第6話 お風呂と言えば?

 休み時間らしく騒がしい教室の中で、リエラ、藤吾、綾香の三人は固まって何やら話し合っていた。

 頭を悩ませ話すのは、つい先ほどの出来事について。教師であるエミリア・エトランジェがやってきたこと、そして彼女にレストが連れて行かれたこと。

 自分達が遊んでいたことが怒られなかったのは良いが、どうしてレストを連れて行ったのか、それが分からない。最もあのレストのことだ、自分達のあずかり知らぬ所でとんでもない問題を起こしていても全く不思議では無いのだが。

 実際リエラなどは、ついに彼の企んでいた悪事が明るみに出たか、と割と本気で思っていたりする。

 そうして三人、顔を突き合わせて推察を重ねる中、がらりと小さな音を立てて開く教室の扉。入って来たのは、今正に話題に上がっていた人物であった。


「あれっ? もう大丈夫なの、レスト?」


 思わず問い掛ける。何せ彼が出て行ってから、まだ三分と経っていない。幾ら短い話だったとしても、流石に早すぎるのではないか。

 そう訝しげな目を向けるリエラとは対照的に、レストは実に満足げな様子で自身の席へと腰掛けて、


「ああ。実に有意義な時間だったよ」

「有意義?」


 怒られてたんじゃないの? と首を捻る彼女へと、話題を急転換し問い掛ける。


「そうそう、君は今度の高天試験に出るんだったね?」

「え? うん、まあそのつもりだけど」


 突然の確認に戸惑う彼女を余所に、そうか、とだけ呟いて、レストはそっぽを向くと窓から見える青空へと目を向けた。

 更に訳が分からず混乱する三人を置いて、誰にも聞こえない程小さな声でぼそりと一言。


「これは面白くなりそうだ」


 顔には、笑みが浮かんでいた。祭りを楽しみにする子供のような、純粋な笑みが。


 ~~~~~~


「あれ? ニーラちゃん、何処か行くの?」


 夜、学生寮にて。

 なにやら小さなバッグを手にして玄関に向かうメイドの少女へと、リエラは疑問符と共に問い掛けた。

 外は既に真っ暗で、空にはお月様が昇っている。こんな時間に一体何処へ出かけるというのだろうか。

 一応この寮には購買も存在するので、そこに買い物に行くのかもしれないが、それにしたって財布一つ持っていけば十分である。まあ正直な話、そこまで気にすることではないのかもしれないが……リエラは心配性というか、気にしたがりだった。こと、ニーラに関してだけは。

 そんな訳でいそいそと詰め寄ってみれば、彼女は静かな目と表情で一言。


「お風呂です」


 実に簡潔な答えだった。だからこそ、余計に分からない。


「お風呂? どうしてお風呂に入るのに、部屋から出る必要があるわけ?」

「今日は、大浴場に行こうと思って」


 大浴場。そういえばそんなものもあったな~、と記憶の奥底からその存在を無理矢理掘り出し思い出す。

 大きな学園寮に相応しい大きな浴場が幾多も存在していると、最初に寮の説明を受けた時に聞いた気がする。別段お風呂にこだわりの無い自分としては、わざわざ大浴場になど行くよりも部屋のお風呂で済ませてしまう方が早くて楽な為、一度も使おうと思うことも無く記憶の彼方に消してしまっていたようだ。

 とにかくニーラがどうしようとしているのかは理解した。あのバッグには、着替えを始めとしたお風呂用具が入っているのだろう。


「でも、急にどうしたの? 今までずっと、部屋のお風呂で済ませてきてたのに」


 リエラが一度も大浴場を使ったことがないように、ニーラもまた一度も大浴場を使ったことはなかったはずだ。少なくともリエラがこの学園、この部屋に来てからは、ずっと。

 それに一応は部外者であるはずの彼女は、あまり寮の中を出歩かないようにしていたはず。勿論この部屋に住んでいる時点で学園にその存在は認められているし、『あの』レストの従者という時点で彼女が此処に居ることに文句を付けられる者など皆無と言って相違ないが、だからといって傍若無人に振舞うニーラでは無い。

 彼女はあくまで従者として、一歩引いた自分の立場を分かっている。だからこそ、突然大浴場に行く、などと言い出したことが不思議でならなかった。


「……今日は、貸切なので」

「貸切? 大浴場が?」


 そんな馬鹿な。幾ら大浴場が幾つもあるとはいっても、誰かが貸しきれるようなものでは無い。学園管理の施設で、毎日何十何百もの生徒が使用しているのだ。

 もしそんな無茶が出来るとすれば、それは――


「リエラさんは、どうしますか?」

「え? あ、私?」


 掛けられた声に、思考は中断された。慌てて意識を戻せば、ニーラがその小柄な体で此方をじっと見上げ、答えを待っている。小動物じみたその姿にときめく心を抑え、超高速で脳を稼動させる。

 答えは、一瞬で出た。


「勿論行くっ! 一緒に入ろ、ニーラちゃん!」


 何せ溺愛する少女と共にお風呂に入れるというのだ。断る理由など毛程も見当たりはしなかった。

 ちょっと待ってて、と一言断って、急いで準備を整える。そんなことはしないと分かってはいるが、置いていかれでもしたら目も当てられない。


 先ほどまでの疑問は、気付けば何処かに消えてしまっていた。


 ~~~~~~


 二人揃って廊下を歩き、エレベーターに乗り、また廊下を歩くことおよそ五分。たどり着いたのは寮の一角にある、他と比べて明らかに大きな鉄扉。

 貸切中と札の掛けられたその扉の上部には、第『七』大浴場の文字。


(ん? 七?)

「行きましょう、リエラさん」

「え、あ、うん」


 僅かに過ぎったデジャブ感は、またも遮られ消え失せた。

 この時点で、いやそれよりもずっと前に、気付くべきだったのだ。ニーラがわざわざこの大浴場に来た理由に。本来ならば公共の場であるはずのこの場所が、貸切になっている理由に。そして何より、何故か部屋に居なかった、『ある人物』の存在に。

 しかし全てはもう遅い。ニーラと一緒にお風呂、という魔性の魅力に取り付かれ浮かれたリエラの頭には、既に正常な思考能力など残ってはいなかった。

 これからの楽しい時間にうきうきと気分を高揚させ、共に脱衣所に入り共に服を脱ぐ二人。互いの抱く楽しい時間、の想像の乖離に気付くわけも無く、タオル一枚の格好になった彼女らは、揃ってお風呂場へと踏み込んだ。


「うわ~、すっごい」


 圧巻の光景だった。湯気に満ち溢れたお風呂場は、部屋の風呂とは比べ物にならないほど広く、大きい。

 二階層ぶち抜いたのであろう高い天井、何十部屋ぶんかも分からない床面積。幾多の洗い場が並び、湯船は並みのプールよりも広大だ。

 流石に数万人に及ぶ生徒の住む寮の大浴場だけはある。こんなものが幾つもあるというのだから、この学園がいかに規格外かが分かるだろう。

 この学園に来てからずっと感じていたことではあるが、優秀なテイカーが協力するとこれ程までにとんでもない物でも造り上げられるのかと、素直に感心するばかりである。


「まずは身体を洗いましょう」


 ニーラに言われ、揃って移動すると早速身体を洗い始める。

 この広い浴場に二人だけ、というのは物寂しさもあったが、そんなもの彼女と一緒という魅力に比べれば瑣末なことだ。

 幸せな気分で、鼻歌さえ歌いながらさっさと身体を洗い終え、泡を流す。こんな自分事に時間を掛けている場合ではない。本命は、こっち。


「ね、ニーラちゃん、背中洗ってあげる」

「背中、ですか」

「うん。ほら、遠慮しないで」

「え、あの……」


 悩む彼女を、強引に押し切る。この為に早々に自身を洗い終えたのだ、失敗は許されない。

 幸い作戦は上手く行ったようで、彼女は素直に背中を向けてくれた。控えめな彼女ならば押せば何とかなるだろう、と思ったのは正解だったようである。

 スベスベで傷一つ無い褐色の肌が、視界一杯に露になる。水滴が背中を落ちて行く様すら、リエラの目には何処か艶かしく映った。


(ふほおおおおおはああああああ!)


 内心狂喜乱舞し奇声を上げながら、早速手を付け洗い出す。文字通り、素手で。


「あの、リエラさん?」

「良いから良いから。私に任せて」


 流石に不振がられたが、またも無理矢理押し通した。せっかくのチャンスなのだ、直接触らないなどあまりにも勿体無い。

 どう考えても変態の思考なのだが、本人はいたって大真面目である。段々酷くなる彼女の暴走だが、残念ながら止める者は此処にはいない。


「ふへへ、ふへへ」

「んっ……」

「ふひゃー!」


 つい艶かしい声を出してしまったニーラに、リエラのテンションは最高潮。目は明らかに逝ってしまっており、だらしなく開けられた口からは粘性の強い涎が一筋、タイルの床に伸びていく。

 彼女が女性でなければ、いや女性であっても、即座に取り押さえ牢屋にぶち込むべきだろう。少なくとも正常な人間であれば、皆そう思う。

 しかし繰り返すようだが、今この場に彼女を止める者は誰もいない。


(ど、どうする。やっぱりこのまま、前まで行くべきか? 無防備の背中を見せている今なら、届く。この子の小さく、しかし形の良い乳へと、この両手が)


 呼気が、荒くなる。満ちる湯気より尚熱く、吐かれる息に熱が籠もる。


(イケッ! 何を躊躇っている、リエラ・リヒテンファール! 今が最大のチャンスなんだ。大丈夫、所詮は女の子同士の他愛の無い戯れ。何も迷うことはない、この位今時の若者なら皆やっていることさ。掴むんだ、その両手に、栄光を!)


 最早口調すら誰だか分からない程に変貌させながら、彼女の脳内を欲望が激しく駆け回り、頭蓋骨を破って外へと出て行かんとする。

 反対意見など無い。必要なのは踏み込む度胸、一つだけ。

 急がなければ、標的に不審がられてしまう。迅速に決断し、覚悟を決め、手を伸ばすのだ。求め続けた、楽園へ!


(いけっ、いけっ。躊躇うな、躊躇を飛び越えろ! ぬう、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!)


 震える両手は背中を離れ、ゆっくり静かに、目標へと伸びていき――


「行けっ……「リエラさん?」おっほぉあ!?」


 ニーラが、首だけを動かし此方へ振り返った。咄嗟に発動させたこれまでの人生で最も早く隠密性の高い身体強化の恩恵を受けて、伸ばされていた両手は熱湯に手を突っ込んだ時よりも当社費八割り増しの速度で引き戻され、己の背中に身を隠す。

 一連の行動と判断の早さといったらもう、リエラの魔法技術、戦闘技術の結晶といっても過言では無い。自身の才能に、そして積み上げてきた努力に、これほどまでに感謝したことが果たしてこれまであっただろうか。

 そんな、馬鹿な努力が実ってくれたのか。ニーラの目には、何故か手を後ろに回していることに対する疑問の色はあっても、それ以外の拒絶や侮蔑の色は窺えなかった。コンマ数秒の差の、勝利である。


「どうしたんですか?」

「い、いやっ、何も。それよりもう身体も洗い終わったし、早く泡を流して湯船に行きましょっ!」


 首を傾げる少女に、強制的にお湯を掛ける。いまいち納得していないようではあったが、それもすぐに泡と一緒に流れて消えた。

 良かった。全く、自分は一体何を馬鹿なことを考えていたんだ。あんなこと、ニーラちゃんにして良い筈が無い。この小さくかわいらしい少女に一瞬でもあんなことをしようとするなんて、きっと熱で頭がどうにかなっていたんだ。

 自身の愚考をお風呂の熱気のせいにして、リエラは心を落ち着かせた。ぺたぺたとタイルを鳴らして、二人で一緒に湯船に向かう。

 流石というべきか、湯船からは大量の湯気が立ち昇っており、視界は安定しない。それでも別段濃霧というわけでは無く、彼女等は難なく目的地に辿り着き、


「え……?」


 驚愕した。いや、正確には驚いたのはリエラだけだ。

 目をまんまるに見開き硬直する彼女の視線の先には、ありえない人影。二人だけのはずのこの時間に、この場所に、居てはならない人物が、当たり前のように湯船に浸かって寛いでいた。

 幻などでは無い。此方を見詰める彼とは、ばっちり目が合っている。現実として、彼は確かにそこに居る。


「な、あ、あ……」


 言葉は出ず、身体は動かない。あまりに不意打ち過ぎて、脳が衝撃について来れていないのだ。

 全身を震わせ、言葉にならない声を出し続けるリエラ。そんな彼女へと、湯船の中の彼は小さく手を挙げ、いつもと変わらぬ平淡な声で挨拶一つ。


「やあ。奇遇だね、リエラ」


 レスト・リヴェルスタが、そこに居た。


「レ、レス、レ」

「どうしたんだい? まさか私の名前を忘れてしまった、という訳では無いだろう?」

「レ、レス、レスト」

「そう。私の名前はレストだ。何だ、きちんと覚えているじゃないか」

「な、何で、あんたが此処に」

「何故、か。それに答えるのは構わないのだが、その前に」


 ぴっ、と指を一本立てた彼は、そのまま目の前に立つリエラを指差し、


「隠さなくても、良いのかい?」

「へ? ……っ~~~~!!」


 二秒遅れて意味を理解し、リエラは縮こまると慌ててタオルで身体を隠した。

 どうせ自分とニーラちゃんしか居ないし、と思っていた彼女は、その見事な肢体を一切隠すこと無く堂々と裸で行動していたのだ。

 当然、レストと出会った時にもそれは同じで。


「み、見た?」


 縮こまったまま、彼女はちらりとレストを窺い問い掛けた。その顔が真っ赤に染まっているのは、決してお風呂の熱気のせいではないだろう。

 対し問われた方は、何一つ表情を変えることは無く、


「君の裸を、という意味ならば、見たよ。それで?」

「うわあああああああああああああああん!」


 恥ずかしさと後悔と、その他諸々がたっぷり詰まった悲鳴が、大浴場中に轟咆となって響きを上げた。


 ~~~~~~


 顔を半分お湯に埋め、ぶくぶくと水面に泡を作る作業に没頭するリエラの顔は、多少は落ち着いたものの未だに真っ赤なままであった。

 何せ今回は以前とは違う、タオルのガードすら無い完全なるすっぽんぽんである。気は強いものの人並みに羞恥心を持った少女には、少々酷な事態であった。

 だがそんな彼女が半眼で睨む先、己をこうも悩ませる元凶である男はといえば、特に気にした風も無く従者と隣り合って座り広いお風呂を悠々と満喫しているではないか。

 これにはリエラ、二重の意味で納得がいかない。仮にも自分の裸を、かつての決闘の折には好きだと言った自分の裸を見ておいて、何故そうも平然としていられるのか。

 あの男にまともな反応を求めるなど愚かなことだと理解してはいるが、それでも焦るなり此方を気にするなり、少なからず思春期男子らしいリアクションをしてほしいものである。


 そしてもう一つ、愛しのニーラとさも当然とばかりに寄り合いお風呂に入っていることが気に入らない。


 確かに彼女は彼の従者で、彼のことを強く慕っているようではある。今回この場所に来たのも、レストと一緒にお風呂に入りたかったからだ、というのだから。

 だがそれにしたって、ああもくっ付いて座ることは無いだろう。いっそのこと間に飛び入ってしまおうか、とも思うが、流石にそれは出来ない。

 何せ今の自分は全裸である。湯船にタオルを付けるのはマナー違反だ、必然的に身体を隠すことは出来ない。そんな状態で彼の間近に迫るなど、幾ら何でも御免こうむる。

 結果として出来るのは、レストがニーラに変な真似をしないかどうか、遠巻きに監視する位のことであった。


(もし何かしようものなら、恥を承知でぶっ飛ばしてやる……!)


 ニーラの恋路を応援したいとは思っているが、それとこれとは話が別だ。ニーラにはもっとこう、ゆるゆると恋路を進んでもらいたい。

 それはもう姉心親心というよりは、嫉妬と言うべき感情であった。ただし、それがレストとニーラ、どちらに対してのものであるか、この時の彼女には判別出来ないものではあったが。

 いや、今の彼女ではそもそも考えすらしないだろう。レストはあくまでも友人兼倒すべき敵、少なくとも彼女の中ではそうなっている。

 胸に根付いたひそかな思いに気付くのは、果たしていつになることか。


「そろそろ上がろうか」


 浴場に響いた声に思考から抜け出せば、いつの間にやらレストとニーラは湯船から既に上がっていた。

 レストに至っては何処に持っていたのか、長いマントのようなバスタオルを身に纏っている。やけに似合っている辺り、なんだか無性に腹が立つ。

 とにかく、このままでは置いてきぼりである。急いで湯を掻き分け歩みを進めたリエラは、彼等二人を追おうと自らも湯船から飛び出して。


「ちょっとまっ……た?」


 それは、当然と言えば当然の事故だったのかもしれない。

 湯煙によって明瞭としない視界、濡れて踏ん張りの悪いタイルの床。急いで二人を追わなければ、という彼女の焦り。

 そして何より、人知を超えた必然、運命力――所謂お約束というものが、リエラの身に降りかかったのだ。

 端的に言えば、滑って転んだのである。しかも丁度振り返ったレストへと飛び込むように、一直線に。

 お湯に深深と浸かっていたせいで、若干のぼせていたのもあるのだろう。咄嗟に魔法を発動させることも出来ず、呆然と彼女はレストへと裸で突っ込んだ。

 バシーン、と小気味良い音が鳴る。


「レスト、あんた……」


 歪んだリエラの声音が、大浴場に響いた。二人はくんずほぐれず絡み合って、共に床に倒れて――


「何で障壁なんて張ってんのよっ……!」


 は、いなかった。平然と立つレストの前方には、円形の三重魔法障壁。リエラはその頑強な壁に衝突し、まるでトラックに踏み潰されたヒキガエルのような無様な姿を晒すはめになっていた。

 全裸でその格好というのが、また一層滑稽である。少なくとも一般的な淑女がこんな姿を見られれば、暫く落ち込み続けるであろう程の醜態だった。


「何でも何も、突然人が突っ込んできたのなら、誰だって避けるか防ぐかすると思うのだが」

「受け止めるって選択肢は無いのか、あんたには!」


 障壁を一つ叩いてから離れたリエラが怒りを顕にするも、レストは動じず少しばかり考え込んで、


「あるよ。ニーラは受け止める、綾香も受け止める。だがリエラは受け止めない」

「何でだーっ!」


 甲高い音を立てて、障壁が一つ砕け散った。気合と共に繰り出されたリエラの掌底が、頑強なはずのそれを容易く打ち砕いたのだ。

 手には、赤き炎が宿っている。魔導機を出さずとも、この程度の魔法ならばお手の物だ。勿論本来ならばこの程度でレストの障壁が破られるなどありえないのだが、そこは彼自身、本気で障壁を張ってなどいない。

 実際一枚目、二枚目は(彼としては)非常に脆弱な、紙のような防護でしかなかった。自身に最も近い三枚目の障壁だけは恐ろしく強固に出来ているあたり、彼の抜かりの無さが窺えたが。


「はっはっは、そんなもの、その方が面白そうだからに決まっているだろう」

「私はあんたの玩具じゃないっ!」


 台詞だけ聞けば実に熱い場面にも思えなくは無いのだが、それが『全裸の美少女を受け止めるか受け止めないか』という議論の中で出たものなのだから、実に緊張感のないことである。

 ぎゃあぎゃあといつものように喚きあう二人。その横で先ほどの主の発言にこっそり悦に入っていたニーラは、小さく鳴ったがらりという音に目を向けた。

 開く浴場の扉。別段連絡はしていなかったはずだが、一体何処から聞きつけて来たのか。これが、愛というものなのだろうか。

 ともかく静かに浴場に入り込んだ『彼女』は、そっと足を進めると、まだ騒いでいる二人の下に歩み寄る。

 口論に専念しているリエラは気付かない。レストは恐らく、いや間違いなく気付いているが、その上で無視しているようだ。目の前のターゲットに、気付かれないように。

 やがて音も無く背後に回った『彼女』は、そっとリエラの肩に手を置いた。


「わひゃあっ!? 誰……って、綾、香?」

「こんばんは、リエラさん。不思議な胸騒ぎがしたので来てみたのですけど、一足遅かったようですね」


 にこにこと実に綺麗な顔で、綾香は笑った。リエラの背筋に走る、嫌な予感。


「それよりも」


 ぐりん、と綾香の首が縦に百二十度近く曲がる。薄っすらと開かれた双眸には、光が無い。


(またかー!)

「師匠の前で裸になって、貴女は何をしているんですか?」


 湯気よりも色濃く立ち昇る、邪悪なオーラ。悪鬼が、そこに居た。


「え、ええと……あっ、私テスト勉強しようと思ってたんだった。早く部屋に戻らないと!」

「逃がしませんよ……リエラさんっ!」


 浴場を見事な体捌きで駆け回るリエラと、滑った床と補助魔法を上手く使ってホバーのように滑らかな軌道で追随する綾香。

 ほとんど直立不動の姿勢のままで滑り行く不気味なその姿は、感じる恐怖をより一層引き立てる。 


「湯冷めするといけないし、私達は先に戻っていようか」

「そうですね」


 涙目のリエラを助ける者は、誰も居ない。

 こうして二人きりになった大浴場には、悪鬼の静かな怒声と、哀れな獲物の悲痛な悲鳴が、暫く続いていたそうな。

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