7
「あれ? なんだ、普通に開くじゃないですか。レイ」
その言葉と共に、開けられるドア。ひかれるように、室内の空気が流れ出す。
ぴたりと、目の前のクオンの動きが止まった。鼻先を掠めるほど近くにあったその顔が、僅かに歪む。それから揃って声の方へと向ける視線。
その先には、お盆を持ったまま不思議そうな顔をするジャスパーと、その後ろにレイズが居た。ものすごく不機嫌そうな顔をして。
「…あ、ごはん?」
「ええ、レイがここへ運べと。クオンの刺青ですか?」
「あ、あぁ、うん…いま終わったとこだけど」
「じゃあ夕飯、テーブルに置いておきますね」
言って、窓際のテーブルへと歩み寄り、お盆を置く。
ギシリとベッドが鳴って、クオンの体重が移動した。あたしから僅かに距離をとって。
「あ、クオン、刺青が乾くまでは触らないでね。通常のと濃度変えてるから、10分くらい経ったら服着て大丈夫だよ」
「…分かりました」
頷いたクオンが、シャツにかけていた手を解き、体勢を起こして立ち上がる。
それから何故かドアの所で立ったままこちらを見据えるレイズと目を合わせた。というか、分かり易くお互い睨み合っているようなかたちだ。このふたりに何かあったのか。
良く見たらレイズは、片手に剣を持っている。鞘から抜かれた状態のそれは、緊急時の合図だ。
どきりとして、レイズに声をかける。ここはこの世界で一番危険な北の海。いつ何と遭遇してもおかしくないのだ。
「レイズ、剣。何かあったの?」
「――ねぇよ」
低く呻くように言ったレイズが、今度はじろりとあたしを睨む。その迫力に思わず口を噤む。
え、なぜ。というか、さっきからなんなんだこの空気は。
訳も分からずジャスパーに視線を向けると、困ったような苦笑いを返された。
まったくもって、意味がわからない。
「ほら、レイ達も夕食済ませてきたらどうですか。もうすぐ次の交代時間ですよ」
そう言ってなんとかジャスパーがその場を解散させてくれたおかげで、気まずい空気から抜け出すことはできた。話したいから夕食に付き合ってとジャスパーにお願いしたら、快く部屋に残ってくれた。
馬が合わないふたりだとは思っていたけれど、何かケンカでもしたのだろうか。必要時以外会話すらしないふたりが。
そうぼやきながら、ジャスパーが持ってきてくれたスープに口をつける。野菜と干した鶏肉の、塩気の効いた温かなスープ。空腹に沁み渡る。そういえば今日は朝以来、何も食べてなかった。
テーブルに座るあたしの向かい側にジャスパーも腰を落ちつけながら、仕方なさそうに笑った。
「レイがあの顔でぼくのところに来て、ドアが開かない、マオに締め出されたっていうから、何事かと思ったら…クオンも中に居たんですね」
「うん、起きたら居て…って、ドアが開かない? 本当に? もしかしたらまた、勝手に結界張ってたのかも。クオンにも怒られたんだよね、無意識下というのが一番厄介だから、もう少し制御できるようになれって」
「マオのお師匠ですもんね。レイとは元からそりが合わないみたいでしたけど…でも、クオンがマオ以外の相手にあんな分かり易く感情を顕わにするところ、初めてみました。悪い意味でですけど」
そう言われて、ふと先ほどのクオンを思い出す。
明らかにいつもと様子が違った。クオンのあんな表情も、言動も、初めてだ。結局いまいち、その言動の理由は分からなかったけれど。
やはりレイズと何かあったのだろうか。そういえば起こすと言っていたレイズがいつの間にか居なくなっていたし、入れ替わりでクオンが入ってきた可能性はある。
あれ、でも。そうすると結界が発動したのはどのタイミングだろう。そういえばジャスパーにはあっさり解除されたのも謎だ。
クオンは以前、無意識下の結界だからこそ、無意識にひとを選別すると言っていた。
おのずと心を許している相手を、選んでいたのかもしれない。
「やだな、また後でクオンに、心をもっと強くもてとかお説教されるかも。魔法は、使い手の心次第ですべてが決まるんだって。そんなのあたし一番苦手。強くなれるなら、とっくになってるよ」
子どもみたいにぼやいてスプーンの中身を口に入れるあたしに、ジャスパーはおかしそうにくすくすと笑った。
あたしの方が年上なのに、いつの間にかジャスパーの方が年上みたいな顔してる。ものすごく不本意だ。
「大丈夫ですよ、マオ。マオの心の強さなら、この船のみんな知ってますから」
「…身内びいきっていうんだよ、そういうのは」
魔法も魔力もついでに剣も。あたしはまだ何ひとつ、自分の思うように使えない。
だけど不思議と神さまの力とやらは、自然と使い方を知っていた気がした。それもやっぱり無意識下なのだけれど。
「強いですよ、マオは。ひとりでこの見知らぬ船の上で、レイの、みんなの信頼を勝ち取ってきた。きっと不安なことだってたくさんあったはずなのに、泣き事も言わなかったし、逃げもしなかった。だからみんな――マオに心と、命を預けようと思えたんです」
「…そういうの、あたしイヤだよ。あたしはそんなに立派じゃない。みんなの命なんて預かっても、護りきれる保証もないんだよ、確かなものは、なにも」
レイズのように、クオンのように。確かな力と自信が、あたしにはない。
できる限りのことはする。でも。
それを背負う覚悟が、足りていないのかもしれない。
俯くあたしの手を、ジャスパーがとる。スプーンを持つ手とは反対の手。じゃらりと、あたしの手首にはジャスパーからもらったブレスレット。そしてジャスパーの手首には、あたしが生み出した不揃いな結晶のブレスレットが巻かれていた。
そっと顔を上げるあたしに、ジャスパーは笑いかける。大人びた、すべてを知っているかのような、そんな笑み。そんなわけないのに。そう思ってしまうから、不思議だ。きっとそれが、あたしが心を許している証拠なんだ。
「大丈夫ですよ、マオ。マオが自分を信じられなくても、ぼくは、ぼくらは信じています。マオ、あなたはぼくらの大切な仲間であり、家族です。年齢的にはぼくのお姉ちゃんでしょうか。実際は手のかかる妹というかんじですが。この船で得たものは、きっとマオの中に確かに強く刻まれているはずです。そして何か迷った時…それが行き先を照らす導となります」
胸が、熱くなる。なんてできた弟だろう。その物言いに、ふ、と思わず笑みがこぼれる。
その手を握り返して、がぶりとスプーンにかぶりつく。美味しい。だけど。さっきより少しだけ塩辛い。
うじうじするのはもう止めだ。
いろいろあって、いろいろと考え過ぎた。
まずは目の前のことをこなさなければ。
「あ、そうだ、ジャスパー、刺青」
「いいんですか、今日の分はもう終わったと聞きましたけど」
「当たり前だよ、あたしも描いてもらいたいし」
「じゃあ、お願いします。マオに描いてもらうの久しぶりですね」
「そうだね、待ってね、食べちゃおう」
「ゆっくり食べてください。予定では明朝、祠に到着する予定です。そこから先は何がどうなるか分からないですから」
そうか、もうそんな所まで。
いよいよ目的地に着く。そこで得られるものがなければ、戦争はいよいよ不利になる。
そういえば、突然お城に来たというお姫さまの件はどうなったんだろう。
シアの白いカラスは今日もマストにとまっていたけれど、今はどこに――
「食事中申し訳ないが」
まるで熱をもたないその声が。
突如つい先ほどまでの平穏を、切り裂く。
カランと、指の隙間から零れたスプーンがテーブルで弾けて、床に転がる。
それがまるで何かの警告音のように聞こえた。
「大人しくしてもらおうか。助けは期待しない方が良い。この部屋はオレが制圧した」
すらりと伸びた刀身が、灯りを弾いてあたしの意識を突き刺す。
ジャスパーの首筋でその切っ先が鈍く光る。
唾を呑む。ごくりと。味はもう、分からない。
視界に突如現れ、ジャスパーに剣を向けるその相手。
会ったら訊きたいことはたくさんあった。でも今はもう、どうでも良いとさえ思う。
目の前のジャスパーは動じていない。あたしだけが目を瞠り、ジャスパーの手の下で拳をきつく握りしめていた。
「……リュウ」
「まだ生きていたようで何よりだ……マオ。一緒に来てもらおうか」
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