11
「――くるぞ」
リュウが、呟く。その切っ先と淡い光が抗戦を示す。
それと同時に、前方より力の塊が再びこちらへ向かってくるのを感じた。
錨は上がったものの、船の向きを変えるのにまだ時間が要る。
レイズが舵をまわしながら、クオンに魔法で船体の向きを変えるフォローを頼み、それを受けた船体が波を払い除けながら大きく揺れる。
だけど船が向きを180度転回するのは至難の業だ。どうしても迂回するしかない。時間がかかる。
逃げ切れない。
リュウとセレスが迎え撃つ。ひと際大きな光。
「――…!」
身構えるのと同時に、衝撃が船を大きく揺らした。
明らかに、先ほどより威力が大きい。
盾が、破られる。想定を超える威力に、その反動でリュウの体も弾き飛ばされた。
パラパラと、光の欠片が船に降る。夢のようなその光景。
もう防御の術はない。
クオンとセレスの盾でも防ぎきれなかった魔力の破片が、盾を突き破って船のあちこちへと衝撃と共に落ちた。
後方で上がる悲鳴に振り返ると、そこには攻撃を受け倒れたレピドが居た。
「レピド…!!」
「…げほ、大丈夫、です。マオ…これが…」
呻くように言って血を吐きながら、泣きそうな顔をするあたしに攻撃を受けた腹を晒す。
そこには淡く光る、青い刺青。加護の紋様。――あたしの。
「護ってもらいました。マオ、あなたに」
「…!」
笑ってくれる。でも。
もしかしたら奪われていたかもしれない。死んでいたかもしれない。
こんな理不尽で一方的で身勝手な暴力に。
そうしたら、二度と会えない。もう、二度と。
「…あたしは…あたしは…!」
ぎゅっと。イリヤの腕を握り返す。
イリヤの琥珀色の瞳から、透明な涙。
もうすぐ夜明け。海の彼方にイリヤの瞳と同じ色。
「自分だけが助かるなんて絶対いや…! 自分の力を出し惜しんで、誰かを失うのも絶対にいや! それから、イリヤにそんな顔をさせるのも…もちろん死ぬのも! だから、大丈夫、やってみる。死なないように…!」
強く言い放ったあたしにイリヤは目を大きく見開き、その言葉を呑みこむように、一度だけ瞬きをした。
橙色の雫が零れる。
それからイリヤがわらった。
「…なんて、欲張りで身勝手なの。だけどそうだね、それが人というものだよ。奪い、奪われ…だけど諦めない限り、投げ出さない限り。そうして誰かが誰かを守っている。それがきっと、この世界の真理だ」
ささやくように落としたイリヤの声の、最後はまるで歌うように。
それからゆっくりと立ち上がり、海を仰いだ。
「――大丈夫、マオ。ボクが守ってあげる。ボクらはこの海で生まれた者。この海の扱いは、ボクらが一番知っている」
いつの間にかその隣りにトリティアが居た。ふたりの姿が同じ色の光を放つ。寄り添い合うように。光の粒が空へと浮かんだ。
そしてイリヤが歌う。
空へ、海へと響く歌。
『…彼女が、アトラスの力の根源を断つようだ。あちらの扉を無理やり閉じようとしている。あれだけの力の
「…信仰…」
そうだ。あたしには。
信じてくれている人が居る。
立ち上がり、腰元のホルダーからシアに預かった短剣を取り出す。
その重みを胸に抱き、ゆっくりと鞘から引き抜いた。
薄く半透明な刀身が、光を受けながらすらりと伸びる。
シア。あなたがあたしにくれたものを、返したい。
きっとあたしは、会いにいく。
イリヤの歌の効力か、アトラスがその意図に気付いたのか、攻撃の気配。
その膨大な魔力の塊が、上空にいくつも浮かんだ。
アトラスが笑っている。一方的に楽しんでいるのだろうか。その心は、あたしには分からない。
でもその力が尽きる前にアトラスをアールの体から追い出さなければ、アールは本当に死んでしまうだけだ。
リュウが助けたいと願ったのなら、あたしも見捨てたくない。まだ、生きているのだから。
受けているばかりじゃ何も得られない。
力を、望むかたちにする。それをするのは、あたしの心だ。
「なるほど、分散しているとはいえ見せかけ、魔力が補充できないのだろう。明らかに威力は弱まっている」
「受けるのは、我々が。マオはとにかく相手にだけ集中してください」
いつの間にか傍まで来ていたリュウとクオンが、船首に立つ。
クオンはレイズの手伝いをしていたはずなのに。
振り返ると、舵をとったままのレイズがまっすぐこちらを見据えていた。
揺るぎのないその瞳。
信じてくれる。あたしのこと。
それからぎゅっと、握られる手。
ずっと隣りに居てくれた、ジャスパーだ。
「大丈夫です。マオなら、できますよ」
ずっと変わらない笑みをあたしに向けて、ずっと大丈夫だと、その心をあたしにくれた。
ジャスパーからもらったブレスレットと、あたしが贈ったブレスレット。どうか、護ってと互いに祈りを捧げて。
「ありがとう、やってみる。離れていて、危ないから」
あたしの言葉にジャスパーはこくりと頷いて、離れていく。
その瞬間、リュウがひかれるように剣を構えた。クオンもそれに倣う。
「――! どうやらこちらにくるぞ、体勢を整えろ!」
リュウの警告に目を向けると、アールが海の上、水飛沫の道をつくりながら、距離を縮めていた。無数の力の塊を引き連れて。
イリヤの歌はまだ響いている。
アトラスの力の補強を防いでいるということは、つまりセレスやトリティア、ひいてはあたしにもいえることだ。今もっているものすべてを、出し切るしかない。
おそらく今を逃したら、次はない。――みんな。
アトラスを囲うように浮遊していた光の礫が、一斉にこちらへと放たれた。
狙いはイリヤか、おそらく自分。
だけどアトラスを止められるのは自分だけだ。
頭上から降る魔力の雨に、リュウとクオンが必死に迎え撃つ。
あっという間に船全体が光に包まれる。爆弾を投げ込まれたようにいくつもの爆音と衝撃、それから眩むように弾ける光。
視界が塞がれる。アトラスの位置は、咄嗟にそう思ったけれどあちこちで光が弾けている。
ダメだ、慌てて崩れたら相手の思うつぼ。
剣を構える。あたしに剣は扱えない。あくまでこれは、力を使う媒体だ。でもきっと、これ以上のものなどこの世界のどこにもない。
くる、そう思った時には。
もう目の前に居た。
反射的に動かした腕が、それを伝えた。
甲高い金属音が、空高く反響する。
突然のその刃に、本能的に思い切り力をぶつけてしまったのが自分でも分かる。制御できず、ただ相手に放った力のすべて。
受け合ったその一太刀の余波が、周りのものを、人を、吹き飛ばす。
『思ったよりねばったな、マオ』
アトラスがはいったアールの体は、それでもあたしを見下ろすほどに大きい。
まるで表情を崩さずに、押し付けられる刃。おそらくこれが互いの、最後の武器。
もう力は殆ど残っていない。
「――その体を、返して…!」
『断る』
「…っ、だったら…! 奪い返す…!!」
力を込めて、剣を払う。力の差は歴然。まるで遊ぶようにアトラスは、それをわざとらしく受けて流す。
今の彼にはなくてあたしにはあるもの。
それは。
『…!』
歌が、かわる。
イリヤがクオンに支えられながら、必死に声を絞り出す。
ぴくりと、アトラスの動きが止まった。そしてそれは、あたしにも作用する。
イリヤの歌。海の神々を意のままに操るその声音。
『…この歌か…!』
事態を理解したアトラスが、吠えた。
あたしの剣の細い刀身が、光に溶ける。魔力が解けていく。
だけど、あたしは。
半分は、みんなからもらった心を糧に。
だけどもう半分。
あたしにはこの、体がある。
残された短剣で、目の前の動けないアトラスの体を切りつけた。
晒されたアトラスの上半身、心臓の上。
そこには赤く灼きつけられたような紋様。アトラスとの契約の証。
ふたつの世界を繋ぐもの。
かたちを失い血に潰れた紋様を見たアトラスが、それでも豪快に笑った。
『――このおれとしたことが、見くびり過ぎた! 生まれたばかりの泡の礫、されど我らと同じ魂を持つ者。そして唯一の、人の器を持つ妹よ。どうだ、初めてひとの願いを、祈りを力にして戦う気分は。さぞや気持ち良いだろう』
「…!」
アールの体から光が失われていく。
その体が、アトラスから引き離される。
『踏みにじってやりたくなるだろう。愚かな人間どもの、身勝手な願いなど…!』
最後にそう言って、アールの体が傾く。
そして、その後方から。
「――――マオ!!」
気付いた時にはもう既に遅かった。
アトラスの置き土産。
光りの礫が空高くより、落ちてくる。
あたしに向かって。降り注ぐ。
たくさんの声が、遠くであたしを呼んでいた。
あたしはなぜか、まるで雨のように降るその光の塊から、目が離せなくて。
指一本すら動かせず、ただそれを見上げていた。
「マオ…!!」
夜が明ける。
太陽が昇る。
あぁ、世界は美しいのだ。
だから憧れずにはいられなかったのだろう。
だから欲せずにはいられなかったのだろう。
海の世界にはない光景。
幾度となく平等に、地上を照らす希望の光。
だから、妬まずにはいられなかったのだろう。
だから、怒らずにはいられなかったのだろう。
この美しさの対価も知らず、身の丈に合わない力ばかりを欲する、人間を。
身勝手に繰り返す争いに、自分達を巻き込んだ人間を。
それでも、人は。
「……マオ。大丈夫。…大丈夫、ですよ」
ささやくように小さな声が、自分のすぐ耳元でした。
パラパラと、貴石が降る。
これは、ジャスパーからもらったお守りだ。衝撃で砕けてしまったのか。貴石の雨にはなぜかあたしの結晶も混じっていた。
キラキラと、日の光に反射して輝いたそれが、音をたてて地面へと転がる。
あたし、生きてる。
体のあちこちが痛いけれど、ひと際大きな熱と痛みを感じるけれど、それでも生きている。
護ってくれたんだ。この石が。
ジャスパー。あなたが。
ぬるりと、温かな感触。温かな重み。
血の匂い。肌の焼ける匂い。肉の焦げる匂い。
命が削られていく、におい。
体勢を起こして、自分の体に覆いかぶさっていたその体をどけようとする。
けれどもぎゅ、と。離れまいとしがみつかれる。それとも。見せないように。
そこに居たのは、あたしを強く抱き締めているのは、ジャスパーだ。
どうして。
頭が働かない。目の前の出来事を、上手く受け止められない。
「……ジャスパー…?」
ようやく離れたその体を、床に横たえる。
赤い水たまりに横たわる、ちいさな体。その赤が自分をも染めていく。
上半身の服の殆どが焼けて、顕わになる肌。
その腹の半分以上が、赤く抉れてもはや内臓さえもなくなっていた。
そこまで見ていてあたしは、その残る肌に青の模様を探していた。
刺青、あたしの加護。加護が働いたのなら、護れたはずだ。さっきのレピドみたいに、致命傷までには至らないはず。
だってジャスパーは、誰よりもあたしのこと、信じてくれていた。
ジャスパーは、あたしに力をくれた。
その心であたしを護ってくれた。――あたしを。
だけど、そこにあたしの刺青が見当たらない。
だって、そうだ、まだ。
ジャスパーには、まだ。
それを思い出して、漸く。ジャスパーの体から流れる血溜まりの中で、漸く。
ジャスパーがその身を呈して自分を守ってくれたんだと理解した。
「いや……!」
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