終焉、日常と孤独を巻き添えにして
触手が躍り掛かった。
総数にして三〇本近い数だ。しかも一本一本が大人では両手も回せないほど太い。
空気を唸らせて打ち付けられた。
石畳が弾け飛ぶ。それが幾重にも重なって、不可避の包囲網となる。砕けた石畳と砂埃がもうもうと立ち込め、フレデリカの姿を覆い隠した。
光が一閃する。
立ち込める砂埃も、ショゴスの触手もまとめて。
フレデリカの右手に発現した光剣がなぎ払う。
それは黒き流動の肉体を傷つけ、不可逆の傷となって苛んでいく。ベアトリクスの口からは見も世もない苦鳴が響く。
その余波で空間が軋み、ひび割れていくのを、フレデリカの黄金が捉える。きらめく輝きが紡ぐのは《彼方なるもの》のみが使用を許された冒涜の方程式。
世の不可逆をまやかしと嘲笑い、世を狂わせる狂気なりし黄金の方程式。その力は砕かれんとしていた空間も、そこにあった全てを粉砕から救い上げる。
「何なのよっ、アナタは!」
「あなたに傷つけられた、フレデリカ・エインズワースですよ」
嗚呼、ここに虫も殺せぬ
嗚呼、ここにいるのは戦を誓った
左手の銃口が跳ね上がる。通常の45ACPよりもマン・ストッピングパワーと貫通力に優れる、アーカム45の弾丸はベアトリクスを撃ち抜いた。
効果がないと分かっていても引き金を引き続けた。
それは干渉を成し遂げるための時間稼ぎだ。右目からしか伝えられなかった、不可視の情報は双眸となってから事細かに伝えられる。
──目標は取り込んだ数式機関より、11次元レベル高エネルギーを用いての砲撃を画策。効果範囲は半径252メートルに対消滅現象を強制発生。連鎖反応によってウルベスと近海の地形変形を危惧
──対処は砲撃の実行前に数式機関の破壊を提案。内包数式は軍事用半永久レベル。防御壁により近代兵器での破壊は不可。《彼方なるもの》のスカラーを利用しての破壊を提案。数式機関は目標上体と下半身の結合部。
すうと息を吸う。
生まれ変わったように何もかもが違う身体。それに力がみなぎっていき、何でもやれるような気がする。
右手に意識を集中させていけば、それに呼応するように光刃が伸びる。およそ二メートル近い、ちょっとした槍にまで。
ベアトリクスに向けて、地面を蹴った。
紡いだ方程式が現実となって干渉し、異界の
その力の根元がショゴスと同じであり、ショゴスが足元に及ばぬほどの高位の力であることを黄金の双眸が告げる。
フレデリカは、その力を以てベアトリクスに決意の刃を下ろす。
──忌まわしき過去と決別する一閃を!
光刃はすんなりと入って、僅かな抵抗だけを伝えた。
ベアトリクスが目を見開いた。その白磁の肌が黒く変色していき、黒い粘液を吐いた。少しだけ血の臭いがして、あとから耐えられないほどの腐臭がした。
常人では数秒と保たない腐臭に、眉も寄せずに光刃を捻り込んだ。
はっきりとベアトリクスが身体を痙攣させたのを感じた。
どう、と背中から地面に倒れて動かなくなった。
黒く変じた肉体はひび割れて、元が人間であるということを忘れさせていく。あの美貌は永久に失われたのだ。存在さえ許されぬ異界の美は。
その原因となったのは異界へと傾いた、類い希なる美貌の少女。成人を過ぎて尚、その身に少女の香りを色濃く残しているフレデリカ・エインズワースであった。
「フレデリカ…………?」
恐れを孕んだ声が背筋を冷やす。
その声はフレデリカの大切な友の声。ヘンリエッタ・ウェントワースが豹のごときしなやかな体を、小猫のごとく震わせていた。
それは隣にいたフランクも同じ運命をたどっている。
幻想生物に抱く恐怖をフレデリカに向けている。
「あ……っ! その、私、どうしてもやらなくちゃいけないって、そう思って。ベアトリクスのことは、私自身の手で決着を着けるべきだと、そう思って……」
「そんなことはいい。フレデリカ、君は……」
「僕と同じなのか、って聞きたいのか?」
ヘンリエッタの続きをハスキーな声が続けた。それが聞こえたのはフレデリカの背後、その上から振ってきた。
見上げた瞬間、灰色の双眸と目が合った。
「サイファー、さん」
「お前さんの決意にはクるものがあるね。確かに辛い過去というものは自分自身の力で乗り越えてナンボだ。だが、そのために平穏無事に過ごせたであろう人生を棒に振ったか」
「それは……」
「わかっているはずだ。お前さんに潜んでいた力は、ショゴスと根元を同じくする、異なる理の世界に存在すると」
「私は……いてはいけなかった? アレは、そういう存在だから」
だから育ての両親に捨てられたのか。内に潜んでいた、黄金の右目が宿していた力を二人は知っていて、それに恐れを為したからか。
祖父の死だって、自分の力が遠からず関わっていたのか。
ならば、力の矛先は大切なヘンリエッタに向く可能性だってある。
この先に出会うであろう、人生の伴侶にも。
目の前の彼にだって。それだけは、嫌だった。
だったら、自分は去るべきだ。この力が誰かを傷つける前に。
この力は忌み嫌われるべきもの。あの呪いを粘液にして固めたような、この世を冒涜するショゴスと同じなのだから。
「そんなもの分かるわけがない。ただ、生きていたいと願うか、死にたいと願うか、たったそれだけ単純明快な問題だ」
「でも、私がいたから……」
いつの間にか、彼の巨躯は屈んでいた。
0になった二人の身長差、そしてサイファーの人差し指が唇を押さえた。
頬が赤く染まったのに、苦笑した。シニカルさがない、そんな微笑みだ。
「お前さんが何を考えているのか、僕に知る術はないよ。だが、フレデリカがいなかったら、君の知るとおりの人生を歩んでいる人はいなかった。でも正しいわけでもないし、悪いわけでもない。すべては、どういう望みをもって、何をしたいか。ここが肝心なのさ」
「その……私は、もう逃げたくないんです! だから……」
「おっと、話はここまでだ、お嬢さん。嫉妬に狂った魔女がお目覚めらしい」
空気の重みが増していく。
ベアトリクスが猛威を振るっていた時の残り香ともいうべき、そんなものが残っているというのに。
そして漂ってくる甘ったるい空気。それを放っているのは復活を果たした美貌だ。
ベアトリクス・ブルツェンスカ・フォーレンシルトが立っていた。その身と一体化させていた、ショゴスも一緒になって。
「燃え上がりそうな、イイ男。いっっつも、アナタは私が欲しいものを手に入れてる」
「やぁ、はじめまして。そしてさようなら。アーカムの空気は気に入ってくれたようだけど、単純に貢ぎ続けるだけの男なんてのは一握りだ。ほとんどは僕と同じ穴の狢なのさ」
戦艦搭載のカノン砲が炸裂したのか。そう思ってしまうほどの轟音が響き渡る。
それが何度も。回数にして、およそ十五回以上も。
サイファーの手に握られた規格外のリボルバーの仕業だ。銃身上部のベンチレイテッドリブは白熱し、マズルブレーキからは硝煙が視界を遮ってしまうほど立ちこめている。
規格外のリボルバー、その輪胴に収められていたのは象撃ち銃や重機関銃も凌ぐ七〇口径もの巨弾。なんらかの力か念が込められていたのか、ベアトリクスの下半身を構成するスキュラじみて変体したショゴスものけぞった。
輪胴をスイング・アウトして、六発も入れば御の字な大きさのシリンダーから二十四発もの薬莢を排莢した。銃自体のことを考えてなのか、エジェクターロッドをきちんと押し込んでの排莢であった。
「効いたか? 他のショゴス共と同じくらい感じたか? 復活のために水道管から十二層全体にいたショゴスを集めたか。賢明な判断だが、残念なことに無意味だ」
「私に手を出して……タダで済むと思ってるの!?」
「立場が危うくなったら家の力か、なかなかに月並みなことをやってくれる」
ふふ、と含み笑いが漏れた。
瞬く間に凶相の笑みへと変貌した。ベアトリクスの背筋に絶対零度の息吹が吹き付けられたはずだ。そうでなければ、怒りに染まった顔が恐怖で蒼白となるわけがない。
チチ、と撃鉄が起きていく。ダブルアクションは新大陸の「S&W」なる銃器製造社のリボルバーの主流だが、引き金の重さが命中精度の大きな加工につながっている。ガク引きと呼ばれるジャーキングも起こりやすい。
だが規格外のリボルバーは微動だにせず、その奈落の底を思わせる銃口をベアトリクスに向けていた。
「そんなチンケなものが通じるかよ。僕を並のタフガイと思わない方がいい。お前に百人の味方がいたら、百人殺してお前さんも殺す。千人いたら千人殺す。僕はそういう男だ。フォーレンシルト家を皆殺しするのだって、やぶさかじゃないって思えてくるくらいにはね」
それはベアトリクスだけに留まらない。
いつの間にか彼女の背後にいたフォーレンシルト家の私兵たちにも、平等に向けられた言葉だった。
根拠もない確信があった。
──この男ならやりかねない。
──この男は自分たちでは殺せない。
この場にいる全員が石化した。恐怖によって。
「う……うわぎゃあぁぁあっああぁあッ!!」
一人の私兵が狂乱して逃走を始めた。
「馬鹿が」
七〇口径の巨弾が私兵の背中に撃ち込まれた。
そのままライフリングによって与えられた回転運動によって、内臓も肋骨も脊椎もねじ切られ、心臓の真上から大人の頭大の穴をあけて抜けた。
即死した私兵が狂乱を伝染させる。血だまりの中に沈み、弾け飛んだ血と肉片を五メートル先にまで散らせた死体は、
踵を返して敗走を始めたのは七人、その全てが五体のどこかを失って絶命する。
ある者は頭だった。揃いの制帽は跡形もなくなり、顎の下半分だけを残し、上半分は血飛沫となって消し飛んだ。
ある者は腹部だった。胃も腸も弾丸によってねじ切られ、わずかな肉片だけを残して何もかも撒き散らした。
ある者は右腕だった。ボルトアクション式の小銃を握ったままの腕が、天高く弾け飛んでいく。恐るべきは右腕という致命にはならない箇所にも関わらず、彼は着弾とほぼ同時に絶命した。弾丸のエネルギーは場所に関わらず全身の体機能に揺さぶりをかけ、相手を確実にショック死させたのだ。
「さて、お次は誰だ?」
酷薄な笑みを見た。
彼へと伸ばそうとした手が進まない。石と化したように硬直して、フレデリカの繊手は数インチも進みはしなかった。
──ほんとうに、サイファー、さん?
胸に浮かび上がった疑念は、ぎりりと胸の奥を締め付けていくようで。それが、とても耐え難く、だからこそ手をもっと伸ばす。
──あれは、嘘だったんですか?
記憶を辿る。記憶を辿っていく。彼との暖かな記憶を。
──私に胸を貸してくれた
──縋ってきた私に応えてくれた
──あの優しかったあなたは、全部嘘で。
──今のあなたが、本当のあなたなんですか?
胸中でつっかえて、口から出てこない問いかけに、無論答える者はいない。
1対1から、1が圧倒的優位を保つ1対多の血生臭い本当の戦いの前では、その問いかけも意味を為さぬほどにフレデリカは無力だ。
歯噛みした。力を得て調子に乗っていた自分が愚かしくて、頬を一発では足りないぐらい張ってやりたかった。
──この瞳が一体、何だっていうの。
──問いかけの一つもできないなんて。
──だったら、意味なんてない。
──私自身の力で何もできていないのと変わらない!
「サイファー、さん!」
軋んだ声が絞り出される。
「わかっている。もう終いにするとも」
空気が濁った。どろりと粘性を帯びたように重苦しく、流動性を失ったようになる。
サイファーの外套に変化は起きた。灰色が暗く、黒く、暗黒に染まっていく。彼の内から胎動しているのだ。全てを浸食することを許された闇が、彼の内から這い出てきたのだ。
外套を染め上げた闇は脈動する。
外套を侵し抜いた闇は鼓動する。
外套を変質させた闇は歓喜する。
闇が吼えた。それはどこへ向けた咆哮か。さざめきながら、この世ならぬ発声器官を生み出し、この世を冒涜する悪罵の限りを吐き出していく。
『──────っ!!』
人語で書き表せぬ雄叫びは脆弱な兵士の心を瞬く間に砕き、仲間たる
フレデリカの心さえ悲鳴を上げた。耐えられぬほどに濃く、深く、闇は色づき、蠢いては這い回る。
それが腕となってサイファーの身体中から、亀裂を作って顕現した。剛健な男の腕、繊細な女の腕、無垢な子供の腕、萎びた老人の腕、鋭い爪を生やした人ならぬものの腕。あらゆる腕が幾重にも伸びて空を行き来する。
「終わるべき時が来た。幕引きは我が闇をもって」
腕が伸びた。
「さぁ、砕き尽くそう」
十数本もの腕がベアトリクスを貫く。
幾多もの腕が躍り掛かって、五指を開いた掌で押しつぶす。
望むもの全てを冒涜し、望むもの全てを陵辱する黒き
彼が望みし、腕の標的はショゴス。死の呪いを粘液状の肉体にたっぷりと孕んだ、許されざる存在。それを砕くのも根元を同じくする、黒き冒涜者の黒き腕であった。
「ショゴス。失われた幻想の生命、流動せし反逆の奴隷。生みの親に抗い、滅ぼすだけでは飽きたらず、人の愚かな情念に便乗して人界に介入するとはな」
──なんと、浅ましい。浅ましすぎる。
酷薄な笑みは決別の合図となって。
外套がさざめきが一気に激しくなる。闇の冒涜は佳境に差し掛かり、その流動的な変化に拍車がかかっていく。
空気の重みが最高潮になった、と誰もが思い始める。それが引き金となったのか私兵の一人が狂乱のあまり、腰だめに構えたルイス軽機関銃を乱射する。
三〇-〇六スプリングフィールド弾の破壊力は歩兵用弾薬カートリッジでは、三本の指に入るほど強力で軍も採用する優等生だ。人間一人など容易に命を奪ってしまう。
だがサイファー・アンダーソンの前では、滑稽なほど、愚かしいほど、いっそ哀れみさえ抱くほどに、なんとも無力であった。波紋さえ銃弾は闇の固まりと化した彼に与えることはない。
「死に疾走する蛮勇には、無謀の愚かしさを教え込んでやる。ちっぽけな命一つで済む破格の授業料に感謝して砕かれろ」
闇のさざめきが腕とは違うものを作り出した。いや、真似たとでも言うべきなのか。
口だった。サイファーの右肩から腰へと垂直に亀裂が走って、そこが豪壮な牙が生え揃う大口へと変わる。奥から新たなる腕が這い出るように、いくつも生え出てきた。
その腕にはびっしりと亀裂。ばっくりと割れて口へと変わる。いや、いくつかは目だ。赤く、紅く、赫く染まった瞳孔の瞳だ。
サイファーの銀灰色の瞳と、異形の瞳がそれぞれ狙いを定めた。
がちん、と歯が閉じた。臼歯がぶつかり合う音と、ほんの僅かにトマトでも握りつぶしたような音がする。一人の私兵が首から上を食いちぎられていた。
首なし死体を作った口はサイファーから生えでて、奇怪な声を上げて笑った。やけに大きく、やけに白い臼歯が禍々しすぎた。
別の口が三人まとめて喰らう。牙の生えた口だった。たった一噛みで胴体が三人とも同じようになくなっている。
「────っ!!」
それは異形の声だったのか、恐怖に心砕けた私兵の声だったのか、本当の異形に恐怖したベアトリクスの声だったのかはわからない。
「さよならだ。その程度の幻想は、僕が潰し砕いて消してやる」
腕が覆い被さる。ショゴスが押し潰されていく。
口が噛み合わされる。ショゴスが咀嚼されていく。
心醜き女だけが無事で、異界の液体生物だけが為すすべもなく砕かれていく。
その時、フレデリカは確かに聞いた。
──タスケテ……ヤメ、テ。
──マダ、クダカレタクナイ、シニタクナイ。
悲痛な断末魔の主は本能的に分かった。
なぜフレデリカに声を届けたのか。もしかすると黄金の双眸が伝えたのか。
止めてくれると期待したのか。自分を砕きつくさんと腕を振るい、牙をもって噛み砕く彼を。
黒き力はショゴスを半分も砕いた。これ以上の破壊は再生さえ許されないのか、弱々しく触手をフレデリカへと伸ばしていく。
ぎゅっと唇を噛んで。
「来ないで」
目尻から何かが流れるのを感じながら、触手を払いのけた。きっと目があれば絶望したに違いない、半分となったショゴスは次の瞬間には砕き尽くされた。
嘲笑を聞いた気がする。
黒き呪いの粘液を砕いた彼が、誰かに向けたように笑っているような気がした。笑い声など耳には届いていないのに、それを見たような気がした。
「フレデリカ」
名前を呼んだ彼がいる。サイファー・アンダーソン。屈んでフレデリカの顔をのぞき込んでいた。いつの間にかへたり込んでいたらしい。
手を取って、そっと両手で握りしめる。
純粋な笑みだけを浮かべて、それをフレデリカに向けている。
普通の体だった。ショゴスを砕いたときのような、闇に身体を明け渡した状態ではない。フレデリカに優しさをくれたサイファーだった。
「悪かったな。ずっとそばについていてやれば、一番よかったんだが。フレデリカがこうなってしまったのも、僕に責任の一端がある」
手が伸びて、頬を包んだ。親指の先には黄金へと変じた双眸がある。
銀灰色の瞳と目が合った。優しげな光の真偽は見定める術はないが、フレデリカは紛れもない本物の想いから来るものだと信じた。
そうでなくては作れない笑顔だと思ったためだ。あれほどの惨劇と蹂躙を作れるのなら、人一倍の慈しみと優しさがなければ表情には出ない。
そうフレデリカは思ったのだ。
「恨んでくれてもかまわないよ。僕も随分と甘くなったらしい。関わる人間がロクな目にあうこともわかっていたのに、フレデリカみたいな綺麗な子が慕ってくれたんだから。だからフレデリカに非はない。全部、僕の責任なんだからな」
そう言って手を離そうとした。左手が離れた、だから残った右手に両手を添えた。
面食らったサイファーにフレデリカが言った。
「私が決めたことなんです。恨むことなんてないですよ。そもそも、あなたがいなかったら私もヘンリエッタも生きていなかったかもしれないですし。だから感謝しているんです。あなたとの暮らしはワントーン明るかったので」
そして頬を朱に染めて、俯きがちに問い掛ける。
「私って、そんなに綺麗なんでしょうか?」
「無自覚ほど怖いモンはない…………僕が今まで見てきた中で一番綺麗だな。実年齢より年下に見えるのも良い」
完全に俯いてしまった。小声で「恥ずかしい」と呟いたのが聞こえた。ヤバい、かわいい。そう内心で呟いてしまう。
一方のフレデリカだって内心は大騒ぎだった。
──き、綺麗? 確かにそう言いましたよね?
──言ったんだ。私に対して綺麗って。
──本当に恥ずかしい、顔が熱くなって、本当に恥ずかしい!
首をぶんぶんと振ってしまっている自覚がないのか、顔の熱と恥ずかしさに浮かされるまま振っている。呆然とした様子でサイファーが見つめていることにも気づいていない様子だ。
それが笑顔になって声を出して笑い出した。それでようやく我に返って、そっぽを向いてしまった。
あれだけたくさんいたフォーレンシルトの私兵はどこかへ消え失せていた。
ヘンリエッタとフランクも駆け寄ってきた。
終わりを少しずつ噛みしめていた。ヘンリエッタが力強くハグをしてくれた。フランクも遠くから笑っていた。
笑いあっている。こんなに笑ったのは久し振りで、全員が安堵に包まれて、終わらせたくはないすてきな一時であった。
フレデリカの表情が曇った。
幽鬼のごとく黒髪の彼女が立ち上がったのを見た。手には護身用の拳銃。気づいたのは自分だけ。
ヘンリエッタに向けて狂気の笑みを浮かべているのを見て、いてもたってもいられなくなった。思い切りヘンリエッタを押しのけて。
──銃声が、一発。
◇◆◇◆◇
そこはどこだったか。見上げるほどに高い摩天楼であったが、存在しているという一点が確実に欠如しているように感じられた。重機関群による
モニターの数はあまりにも多い。少なく見積もっても五メートルはある天井、その壁一面をモニターが独占している。映像は全てアーカム第十二層のものだけだった。
「今日も《彼方なるもの》の景色が一つ消えたな」
彼の座る椅子と机は床ごと、金属の骨組みといくつものピストン、電気刺激で自在に収縮する
スラヴ系と思わしき顔立ちをモダンなスーツとタイトスカートで揃え、銀髪をアップにしてまとめた女だった。少しだけ足を交差して立ち、座する彼のそばに女は常に控えているのだ。
「大数式と方程式は解析機関に反応を伝えていませんが、そう言いきるのは根拠あってのことでしょうか?」
押し殺した笑いが響く。
このモニター以外の光がない部屋で、男の声はやけに響く。モニターの光景への歓喜と、女への侮蔑ともとれる感情が見て取れた。それほどのわかりやすい笑いであった。
男が立ち上がった。女の顎をつかむ。僅かに身じろぎしながらも、この後いかなる運命が待ち受けようとも微動だにしないほどの冷徹な表情は一切崩さない。
「脳に至るまで数式機関に置き換えたお前にわかるまいよ。人類は未だに無限よりも巨大なものを認識できず、0よりも無いものという存在を見いだせてはいない。だが生身だからこそ、世にざわめきというものは閉鎖空間でも観測できるものだ」
「…………私はいつでも
女の目が少しだけ光った。
彼には分かる。有線を使わない
女が口を開いた。
「フォーレンシルト家の処分は済んだそうです。あとホーランド博士が第十二層での実験を申請しています。主は博士の実験に三ヶ月も保留のみを言い渡しておりますが、今回も保留ということでよろしいでしょうか?」
ふうむと唸って唸って。顎に手を添えて理知的に悩んでいるようだが、その瞳には新しい玩具を与えられた子供のように色めき立っている。
男が首を振った。縦に。
女の目の光は変わらず無機質そのもので、じっと男の目を見据えていたが、顎の手を解いて踵を返した。
「主の決定が人類の未来を定めることを願って」
「人類の繁栄は我が手にあり、か…………お前が何を考えているか、私にはわからん。条理を超えた技術を提供しておきながら姿をくらませた異形の碩学め。せいぜい、いつもの椅子に座っていられるように足掻いているんだな。勝つのはいつだって人間だ、人間でなくてはならないのだから」
五指を開いた手を頭上に。スチールの天井のその向こう、果て無き空を男は見据えているのだ。
「我が友、ヒルベルトよ。お前の領域に私は手をかけてみせるぞ」
◇◆◇◆◇
体がひどく重くて、起きあがるのにえらく難儀した。
ひどく頭が痛くて目の前の光景を理解するのに時間がかかった。最初はここが寝室であることを理解し、ここが誰の部屋であるのかを理解した瞬間にベッドから飛び起きた。
「サイファーさんの、部屋……」
フレデリカには大きすぎるキングサイズの黒いベッドは、あの大きな彼のもの。この大きさは彼にこそふさわしいとフレデリカは思う。実のところ、このベッドを何回も使っているが、自分に分不相応だと感じている。
あのあとに何が起こったのか。
頑張って思い出そうとしてもモヤがかかったようになって、なかなか具体的な記憶が顔を出してはくれない。
もしかすると思い出したくもないことが起きたのか。人間は頭部への強い衝撃や、精神的なショックで記憶喪失になるという話を聞いたことがある。
後者はおそらく精神の保護を目的として一時的にでも脳が記憶を消してしまうのか、現実から目を背けたいあまりに記憶から意志が消し去ってしまうのか。
傍らにお気に入りの、いつもの編み上げブーツが置いてあった。
それを履こうと思って、ブーツの方を向いて止まった。
黄金の双眸と目が合った。そこには姿見サイズの鏡がおいてあった。
アイオライトの輝きを放っていた右目も、眩い黄金の輝きへと変じている。自分は普通を捨てたという思いが、胸に重くのしかかって潰れてしまいそうだった。パチンと弾けてしまうのかもしれない。
癖のない金髪も、シミ一つない雪のように白い肌も、顔のパーツで大きく変わった点は見られない。ただ右目が黄金に変わっただけなのに、目の色一つ変わるだけで根本的な何かが違ってしまったように感じてしまう。
パフスリーブの黒いドレスのまま寝かされていたらしい。発育が良すぎると自分でも思う、それほどの大きさの胸がデコルテを押し上げて谷間を作って覗いている。やはり、これも変わってはいない。
「…………フレデリカ!」
後ろから声をかけられた。
切羽詰まったような、少し嬉しさも混じったような、そんな声だった。サイファーがドアを開けて立っていた。
テンガロンハットとコートを脱いだだけの、シャツとジーンズにシャップスのスタイル。ただ右脇にホルスターを吊して、そこにM1860アーミーの金属薬莢使用のコンバージョンを入れていた。
肩胛骨のあたりまでギリギリ届く、ほとんど橙色に近い赤毛とも茶髪とも言える髪も、少しだけ乱れているように見えた。
「あ…………その、私」
「終わった、全部終わったから心配するんじゃない」
サイファーが歩み寄った。少し小走りだったような気もする。
そうか、もう終わったのか。フレデリカの心に安堵が訪れたとき、記憶が一気に白くスパークした。
引き金を引いた感触。
頭上を飛んだ衝撃と熱波。
吹き飛んだ女の顔。
ほとばしる鮮血と脳漿。
記憶が確かに甦った。──甦ってしまったのだ。
「うわあぁぁぁあぁぁあぁぁぁぁぁあ!!」
絶叫した。
後悔と罪悪感を燃料にして、喉が潰れるまで叫び続ける勢いだった。
全てを思い出した。
自分とサイファーの銃弾がベアトリクスを殺したのだと。
ヘンリエッタの身体を押しのけて、無我夢中でアーカム45を抜いて、三発もフレデリカは頭部と胸部めがけて発砲した。同時に頭上でサイファーのリボルバーが炸裂した。
二発が胸部に撃ち込まれ、残りの一発とサイファーの巨弾が頭を吹き飛ばした。広がっていく血だまりの中に沈む死体に、フレデリカは弾倉内の残りを撃ち込んで
銃が上からひったくられたのを覚えている。
腹の底から耐え難い苦痛とこみ上げる感覚がして、耐えきれなくなって何もかもをぶちまけた記憶がある。口の中が酸っぱくなって、大量に唾液が溢れ出し、腹からこみ上げる感覚がした。
叫びをやめて口を押さえた。ベッドの上で吐き散らすわけにはいかない。
膝に何かが乗せられた気がする。
ブリキのバケツだった。結構な大きさがある。
サイファーが背中をさすってくれていた。
「無理しなくていい。あんまり、我慢しすぎるようなもんでもないし、お前さんの苦しみとベッドを天秤かければ、ベッド一つ惜しくはない」
いてもたってもいられなくなって、バケツに顔をつっこんで吐き散らした。逆流した胃液が鼻からも出て、ひどく苦しかった。
背中をさすってもらったおかげで、吐きやすかった。一人だったら何回も咳き込んで苦しみ続けていたと思う。
異性の前で嘔吐するなど一生の汚点になりそうだが、そんなことよりも初めて自分の手を血に染めてしまったこと、人を殺めてしまったことが身体中を巡り巡っている。
「わ、私、ひ、人を……殺して」
「ああ」
「ヘンリエッタが危なかったから、む、無我夢中で、銃で」
「助かった、と言っていたよ」
「あんなに、あんなに簡単に…………人が死んで」
震えだした身体を止めるように、そっと両手を握りしめた。
この感覚を覚えているような気がした。
あの瞬間だ。初めて人を殺めてしまったとき、銃をひったくった腕が自分の両手を包み込んでくれた。あの腕はサイファーのものだと直感した。
「人は死ぬ。ヘンリエッタもフランクも、絶対に死ぬ。殺されることもあれば、病気に倒れることもあれば、天寿を全うできる人間もいる。そこは必然だ」
「ひ、人を殺して」
「お前が撃たなかったらヘンリエッタが死んでいたかもしれん。その後でお前さんも殺す気だったかも知れん。誰かやらなければ、誰かが泣くことになるんだ。お前さんの心が泣きそうになったら言え。胸くらいは貸してやる」
涙とその他諸々の体液で台無しになった顔を上げた。
胸をあけておいてくれていた。促されるままに顔を埋めて、一気に感情が噴き出した。
「こ、殺してしま、って」
「ああ」
「もう戻れ、ない。元の生活なんて、もう、できない。手、手が、汚れて」
「全部、フレデリカ次第だ」
そのままいつまで泣いていたのか。
時間感覚が完全に狂ってしまっているが、寝室の時計は午後の七時を指し示している。随分な時間、眠って、泣いていたらしい。
涙を拭って、鼻をかんで、サイファーから水をもらって飲み干した。ずいぶんとみっともない姿を晒したことに、今更になって気づいて赤面した。このところ弱みをサイファーに晒して、支えてもらって、それが続いている。
「すいません。本当に、支えてもらってばかりで」
「気にするなよ。男冥利に尽きることばっかりで、フレデリカみたいな
「また、綺麗って言いましたね?」
「うん、だって綺麗なんだから仕方ないだろ?」
また俯いてしまった。うんやはり可愛い。こうやってフレデリカをからかう行為が、自分にだけ許された一種の特権のようにさえ思えてくる。
おまけに自分を拒否しない。
闇を解き放った後の彼を人々は嫌悪する。石を持って追うような真似はない。本能的に自分たちの意志で排除できるような存在ではないと、生物的な本能が警鐘を鳴らすのだ。
一種の災害のようなものとして扱われる。
だがフレデリカは見てしまったのにも関わらず、普通通りに接してくれた。フランクとヘンリエッタは慣れているために平気だが、初見の人間がする反応ではなかった。
極めつけにこちらも受け入れ態勢をとったとは言え、そのまま素直に縋り付いて泣き明かしたのは予想外であった。そういったことは少しでも減ると思ってはいたが、逆に依存とも言うべき縋りが増したように感じてしまう。
「私は『もう逃げない』と、そう決めたんです。ですけど、少しだけ怖くなったんです。強い心で立ち向かうことと強い力で戦うことは似てるようで違って、私に必要だったのは前者だったんです」
フレデリカの独白にサイファーは答えない。
何か思うところでもあるのか、表情が決して明るくはない。どちらかといえば眉間に僅かながら皺があるし、目も細めている。
「だから……教えてください。この力との向き合い方を」
「なぜ、僕なんだ」
「自分が一番わかっていると思いますよ?」
「やっぱりわかっちまうのか。確かに僕の力は根元をお前さんの力と同じくする、そういう力なんだ。森羅万象全てを否定して打ち砕くことを許された、黒き腕と
諦念が含まれていた。
らしくない表情だ。そうフレデリカは思ってしまう。彼とて常に不敵に笑っているわけではないのに、陰のある暗い顔は似合わないと感じてしまう。
「この力を狙ってくる奴は多い。その手先も妙な力を使ったり、全身を精密機械に置き換えて数式機関を埋め込んでいたりする。お前さんも近い内にそうなる。だから自分の身は自分で守れるようにしてやる」
「それじゃ…………」
「これから、よろしく頼む。僕の背中を預けられるぐらいには、育ててやるよ。多分、辛いこともあるとは思うけど、何もしないままよりは良いはずだ」
「……はい!」
そっと繋いだ手から伝わる温もりに、少しだけ二人の心が綻んだかもしれない。
「晩メシ、どっか食いに行くか? メシ作れそうにないだろ」
「時間かかりますけど、今からで良いなら作りますよ?」
「ああ……頼んでいい?」
「何が食べたいですか?」
「カレー。ビーフの入った」
「はい」
──多分、きっと、もう一人じゃない。
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