6
一閃、弾ける火花。
甲高い金属音が部屋中の空気を揺らした。
ぶつかり合う衝撃を受け流し、場所を変えながら体勢を立て直す。数歩下がった所で足が壁にぶつかった。
いや、違う。ドアだ。
頭に血が昇っていたとはいえ、ここは室内。場所が悪すぎた。
ドアがそのまま大きな音を立てて閉まる。
その時だった。
「――…!」
魔力の動く気配。
それと同時に、すぐ目の前に居たはずのレイズの姿が消えた。忽然と。
しんと静まりかえる部屋に、響くのは小さな寝息だけ。
その姿を見つめ、我に返る。
そうか、今のは。
身に覚えがある。結界だ、マオの。
以前自分も追い出されたことがある。マオの一言で、結界の外に。
あれからも何度か、マオは無意識下で自分の領域と思われる場所に結界を施すことがよくあった。昨夜もそうだ。
おそらく今レイズは、部屋の外。この結界はそう容易く破れない。身を以て立証済だ。
今の状況から察するに、ドアを閉めるのがマオにとっての結界の条件のようだ。
マオが許可した相手以外、呼ぶまで。ここには入ってこられない。絶対に。
ならば、なぜ。
自分は
「――…あれ、クオン…?」
見つめる先で、マオの瞼がうっすらと開けられる。
どきりと、したのか。ぎくりとしたのか。
解らないままマオに見つからぬよう、体の影で刀身を鞘にそっと収めた。
今更ながら、どうかしていた。
マオが寝ている横で、大の男がふたり、剣をとりあうなんて。
「…具合が悪いのですか」
「ううん、ちょっと…眠くなっちゃって」
体を起こしながら、こどものような仕草で目元をこするその隣りに近寄る。
まだ眠そうな顔にかかる乱れた髪を、そっと耳にかけてやると、マオがその目を丸くした。
「…どうしたの、クオン」
「なにがですか」
「…や、なんか珍しい顔してるというか…」
ギシリと、ベッドが鳴る。増えた自分の体重の分だけ、軋むベッド。
壁についた手の中から、マオが自分を見上げる。その瞳が揺れた自分を映していた。
部屋の隅、カンテラの橙色の明かりが作る濃い影が、隙間を埋める。
「どうして、泣きそうなの…?」
すぐ目の前。吐息がかかるほどの傍に近づいても、マオは警戒する素振りはない。
無防備過ぎるのだ。分かっていない。男というものを。
もっと他人より自分の心配をすべきだ。
「……なんでも、ありません」
「そうは、見えないけど…」
食い下がるマオの視線から逃げるように、その細い肩に自分の額を預ける。
マオが一瞬だけ体を強張らせ、その間で動揺が伝わり内心ほっとした。
困るのだ。すべてを許されてしまっては。
「…以前、言ったことを」
「え、う、うん…?!」
まだ尚離れない距離にか、戸惑ったままのマオの大げさなくらいに上ずった返事に思わず苦笑い。
その吐息が首筋をかすり、マオが小さく身じろぎをした。その反応が、自分の腹の内の得体の知れぬ内臓を掴む。
噛み付いてしまおうか。そうしたらすぐにでも、結界の外に追い出されるだろう。
それは止めておく。
自分はこの少女の、敵ではないのだ。
「イベルク港の隠れ家で、以前貴女に言ったことを覚えていますか」
ようやく体を離した自分にマオはあからさまにほっとし、自分の言葉に耳を傾ける。
「えっと…なんのこと? あたしがクオンに怒られた話?」
自分の腹の内とは反対の、気の抜けた笑みを浮かべてマオが答える。
なるほど自分はそういう印象なのか。まぁ当然だろう。確かに出会ってからこれまで、怒ってばかりいる気がする。
「武器も従者も、主の為に消費されるものであると。それが臣下の役目だと、そう言ったんです。私は」
――以前。マオに言ったのだ。
殿下の為に――ジェイド様の為に死ぬべきだと。
それが臣下の義務であると。
「取り消します。確かに貴女は殿下の臣下ではない。あなたがその命をこの国の為に差し出す必要は、ありません」
「…クオン…?」
「貴女は言っていましたね。殿下を、守ると。その心だけ、忘れないでいてくだされば…後は何も要りません」
イリヤの言っていたことは正しい。
マオには帰るべき場所がある。きっと待っている人も居る。
この国が、この世界が自分にとってそうであるように、マオにもきっと。
「例え誰の為であっても。それだけは決して選ばないでください、マオ」
この国を、殿下を守るのは我々の役目だ。マオの役目ではない。
今ならそう言える。あの時とは違う、今なら。
すぐ近くで、マオのその瞳が揺れていた。零れそうなくらい大きく見開かれた瞳。そこにはおよそ自分では想像もできなかったような顔をした男が映っていた。
マオが戸惑いながら、自分の言葉の意図を探ろうと考えているのが見てとれる。今この瞬間だけは、自分のことを。
片目の視力はむかし失った。それが今は惜しいと思う。
「…私にも」
言って、詰めていた隊服のボタンを外しシャツの前を広げて、肌を露出する。
それからその細い手首をとって、触れさせた。びくりと体を震わせて、だけどされるがままに肌に触れる。振り払うことをマオはしない。
「描いてください、刺青。マオ、貴女の加護を」
失うわけにはいかない。
殿下にとってマオの存在の大きさは、おそらく自分が想像する以上だろう。
レイズにとっても、イリヤにとっても、そして自分にとっても。
マオはもとの世界に帰す。必ず生きて。
「…なんか、その言い方だと…あたしが死ににいくみたいだよ」
ぎゅ、と。心臓の上で拳が震えた。
小さな苦笑いと、杞憂をわらうような瞳が自分を見据える。
マオにその気がないなら、それで良いのだ。
ただ自分の気持ちを、伝えておこうと思っただけだ。決して邪魔のはいらない、それは今しかないような気がしただけだ。
「…そうですね。でも。言っておかないとマオは、すぐ忘れますから」
「その言い方、シアみたい」
そう言ってようやく笑ったその顔は、おそらく。
決して自分に向けられることはないのだろう。
それからマオはそっと自分の胸を押し、少し退くように促す。
するりと腕の中から出て、近くのテーブルに置いてあったお椀を持ち、また帰ってきた。
「これ、固まっちゃったの…溶かせる?」
差し出されたそれは、刺青用の顔料。
こくりと頷いて、翳した手の下でお椀の中の顔料が液体になった。
そのお椀の中に、マオが指先を浸す。人差し指と中指。
再び今度はマオの意思で、自分の露出した肌に触れた。位置を確かめるように、肌を滑る指先。思わず僅かに体が反応するも、努めて顔には出さない。
真剣なその瞳には、強い光。強い力を感じる。
これがマオの、神の力の片鱗。
「…正直言うとね。おかしいかもしれないけど、今は…この世界の方が、大事なの。あたしにとって」
ぴたりと。顔料を纏った濡れた指先が、定められた位置に宛がわれる。
見逃さないよう、聞き逃さないよう研ぎ澄ます。
「だけど、どっちの方が、とかじゃないって分かってる。どっちも大事。だから」
ゆっくりと、顔料を塗りつけながら、象られるその心。
触れた部分がじわりと熱を帯びるのを感じた。初めての、熱。対処の仕方など分かるわけない。
「大丈夫、死なないよ。だってクオンが守ってくれるんでしょ?」
「ええ、必ず」
それだけは誓えた。
この命は我が主――ジェイド様に。
だけど。この、心は。
即答した自分に、マオは少し呆れたような、苦笑い。その瞳が濡れて揺れる。
少しでも心の糧になると良い。いつか本当に、その選択を迫られた時――少しでも思い出してもらえるように。
指先に篭る熱。最後の紋様を固く結ぶ。
その力と誓いを以て、この心臓に刻まれていく、彼女の心の証。
「あ、シーツに垂れちゃった、怒られるかな、レイ――」
その名前を感じ取って、気が付くと右手でマオの唇を塞いでいた。
瞬かれる瞳。自分でも咄嗟の反応だった。
その名前を呼んだら――邪魔される。結界が解かれる。本能的にそう感じたのだ。
「…クオン?」
不思議そうに、手の平の下でその唇が、自分の名前を呼ぶ。触れている吐息とその感触。
無意識に、吸い寄せられるように。顔が近づいていく。距離が埋まっていく。
彼女が…この世界で最後に名前を呼ぶのは、誰だろう。そんな考えても仕方のないことを考えていた。
そしてそれは、自分ではないのだろう。
それだけは分かった。
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