人類昇華セラフィムプロジェクト
下層、怪物は這い上がりて笑う
そこは底であった。
魑魅魍魎の跋扈するアーカム下層という名の地獄は、人ならざるものが蠢き回る魔の領域。
真夜中ともなれば、その魔性は一気に加速する。
日の光を嫌うものが好機と感じて這い出て、月光を求めるものが身に青白い光をいっぱいに浴びる。
アーカムという人工都市に組み込まれているだけあって、一応は階層間蒸気機関車も通ってはいる。
そこから一人の男が降りてきた。眼前で下層の魔性が早くも牙を剥いている。照明もない暗黒に蠢く影が。
中層か上層あたりから降りてきたであろう中年の男を、人型の何かが数十も集まって取り囲んでいる。全員が禿頭の男といえるような風貌だが、ぼろの腰巻きしか身につけず、腕は直径五〇センチはくだらない。
階層間蒸気機関車も、中層を抜けて下層に入れば車掌は消え失せて、機関車は
そんな階層間蒸気機関車が停まる駅も廃墟同然で、奇怪な人型の生き物に囲まれた男は駅を出た矢先に現在の不運に見回れた。
「下層名物の
銃が吼えた。
大型自動拳銃でもライフルには勝てないのが常識で、三〇口径のライフル弾は食人者の脳漿をあたりにぶちまけるはずだった。
ガチンと妙な音がした。
男の目が見開かれた。食人者は弾丸を噛み咥えて止めたのだ。音速の数倍に迫るライフル弾を、どれだけの神経速度があれば噛み咥えて止められるのだろうか。
ここはアーカム。それも語るもはばかられる下層。
たった一挺の小銃では太刀打ちできないのは、もはや必然と言っていいほどの運命であった。
男の運命は決まりきっていた。
ウーツ鋼も噛み砕く牙と、大型機関も素手で解体する豪腕にかかって、僅かな時間を満たす糧となる。
そのはずであった。
食人者が一匹、血霧を噴き出して縦に裂けた。
次々と、ぴゅうん、と独特の音がすると食人者が二つにされていく。
お次はライフル弾と思わしき銃声だが、象も倒せると謳った五〇口径だと轟音が雄弁に物語る。着弾した場所が小さな爆発となって食人者を吹き飛ばす。それは六人に登った。
銃声が連発をやめると、大量のナイフが飛び交い、それを投げた人間が食人者の間を駆け抜けている。目には見えない。それほどの速さだ。二〇匹近くがバラバラになった。
最後の一匹は二発の弾丸が同時に撃ち込まれて倒れた。弾丸は両目を綺麗に貫通し、内部で炸裂して脳漿をぶちまけた。
「大丈夫か?」
ぶっきらぼうな男の声だった。
ずいぶんとパンクな風体だ、と漏らす。
現れた男は髪をぼさぼさにし、上半身は裸のままで黒いダスターコートを羽織っていた。袖に腕は通しておらず、腕に金属板を無骨に叩いて成形した
中年男は一息ついてスーツの襟を正す。
「助かった。人に会う予定だったんだ。
「そこだ。その建物の影から一部始終を見ていたぞ」
「なんだと!?」
中年男が素早く振り向くが、底には誰もいない。
誰も住まぬまま廃墟となり倒壊したアパルトメントが、在りし日の姿さえ留めぬ残骸を日も射さぬ下層で晒しているだけだ。
思わず呆気にとられていると反対から声がした。老獪さがにじみ出ている、老人の男であった。卑屈な笑みが混じっているのが、なんともこちらの心を巧みに煽る。
一九〇に迫る痩躯が金色の目だけをやたら爛々と輝かせて、男を射殺さんばかりに視線で磔にしている。多種多様な民族の特長が浮き彫りになった、そんな顔のおかげで人種の特定は雲をつかむ話だ。その目が物語るのは殺生を生業とする老人の家業であった。
「儂が斑鳩重臣だ。驚かせてすまんな」
「下層で腕利きかつ話の通じる殺し屋。この条件にぴったりだったのがアンタだった。依頼は一つ。サイファー・アンダーソンとフレデリカ・エインズワースの相手を頼む、と博士は言っていた」
カッカッカッ、と老獪に重臣は笑った。
瞳に明らかな歓喜の光が宿り、口の端が吊り上がった。
「随分なビッグネームと並んで依頼されるとは、そのフレデリカ・エインズワースという人間は相当な
「第十二層じゃサイファー・アンダーソンの名を知らないものはいないらしいが、博士がソイツが実験のじゃまになる可能性が濃厚だから足止めだけでも出来る人員を、金に糸目はつけんから雇え。ということらしいが、実際はどうだ?」
「報酬も何よりだが、儂にとって重要なのは久しぶりに下層から這い上がれる機会が出来たことじゃなあ。下層の空気はひどく汚れとって。だから変異生物なんてものが出てくるんじゃあ」
重臣の視線は食人者たちに注がれている。
下層の劣悪な環境と、アーカムの魔力とも言うべき何かが作用しあって、自然では生まれるはずのない生物が発見される時がある。
食人者も元は人間であるが、食うもの一つに困る下層の環境が、彼らを食人者へと変異させるのだ。
中年男はもう一度だけ斑鳩重臣をじっくりと見つめた。
濃紺の着流しに包まれた肉体に変異は見られない。
下層の人間はほとんどが魔人と言っていい。肉体にどこかが変異しているのが常だ。傍目には変異していないように見えるのであれば、その変異は内部がほとんどだ。
内臓機能が変異しているために、三メートルに及ぶ口吻を用いて
その中でも脳が変異している存在が一番危険だ。常人では紙の上でしか認識できない波動関数や物理現象を数式として捉え、それに己の認識を干渉させて条理を超えた超常現象を意のままにする。彼らは総称して"数式使い"と呼ばれた。
目の前の老人もそうなのか、と中年男は思った。
しかし、いくら数式使いといえど簡単に有名なるわけではない。変異が確認されている下層ならではの存在である上に、中層と上層に住まう人々は劣悪すぎる過酷な下層のことなどに興味などない。
にもかかわらず中層の情報屋に名を挙げられるほどの腕前を持つとは、中年男はにわかに信じがたい思いでいっぱいであった。こんな老境真っ直中と言っていい老人が。
「それで儂を雇うのか、雇わんのか、さっさと決めておくれ。年寄りはぁ、待たせるものじゃあない」
「どんな手品を使うのか、それを決めてからにさせてほしい」
「食人者を屠った時と、貴様と会ったときに片鱗は見せたんだが、儂が使うのはコレだ」
今までどこにあったのか、全長にして一五〇センチ近い、ゴツく太い銃身にマズルブレーキを取り付けた五〇口径ものライフルを取り出した。
ボルトアクションでもなければ、元込めのマスケットでもない。アーカムでつい最近になって統治局で採用され始めたという最新の自動式だ。反動によって各部を作動させるのではなく、弾丸の撃発で生じる燃焼ガスで機関部を作動させるという構造だ。銃身を完全に固定できるために精度も比較にならない。
「化け物が使うような銃だな」
「下層の人間を、上の人間は化け物扱いしている。ならば、これだけの銃を扱ったとしても不思議では無かろう?」
「突き刺さってくる言葉だな。その言葉の通りだよ。俺たちは下層の人間を自分たちと同じ"人類"と思えない。残念ながら世の中は自分たちに目も向けず、ひたすら他に潔癖と完璧を求めるようになってきている」
「だから儂は下層に堕ちた。後悔などないが、このまま名も知られずに死ぬのは惜しくなってな。貴様の依頼は都合が良かった」
「引き受ける気があるのか?」
「無論だ。そろそろ仕事と人生から引退できる歳だからこそ、死に花を咲かせるに相応しい相手だった」
老獪な怪物が喚起に震えた。
対する中年男も震えていた。目の前の恐ろしい何かに命令を下せる、そういう立場になったことを。気分は世界を滅ぼすほどの新兵器を開発した学者のようだった。
下層から見える月は赫い下弦であった。笑みのような。
◇◆◇◆◇
第十二層。『Have a Heaven Time』は第二十二区画にあった。どういう店なのか、アーカムに住まうものなら行ってなくともわかる。売春区画にあるのだから、店の目的もわかる。清濁合わせた風俗店だ。
五階建てもの大きな煉瓦造りの店舗を維持できていることから、人気のある店であることは確実だ。入り口からすぐのエントランスはコトを済ませたアベックが出て行くのが絶えない。
その客室から一人の男が出た。
茶色のダスターコートを羽織っている大男であった。二メートルは確実にある。橙色の髪を後ろで束ね、両手をズボンのポケットに突っ込んでいる。
不満そうな表情ではなかった。どちらかといえば満ち足りているようだが、ほんの少しだけやり場のない感情が見えているようだった。
廊下は一本道であった。絵画に陶器に彫刻がずらっと並べられていたり、壁に掛けられていた。芸術品の真偽は分からないとしても、この廊下に繋がっている男が出た部屋が特別なのは明白だ。
この廊下が繋がっているのは部屋とエントランスまで直行の電気式昇降機だけだ。男は部屋の方を一瞥してから、コートの襟の匂いを嗅いだ。
女の香水と情交の残り香が漂った。
コレを悟られるわけには行かない。一ヶ月も前に起こった大きな事件以来、側に置いている彼女には。おかげで外食だらけの生活が随分と家庭的になったが、その分だけ劣情と性欲の処理方法が限られてくる。
たまには三人ぐらい一気に相手して、ガス抜きするぐらいがちょうどいい。
エントランスに出て早々に、下世話な笑みが男の視界に入った。モノクルをかけた、身なりのいい細身の男だ。四〇代ほどだが、その鳶色の目に宿る光はもっと齢を重ねなければ持ちえない。
「今夜はご満足いただけましたか?」
「いつも来る度に好みの女を三人も用意してるって、どういうやり方だ? 読心術とか使えたりするのか」
「経験ですよ。表情少しでも見えてしまえば、そこからその日をどう過ごしてきたかが分かるものです。朝は自分から起きたのか誰かに起こしてもらえたのか。朝食は外で食べたのか作ってもらったのか。そんなことも分かれば抱きたい女のタイプも、手に取るように分かるのです」
「肝が冷えそうだ」
「今の貴方は…………私がご用意した三人に満足しているようですが、何か別の問題があるせいで自己嫌悪に陥っている。そう見受けられました」
「…………肝が冷えた」
「一ヶ月前から側に置いている女のせいでしょうか?」
「なに寝言ほざいてんだブッ殺すぞ」
モノクルの男──名をジェイムスという娼館の支配人──は両手を挙げた。万国共通の降参の合図だ。
「ええ、ええ、そういうことにしておきましょう」
「わかったならいい」
男が入り口に差し掛かったときだ。
各階へと繋がる一般客用の昇降機から轟音が響く。見ればぶ厚い鋼鉄の扉は見る影もなく、内側から怪力でぶち破られたようになっている。
だが更に異様なのは扉の跡地から鋼鉄の腕が生え出ていることだ。並の女であれば握りつぶせるほどの、とてつもない大きさの腕が中華系のスリットの入ったドレスを着た女を握りしめている。
女は瀕死であった。もって数分というあたりで、目と鼻と口から血を流し、眼球は反転して白目を剥き、身体はこまめに痙攣している。鋼鉄の腕が内臓を一気に握りつぶしたことによるショックであった。
すすり泣きがする。地を這うような低い声で、恥も知見もかなぐり捨てた嗚咽まで交じっている。
「俺はいつか、お前を嫁にするつもりで通っていたんだよぉ。それなのにぃ、ぞれなのにぃぃ、俺を捨てやがってぇ。お前に貢ぐ金を稼ぐだめにぃ、身体中を弄くり回したのにぃぃ」
昇降機の入り口を無理矢理押し広げながら、四メートルはあろう異様な巨漢が現れた。全身に数式機関改造を施したのか、身体中の所々から金属部品が露出している。
女を握る腕には蒸気圧ピストンが三本も据え付けられ、男に怪力を与えているに違いない。腕だけを機械に置き換えるのは生身に多大な負担をかけるから、全身の骨格も併せてスチール製に置き換えているはずだ。
早い話、鋼鉄のパンチを打ちたければ、鋼鉄の肉体が必要になる。不便極まりないように思えるが、出力は一〇〇〇馬力を優に超える。
野菜を握りつぶす音に似た、耳を塞ぎたくなるような音がした。女の身体は完全にひしゃげてしまっている。
ジェイムスが手を一振りした。
「お客様、ここは紳士の礼節を心得る人間が集う場所。野蛮なお客様はご退場願っております」
それが合図となって揃いのスーツを着込んだ守衛がやってくる。ブローニング自動小銃が小さく見えるほどの巨漢ぞろいだが、四メートルもの改造人間の前では子供と大人に見えてくる。
一斉に発砲する。
三〇-〇六スプリングフィールド弾は歩兵が扱えるライフル用弾丸では三本の指に入る。それでも生身の部分を撃ち抜くが、機械部品の箇所では弾丸は弾かれる。
「俺は、かなしいぃぃい! 邪魔すんなぁああ!」
機械の豪腕が派手に蒸気を噴射して振るわれる。
唸りを挙げる鉄の巨腕は守衛を五人もまとめて吹き飛ばすことなど容易だ。加えて腕に搭載された出力増強用の蒸気機関のスチームが、守衛の視界を遮って迅速な照準を困難にする。
突如広いエントランスを蒸気で満たしながら、行き場を失った劇場のまま暴れ狂う改造人間は、砲と聞き違う轟音によって永久の静寂となる。何かが改造人間の胸部を吹き飛ばして、ほぼ瀕死に追いやったのだ。
その音の元凶はジェイムスの知己と思わしき大男の手にあった。
新大陸の銃器製造企業S&Wのダブルアクションリボルバーの意匠を僅かに含みながら、一線を画する肉厚のフレームと銃身は異様なほど堅牢であると伺える。大型のマズルブレーキとバレルウィトを備えた銃身には『Howler in the moon』の刻印があった。
「男の嫉妬ほど醜いモンはないと思わないか?」
「ええ、全くもって同感ですな」
大男の手にある巨銃、そこから放たれた七〇口径もの巨弾は生身も機械部品もライフリングによって与えられた、螺旋状の回転運動によってねじ切られ、背中のほとんどを吹き飛ばして抜けた。
そのままエントランスの一角にクレーターを作って止まった。
改造人間の男は瀕死であった。いかんせん、主要な臓器も機械部品も全て、たった一発の銃弾で破壊されたのだから。
それでも男は身を起こそうとして──一発の弾丸が遮ってしまった。残っていた顔は右半分が銃撃で吹っ飛ばされた。
「大丈夫ですか!?」
硝煙の立ち上るMZ社製
その一六〇センチもない肢体は中流階級が着るような、質素すぎず華美すぎない黒をメインに据えたモノトーンカラーのドレスだった。動きづらさは微塵もない膝下丈のスカートから覗く足は濃い茶色のストッキングに包まれ、革製編み上げブーツを履いている。
M2アナイアレイターは弾丸の反動ではなく、装薬の炸裂で生じる燃焼ガスで機構を動作させる。その構造上、銃身を完全に固定できるために精度は高い。燃焼ガスは逃がさねばならないが、マズル近くから方向を調整して放出するために反動抑制に一役買っている。
口径は十ミリの40MZP弾を使用する。45ALP弾よりも三割もパワーがある弾丸だが、この少女にも見える美しき女は扱いこなしているらしい。装弾数は銃把内部の弾倉に十二発込めることが出来る。充分な
「…………なんでいる?」
「家の鍵が開いてなかったので。また合い鍵で出ていたんですね?」
「自分の鍵をなくした」
「なら閂から交換しないと。最近は物騒ですから」
「オーケイ。ジェイソン、キンキンに冷えたビールをくれ。現実が辛すぎて、僕はひっくり返っちまいそうだ」
「サイファーさん、今までどれぐらい飲んでます?」
サイファーさん、と呼ばれた大男は嫌な顔になっていた。妻に悪事がバレた夫の顔に似ていたのは、単なる偶然なのだろうか。大男も美女も結婚してない身というのに。
気まずそうに頭を掻いた。
「スピリットの瓶、六本しか空けてない」
「六本も空けたんですね?」
「…………ああ」
両手を上に、視線は真上に。お助けください、の合図であった。
「飲みすぎです。早く帰りましょう」
「手厳しいな」
完全に降参であった。
そのまま手を引かれて大男は退散した。背後からの「またのお越しを」という支配人の声に、舌打ち一つで返して。
彼を知る人間がいたら笑うに違いない。
──コイツがサイファー・アンダーソンか。
そう、第十二層で知らぬ者はいないとまで言われる、超凄腕の『実力行使請負業』を名乗る男だ。そんな彼が少女にさえ見える立派な成人女性、フレデリカ・エインズワースにいいようにされている。
キツいジョークだ。そう言う人間もいるだろう。
このフレデリカ・エインズワースという女も、生物的本質で言えばサイファー・アンダーソンと同じ部類に入る。
人であるかもしれないし、化け物かもしれない。
どっちつかずとも言える蝙蝠だ。
あのフォーレンシルトとの一件から、早一ヶ月が過ぎた。
フレデリカの生活は一変した。
かつて日課であったジョギングは本格的なランニングとなり、ヘンリエッタから格闘術の手ほどきを受けて、射撃場で拳銃から散弾銃まで一千発近く撃ち込む。
一度の激情に身を任せたツケだと思い、必死になって一ヶ月。今なら何が来ても大丈夫だと思える。
それはサイファーも同じことだ。
フレデリカが彼の家で寝起きして、炊事洗濯掃除をこなす。さすがに広い家をフレデリカだけに任せるわけにはいかないから、自ずと掃除や洗濯物を干すくらいは手伝うようになる。外食三昧で酒飲んで寝る自堕落な日々は終焉を迎えた。起床の際は類い希な美少女の顔がモーニング・コールをしてくれる。
でも少しだけ良くないような気がするのは、二人の関係性が確固たる地位を確立していないからか。
サイファーはフレデリカを居候と見ているし、フレデリカはサイファーを何の分類に入れていいか決めあぐねている。少なくとも友人以上の大切な人間だと彼女は思っているようだが。
「あそこにいたのは仕事で?」
不意の問いだった。
できれば娼館にいたことは聞かないで欲しかった。
「ま、まあな」
「お客さんじゃありませんよね?」
「そ……そうだ! 最近ああいった手合いのヤツが無許可で可愛い子をお持ち帰りするもんだから腕のいい用心棒が必要なんだ。誰だってお楽しみの最中に銃声なんて聞きたくない。今夜の僕はお楽しみタイムが終わった後────あがっ」
「…………次はバレないように行ってください」
「正直言ってすまんかったと思っている」
「いいんです。あなたは男の人ですから、その……ええっと、溜まるのはわかりますから。発散しないと苦しいんですよね?」
こんな幼気な雰囲気を振りまく、見目美しく若い彼女にこんなこと言わせてるとは、サイファーは自分が随分と情けなく感じてしまった。言葉の内容に興奮しているのが、余計に拍車をかけるがガス抜きした後では後の祭りだ。
「私は……えっと、うぅ、お手伝いは出来ませんが、発散の邪魔はしませんし、否定もしませんから。だから、せめて気付かれないように行ってください」
「手伝うとか、そういう言葉はたとえ話でも言わない方がいい。男って、それで変なコト考えるから、さ」
「…………男の人って、どうしようもないですね」
沈黙。
実に耐え難い時間だ。男の醜い部分というものを見せられてしまっては、何を言っていいのかフレデリカにはわからない。
サイファーも下手なことを口走れば、新しい生活が始まって一ヶ月しか経ってないフレデリカの精神にとどめを刺すことが分からないわけではない。
こうなれば自宅にさっさと帰ってしまうに限る。
一日経てば、少しは歩み寄りようもあるはずだ。
二人の歩調が少しずつ早まっていき、ある酒場の前で止まった。
遠方からアーカム統治局の治安維持保安課課長アープ氏の演説が聞こえる。なんでも最新装備を導入した新しい部隊を、アーカムの治安維持に当たらせるらしい。フレデリカはぼんやりと、それに意識を半分だけ傾けて聞いていた。
サイファーの意識は前方に向けられていた。
酔っ払いと思わしき中年が倒れている。衣服に乱れはないことから、物盗りには逢ってないようだ。
早めに起こしてやった方がお互いのためだと思って、サイファーが声をかけようと歩み寄る。
「ウ…………ウゥ……」
呻き声を上げて酔っ払いが起き上がった。
あわせてサイファーも一歩だけ後ずさる。酔っ払いから酒とは違う臭いがした。薬物の類だと思われるが、ヘロインともマリファナとも違う。嗅いだことはないが、麻薬だと分かる。
「フレデリカ、銃を構えとけ。ヤクをキメてる」
MZ社製大型自動拳銃とアーカム45を両手にした。
荒事屋にとって二挺拳銃は珍しくないし、サイファーだって有り合わせの銃器を両手に持って暴れまわる。
フレデリカは一ヶ月前まで出来なかった技術だが、半月で実践で使えるほど昇華させている。
「おい、自分の名前はわかるか? 落ち着いて深呼吸しろ。おとなしくするんだ」
答えを待つ前に飛び退いた。
巨体がアクロバットに三メートルも飛ぶ。
酔っ払いの皮膚を突き破って、筋肉繊維を剥き出しにしたような醜悪な腕が生え出ている。長さは二メートル近く、七本もある指先には鋭い刃物めいた鉤爪があった。
酒場の前を言いようのない芳香が満たしていく。
天上の園が放つ香り、とも言うべき芳香は二人の嗅覚を刺激して、脳神経系を侵し、精神を蝕んでいく。
フレデリカは頭を強く振って、芳香の侵食を振り払った。危うく堕ちかけるところだったが、ギリギリで間に合ったらしい。
サイファーは変わりない。この程度の揺さぶりでどうにかなるほどヤワでないということか。
酒場にいたのであろうたくさんの人間が、ふらふらとした足取りで人ならざる姿へと変じた酔っ払いに歩み寄っていく。
酔っ払いは皮を脱ぎ捨てるように、醜悪な怪物へと変わる。ほとんど不定形の肉のようで、びっしりと牙を生やした大口まである。三メートル近い巨体の中心あたりから、清廉潔白といえる白い鳥類の翼を生やしていた。それは翼だけなら天使のようで。
怪物の意図をサイファーは察した。フレデリカも、また。
誘われてきた人間を見た瞬間、怪物は涎を垂らし始めたのだから。
巨銃が吼える。『Howler in the Moon』の名を冠した規格外の回転式拳銃は、装弾数の半分、実に十二発もの機関砲弾に匹敵する七〇口径の弾丸を撃ち込んだ。
着弾の衝撃で大人の頭ほどの穴がいくつも空き、ほぼ半液状といっていい肉体が四散していく。出血はない。
フレデリカも四〇口径と四五口径を雨霰と撃つ。
装弾数に差はあるものの、M2を撃ちつつ牽制し、その間にアーカム45の
「ちょっと派手にいくか」
サイファーの巨銃を暗黒が染め上げる。
アイアン・サイトに奇怪な怪物の姿を認めて、引き金を引く。
「
七〇口径もの機関砲弾めいた弾丸は光を吸い込みつつ、怪物に着弾した瞬間に半液状の肉体を吸い込み始める。
渦を描くように吸い込まれた怪物は、その醜い身体に相応しくない翼の羽根一枚も残さずに消え去った。周りは依然と変わらぬ石畳の道と静けさを取り戻す。
我に返った酒場の客は,自分たちを救った人間の姿を見ることはなかった。
◇◆◇◆◇
そこは第十二層のどこだったか。
薄暗い部屋だ。じめじめとした不快なほどの強い湿気が立ちこめ、灯りは出力の小さな裸電球だけがモルタル造りの一室にあるだけだ。地下室であった。
折り重なるように部屋いっぱいに女たちが倒れている。
老若問わず様々な人種が集められて、あられもない姿に虚ろな目をして力ない。すえた臭いは濃密な情交の名残香か。
少なく見積もっても十数人はいる女たちを相手したのは、たった一人の男だ。筋骨隆々といっていい一九〇センチはある偉丈夫だったが、それだけの精力があるとは思えない。
この強い性臭に満たされた一室には、家具がたった一つだけ。
その上には白い石膏じみた固形物が一つ。大きさは煉瓦大くらいはあるか。
その一角を男はアイスピックで崩す。薄く板状に崩れた欠片を粉々に砕き、さらにカミソリで粒子を細かく刻んでいく。ひとつまみくらいの白い粉の山ができる。
男は大きく息を吸う。
ゆっくりと吐き出した。
鼻に金属の管を挿して、粉の山を一気に吸い込んだ。
もんどりうって後ろに転んだ。足が役目を放棄したように、ふらりと力なく。
その目は赤く爛々と輝いて、男の口は意に反して冒涜の言葉を吐き出し始める。
──イア、イア、イア
そして男だけが残った。
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