6



 夕焼けの中、アクアマリー号が港を出発する。

 本来ならこの時間の出航は殆どない。じきにあたりは暗くなり、すぐに停泊になるからだ。

 今回は航路へ出る為の船出ではない。

 水葬の為の船出。

 弔いの海域へは三十分もせずに到着するらしい。

 未だかつてないくらいの人数とジャスパーの遺体を乗せた船が、沈む夕日を背に海を進む。あたりが薄暗くなってからはクオンが魔法でいくつもの灯りを前方へ浮かべ、海の道を照らしてくれた。


 目的地の海域へ到達し、レイズとレピドが場所を見定めながら錨をおろした。

 船の前方には大きな渦が、ぽっかりと口を開けて待ち構えていた。


 船の甲板に、人ひとり分ほどの小さな小舟が置かれ、その中にまず貴石が敷かれた。

 ジャスパーと同じ名前の貴石。港でレピドがあるだけのそれを買い占めていた。

 それから痛くないように、布を敷き詰めて平らにし、そこにジャスパーの寝床を作る。

 

 ジャスパーの元へは多くの人たちがその顔を見に、そして最後の思い出を語りに押しかけていて、遺体を寝かせていた部屋はギリギリまで人でぎゅうぎゅうだった。絶え間なく多くの人が、ジャスパーとの別れを嘆き悲しみ惜しんでいた。


 それから甲板で待つ人の群れをかき分けながら、レイズがその身体を抱きかかえて現れたとき。誰も何も言わずにその時を迎え入れた。

 それぞれが頭に巻いていた布や帽子を外し敬意を示す。それから身に付けていた装飾品を、おもむろにひとつ、自分の身から取り外した。


 レイズがジャスパーを小舟の真ん中にそっと置く。ジャスパーの両手を胸元であわせ、幾度も位置を確かめて、最後にその頭をくしゃりと撫でた。柔らかな笑みを浮かべながら、いつものように。

 それからレイズが自分の右手の親指にはめられた指輪を外し、あわせたジャスパーの手に同じようにそれをはめた。


「――これからはじまる長い旅路の、無事を心から祈っている。ジャスパー。いつか必ず…また会おう」


 言って、ぎゅっと。その手を握る。永遠のようで一瞬の、別れの瞬間とき

 それからレイズは誰とも目を合わせずにその場から立ち去る。

 レイズを皮切りに、周りを囲っていた船員達が順に言葉をかけ別れを述べながら、それぞれ自らの装飾品をジャスパーの体の傍へと置いていく。


 さよなら、ジャスパーのごはん美味しかったよ、本当の弟みたいに思ってた、なんでこんな良い子が…、おまえ勇敢だったんだってな、おれ達の誇りだ、ジャスパー

 いやだジャスパー、信じられない…、ジャスパー、気をつけてね、ジャスパー。ありがとう。またね。大好きだよ、ジャスパー。……さよなら。

 …いかないで。


 次々と贈られる涙とお守り。煌めく装飾品と思い出の品、これからジャスパーが向かう海の、神さまに捧げる供物代わりのお酒と食べ物、それから手向けの花。

 小さな小舟の隙間はあっという間にいっぱいになった。

 それはきっと、ジャスパーが生涯で他人に与えたもののお返しが、こうして形になったものだ。そして今度はそれが、これから往く旅路のなか、ジャスパーをきっと守ってくれる。


 最後にあたしが、ジャスパーの腹部のあたりに一輪の花を贈った。それから用意していた貴石を、ジャスパーの為だけにつくったお守りを、ジャスパーの口に含ませる。

 この世界での別れの儀式の作法を知らないあたしに、イリヤとレイズが教えてくれた。最も効力のある貴石は、体内に宿す方が良いのだという。最後まで肌身離さぬよう。

 それから自分の右手の親指の、指先の皮を噛み切って、零れた血でジャスパーの手の甲に模様を描く。

 あたしという未熟な神の加護として、刺青としてみんなの体にも描いたそれ。大事な人の、マーク。

 ジャスパーに描けなかったことを、ずっと後悔していた。ようやく、描いてあげれた。今のあたしにできるかぎりの加護を。


 これから行く海の底は、暗くて寒くて寂しくて、長い旅になるかもしれない。

 だけどこの模様は、きっとあなたの傍であなたに寄り添う。そして今度こそきっと、護ってくれる。

 一緒に連れていってあげて。あたしの心の一部。

 そっと改めて真正面から、その寝顔を見下ろす。

 本当に眠っているみたいに安らかに、その生涯を閉じた器。

 魂はいま、どこに在るのだろう。まだ近くで見ていてくれているのだろうか。

 届くのだろうか。最期の言葉は。


「…守ってくれて、ありがとう。ジャスパー。もらったものは、いつかきっと返しにいく。それまで待ってて。きっと、そこは。夢のように美しいところだから」


 その額にそっと口づけをして、あたしが体を離すのと同時に、周りに並んでいた海賊たちがすらりと腰元の剣を抜き、空に掲げた。破魔の剣がジャスパーを送り出す道をつくる。

 辺りはもう薄暗く、夕日は水平線の彼方。クオンが魔法で作り出す青いあかりだけが、辺りの海を明るく照らしていた。最後までちゃんと、見送る為に。


 最期のとき。

 イリヤが小さく、歌をうたった。惜別の歌。そして祈りの歌。どこからともなく啜り泣く声。


 腕力のある船員たちが、四人がかりで小舟を担ぎ上げる。それから用意してあったロープを小舟の前方と後方に括り、船を海へと下ろしていった。

 あたしは甲板の手摺のギリギリまで身を乗り出し、じっとそれを見つめていた。


 ゆっくりと、ジャスパーが。

 遠ざかっていく。その顔が、見えなくなって。

 無意識にあたしは手摺を掴んでいた腕に力を込めた。そして手を伸ばしていた。


 いかないで。

 

 小さく、そう呟いたのと同時に、視界が傾く。

 落ちる、そう思った。それでも体は動かなかった。そんなあたしを後ろから抱き留めたのはクオンだった。ぐ、と。その腕に力が篭る。

 あたしはそれでもただまっすぐ。ジャスパーの行先を見つめていた。

 絶望と希望を乗せた小さな船が遠ざかり、その姿が小さくなり、やがて渦に呑みこまれていくまで、ずっと。

 零れる涙もそのままに、瞬きもせず。

 見えなくなるまでずっと見ていた。

 

 それを見届けてから、船長レイズの一言で船は港へと引き返す。

 空には綺麗な月が出ていた。



 来た時より幾分かゆっくりと、船は港へと帰り着いた。

 揺れが止まるのを感じて、終わったんだな、と。ぽつりと思う。

 レイズが用意してくれた自室のベッドで横になっていたあたしは、それを感じて瞑っていた瞼を持ち上げる。

 これから先、どうするのか。決めるべきことはたくさんある。だけど心が追い付かない。

 とりあえず体を起こそうと腹に力を入れた時、あまりの激痛に思わず再びベッドに倒れ込む。

 油断していた。忘れていた。薬はとうに切れたんだった。

 今度は極力ゆっくりと、体を持ち上げる。それから長く息を吐いた。


 その時。

 ざわりと、船内の空気が変わるのが分かった。

 別れを終えたばかりの静謐せいひつな空気が、徐々に不穏をはらんだものになる。

 どうしたんだろう。扉へと視線を向けて、それから思案する。

 少しの間を置いて、いくつかの靴音が向かってくるのが聞こえた。扉の前でぴたりとそれが止まる。


「――マオ。居るか」


 扉の向こうから、レイズの声。

 やけに緊迫した声音。なにかあったのか。思わず心臓がはやくなる。


「いるよ、どうしたの?」


 立ち上がるのと同時に、返事を受けて扉が勢いよく開けられる。

 そこには真剣な面持ちのレイズと、その後ろにはクオンも居た。だけど暗闇に溶けたその表情は、よく見えない。

 

「…お前に、客だ」

「…客…?」


 低く、レイズが言い放つ。

 警戒感を顕わにしたような、獣のような目。

 一体、誰が。

 戸惑う自分との距離をあっという間に縮めたレイズが、あたしの体を力いっぱい抱きしめた。

 驚いて動けずにいると、耳元にレイズの唇が触れる。

 小さく、あたしにしか聴こえないように。レイズがささやく。だけど強い意思を持って。


「いいか、マオ。お前が嫌だといえば、拒否すれば。お前を渡したりしない。絶対に。相手が、誰であろうと…俺が必ず守る」


 それだけを言ったレイズが、さっと体を離してあたしの手をひく。

 それからクオンと一瞬目を合わせ、無言でその隣りを横切った。

 

 わけも分からず腕をひかれながら甲板を突き進んでそこに。

 夜空に浮かぶあかりの下、ふたつの人影があった。

 ふたりともフードを目深に被り、こちらの気配に振り返る。そしてその内のひとりが、そのフードを下ろした。

 その姿に思わず息を呑む。

 そこに、居たのは。



「…シア……!」


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