1911はすでに弾切れだった。M94を拾う前に相棒と同じ末路を追うだけだ。女の後ろで仲間の3人がどでかいリボルバーで吹っ飛ばされるのを見て、自分の終わりがこの仕事だということ察してしまう。
だから聞いておきたかった。
「名前、なんていうんだい?」
「……フレデリカ。フレデリカ・エインズワース」
「ぴったりのいい名前だよ」
飾らない率直な感想だった。
「なんでそんなデカい銃を二挺も持って、こんな鉄火場にいる?」
「ほとんど成り行きだったんですけど、つい先ほどはっきりと分かったんです」
「ぜひ聞かせてもらいたいねえ。冥土の土産にさ」
こっそりと後ろ手に薬室に一発だけ込めた。スライドも戻してあるし、撃鉄も起こしたから、いつでも撃てる。
「傷付きたくないだけなんです。そう思うくらい痛めつけられたせいで、心の奥に深く怒りが根ざしてるんですよ」
「大層な理由だな、あんたにとっちゃ」
「未遂でも、レイプはショックなんですよ?」
「さっきの言葉は忘れてくれ。それでも、その怒りはアンタを食い尽くす。今もこの瞬間もむしばんでるだろうし、俺がこっそり一発込めたことも」
「知ってますけどね」
「忠告のついでに受け取っていけ!」
人生最高速の抜き撃ちだ。
ガクンと膝が折れたのを感じた。弾丸が撃ち落されたことも、心臓の辺りを打ち抜かれたことも。
銃声が遠くでなったような気がして。
それっきり。
それっきりだった。
◆◇◆◇◆
脳漿をぶちまけて倒れた死体をぼんやりと眺めていた。さっきまで饒舌に喋っていたというのに、呆気ないほどに一生その口を開くことはなくなったのだ。死の不可逆性とその唐突な到来を噛み締めた。
念のために二挺に再装填した。
『
殺気の濃度から攻撃のタイミングを読み、込められた想いから本当に殺すための一撃を判別し、自分の時間軸を上位にシフトすることで周りを遅延させる。
サイファーと違って体が変化するといった、目に見えてわかるような異変ではなかったが、自分にしかわからないからこそ恐ろしかった。
「……平気か?」
だから気遣いの言葉をかけられたことに気付くのにも時間がかかった。
左隣に大きな灰色の巨体が。灰色のロングコートを着込んだ、見慣れた姿。手には愛用の規格外な大きさのリボルバーを握ったままだ。あれで三人くらい葬ったはずだ。その死体は原型さえとどめていない。
「覚醒が進んだか…………怒りが引き金になったかな?」
つ、と大きな手が頬を撫でた。
いつも触れられたときは、不思議と嫌じゃなかった。邪さを視線から、表情から、態度から、まったく感じられなかったから。気遣いと慈しみがなせる技だと、直感が告げている。
でも今はすごく気難しい表情をしている。何かを探っているようで、それが忌々しげで、苛立っているように見える。
「そう……ですね。きっと今まで吐きだせなかった分が、噴いて出てきたんだと思います」
「それが“力”の覚醒を促したか。僕が探ってみたのと勘を合わせれば、まだ覚醒の伸びしろはある」
「まだ、増えるんですか?」
「きっと欲する限りね」
背筋に氷の針が刺さったように感じた
手に入れた力はすべて強大なものばかり。さらに周囲の遅延は確実に黄金へと変じた、自分の双眸が関わっている。自分の頭の中に直接語り掛け、いくつもの力を与えている。
それ以上の力があるなど考えたくもなかった。今しがた手に入れたものに戦慄を隠しきれていないというのに。
サイファーは覚醒の原因を怒りと言っていたが、そうだとしたら、また同じように新たな力を手に入れるだろう。根源にあるのは理不尽への行き場のない感情だから。自分に降り注いだことへの怒りが、心をどす黒く染めて黒い炎を燃している。
ぶつける先は売人のように自分を犯すことを考えていたり、襲撃者に命を脅かす者たち。殺し、犯し、潰し、壊すために力を欲するだろう。ぶつける先の人間たちと同じ穴の狢であることに気付いて、自らの浅ましさに泣きそうになるのをこらえた。
「力は恐れるもんじゃない。理解して、飼い慣らせ。手足のように操り、寸鉄のように潜めておけるように」
「でも……私は、また今日のように、なってしまうかもしれないんですッ! 手がかりを潰したり、勢い余って殺してしまったり、するかもしれないからッ!」
「そんなの僕が手伝ってやるしかねえじゃねえか」
「…………え?」
いつものシニカルで不敵な笑みではなかった。
ふんわりと、仕方ないなと目で言っていたが、優しげな笑みだった。見たこともなかった。
「一人じゃ、ないんだよ? それに自分の身は自分で守れるようにしてやるといった手前、力に振り回されるなんて自体は嫌だからな」
「……ありがとう、ございます」
「ったく泣くこたぁねえじゃねえか。頼ってくれなきゃ、僕は何のためにいるんだって話だ」
言われたから泣いていたことに気付く。思わず俯いた。つま先の地面に涙のシミが出来た。
また暴走するかもしれない、こんな自分に優しい言葉をかけて、支えてくれると言ってくれている。分不相応なくらいの優しさをくれようとしていることに、言いようのない嬉しさと安心が多幸感になる。
なんてどうしようもない女なのだろうと思う。
サイファーの器に収まって、依存しようとしている自分に。彼の器というものが大きいの小さいのかはわからないが、およそ迷惑とは思っていないようだ。それに安心して身をゆだねようという自分があさましくて、受け入れようという優しさが嬉しくて、とても複雑な思いだった。
「すみません……ちょっと嬉しくなってしまって」
「そうかい。ちょっと自分でもクサいセリフを吐いちまったな、なんて思っていたんだが」
「そんなことないんです。一人じゃないって、頼っていいって、本当にうれしくて」
顔をあげると、ムスッとした表情のサイファーがいた。
何か怒らせるようなことを言ったのだろうか。結構こだわりが強いというか、格好つけたがりだ。そういえば『優しい』とか、そういうことを言われるのを嫌がっていた。
「ちょっと、私を置き去りにして何してんの。言っておくけど最初から見てたけどね、あなたたち本当はデキてるんでしょ?」
完全に存在を忘れていた。
言葉通りだとすれば、今までのやり取りを全部見られて聞かれていたというのか。
かなり恥ずかしい。思い返してみれば、明らかに同居人以上の人間がするような会話だった気が、しないでもない。それを知り合って間もない人間の前で繰り広げていた。冷やかしを食らうのも納得と言えた。
「見度とそのネタで冷やかしたり、からかったら、舌を引っこ抜く」
「あらあら、それだけフリッカちゃんが大切なのね」
むすっとしてた顔だったのが、さらに眉間にしわが寄ってひどいことになっている。
でも怒っているようには思えなかった。苛立っているのは明白だが、怒りとは違うような気がするのだ。
「サイファーの顔、そんなにしげしげと眺めてどうしたの?」
「え、いや、しげしげとなんて、見ていないですよ!」
「だったらいいことを教えてあげるわ。今のサイファーはあなたの言葉で照れてるの」
はい? と思わず聞き返しそうになった。
ムスッとした怖い顔が、まさか照れているときの顔だとは信じがたい。視線を薙ぎ払うようにしてにらみつければ、範囲内の全ての一般人はビビり抜くと思うくらいの顔になっているのに。
「照れた顔を見せるのは情けなくてカッコ悪いから見せたくない、という理由で照れそうになったら顔中に力を入れてるの」
「やめろ、それを言うのはホントにやめろ」
「意外にかわいい人なのよ」
「ああ、それはわかる気がします」
「……マジで切実にやめてくれ」
二メートル近い巨体が一気に縮んだように感じられた。
やっぱり、なんだかかわいいような気がする。照れた顔を見られたくないなんて、どれだけ格好つけたがりなのだろうか。改めて思えば灰色のロングコートとかテンガロンハットとかシャップスとか、格好つけてる以外の何物でもないような気がした。
ただ中層あたりの荒事屋たちも格好つけたような人間ばかりだった。サイファーが特別というわけでもないらしい。
「でもコートを馬鹿にするのはダメよ。なんでも大切な人からもらった、今じゃ形見になっちゃたものだから」
「はじめて聞きました」
「この下層でも二つと造れないくらいの特別製だ。気に入ってきてるフシもあるけど、今の僕がいる要因となった人間から貰った代物でな」
「こまめに手入れしてますから、大事なものだと思ったんですけど。それだけ大事なものなんですね」
「そのあたりも含めて面白い人なのよ、サイファーは」
「……やめてくれよ、ホント。僕の色んなモン、ズタズタだぜ」
普段の行いが災いしたかな、と思ってしまった。
さんざん人をからかっているのだから、一種の意趣返しになった。図らずもだが。
「それにしてもホーランドね。デリンジャーの知っている人間だといいのだけど」
「十中八九、知らないだろう。ヤツは顔を知っている人間がやった悪事には地獄耳だ。それ以外は人並だからな。しかし第五区画か、まったく厄介な所にいるもんだ」
「危険な所ですか?」
「うーん、ベンジャミンのアパートがあった第四区画に勝るとも劣らない。下手に行くのは躊躇われるな」
腕を組んで唸っている。
たしかに同じくらい危険なのなら、おいそれとは行けない。それに今日は自分自身の変化や荒事もあったので休みたい気分だ。
「今日は宿に戻って休もう、と言いたいとこだが」
「え?」
「今回の襲撃者のことを考えると、このまま宿に戻るのは危険だな」
「もしかして薬物の大本とアルバニアン・マフィアが手を組んでいる可能性があるとでも言いたいの?」
「そういうこと。この調子じゃ中層の自宅も待ち伏せられてるかもな」
そのまま酒場のカウンターの方まで歩き出した。
奇跡的に流れ弾にもあたらずに無傷だった店主に何か言った後に、そのまま電話を持って来させた。
――話の途中で訝しむような顔になっていたが。
「新しい宿の手配ができた。デリンジャーのヤツはこういうときにも心強いな」
デリンジャーに電話をしていたらしい。
下層のだいたいのことを牛耳っている彼ならば、アルバニアンの手の及んでいない宿を手配することなど容易いことだろう。こういう時とサイファーは言っていたが、基本的に筋さえ通していれば、かなりの無茶でもできてしまいそうな気がする。
「変な場所じゃないでしょうね?」
「そんなことできるかバカ。入り口を見ただけで悲鳴あげちまうわ!」
「まぁ、あなた譲りのからかい癖のあるデリンジャーだから、何かあるとは思うけどね」
「…………そうなの?」
「気づいてなかった?」
「まったく知らんかったわ」
どうやらデリンジャーにも同じくらいの悪癖があるらしい。
もしかするとサイファーからうつったのだろうか。キャサリンも「あなた譲り」と言っていたから、そっちのほうが正しいのかもしれない。だとすると癖がうつるくらい昔からつるんでいたのだろうか。そうなると五年以上は一緒にいた仲なのは確実で、もしかしたら十年以上だということもあり得る。
――もしかしたら。
――年を取っていないのかな。
うすうす感じてはいたが、改めて意識すると戸惑ってしまう。
あらゆるものを砕き、破壊する強大な力を振るう彼が真っ当な人間ではないとは確信できる。どれだけの年月を生きていたかなど想像もつかないが、少なくとも見た目通りの年齢ではないだろう。
だから自分の過去というものを語りたがらないのかもしれない。
仮に悠久の年月を生きていたとしても、信じられるようなものではない。
もし信じられたとしたら、その瞬間から化け物や怪物として見られる。
どことなくシニカルで不敵な笑みも、厭世的な雰囲気もそこから来ているのかもしれない。
――そうだとしたら、私は何をしてあげられるのかな。
自分をそばに置く理由がわからなくなってしまった。いや、元から不明だったのが、もっとわからなくなってしまった。
「どうした?」
「いえ、なんでもないです」
「ま、あんまり考え込むのも良くない。早いとこ休もう」
移動は蒸気二輪車ではない。ガーニーだった。あれを乗りこなせるのはサイファーくらいしかいない。下手に居場所を知らせるような要素は省いておきたいが故の措置だった。
ハンドルはサイファーが握っていた。やはり移動手段のことを考えて免許は持っておくべきだろうか、とぼんやり考えていた。女性でも乗りやすいタイプの小型ガーニーをどこかの企業が開発していたような、なんてとりとめのないことを考えていた。
「フレデリカ」
考え事をしていたせいで反応が遅れてしまった。
「ひゃい!」
どこから出たのかと、自分でも不思議に思うくらい甲高い返事になってしまった。
「まだついてくる気か?」
「え?」
質問の意味が一瞬わからなかった。
「今更なことかもしれないが、僕の稼業はとっても危険だ。だから危険予知とか危機の察知は必須なんだが、僕の勘がこれから先がとってもヤバいと訴えている。正直言って、お前さんを守りながらやっていける気がしない。だから中層に変えるなら今の内だと思ってな。ヘンリエッタあたりを頼れば、居場所もあるし危険も少ないはずだ」
「そんな……どうして、いきなり今になって」
「僕のけじめだ。その、まぁ……なんだ。ちょっと恥ずかしくて言いにくいことなんだけどな」
目を丸くした。
ちょっとだけサイファーの頬は赤い気がする。どこからどう見ても、気恥ずかしさと照れの混じった表情だ。
――やっぱり、少しだけかわいい。
内心でほくそ笑んだのを気取られないように、努めて真剣な表情を崩さなかった。照れた顔をしていても、サイファーの眼差しは真剣そのものだったから。
「…………いなくなってほしくは、ないんだ」
「……え」
「僕が危険を感じるくらいヤバいなら、お前さんだと命を落とす可能性が高い。僕もなんでこんなことを言ったのか、お前さんをどう思っているのかも、わからないんだがな。けどな、多分いきなりいなくなられたら、すごいことになりそうな気がしてならないんだ。僕は克己心という者や自制の類に自信のない
それは包み隠さないサイファーの本心の訴えだとわかってしまった。弱音の類とは無縁だとばかり思っていたのは、フレデリカの勝手な想像だったのだ。
戦いの場では強靭な肉体と強大な力にまかせて何もかもを蹂躙し、砕きつくす彼でも、弱さはあるのだ。暴力では決して解決できないような、説得や交渉はきっと不得手なのだ。だから少しでも自分の意思と主張を聞いてもらうために、本心の全てに至るまでさらけ出した。
それだけ自分を大事に思ってくれているのだろうか。
「いまさら、この件を私だけ下りろというんですか」
「恨んでくれてもいい」
「あなた一人に全部を任せて、自分は安全な場所にいるなんて、そんな寝覚めの悪い真似が出来るわけ……ッ」
ガーニーが急ブレーキをかけたかと思えば、座席がガクンと倒れた。そこを大きな手が押さえつけてきた。
息の詰まる感触、必死になって息をしようとする自分を阻むように、眼前にいる彼の顔は険しかった。ほとんど押し倒されるような体制で、密着しているのに等しいはずが体温は感じられなかった。背筋に冷汗が浮かんでいる。
「聞けない、ってか?」
ドスの利いた声だ。体格の割には高めな彼の声からは想像もつかない、地を這うように、鉛の空気を伝わってきた声。
「私だって、譲れない領分というものが……あるんです」
それに、と付け加える。
「私だって……あなたがいきなりいなくなられたら困るんです」
覆いかぶさっていた巨体がなくなった。
すう、と深呼吸すれば、押し倒された時の苦しさは和らいだ気がした。
「チッ、お互い同じ思いってことかよ。デキてんのかって冷やかされるのもわかる気がしてきた」
吐き捨てたながらガーニーを再出発させた。
急発進気味だったせいで、倒れたシートにもう一度倒れた。
「すみません」
「気にするな。お互いに譲れないモンがあるということで。あんまり従順にホイホイ従っていられると、ちょっと付き合い方を考えなくちゃいけないなと思っていたところだ」
「なんか……ただの同居人の会話じゃないですよ、ね?」
「やめろ」
「ごめんなさい」
「変に意識する」
「え?」
耳を疑った。
意識する、と言ったのだ。今まで一か月前の約束のために同居しているだけで、それ以上の存在として見ているとは露ほども思ってはいない。サイファー以外の男性には苦手意識を抱いているし、彼も自分の作った食事にはちゃんと感想をくれるし、家事全般をやっていることに感謝もするし手伝ってもくれる。
だから意識されているなんて夢にも思ってなかった。
「ちょっとでも考えたことなかったのか?」
「そんな、こと」
「ガワが特級に良くて、中身もいいなんてほっとけねえよ。作るご飯がうまくて、家事も全部できて気立てもいいじゃねえか。大抵の女はガワが良かったらノーテンパーか悪女だし、作る飯は消し炭かゲロだ」
サイファーはそう言った。
違うと言いたかった。心は黒く染まっている。
完璧というわけではないのだ。そんなものは存在しないと少ない経験から導き出している。
だからサイファーがここまで自分を褒めるようなことを言っているのが我慢ならなかった。できることなら大声で違うと言ってしまいたい。
「だけど、そんなお前さんにも歪んでるとこはあるんだな」
「…………はい」
「誰だってそうだ。一生向き合っていなきゃならないことでな、僕も未だにケリをつけられないんだ」
「一人じゃない、頼っていい、そう言ってくれましたけど、お互いに言えることですね」
「じゃあ僕が頼ってきたときは、お前さんはどうしてくれるんだい?」
「腕によりをかけて、食べたいものを作ってあげます」
「……そいつはいいね」
サイファーは少し寂しそうに見える笑い方をしていた。
なぜそんな笑い方をするのか、不思議には思ったものの、気づいたら今夜の宿に到着していた。すでに入口の前でコンシェルジュが出迎えている。
「アンダーソン様ご一行ですね?」
「デリンジャーから聞いているのか」
「はい、都合良く一番いい部屋が空いておりましたので、そちらにご案内させていただきます」
「あー、頼む」
そっけないような対応だったが、フレデリカはちょっと戸惑っていた。やってきたホテルはそれなりに上流だ。外観も陰鬱として薄暗い下層の中では目立つほどに綺麗で、中もちゃんと整えられている。コンシェルジュの対応も悪くはない。
やっぱり住む世界が違うな、と改めて思う。
サイファーはコンシェルジュにチップを握らせると、案内されるままついて行った。
フレデリカも後に続く。蒸気機関で駆動する
これほど良い所を急場で用意してくれたデリンジャーには、感謝してもし切れないだろう。
「こちらでございます。何か御用があれば、室内の内線からどうぞ。ご夕食は九時を予定しておりますが、変更するのであれば何なりと」
「ったく、デリンジャーのヤツもここまでのグレードを用意してくれなくてもいいってのに。時間は九時で構わない」
そこはスイートルームだった。アンリホテルに泊まったことのないフレデリカでも、これだけのランクなら事前予約が必要だとわかる。調度品一つをとっても、あまりお目にかかれない高級品だ。レプリカかもしれないが。
「メシの前にシャワーでも浴びるか? 汗かいたろ?」
「そうですね。あ、でもサイファーさんがお先に入りたいならどうぞ」
「んー、じゃあお言葉に甘えて」
脱衣場に消えていったサイファーを見ながら、ふと寝室のほうが気になってしまった。
扉を開けて、フレデリカは一言。
「今じゃなくても……」
◇◆◇◆◇
湯船に浸かって清々しい気分になったサイファーだったが、部屋に戻るとなぜかフレデリカの様子がおかしかった。なんか目を合わせようとしないのだ。なんか赤面しているようにも見えるが、このホテルに来てからからかったりした覚えはない。
しかし年頃の女の心理とは移ろう雲のようなものだ、というものがサイファーの持論で、それに沿って言えばフレデリカが何らかのちょっとした些細なことで赤面し目を合わせないようなことになる。いまだ女心を十全に理解しているわけではないのだから。
おかしなやつだと思いながらソファーに腰を下ろす。膝をちょっと折って、体を丸めれば横たわれるくらいに大きい。
新聞でも広げようと思ったが、時計を見れば時刻はもうすぐ九時近い。夕食を食べてから気ままに休んでもいいだろう。体が資本みたいなものだから、食べれるときにはしっかり食べなくてはならない。デリンジャーもそのあたりは配慮してくれてるかも、とささやかな希望をしてみる。
夕食はコース形式だったが、やはり量は多かった。だがフレデリカも割と平気そうに全部食べ切っていたのには驚いた。意外に健啖家なのかもしれないし、食事を作る上で自分も味にうるさくなって食べる量も多くなったのかもしれない。美食家が美味を求めて包丁を握るというのなら、その逆パターンもあるのだろう。
そして少しの間自由な時間を過ごしていたものの、やはりフレデリカの様子はなぜかぎこちないようだった。
原因は寝室にあったのだ。
「恨むぜ、デリンジャー」
ここで自分の悪癖を噛み締めた。
――『情けは人の為ならず』だったか?
――いや、あれはいいことが返ってくるんだ
悪いことの場合は……
――そうだそうだ、因果応報だった。
――でも今になって返ってこなくてもいいだろうに。
寝室に鎮座していたのはキングサイズの天蓋付きベッドが一つだけ。他にベッドはない。
「フレデリカ、まさかこれに気付いていたのか?」
「……はい」
「恨むぜ、ホント」
暗に同衾をしろと言われているようなものだ。別に今まで何かと自分の部屋で一緒に寝ることはあったが、ここに来る前に自分の本心を言ってしまった。なんだかお互いにドギマギしながら、終いには寝付けないという事態になるのではないだろうか。
「僕はソファーで寝るから、お前さんがこのベッドを使え」
「え、でも……サイファーさんも疲れているんじゃ」
「この程度でへばるほどヤワじゃない」
そのままリビングのほうに行こうとしたが、
「私は……嫌じゃないです、よ?」
「……ちょっと待ってくれ」
思わず思考を放棄しそうだった。
明らかに誘ってくる女のセリフだった。いや、待てこんなゴツい男にこんな役得があっていいのか。それもからかいまくった女から。見た目はハイ・ティーンくらいだが。
「むしろ……一緒にいてほしいぐらいで」
「まっていってることがわからない」
「これから危険なことになるんですよね?」
「……まぁね」
「さっきは大見得切っちゃいましたけど、やっぱりなんか怖くなってしまって。だから、いつも通りでいいんです。勇気をくれませんか?」
「僕でいいなら」
あれだけの見得を切っておきながら内心は不安だったのだ。戦いの場に関わってから三か月もたってないフレデリカでは無理もない話だ。責められるべき要素などない。だから守ってやらなくてはならない。
――勇気が欲しいなら、いっぱいくれてやる。
備え付けのシルクのネグリジェは素材こそ一流だが、装飾や刺繍は控えめだ。その代わり、下にあるフレデリカの肢体が情欲をそそる。ボタン一つでも外そうものなら、並大抵の男なら理性がブッ飛ぶだろう。あどけなさと美しさが同居する顔の下に、男を肉欲の塊に変える凶器を秘めているのだから。
ベッドに体を預ければ羽毛布団が固すぎず柔らかすぎずの、適度な感触で体を包んでくれる。アーカム下層は常に肌寒さに満ちているが、中層より上が初冬にもなればはっきりと冷たさを感じる。自分の左側にフレデリカが寄り添うように寝そべったのを確認して、掛布団をかぶる。
「暖かいですね」
「…………やわらけえ」
「はい?」
「いいや、ただの独り言だ」
左の脇腹辺りに感じる豊満な肉の柔らかさの感想が聞こえてなかったことに、ひとまずサイファーは内心で胸を撫で下ろしたのだった。
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