9


 あたしの呼びかけに応えたトリティアが、その姿をあらわにする。

 呼べば応えることを、あたしはきっと分かっていた。

 トリティアはいつものように薄く笑ってあたしに向けていた視線を、リュウの傍らへと向けた。


『……きみか、セレス』


 ぽつりと、呟くその言葉にひかれるように、リュウの傍に今まで見えなかった存在が姿を現す。

 目を瞠るほど美しい女性の姿。

 流れるように長い髪を揺蕩たゆたわせて、魚の鱗のような装飾がついた手足が印象的だった。

 ぴったりとリュウに寄り添ってほほ笑んだまま、トリティアと向かい合う。


『お久しぶりね、トリティア様』

『きみは人間嫌いだったと記憶していたけれど…随分丸くなったものだね』

『ええ、人間は嫌い。須らくみんな、愚かなんですもの。でもリュウは好き。彼は賢く力もある。何より美しい』


 空気を揺らすような、次元が違う場所での声を聞いてるような、神々の会話。

 トリティアの姿を確認したリュウがその手をイリヤに翳す。その途端に咳き込んだイリヤが地面に蹲った。


「昔話はそれくらいにして、トリティア。門を開けてもらおうか。アトラスをここへぶ」


 セレスと話していたトリティアが、その目をリュウへと向ける。

 トリティアは今まで見た中で一番その姿が、輪郭が、はっきりとしていた。

 この場所のせいだろうか。

 だからこそ、その瞳に。

 敵意が滲むのをはっきりと感じる。それはおそらくリュウもだろう。


『…勘違いしないでもらおうか。人間』


 その一声で、一睨みで。空気が凍てつく。

 リュウの傍に居たセレスが『やだやだこわーい』とリュウの背中にひっこんだ。

 目に見えない冷気が刃となって突き刺すように、この場所いっぱいにトリティアの殺気が湧き出ていた。思わず自分の腕をぎゅっと抱く。


『ぼくが話しをするのは、マオだけだ』

「……」


 リュウが僅かに思案し、沈黙する。

 下手に相手をしない方が良いと踏んだのか、その視線をあたしに向けた。


「だ、そうだ。マオ、彼に命令を」

「そ、そんなの…したことない…命令なんて」

「できるはずだ。そういう契約を、結んだはずだ」


 トリティアに助けを求めたことはある。トリティアはそれに応えてくれた。

 だけどこんな一方的に、トリティアに力を使うことを命令するだなんて、そんなこと考えたこともなかった。


「できないのなら、また繰り返すだけだ」


 ひどく冷たい瞳をしたリュウが、再びその手を翳す。

 座り込んだままのイリヤがびくりと恐怖で体を揺らした。


 頭が痛い。眩暈がする。ぎゅっと閉じた瞼の向こう。

 ジャスパーの顔。イリヤの顔。レイズと、クオンと、それから船のみんな。…シア。


 瞼を持ち上げて、目の前にいるトリティアを見つめた。

 こうして話すのは、あの幻の海で以来だ。

 今なら分かる。きっとあの海は、もうこの世界のどこにも存在しないのだろう。きっとトリティアの中にだけある、望郷の海。

 トリティアが見つめ返す。リュウへの態度が嘘のように、あたしには優しく笑いかけてくれた。こんな時に。


「……トリティア。門を、開けれるの…?」

『できるよ、マオ。それは遥かいにしえよりぼくの役目だからね』


 きっとこの状況もこの空気も、トリティアには何の関係もないものとして、気に留める必要もないのだろう。

 トリティアからしたら、小さな存在、人間同士の無益な争い。

 でも。


「…開けて。後はあたしがどうにかする」

『…いいよ、マオ。きみが答えを見つけたのなら、ぼくはきみに、力を貸してあげる』


 トリティアは微笑んで、そっとその手を泉に翳す。

 そこにはいつの間にか大きな杖。先端に青い石がついていて、その青はあたしの生み出す不格好な結晶の色と似ている気がした。


『共に求め合うのなら。その身を捧げよ。ここは、はじまりと終わりの場所』


 トリティアの翳した石が強い光を放った。

 それに呼応するように、泉が眩い光を放つ。

 波打つ泉の水。広がる波紋が、その中央にいるジャスパーの体を攫うかのように大きく揺れた。

 祠にとまった白いカラスが、その様子をじっと見据えていた。

 泉の中央に光の柱が経つ。神々の力。光の柱――


「来い、アトラス! 俺がその力を使ってやるぜ…!」


 泉の傍でアールが仰ぐように両手を掲げる。

 だけど光が射しているいるのはあくまで泉だ。そこに居るのはアールではない。

 ジャスパーが、ぎゅっと目を瞑った。耐えるように。


 そして次の瞬間、すべてを吹き飛ばすような突風と共に現れた、巨大な影。


「…来たか、アトラス…!」


 その瞳に歓喜の色を浮かべたアールが呟く。

 セレスやトリティアよりも数倍ある体躯。燃えるように赤い髪とマントを纏い、口髭をあつらえた強面の男性の姿。その手には大きな槍のようなものを携えている。

 アトラス。海の戦神いくさがみ


「供物は用意してある! 俺と契約をしろアトラス! この海で好きなだけ暴れさせてやるぞ…!」


 興奮を抑えられぬのか大声で、はしゃぐ子どものようにアールは目を輝かせて叫んだ。

 アトラスのその瞳が泉の真ん中にいるジャスパーを見、それからアールを見た。

 その口が、ゆっくりと動く。


 ――……


「…? 何? なんて言ってんだ? リュウ、その女に通訳させろ!」


 もどかしいように叫んだアールが、イリヤを振り返る。


 その場で。アトラスの言葉を聞き取れていなかったのはアールと。それからジャスパーだけだった。

 それ以外の全員が、アトラスの言葉を正しく受け止める。



 ――思いあがりを正せぬ愚かな人間。望み通り好きに、使ってやろう。



 その声音は氷のように冷たく、そして怒りに沸騰するように熱く、えぐるような破壊と暴力をこの場に生み出すはじまりの言葉だった。


 ぴり、と。小さな火花がひとつ散る。それはやがてあちこちで、無数に弾け散った。空間を埋め尽くすように。


 その矛先は、おそらくアールやリュウが予想していたものとは別の結末。己自身へとかえってくる。先に気づいたのはリュウ。力を欲しておきながら、身代わりの供物という神への冒涜を、アトラスは許さない。

 リュウが咄嗟に剣を抜き、アールを背に庇う。だけどアトラスの吐息ひとつであっさりと吹き飛ばされた。セレスの光がリュウを護る。それでもその力の差は歴然だ。リュウは小さく呻いて起き上がれない。


「…っ、ジャスパー!」


 得体の知れぬ予感に、咄嗟に走り出して泉の真ん中にいるジャスパーへと駆け寄る。

 水飛沫を上げもがきながら辿り着き、その小さな体を抱き締めて頭上のアトラスを睨みつけた。


 ――ほう、随分珍しいものが混じっておる。


『その子には手を出さない方が良いよ、アトラス』


 ――なんだトリティア、これは。記憶にないぞ、このような同胞は。


『当たり前だ。この子が生まれたのは、ごく最近。我らの海より生まれ、そして異なる世界で孵ったまだ小さな泡粒のようなもの。だけど確かにその魂は、我らの父が分け与えたもの。マオ、彼女は我らの末の妹だ』

 

 淡々と説明するトリティアを、アトラスが豪快に笑い飛ばした。

 それだけで吹き飛ばされそうになる。笑い声がまるで衝撃波のように。


 ――父上の最後の未練の粒か! これが! お前らが必死に探していたもの…! よもやこのような時に見つかるとは…!


 それはまるで小馬鹿にでもするように、空気をビリビリと揺らしながら、その瞳がひたりとあたしを見据える。

 何を言っているのかは分からない。

 だけど、分かる。トリティアとは全然違う。

 あたしはこのアトラスに、同胞などと思われてはいない。


 ――これも運命か。この海がそれを望んでいるのか。良いだろう、マオ。その半分を、大地に持つ者。このおれを、とめてみろ。


 言ったアトラスが、その手に持っていた槍を掲げ、大きく振りかぶる。その先に居るのはアールだ。状況についていけずただ放心状態のアールが、ようやく自分の身の危険を理解するも、既に遅かった。

 

 落ちる閃光、稲光。

 アールの顔は、もう見えない。

 蒼い光に貫かれる。


「アール…!」


 リュウが小さく叫んだ。あたしはぎゅっと、腕の中のジャスパーを抱き締める。目を逸らさないようにするだけでせいいっぱいだった。

 目の前の光景が、まるで別の世界のことのよう。現実ではない、まるでそれは。

 古の神話の世界――


 薄煙の中、アールがむくりと立ち上がった。

 無事だった…?

 そんなことはあり得ないと分かっていて。

 だけどそう簡単に認められないのだ。受け止められないのだ。目の前の現実を。


 そこに居るのはもう、アールではない。

 治まりきらずに漏れ出すアトラスの膨大な気。魔力の渦。



『――なるほど、確かに体は頑丈なようだ。器との相性は良い。これでおれは、この世界と繋がった。お望み通り久々に、暴れてやろうではないか』


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