狂気、忌々しい女は突然に
焼け焦げた石畳にはなにもいなかった。羽の一枚も残さずに、ベンジャミン・アルバーティンはこの世から消滅するに至った。あれだけ圧倒的な存在感を放っておきながら、サイファーとデリンジャーに一矢報いることなく死んだ。
ここはアーカム下層。誰にでも死は平等なのだ。
だからこそ、気を抜けば誰かの手によって死ぬかもしれない。もしくは彼のように死体さえ残らないのかもしれない。
「おい大丈夫か」
「いえ……ちょっと感傷的になって」
「…………ここではよくあることの一つだ。深く考えないほうがいい」
そう言ったデリンジャーの右手は元の生身に戻っていた。あのグロテスクな筋肉繊維を露出した生体砲身は見る影もない。
フレデリカは横顔を見上げることしかできなかったが、人間的な光を宿さない黒瞳にわずかな感情が見えたような気がしたのだ。
サイファーはわかっていた。デリンジャーとベンジャミンは決して悪い仲ではなかった。だから、己の手で処断することの辛さや諸々が、今の彼に少しはジョン・デリンジャー一個人に戻らせているのだろう。
「飲むというのなら朝まで付き合ってやるけど?」
「自分たちの仕事もあるというのに、余計なお世話だ。そんなに気にかけられるほど、俺も弱くはない」
「……やはり“人”は前に進めるんだな」
「俺たちはどこまで行っても人間でしかない。たった一回の人生を止まって生きるわけにはいかないんだ。お前には、少しだけわからないのかもしれないが」
サイファーは閉口していた。
ただ、少しだけもの悲しげで、いつもの笑みもなかった。フレデリカもあまり見ない顔で、いつもの日常で見てしまったら突っ込まずにはいられないかもしれない。
けれども答えることはないだろう。
サイファーは自分の過去を語りたがらない。自分がいつ生まれて、『実力行使請負業』を営むまでの道程を、常に隠している。そして聞き出す人間を煙に巻くために、葉巻を吹かしているように思えるのだ。
フレデリカとて大学時代の酷い思い出は好んで話したくはない。思い出すだけでも嫌な気分になる上に、余計な同情を故意に買っているようで好かなかった。
だからこそ二人は一緒にいるのかもしれない。
当然のように引き合ったのかもしれない。
共通項があるから引き合ったのかもしれない。
いつかはサイファーも話してくれるのだろうか。その時には辛さを分かち合って、ときには傷を舐め合うのかもしれない。
舐め合いは良くないかもしれないが、一人でいるよりはマシなのかもしれない。分かち合えることなく、吐き出すこともできずに抱え込んでいては、いつかは砕けて壊れてしまう。
「フレデリカ、人生というものはやり直せるものだと思うか?」
多くの人間は否と答えるだろう。
やり直せる時を、いつも人は気付かずに逃して、手遅れになっているのだから。
「正直、何とも言えません。私もまだ二〇年とちょっとしか人生を歩んでいませんから」
すこし酷な質問だったか、と内心で悔やんだサイファーだった。
だが続けられた言葉はいい意味で裏切ってくれた。誰も知らぬ彼の心中にかかる暗雲。そこに差し込む一筋の光のように。
「だから経験したことしかわかりませんし、ちょっと先のこともわかりません。だからこそ知らないことには一歩を踏み出そうと思うんです。やってから後悔したほうが、何もしないで後悔するずっといいはずですから」
「……そうだな。うまくいくかどうかより、やってみることのほうが大事だよな。まったく月日は残酷だな」
ずいぶんと年寄り臭いセリフだと言わずにはいられなかったが、突っ込んではいけないような気がして喉まで出かけたのを呑み込んだ。
サイファーはフレデリカに対して滅多に怒らない。フェミニズムの表れとも解釈できるが、人並み以上に力が強く、喧嘩っ早い節がある彼であれば怒りに任せて手を上げることもあったのかもしれない。自制を己に課しているのだろう。
フレデリカも聞き分け良く暮らしていたため、怒りを買うことはなかった。
その分だけ敵に怒鳴り散らすこともあるが。
「サイファー、ベンジャミンはなぜああなったと思う?」
「家探しすれば済む話だろ。場所は調べてあるのか?」
「もちろんだ。できれば、俺も行きたかったとこだが……少し仲間がやられ過ぎた」
未だにケリーとコールは目を覚まさず、石畳の地面に突っ伏したままだった。
アルバニアンの鉄砲玉が幾人も倒れる、この凄惨な現場に置いておくのは躊躇われる。だからデリンジャーは身を引いて、後の家探しをサイファーとフレデリカに託すこととした。仇討ちという一番の目標は自分の手で果たしたのだから。
二メートルを超す巨躯が路地に隠したスレイプニルを引っ張ってくるのを見つめながら、気づかれぬように呟いていた。
「お前もちゃんと進んでいるよ」
蒸気二輪に跨った彼の後ろに座る、見目麗しい金髪金眼の彼女の姿。デリンジャーが最後にサイファーと会った時からしてみれば、考えてもいないことであった。あの頃の彼はデリンジャーと“もう一人”以外を信用せず、女がしなを作って誘惑しようものなら真っ先にブン殴っていた。
「デリンジャー、何か言ったか?」
聞き耳目敏く、呟きは聞かれていたのか。おそらく内容まではわからなかったのだろうが。
「昔を思い出しただけだ。場所はこの先の第四区画のアパルトメント。第二級危険区域だ。そっちの御嬢さんは気を付けることだ」
「はい、いろいろとありがとうございました」
ご丁寧に二輪から降りて、ぺこりとお辞儀をした。そういった所作は育ちの良さを伺わせるようで、澄ましていれば深窓の令嬢に見えなくもない。自分たちのような生まれつきの無法者では決して持ち得ることのない、一種の才能ともいえるものだ。
――サイファーのヤツには、本当にもったいないぐらいだな。
もう一度、二輪に座り直し、走り去っていく二人を、デリンジャーはただ見つめるだけだった。
そのままコールの脇腹をつま先で蹴る。
「ぐうぇ」
カエルを潰したような呻きを漏らし、ガンマンはのろのろと立ち上がったが、目の焦点が合わずに泳いでいる。放たれた香りの後遺症か、強い酩酊状態にあるらしい。
「平気か?」
「大丈夫です…………と胸を張れて言えればいいんですけど、立って歩くのもままならない感じです。前にサイファーさんに酒に付き合わされて、スピリタスを一瓶飲んだ時と同じですわ」
「ケリーもそうだろうな。直接のケンカは、お前に劣る。なんでもそつなくこなせる、側近向けの男だ」
コールと同じように脇腹を蹴ってみたが、唸るだけで意識を取り戻すことさえない。死んではいないのだから治療の仕方はあるだろうし、ケリー一人だけであれば担いで運んでいける。近くにはガーニーを停めてあるのだから。
「あの二人、うまくやっていけますかね?」
「わからん。傍から見れば、かなり凸凹した二人だからな」
「普通そうでしょう。年の離れた義理の兄妹といったほうが自然です」
「いや、凸凹だからこそ、ぴったりとはまるのかもしれん」
「そういうもんですかねえ。男と女は古今東西ややこしいものだと思うんですがねぇ」
「古今東西で言うのなら、男はいつまでも単純で、女は複雑だ。だが例外というものはいつの時代にもいるものだ。あの二人みたいにな」
デリンジャーはどことなく達観したようで、コールは半分呆れたような表情だ。表情の差は人生経験の差だった。コールは若手ながら実力者であるために重用されたが、こういった場面では人生経験の乏しさというものが埋められない差となる。
しかも大抵が荒事の場に放り込まれてばかりで、休みは急速に費やしてきた。女と付き合ったことは多くはない。だから海千山千のデリンジャーでは完全に一歩どころか何十歩も譲ってしまう。
「生きることって大変ですね」
「今になって気付いたか。これから嫌というほど経験することになる」
力なくコールは笑った。
デリンジャーは静かに笑った。
◆◇◆◇◆
第四区画はどれほど危険なのか。
変異生物がうようよいるだけなら他の区画と変わらない。問題はそれが徒党を組み、一つの群れとなり高度な連携で追い詰めてくる点だ。
特に注意するべきは変異した巨大蠅だ。体長一メートル四〇センチと小柄な子供並だが、膂力は大人を三人も抱えて三〇〇メートルも上空まで飛べる飛行能力と、二〇メートルもの射程がある強酸と三〇〇〇種もの細菌が混ざり合った体液は恐るべき武器だ。
それらが遊撃的に飛び回っては体液をまき散らし、隙を見ては犠牲者を抱え上げて上空から投げ落とす。下層での死者を増やす大きな要因の一つだ。
アインヘリヤル社製蒸気二輪スレイプニルが駆け抜けていっては、規格外に巨大なリボルバーと二挺が変異生物相手に弾丸をばら撒いている。サイファーとフレデリカが発砲すれば変異生物が一匹また一匹と砕け散る。
「フレデリカ、三時の方向だ!」
「十一時の方向からも三匹来ています!」
フレデリカの右手にある『All In One』がほとんど途切れていないほどの連射を放つ。
サイファーの『Howler In The Moon』も銃口から巨弾と雷鳴を放つ。
ここに来るまでにかなりの弾丸を消費した。二輪上での射撃は非常不安定故に命中精度が著しく下がるが、サイファーは経験と腕前で見事に補っている。だがフレデリカの命中率は芳しくないうえに、変異生物の数が非常に多い。
サイファーが野太刀を抜いた。
「フレデリカ、しっかり掴まっていろ」
そのまま二輪をスピンターンさせた。刃の延長線上にあった変異生物に輝線が走る。
そこが境界となって一気にずれていき、血しぶきが霧となって噴き出した。血だまりの中に上半身に臓物が沈む。
それでもスピンターンは止まらなかった。
四〇連発もの円筒弾倉を二挺に叩き込んだフレデリカが両手を広げるや、引き金を引いた。マウザーC96をベースとした『All In One』はまだしも、ガバメントベースの『One In All』でさえフルオートで弾丸を吐き出している。
二挺とも機関拳銃だったのだ。ただ『One In All』は重量高速弾ゆえの反動からフルオート射撃を避けていただけだ。元々、狙いすまして使えるように設計されており、合わせて作動機構も銃身を固定できる構造に改造されている。フルオート機能は火力増強の意味合いが強いのだ。
「やつら怯んだみたいだ。今のうちに突破する」
しっかり掴まってろ、と言って急発進させた。
車体重量五〇〇キログラムもの蒸気二輪は砲弾となって変異生物を蹴散らしていく。人間であれば重量と時速二〇〇キロもの速さで挽肉となる。頑丈といえど生身という大前提があるから、変異生物も同じ末路を辿る。
二人が目的のアパルトメントに着いたのは十分後の事だった。
アパルトメントは一般的な鉄筋とモルタル造りで、周辺は死んだように静かだ。人も変異生物も植物さえなかった。住居というよりは廃棄されて間もない廃墟といったほうが、まだ納得できる。その証拠に建物の中からも気配は一切なかった。
窓も明かりがついているところは一つもない。そこから人ならざるものが潜んでいても不思議ではなかった。
「こりゃ住んでるのはユーレイかもな」
「やめてくださいよ……きっと、だれも住んでないんじゃ……?」
「かもしれないな。確かヤツの部屋は……あった」
錆びついて崩れ落ちそうな階段を上り、その奥にあった部屋。番号は二一〇。
そこをサイファーは蹴破った。蝶番から一気に吹っ飛び、対面の壁にめり込んだ。
妙な臭いがした。饐えた臭いとよく似ているが、どこか淫猥で官能的に思える臭い。
「見ろ」
古びてボロボロの床や壁を気にすることなく、サイファーはずかずかと入ってゆく。視線の先にあったのは折り重なるように倒れた女たち。全員が一糸まとわぬ姿で、目、鼻、耳、口から血を流している。
そしてぽつんと置いてあるテーブルの上には、白い石にも似た煉瓦サイズの何かが置いてあった。
「全員が急性中毒を起こして死んだみたいだな」
「薬はテーブルの上にあるものでしょうか」
「多分、吸いたい量だけ砕いて鼻から吸引するんだろう。そう考えると…………少し不自然だ」
煉瓦大に固められた薬物は角を少し砕かれた程度、これだけの量で死亡するほどの急性中毒を起こすとは考えにくい。よほど強力な薬物なのかと推測できる。
「ちょっと味見してみるか」
おもむろに砕かれた粉末を一掬いするや、舌先でペロッと舐めたのだ。
「え、いいいきなり!? 大丈夫ですか」
サイファーは無言だった。口を接着されたように、石化したように、押し黙って何も言わない。
心配のあまり胸に手を置いた――肩を叩くには身長差がありすぎる――その時、おもむろに仰向けに倒れていったのだ。あまりにも抵抗なく倒れていき、身長二メートル、体重百キロを超す彼が倒れた時には地震にも思える揺れが襲った。
舞い上がる埃が目を刺したが、そんなことなど些細なことであった。
フレデリカは必死になってサイファーの体を揺する。
「い、いや、おきて、起きてください!」
一分かけて揺すり続けた時だったか。
む、と唸ったかと思えば飛び上がったように起きあがった。
「どれぐらい寝てた?」
「一分くらい……です」
「この薬、合わない人間だったら一さじでお陀仏だ。僕だから死ななかったものの」
さらっと戦慄を禁じえないようなことを言ってのけたかと思えば、元凶の塊である白い薬物を黒く変質させた右手で掴む。
今日見るのは二回目だ。万物を砕きつくし、この世から抹消する彼の権能だ。きっと、この力もサイファー・アンダーソンの過去に関わってくる、というよりは出生にまで及ぶ重要な秘密なのだろう。これも誰も踏み込んだことない秘密なのだろう。
右手の黒は薬物を侵食していったかと思えば、瞬く間に煉瓦大の薬物ははらはらと黒い欠片を生じさせながら崩壊していき、残った欠片も風に吹かれたように消え去って行った。
「それ……大事な証拠になりますよね?」
おずおずと聞いた。
目の前で証拠隠滅といっていい、いや、まんま証拠隠滅の行為が行われたとなっては聞かずにいられない。
「持って帰るにはリスクが高すぎる。僕も引っくり返るような物質で出来ているとなれば、ただの“人間”じゃ処理できない問題だ。ここからは僕の領域だな」
「それほど危険なものなんですか?」
「ちょっと粉末を吸い込んだだけでも、並の人間なら意識不明だ。だがベンジャミンのヤツは合う体質だったんだ。きっと肉体を作り変える改造薬なんだろうよ」
「なんてこと……これが上に流れたら」
「大混乱だが、デリンジャーが食い止めてくれるとは思う。この薬物はタチの悪い賭けのようなモンだから、上に出回っても死人が増えるだけだ。適合する人間は、非常に稀だろうな」
リビングを調べるのはやめて、もう一つの部屋に入った。
シンプルな私室だった。ベッドとチェストと机だけ。壁紙も張り替えないままだったのか、所々ボロボロで剥がれかかっている。
机には薄汚れた革表紙の本が一冊だけ、異様な雰囲気を放ちながらぽつんと置いてあった。
「人の皮だな」
ひょいと本を拾い上げてサイファーが聞き捨てならないことを口にした。
氷の針を刺しこまれたように背筋が凍っていくのをフレデリカは感じた。本が放つ異様な雰囲気の原因。その一つは人の皮を剥して鞣し、革表紙として作ったことだった。
さらにページをめくっていき、さらに戦慄の言葉を口にする。
「風の中を歩むもの、怪異の導き手……内容も気になるが、インクは血だな」
「い、いやあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああ!!」
絶叫した。
冒涜を叩きつけられて、下層の空気で疲弊していた精神に止めの一押しが入ったのだ。
フレデリカの心は冒涜的事実を拒絶した。
人の命を儚く手折って、狂気の知識を迸るままに書き綴った書物に『あってはならない』と叫ぶ。
「こ、こんなことが……あっていいはずない。どうして……これを作って」
「書き記された神を敬い、そして喜んでもらおう。そういう魂胆のもとに作られているのさ。古今東西、人類史が始まったときから、彼の神を崇める連中はなにも変わらない、変わってないよ」
自嘲するように。
嫌悪するように。
シニカルに笑った彼の目は、笑みではなかった。どこまでも冷たい光を宿して、狂気を綴った者たちを嘲笑しているように感じられる。足元の影がわずかに蠢いたように見えた。
「信仰もここまでくれば筋金入りだ。崇められる神様はきっとウキウキ気分だろうよ」
「これで……喜ぶ神は」
「邪なる、現世を冒涜する蕃神さ。彼の神たちは、この世界をとびっきりの甘い汁がたっぷり満たされた器としか思ってないらしい。手を変え、品を変え。為政者に家なき子まで狂わせて、狂信を集める。いつの時代も、神様は信仰が大好きだからな」
「…………手段を全く選んでなくても、まったく気にしないというんですか」
「神話を紐解けば、神様には結構なろくでなしは少なくない。ギリシア神話のゼウスあたりなんかはいい例じゃないか? それが、この世界の事情など全く関係ない別次元の蕃神とくれば尚更というものだ」
あくまでも知識として言っているようでありながら、サイファーの語り口には本当に神に会ったかのような真実味というものが感じられすぎた。
フレデリカも出会った時から普通じゃないと思ってはいた。だが『神と実際に会った』となっては眉唾が過ぎるような気がしないでもないが、いつかは本当に起こり得ることの一つだと思ってしまう。
そして、同じくらいの衝撃的なことが近いうちに起こる。根拠のない直感でしかないが、狂気の書を目にした時から晴れぬ暗雲となって心を曇らせる。
思わず俯いてしまったが、それが幸運を運んだらしい。
――酒場「Catherine Tramell」と書かれたマッチの箱。
拾い上げただけで箱から濃厚な香水のにおいがした。娼婦たちが漂わせていそうな、やたらに甘ったるい香りであった。だんだん頭が痛くなってくる。中身は空だった。
おそらくは広告としての役割だったのだろう。それにしてはマッチ箱の数は尋常ではなかった。
ずっと気に留めなかったからか、折り重なった女たちの死体や狂気の本のせいで目につかなかったせいなのか。とにかく注意するとデスクに、チェストに、色々なところに落ちている。
「サイファーさん、このマッチがいたるところに落ちています」
「…………常連だった、と思っても変な気がするな。名前から判断すれば女と酒が飲める店のようだが、あのベンジャミンに女が必要かと言われればおかしい気もする。あの天使みたいなナリと匂いにやられる女はいるはずだ」
それから少し考え込んで、
「そういえばバックについてる組織がわかんねえ店だったな。でかしたぞ、こりゃ大きな手掛かりかもしれねえ」
獲物を見つけた獣のようにサイファーは笑っていた。
酒場で出会った怪物、ワイアットを悩ませる麻薬、ベンジャミン・アルバーティンという三つの点が繋がり、『Catherine Tramell』という酒場で一つになろうとしていた。
アパルトメントから一台の蒸気二輪が飛び出した。
◇◆◇◆◇
デリンジャーによってあてがわれたホテルは、アーカム上層部のロイヤルスイートと大差ないと言っていい。
一流の教育を受けたボーイによって通された部屋は、豪奢でありながら踏み込みやすい寛容な雰囲気を醸し出していた。調度品一つをとっても煌びやかでありながら派手すぎず、一日の疲れを癒すもよし、恋人と睦み合うも良しの一級品だった。
ソファーに巨体が沈んだ。
備え付けの電話をサイファーはダイヤルする。
三度の呼び出し音の後に出たのはデリンジャーであった。
「デリンジャー、『Catherine Tramell』という酒場について、お前さんはどれだけ知っている?」
『俺もちょうどそのことを伝えようと思っていたところだ。掴んだことを話したいのでな、部屋で待っていてくれるか?』
「そうか。じゃあ、ちょっとゆっくり来てくれ。僕もフレデリカも少し疲れた」
『フフッ……今のうちに休んでおけよ』
どこか意地の悪い笑いと共にデリンジャーは電話を切った。
受話器を握ったまま固まっていた。簡易のベッドにも使えそうなくらい大きいソファーが、至って普通のサイズに見えるくらいの巨体が微動だにしない。
何か嫌なものの心当たりがあるようだ。それもとびっきりの。
「デリンジャーめ……意趣返しか、それともただの嫌がらせか?」
「見るからに嫌そうですけど、なにかあったんですか?」
「デリンジャーのそばにいた、トンプソン短機関銃を持ってたやつを覚えてるか? あいつは若手なんだが、異例の早さで出世しているんだ」
見た感じでは頭の回転はよさそうだが、教養はなさそうだった。サイファーがデリンジャーに利いた軽口に怒っていたが、それはデリンジャーを慕う彼の思いの表れなのだろう。
組織で上に上り詰めるためには上に立つ人間に気に入られることが近道だ。彼もそうやって上り詰めていったのだろうが、気に入られても使える人間かどうかが重要だ。役立たずに慕われても傍迷惑というものだ。
「あいつは根無し草の二流ギャングだったが、ヤツの女が徹底的にしごき上げたおかげで今の地位にぼりつめた。デリンジャーはそいつを僕の下に送ったんだ。なんでもやる女なんだが……いかんせん僕はちょっと苦手だ」
「…………なぜ?」
間が空いたのは躊躇ったから。
突っ込みずらかった。サイファーの目はハイライトが消えて、完全に死んでいた。一体どれだけの事をされたのか大いに気になるが、聞いたら今度こそ止めを刺すことになるのは予想がついた。だが聞かずにはいられなかった。
「初対面で上半身裸にされた。怒りさえ吹っ飛んだわ」
「私も……同じ目に、遭うんでしょうか?」
何も答えなかった。
何か答えてほしかった。
沈黙がこれから起こるであろう、ある意味で恐ろしいことを雄弁に物語っているようだった。
「気を付けろ。アイツのお気に入りは、フレデリカみたいな可愛い女の子だから」
「余計なことを言わないでください! ただでさえ、この上なく恐ろしい予感がしているんですから!」
「三年もあれば慣れる」
半ば諦めたような表情で、いつもの笑みが完全に消えている。不屈というより、屈するということ自体が無縁に思える彼であっても、それは戦いのときだけらしい。
こういった場では一人の人間だ。
仕事を終えればお酒で一杯することもある。
一息つくときには葉巻を吸うこともある。
好き嫌いはないが、食い合わせのこだわりがある。
そして――普通に苦手な人間だっているのだ。
「フレデリカ、冷蔵庫にスピリタスはあるか? ストレートで一杯頼む」
「あの……前々から思っていたんですけど、スピリタスはストレートで飲むものじゃありませんよね? あと入っていたのはロマネ・コンティでした」
「なにそれすごい」
思わず立ち上がって自ら栓を抜こうとした時、部屋の呼び鈴が水を差した。
応対しようとするサイファーを制して、フレデリカが出ることにした。最高級ワインを楽しんでもらったほうが、彼もこれから先が楽になるに違いない。その苦手な人間にも提供してやれば、会話の潤滑剤になることも期待できる。
少しだけほくそ笑みながらドアを開けると、そこに長身の美女が立っていた。
身長は一七〇センチを越えていることは確かで、ブルネットを腰まで伸ばしている。肉感的な豊満さはないが、見せるためのスレンダーなスタイルをぴっちりとしたスーツとミニ丈のタイトスカートに包んでいる。その上から毛皮のロングコートを羽織っていた。
「あら……サイファーはいる?」
「では、ただいま呼んできます」
「ありがと、可愛い綺麗なお嬢さん」
ルージュを塗った唇が照明を反射して光った。
呼びに行こうとしてフレデリカは振り返ったが、あやうくサイファーの胸元に激突しそうになった。
物凄い形相の彼と目が合いそうになって、思わず逸らしてしまう。もう、とにかく、語彙が貧弱といっていいぐらいに『物凄い』表情をしていて、パッと見てわかるくらいの拒絶がありありと浮かんでいる。
「なんで来た?」
普段の声は体格に見合わず割と高めだ。なのに今はやたらとどすの利いた、野太く低い声で脅しでもかけている。そういうように捉えられる。
「なんで、って命令に決まってるじゃない。デリンジャーの」
「なぜ、テメェなんだ」
「適任を考えてごらんなさいな? 私以外に務まる人間がいると思う」
「何の適任だ、コラ」
「その辺も含めて、あなたたちの知りたいことと合わせて教えてあげる」
盛大にサイファーは舌打ちして、渋々、本当に渋々彼女を部屋へと招き入れる。その時に横目でフレデリカにウィンクしていった。
応接室のソファーにサイファーは先に掛けるように促す。だがコートだけ脱いだ彼女は座らず、不審に思いながらも座ったサイファーの巨体にしなだれかかるように座ったのだ。顔に青筋が浮かんだのを、フレデリカははっきりと見てしまった。
「なんで僕の隣に座るんだ?」
「フーン、体型は最後に会った時と全く変わってないわね。でも血流の流れが悪そうに見えるのは、精神的な要因かしら? きっとあなたのことだからアルコールの濃いお酒を飲んで、好きでもない相手を一晩中好きにしてるんでしょうけど、それは心には悪手で…………」
「黙れや。なんでそこまで言われなけりゃいかんのだ」
「一つだけアドバイスするなら、近くにいるからとタカをくくらずに、相手が『いつまでも一緒に居たい』と思わせるだけの努力をしないと。アーカムを代表する
「は? 誰が
「………………サオぶった切って殺してやる」
今度は女のほうがドスの利いた声になった。
どこに隠し持っていたのか、ポンプアクション式のソードオフ・ショットガンを股間に突き付けている。男の悪夢だ。例外なく股間を押さえて蹲り、息子の命乞いを恥もプライドも捨ててやるのだろう。
「……何してる。僕は普通に事実を言ったまでなんだがなぁ? そういえばケリーは何番目の男だったっけ? 僕とベタベタしていたら、きっと血の涙を流すんじゃないか?」
「…………月夜ばかりと思うなよ」
「たとえ新月でも何食わぬ顔」
ショットガンが股間から離れた瞬間に、思わずフレデリカは胸を撫で下ろした。
こんなところで血みどろの大参事になるのは願い下げだ。ソードオフ・ショットガン程度でサイファーがどうにかなると思っているわけではないが、古今東西の男は股間の息子を何よりも大事にし、大きさと固さに量まで比べて優劣をつける。きっと大丈夫だとしても弾を算段で挽肉にされるのは気分が良くないはずだ。
「まぁいいわ。あなたたちも『Catherine Tramell』に行き着いたのなら、利害は一致していると言っていいわね。近いうちにアルバニアンとそこで取引があるようなの。だから……アルバニアンになりすまして取引を台無しにする」
「僕らはてかが狩りを手に入れ、デリンジャーはアルバニアンに一泡吹かせてWinWinか。まったく楽しくなってきた」
心なしかワクワクしてるように見えるサイファーに、彼女はとんでもない一言を言った。
「出番があるのは、あなたじゃないの。なりすますアルバニアンの構成員は女の子なの」
そしていきなりフレデリカのほうに向きなおったのだ。
「はじめまして、私はキャサリン・ソーン。ファミリーの庶務雑用と変装担当よ。ボスの側近のケリーは私の恋人で、この上ないベストマッチの相手。どうかよろしく頼むわ」
「フレデリカ・エインズワースです。一応、サイファーさんのお手伝いです」
おずおずとフレデリカが差し出した手を、キャサリンはしなやかな指で優しく握り込んだ。
見惚れるほどの笑顔を、唇のルージュが彩っているようでサファイアブルーの瞳は宝石に負けないだけの輝きとなっている。
「今回の私の仕事は……あなたをアルバニアンの構成員に化けさせること。わかった?」
「……………………わたし?」
自分を指さしたまま固まっていた。
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