第5話 弟子と金田と竹中と
レストとリエラが教室に着いたのは、朝のホームルームが始まる十五分程前だった。もっとギリギリになるかと思っていたが、足を速めたおかげで程良い時間に辿り着けたらしい。
教室の中には、既に九割方の生徒が揃っていた。皆友人と話したり、忘れていた課題を慌ててこなしたりと、思い思いに僅かな時間を過ごしている。
そんな中隣合った席に座るレストとリエラの二人は、通学中散々話していたにも関わらずまたも雑談に興じ合っていた。
尚、リエラの本来の席は此処ではなくもう少し前なのだが、彼女は何の躊躇いもなくレストの隣(即ち、芦名藤吾の席)を奪って座り込んでいる。
「全くもう、朝から変な視線を受けて疲れちゃった」
少々だらしなく机に寄り掛かりながら、リエラは溜息を吐いた。幼い頃から天才として扱われてきたこともあり注目には慣れている彼女だが、それもあくまで羨望や賞賛、そして嫉妬や妬みといったもの。
今回のように、おかしな人間を見るような目を向けられるのは初めての経験だ。
「別段気にする程でもないだろう?」
疲れの元凶が、いけしゃあしゃあとのたまう。そこに悪びれる様子など微塵も無い。
「あんたねぇ。というか向けられる視線の中に、またか、って感じのものまであったんだけど、まさかレストっていつもあんな風に登校しているの?」
「いいや。健康のためにも、普段は歩いているよ。今朝に関しては、昨夜騒がしかったせいで少し身体が気だるかったのでね。ああして登校することにしたんだ」
うっ、と思わずリエラは唸った。要するに、原因は彼女自身にある、ということである。
レストの様子はあまりに平常的で、本当に疲れているのか定かではなかったが、そう言われては此方もあまり強くは言えない。
ぐぐぐ、と怒りと申し訳なさの間で揺れる彼女だが、次の瞬間その意識は全く別のものに占有された。
「師匠」
横から聞こえて来たのは、随分とお淑やかで落ち着いた、若い女性の声であった。それは明らかに、レストに向かって放たれていて。
「ああ、綾香か。風邪は治ったのかい?」
「はい、もう問題なく」
さも当たり前、とばかりに間に入り、レストと話している人物。それは、黒く長い髪を持ったお嬢様然とした少女だった。
黒髪黒目、といういかにも日本人らしい容姿と相まって、大和撫子という言葉がピッタリと嵌る。
「ちょ、ちょっとレスト」
「ん?」
「この人、誰?」
こいつ、とは言わなかった。姿だけでは上級生か下級生かも分からなかったし、何より初対面の相手に行き成りぶしつけに当たる程、彼女は非常識では無い。レストのようにおかしな相手ならば話は別だが。
問われたレストは、まるで今気付いたかのようにああ、と一つ声を上げると、
「ほら、朝ニーラが話していただろう? 私の弟子だよ」
乱入者へと視線を向けて、そう答えた。最初の声掛けの時点で一応予測出来ていたリエラは、あまり驚くこともなく彼の言葉を受け入れる。
「へ~、この人が……」
「初めまして、二条にじょう 綾香あやかと申します。よろしくお願いします、リエラさん」
深々と丁寧に頭を下げる彼女――綾香に、慌ててリエラも頭を下げた。そして、気付く。
「あれ、私の名前……」
「ああ、それなら。随分と有名になっていますよ、師匠と同室になった転校生、と」
「は? ええ!?」
告げられた驚愕の事実に、リエラは素っ頓狂な声を出した。男女同室で暮らしている、となれば確かに噂の一つにもなるだろうが、それにしても早すぎる。
まだ一日、どころか彼女自身男と同室であると知ったのが昨日の夕方だということを考えれば、実質半日である。一体どんな情報収集力と伝達速度だというのか。
「ど、どういうことなんですか、二条さん」
「綾香、で構いませんよ。それにクラスメートですし、もっと砕けた話し方をしてくれると嬉しいです」
「そ、それじゃあ綾香。有名って、どういうこと!?」
改めて問い掛ければ綾香は少し困った顔で、
「そう言われましても……私も何処から出た情報なのか、良く分からないのです。ただ昨日ベッドに横になっていた所、友人が『貴女の師匠が女子と同室になったって』と教えてくれたもので」
レストが言っていた通り風邪を引き、学校を休んでいた彼女の下に届いた、突然の衝撃であった。
ベッドに寝そべりながらも、喰いつくように色々と訊いてみた綾香であったが、『レストと転校生が同室になった』という話や転校生の容姿に関する話は幾らでも出てきたものの、肝心の情報の出所に関しては全くの不明、という有様だった。
そのことを伝えればリエラは肩を落とし、
「この学園には、忍者でも潜んでるの……?」
此処に来る前に学んだ、若干間違った日本観を吐露し途方に暮れた。一応テイカーの中には忍術を使える者も居るので、忍者が存在していない、という訳ではないのだが。
ともかく、いつかはばれると思ってはいたものの、流石にまだ先だろうと考え心の準備が出来ていなかった彼女は、これから始まるであろう皆からの好奇の視線と態度を想像し少しばかり憂鬱な気分になった。
しかし同時に、おかしいとも思う。既に噂になっているというのならば、教室の誰もが平常通りに過ごしている事の説明がつかない。全員ではないにしろ、何人か位は話し掛けて来てもいいだろうに。
そんな疑問の答えは、当事者の一人であるレストからまろび出た。
「心配しなくとも、皆そうそう騒ぎ立てたりはしないさ」
「何でそんなことが言えるのよ?」
「何。私は元よりニーラという『女子』と暮らしており、そのことは皆も知っている。今更一人増えた所で、殊更騒ぐ理由にはなり得ないよ」
「ええ~、本当に?」
半信半疑、といった様子でジト目を向ければ、レストは鷹揚に頷いてみせた。
そうは言ってもある程度おかしな目は向けられるのでは無いか、と思ったリエラだが、しかしこの平穏そのものな現状が彼の言葉を裏付けているとも取れる。
悩みながらも、何も無いというのならそれに越したことは無いか、と彼女はレストの意見を信じておくことにした。その方が精神的にずっと楽である。
「ところでリエラさん、少しお話があるのですが、よろしいですか?」
「え? 話?」
「はい。此処では何ですので、外で」
教室の扉を指差す綾香。突然の提案に、リエラは目を瞬かせながらもレストを見た。彼を一人置いていくのもどうかと思ったからである。
視線を向けられたレストは、一つ頷くと、
「ああ、構わないよ。そもそも私に許可など取る必要はない、君の好きにすれば良い」
何処からか取り出した、分厚い本を読み始めてしまった。そんな彼に呆れながらも、リエラは綾香へと視線を戻し頷いて見せる。
「では、行きましょうか」
にっこりと笑い歩き出す彼女の後を追い、教室を出る。かと思えば、すぐさま止まった綾香に面食らった。
「え、此処で良いの?」
彼女が止まったのは、正に教室から出た直後。意味が分からずリエラが首を捻るのも仕方がないことだろう。
一方綾香は問題ありません、と短く答えて振り返り、
「リエラさん」
「は、ひゃいっ!?」
彼女から立ち昇る異様なオーラに、リエラはつい上擦った声を上げてしまった。美麗な顔に貼り付けられた笑みも、おしとやかな物腰も、何もかも先ほどと同じはずなのに、何故か彼女の後ろに般若が見える。
訳の分からないプレッシャーに後ずさるリエラへと、綾香は一歩詰めながら問い掛ける。
「師匠と同室になった、ということですが……何も、していませんよね?」
「へ? な、何が……」
意味が分からず問い返せば、彼女は更に一歩間合いを詰めてきた。感じるプレッシャーが一際大きくなる感覚。
当然廊下を歩く生徒達からの注目を受けるが、皆彼女から発せられる異様な気配に慄き逃げ出した。助けは無い、現実は非常である。
「何が、ではありません。そうですね、例えば……師匠を誘惑したり、とか」
「そ、そんなことする訳ないでしょ。むしろ、私の方が裸を見られて……」
「裸っ!?」
正確には裸ではなくバスタオル姿だったのだが、訂正する間は与えて貰えなかった。遂に笑顔すら消した綾香は、勢い良くリエラの両肩を掴む。そうして異様な気配を更に増長させ、捲くし立てた。
「ああやっぱり師匠を誘惑してだから嫌だったのに何で私ではなく貴女が同室でニーラさんは何をしていたのか裸を見せたって一体どんな風に師匠がそんな誘いに乗るわけいやでも強引に迫ったかもまさかその先まで密室で間違いが師匠に限ってそんなでももしかしたら――」
(あ、この人駄目な人だ)
リエラは一発で察した。一見まともに見えるこの人物は、レストの弟子に相応しい、いや或いはそれ以上に駄目な変人だ、と。
ライオンを前にした小鹿よりも危機迫る様子で、カエルを前にした蛇よりも鬼気迫るオーラを出しながらつらつらと意味不明な言葉を並べ立てる彼女へと、リエラは容赦なく『おかしな人』の烙印を押した。
「ちょ、ちょっと落ち着いて! 何も無いから、私とレストは何も無いから!」
「……本当ですか?」
(怖っ!)
ぐりん、と首を九十度曲げながら問い掛けて来る彼女に、内心冷や汗。見開かれた目には光が宿っておらず、人形のように不気味に黒ずんでいる。
そんな幽鬼の如し綾香に震えそうになるが、ちっぽけなプライドを総動員して何とか抑え込み、ぶんぶんと必死で頷きを繰り返す。
「ほ、本当だってば!」
「……本当の本当に?」
(だからそれ怖いって!)
最早百五十度近く曲がった首に、人間業じゃねぇ! と突っ込みかけたが、今はそんな場合ではないと思い直す。優先すべきは、目の前の狂人を正常に戻すことだ。
「ほんとのほんとに本当!」
「……そう、ですか」
呟き。途端ぐりんと首を戻した綾香から、異様なオーラが消え失せる。
「良かった。それなら良いんです」
華も恥らう満面の笑みを浮かべる彼女に、危機を脱したと悟ったリエラは深く肩を落とし息を吐く。もう体裁を取り繕っている余力もなかった。全身に掻いた冷や汗が気持ち悪いが、先ほどまでの状況よりはましである。
「で、でも何でそんなことを」
半ば理由は想像出来ていたが、一応問い掛けた。すると綾香は扉を少しだけ開け、変わらず本を読んでいるレストの横顔を眺めながら、
「師匠に余計な虫が付くことは避けなければなりません。師匠は高次なお方、あの人にそこいらの女性などとても釣り合わない。だからこうして私が確かめているんです」
虫扱いされたことに腹を立てないでもなかったが、文句は飲み込んでおいた。リエラの寛大な心は、その程度の暴言など容易く受け止めるのだ。決して、彼女と争うことを恐れたのではない。多分。
「ああ、師匠。師匠、師匠、師匠。師匠――」
師匠、と連呼しながら、股に手をやりもぞもぞと動かす綾香を見て、リエラは更に彼女の評価を三段階は引き下げた。こいつは変人ではなく変態だ、と。
トリップする彼女に何と声を掛けて良いのか分からず、もういっそのこと無視して戻ろう、と決めたリエラは、そっと足音を立てずに綾香から離れると反対側の扉から教室へと入って行く。
そうして、自分の席へとよろよろと腰掛けた。
「大丈夫かい?」
疲れ三倍増し、といった様相の彼女に、レストが本から顔を上げ問う。最も声は変わらず平淡で、本当に心配しているのかは定かではなかったが。
「大丈夫、大丈夫。何かもう今日一日のエネルギーを使い尽くした気がするけど、うん、多分大丈夫」
ぐったりと項垂れる様子はとても大丈夫だとは思えなかったが、レストは特に気にした風もなく、そうかい、とだけ呟いて再び本を読む作業に戻っていく。
傍若無人すぎるその態度にも、突っ込む気力はもう無い。
「随分お疲れのようですね」
「……誰のせいだと」
いつの間にやら隣に立ち、当たり前のように言葉を掛けてくる綾香に、恨めしげな目を向ける。彼女が隣に来る直前、教室の外からうっ、という声が漏れ聞こえた気がしたが、リエラは無視した。教室の誰も気に掛けた素振りはないし、きっと幻聴だろう。
やけに火照った綾香の顔から目を逸らし、リエラは現実逃避した。心の平穏を保つには現実に目を向けないのが一番だ。
「お~い、レスト!」
と、この学園に来たことを早くも後悔し始めたリエラの耳に、新たに騒がしい声が飛び込んでくる。声の主は開きっ放しだった前の扉から教室へと走りこむと、そのまま一直線にレストの席へとやって来た。
「そんなに騒いでどうした、藤吾。また転校生でも来たのかい?」
「いや、違うけど……もしかしたら、それよりも大変なことかもしれねぇ!」
ばん、と大きな音を立てて机を叩いたのは、レストの友人である男子――芦名藤吾であった。胡乱気な目を向けるレストへと、彼は学生鞄から取り出したある物を見せつける。
その手に握られているのは、手の平よりも幾許か大きな、お菓子の箱。
「これは……『竹中の里』?」
竹中の里――誰もが知る、国民的チョコ菓子である。土木工事屋である竹中さんの扱うドリルを模し、三角錐の形をしたクッキーとチョコレートを組み合わせた古くから存在するお菓子だ。
はっきり言って何処のコンビニでも売っている菓子であり、別段珍しくは無い。何を騒いでいるのか分からず首を傾げていれば、藤吾は呆れた様子で口を開く。
「おいおい、気付かないのか?」
「そう言われてもな。何のことだか」
「良く見ろ! パッケージがいつもと違うだろうが!」
言われてみれば、確かに記憶にある姿とは若干違う気もする。
「聞いて驚け、何とこれはな……『竹中の里・リミテッドエディション』なのだ!」
竹中の里・リミテッドエディション――それは正に至高の竹中。素材に、製法に、一切の妥協無く最高を目指し作られたその菓子は、これまでの良い意味で平凡だった竹中から一変、口に入れた瞬間から至福の時を約束する。
口内の温度によってとろりと溶け出すチョコレートと、サクッとしながらもほのかな塩みによってチョコの甘みを引き立たせるクッキー。それは正に、竹中の最高傑作。
「確か、ほんの僅かな期間だけ販売されてすぐに廃止されたはずだが……良く入手出来たな」
レストが、平淡さの中に感嘆を滲ませる。
竹中の里・リミテッドエディションは確かに至高の美味しさを実現したが、同時にこだわり過ぎた結果として価格の高騰を招いた。
量は変わらないにも関わらず、普段の二十倍以上の値段というありえない価格設定は、当然の如く大衆の批判を浴び、瞬く間に市場から姿を消すこととなったのだ。
今では人々の記憶からも消え、一部の好事家が知るだけの骨董品――それが、リミテッドエディションの正直な現状である。
「ああ、実はこいつさ、完全に生産が中止された訳じゃないらしいんだよ。ほんとに極一部だけど、生産されて流通しているらしいんだ」
「ふむ。それが偶々手に入った、と?」
「ああ。知り合いの駄菓子屋から今朝連絡があってな、何かと思って出向いてみれば……こいつがあった、って訳だ」
歓喜のままに涙さえ流す藤吾に、周囲は生温かい目を向けた。相当な値段がしたはずだが、きっと彼は躊躇いも無く購入したのだろう。クラス中が知っている程に、彼の竹中好きは有名だった。
と、そんな温かいクラスの中で、冷たい目を向ける者が一人。
「……ふん。何が竹中よ、下らない」
リエラだ。
「――は? お前、今何て言った」
喜びの絶頂から現実に引き戻され、藤吾は真顔で低い声を出す。普段の彼でも危ういというのに、今の彼に竹中を侮辱する言葉は、正に虎の尾を踏むが如し。
彼の低くは無いはずの沸点はしかし容易く臨界を向かえ、今にも爆発せんと蠢いている。だがそんな怒気顕な藤吾を恐れることもなく、リエラは冷たい目を更に細く鋭くして繰り返す。
「下らない、って言ったの」
「何が下らないってんだ!」
怒声を上げ詰め寄る藤吾を嘲笑い、リエラは答えた。
「全て。竹中? そんな物良く食べられたものね。時代は今――金田でしょ」
「てめぇ……『金田の山』派か」
金田の山――それは竹中と双璧を為す国民的チョコ菓子。傘屋の金田さんが作る傘を模した形の、チョコレートとクッキーを合わせたお菓子である。
製造元は同じでありながら、この二つは互いにライバルとして長きに渡って争い合い、その信者たちによる対立は深刻な世界問題として国連で取り上げられる程であった。
「当然でしょ。竹中なんてだっさい物、喰ってられないっての」
「はっ、よく言う。金田みたいな卑猥な形のものを食べられる何て、とんだ淫乱雌豚お嬢様だぜ」
竹中派の藤吾と、金田派のリエラ。二人が出会ったその時から、争いは避けられなかったのかもしれない。何故なら彼等は二人共、互いの胸の内に絶対に譲れないものを抱えているのだから。
そう――『愛』という、何より強い想いを。
「「…………」」
じろり、二人至近距離で睨み合う。異常な覇気が教室を包み、誰もが固唾を呑んで彼等の静かな闘争を見守った。
やがて、緊張感に耐えられなかったクラスメートの一人が机に寄り掛かり、ガタリと音を立てたのと同時。
「「決闘だ!」」
揃って宣言し、ファイティングポーズを取る二人。互いに一切引く気は無く、目の前の標的を叩き潰す、ただそれだけに意識の全てを集中させている。その姿たるやまさに、竜虎相搏つ、と形容するのが正しいだろう。
「……うまい」
そんな二人を、藤吾が買って来た竹中をつまみ食いしながら、レストがのんびりと眺めていた。
今、世紀の戦いが幕を開ける。かもしれない。
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