3


「……そうか」

「うん、ありがとう、レイズ。この船い置いてくれて。とても助かったし、命を救ってもらったことは感謝してる。恩を返しきれなくて、ごめん」


 言ってレイズに向かって頭を下げる。結局あたしはこの船で、ほとんど何の役にも立たなかった。


「…バカ、頭上げろ。おまえにはこっちも助けられた」

「そう、かな…何もしてないよ」

「航海の途中で専属の魔導師を失ったのは俺の責任だ。海の真ん中で魔導師の保護を失うのは船乗り達にとって恐怖だ。おまえの存在は船員達の心を支えてくれた。おまえに出会えたのは、俺にとってもこの船にとっても幸運だった」


 いつも意地悪顔のレイズが、そう言って少し表情を崩す。それを見てあたしもようやく少しだけ心が晴れた。握っていた拳と頬が緩む。

 それからレイズは表情を引き締め、ルチルとレピドに向き直る。その手がバンっと勢いよくあたしの背を叩いて。


「マオの降船を許可する」


 レイズの言葉にふたりは頷いた。


「サー、キャプテン」


 じんと熱くなる背中。それと同時に目の奥が熱くなる。こんなの不意打ちで、ちょっと卑怯だ。レピドとルチルが目の前で優しく笑いかけてくれて、なんとか泣くのは堪えた。


「残念です、マオ。皆あなたを気にいっていました。ジャスパーが寂しがります」

「レイもな。ふたりのかけあいを見てるのは楽しかった。船を降りてもオレ達は家族だ、忘れるな」


 この船の数十人いる船員の中ではここに居る3人とジャスパーが、一番あたしを気にかけてくれていた。いきなり来たあたしを、本当の家族みたいに。

 この船の人達は皆、他人のあたしに優しくしてくれた。それが本当に嬉しかった。


「つってもまぁイベルグまではまだある。港まで気を抜くなよ、マオ」


 そう言ったレイズの言葉と


『――マオ!』


 あたしを呼ぶその声があたしの耳に届いたのは、ほぼ同時だった。


『何か来るぞ…!』


 それは船のマストに居た白いカラスから、直接あたしの元へと届いたシアの声だった。聞き間違えることのないその声。その声はあたしに、あたしだけに聞こえている。

 緊迫感を纏ったそれにひかれるように、ブリッジの窓から船の前方に視線を向ける。違う、ほぼ無意識に、吸い寄せられるように。意識がそこに向かう。


「――マオ?」


 怪訝そうなレイズの声が、遠い。ビリビリと、指先が震えた。

 鼓動がはやまる。こんな感覚は初めてだった。

 視線の先には、快晴の空。船の柱にかかる旗が風に揺らめく。


「レイズ」


 あたしの様子にレイズが何かを感じ取ったようにルチルとレピドに目配せした。ふたりはそれを受けてすぐさまブリッジから駆け出ていく。


「――くる」


 あたしがそう言ったのと、外の風が止んだのが、ほぼ同時だった。


「総員、配置につけ!」


 いつの間にか甲板に出ていたレイズが大声で叫んだ。いくつもの足音と物音が船の上を駆けずりまわっている。

 初めてのその緊張に、ふらつく足であたしもなんとか甲板に出る。マストに居た白いカラスがほのかな光を放っていた。


「何が来る、マオ」


 あたしの腕を支えながら、レイズが低い声で尋ねる。レイズの顔は見れず、あたしの視線はその空に縫い付けられたまま。


「…わからない…だけど、このカンジは…」


 知らず体が震えた。この船に向かってくるその存在。

 それがただの人間じゃないことだけは確かだ。そしてその感覚に、覚えがあるのも――


「トリティアと、似てる――」


 次の瞬間、衝撃波が船全体を大きく揺らした。

 レイズがあたしを庇うようにその腕に抱く。飛ばされないよう、事態に呑み込まれないよう必死に、その胸にしがみつく。船全体が大きく煽られているようで、立っているのもやっとだった。

 落ち着け、冷静に。今この船に魔導師はいない。レイズも言っていた。魔力を感知したら、逃げるのみだと。“あれ”を迎え打てる者は、誰も――


「――おや、これは…」


 衝撃が落ちたのは船の甲板の真ん中だった。うっすらとたつ砂煙。そこに揺れる人影は、みっつ。


「当たりと外れ、どっちかな。まさか海神トリティアがここに居るとは」


 全身を黒いフードとマントで覆ったその人物の、顔は見えない。声音を聞く限りは温厚そうな青年の声だ。その声の主が一歩、船を踏む。先ほどの衝撃でそこらじゅうに船員たちが倒れていた。


「おいコラ、アンタに出て行ってもらっちゃあ困るって。ひっこんでろ」


 先に出たその人物を押し返すように、後ろのふたりが前に出る。最初の青年は「そうだった」とおどけるように言って後ろに下がった。


「契約“済み”か?」

「まだのようだ。本当にどうしてここに、居るんだろうね?」


 出てきた黒いフードの男が、ふたり。体格はまるで正反対だ。線の細い影と、筋肉質を思わせる大きな影。顔は見えず、視線がどこに注がれているのかも分からない。

 だけど、分かる。彼らが話す存在がどこに居るのかを、あたしは知っているから。


「マオ、俺から離れるな」


 あたしを背に庇いながら、レイズが唸るように言う。言葉にはできずも頷きながら、とっさにスカートのポケットに手を伸ばした。

 シアからもらった、短剣。

 影の大きな男と、レイズの視線が交差する。


「その女を渡せ、そうすれば船にも他の人間にも手は出さない」

「海賊相手に、ナメたことを言ってくれる」

「なるほど海賊船か、ならば――」


 レイズと対峙した男が、腰に手を伸ばす。すらりと閃光が日の光に反射した。


「奪うまでだ」


 その男がレイズに襲いかかるのと同時に、あたしは後方へ突き飛ばされた。

 金属のぶつかる激しい音。体格差からレイズが数歩押され、それでも踏みとどまる。甲板の床がみしりと鳴って、大きく揺れた。

 レイズが背を向けたまま叫ぶ。


「ルチル! マオを船の奥へ!」


 思わず尻もちをついたあたしを抱え上げたルチルが、次の瞬間には船の後方に吹き飛ばされていた。

 今何が起こったのか、分からない。一瞬抱き上げられた体は重力のままにまた落下する。


「…っ!」

「ルチル! …くそッ、マオ!!」


 はっと目を開けると、自分に落ちる影。見上げたそこには黒く長い裾がはためく。

 いつの間に、一体、どうやって。

 ごくりと喉が鳴る。

 振りかざしたその手には、剣。下ろされるその先に居るのは自分だ。


「――!」


 咄嗟にポケットから短剣を取り出し、両手でそれを目の前にかざす。その瞬間、バチリと電流が四方に走り、相手の太刀を薙ぎ払うと共にフードを攫った。衝撃によろめいた相手は、それでもひくことはせず体勢を立て直す。


 使えた、威力はわからないけれど。防護の魔法。

 だけど使えるのは、一度だけ。あたしにはもう、何も――


 ――名を


「…!」


 声、が。こんな時に限って、見計らうように。勝手だし卑怯だ。


 ――選ばなければ。この世界に来たとき既に、その選択は迫られている


 そんなこと選びたくない。あたしは欲しくない。だって力を手にしたら、いきつく先はひとつでしょう?


 黒いフードが脱げた相手の顔が晒されるも、見下ろすその顔は逆光でよく見えない。おそらくメガネであろうレンズの、反射する光だけが体に刺さる。

 もう一度振り上げられる、その腕。


 ――マオ


 やめて、こわい。あたしはこんなこと、望んでない。戦いたくなんか、ないよ。


 ――だったら奪われるだけだ。かつての尊厳のように


 奪うのは、だれ?

 奪ったのはあんたでしょう?

 あたしの世界を、平凡を、日常を。


 それでも。どんなに勝手で卑怯で理不尽でも、ここで死ぬわけにはいかない。

 死んだら帰れなくなる。全部まだ、置いてきたまま。

 約束した。必ずまた、会おうて。


「――――…ッ、トリティア…!」


 目の前でかざしたままの短剣の、鞘を抜く。それは無意識のことで、本能的な行動に近かった。


「だったらどうにかしてみせてよ!」


 現れた刀身が、光を帯びる。どうして、短剣のはずなのに。鞘から抜いたその刀身は、既に鞘の倍以上。銀色の鞘がカランと床に転がる音が遠くで聞こえた。


 ――それは、マオ。きみの役目だ


 引き抜いたその勢いのまま、剣を払う。薄く長い刀身は透明で、まるで重さなど感じなかった。


「!」


 だけど目の前に居た黒いマントの男は完全に不意を突かれ、突如現れたその刃に咄嗟に身をひく。僅かばかり間に合わなかったその胸元に切っ先が走り、マントの下があらわになった。肌には届いていない。白いシャツと、翻る青。


「成立したか」


 ぼそりと落とした声は、まだ若い。自分と同じくらいに思える。

 自分から数歩離れてこちらの様子を伺うその男の胸元に、思わず目をみはる。そこに見覚えのあるものがあった。


「……うそ」


 カタチだけでなんとか剣を構えるも、意識が集中できない。

 だって、それは。


「…! お前、その制服…まさか…」


 混乱するあたしを見ていたその目が、ようやくあたしの全身を捉える。あたしもそこでようやく相手の顔を見ることができた。

 はじめて見る顔。当たり前だ、この世界に知り合いなど居るわけない。だってここは、違う世界なのだから――


「…碧永沢とがさわの生徒か?」


 黒いマントの下に覗くその服装は、私立 碧永沢とがさわ学院の男子生徒の制服。白いシャツの胸元に縫い付けられた校章が、その証。あたしが着ているセーラー服の胸元にも着いている。全く同じ、校章が。

 つまり、彼は――


「どうやら同じ場所から来たみたいだな。だけどオレはもう、あの世界は捨てた。オレは今、アズールに属してる。アズールフェルの魔導師・リュウだ。お前は?」


 今、目の前でリュウと名乗ったその人物は

 あたしと同じ世界の、しかも同じ学校の生徒で

 そして今、あたしの目の前で異世界の人間として、あたしに刃を向けている。


「……名乗れないのか?」

「…待って、頭が、追い付かない…」


 混乱する頭をなんとか落ちつけようと試みるけれど、余計に思考回路はこじれる。

 リュウは、どうしてここに? あたしみたいに、誰かによばれて?

 アズールの魔導師だと言った。それはつまり、シェルスフィアの隣国で、今最も関係が注視されている国だ。

 そのリュウ達が、この船を襲った。それってとっても、マズイ状況だよね…?

 そして、そしてリュウは――


「…戻る気が、無いってこと…? もとの世界に」


 ようやく口にしたその言葉に、リュウは向けていた刃を下ろした。ひかれるようにあたしも形だけで構えていた剣を下ろす。


「ああ。戻る価値などない。オレはあの世界には何の未練もない。お前は、戻りたいのか?」

「だって、あそこは…っ、生まれ育った場所じゃない…!」

「随分狭い価値観で語るんだな。それだけだ」

「ここには誰も居ないじゃない! 家族も、友達も…、誰ひとり…!」

「生憎もとから居なかった。あっちはとても、くだらない世界だったよ」


 見下ろすリュウの、その瞳。メガネのレンズ越し、なんて冷たい色。

 じわりと焦がれる。何かがひかれる。


「ひとりで生きていくのに、生きる場所など自分で選べる」


 ――あたしも。

 ひとりで生きていけるのなら、どこでも良いと思ってた。

 あの世界にはもうあたしの居場所など、どこにも無いと、そういつも感じていた。


 あたしが居なくても足りる〝家族"

 上辺だけの希薄な〝友達″

 いつもどこか、何かが欠けたように埋まらなくて。

 はやく大人になれたらと…

 誰とも関わらず、干渉せず、ひとりで生きていけたらと

 ずっとそう、思っていた。


 置いてきたものなんて、あった? あの世界に。

 あたしが帰りたいと、思った理由は?

 ここに居たくないと、思った本当の理由は――?


 何も返せない。上手く言葉が出てこない。リュウの瞳があたしを見据える。それからどこか呆れたように、笑うのがわかった。


「お前は選ぶことすらしていないな。心を半分、あっちに置いているのか。そういうヤツが真っ先に死ぬんだ、この世界では」


 見透かされたようなその瞳。思わず逸らしたその先で、リュウの手元から先ほどまで握られていた剣が消えていた。

 くるりと背を向けたリュウが、レイズと剣を打ち合っていた男の方に向かって歩き出す。


「アール、いったん退こう。状況が変わった」

「マジかよせっかくのお楽しみだったのに! いいのかよエル!」


 すたすたとその横を通り抜けるリュウに返しながら、アールと呼ばれた男は後方で様子を見守っていた青年に首だけで振り返る。エルと呼ばれた男は、自分の隣りに戻ってきたリュウに視線を向けた。


「いいのかい、リュウ」

「今あれとやり合うのは厄介だと判断したんだ。海神を受け入れたばかりのあの未熟な器では、力を安定して使えない。想定外の力に巻き込まれでもしたら本末転倒だろう。トリティアの情報も不足しているし、とりあえず出直した方が得策だ」

「いいだろう。アール! 戻ろう」

「ちっ、勝負は持越しだな、海賊船の船長殿。名を聞いておこうか、オレはアール」


 言って剣を払い、レイズと距離を置いて対峙する。レイズは払われた剣先を男に向けたまま、警戒と敵意の目で睨み返す。


「なぜ俺が船長だと分かる」

「周りの連中を見てれば分かるさ。いい船だな、壊すのが惜しい」

「させるかよ。俺はこの海賊船アクアマリー号船長、レイズ・ウォルスターだ」

「覚えたぞ、その名。次はその首をとる」


 フードの下でにやりと笑い、アールと名乗った男はリュウ達の元へと踵を返す。この場の撤退が伺えた、その時だった。

 白いカラスがふわりとあたしの肩に舞い降りた。シアの声は聞こえないけれど、未だその体は淡い光を放ったまま。その存在をすっかり忘れていた。

 茫然としたまま見つめるあたしに、カラスは何も返さない。その視線はまっすぐエルと呼ばれた男だけに注がれている。

 白いカラスの視線を受けて、その男はこちらに向き直った。思わずびくりと身構えるも、あたしのことなど眼中に無いことに気付く。


「――リシュカの使い魔だね。交信魔法が発動している」

「気付いていただろう、エル。始末して行かなくていいのかあれは」

「もう遅い。それに、好都合だ」


 白いカラスの向こうには、おそらくシアが居るはず。そこでずっと、見ていたのだろう。

 エルと呼ばれていた男が、おもむろに自らのフードを外した。あらわになる、その相貌。


「――…!」


 その顔を見たレイズと、それから船員たちの息を呑む気配が聞こえた気がした。

 口元に笑みを浮かべたその顔。

 誰だろう。どこかで見たことがある気がする。誰かに似ている気が――


「ジョナス殿下…!」


 零れ落ちるように口にしたのは、エルの顔を真正面から見ていたレピドだった。その顔が、蒼くなる。

 その名前は、ついさっき聞いた名前だ。そう、〝ここに居るはずのない″人の名。この国を追放されたはずの、シアの義理のお兄さん――


「シアン。そこに居るんだろう、リシュカも。きみがアズールフェルのシルビアとの婚約を断ったことで、その座が僕にも巡ってきた。僕はアズールの王になる。そして次は、シェルスフィアだ。

この海を統べる為、僕は戻ってきた。この国に――」

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