トッケイ!~特殊警備課の事件記録~

鱗青

金曜午後のアップルパイ

ベースその1 パレードで林檎



  観光客を満載した二階建ての観光バスが銀座の人波を押しのけるようにビルの谷間に引っ込んだ折しも、祝砲の音がお祭り騒ぎに興じる人々の頭上で高く弾けた。

 首都・東京はあいにくの曇天だったが、有楽町の三越を新橋方面へ抜けたはるか向こう、汐留に近い交叉点から始まったパレードのブラスバンドの演奏は、陽の光の翳りなど無縁に威勢良く響いている。

 パレードの進んでいる道路の両側からは、激しい雨だれのようなカメラのフラッシュ音、歩道から溢れそうなほどの人の歓声、嬌声、喚声。時折メガホンで「車道にはみ出さないでください」「そこのお父さん、ファインダーを見るよりも、お子さんの安全を見ていてください」といった注意が触れられる。

『ほら昴見てごらん。妖精達の行進だ。こんな日に行き合って、お前はラッキーだったなぁ』

 幼い日のこと。私の瞳の中に広がった幸せな景色。

 めくるめくパステルカラー、寄せては返す光の束、美しいパレード。着ぐるみもハリボテも特殊メイクも、作り物とは思ってもみなかった。現実と空想のあわいは取り払われ、そこには確かに夢と希望に満ち満ちた世界が具現していたのだ…

 そして現在、あれからほんの20年。大人の側に立った私は、現実とは大変に厳しいものであると思い知らされている。

 私は茫洋としたゆくりない連想から立ち帰り、ブラスバンドに引きずられて歩き出す。ジブリの挿入歌という選曲が観衆にも好まれてか、手拍子もちらほらと起こっている。

 舞い降る紙吹雪に視界を遮られるが、危なげなくパレードに足並み揃えて前進。動きづらいし呼吸も制限される。が、この先に待っている胸のすくような捕物を褒美と思ってこらえるしかない。

 この着ぐるみは何の因果なのか巨大なプリンを背負っているという設定なので、私もまた原形に忠実に再現された総重量20Kgのプリンのハリボテを担いでおらねばならず、任務遂行の妨げにならないかという危惧が甚だしい。

 そもそも、身長1メートル83センチの日本人にしては大柄な私に着られる着ぐるみは、これしかなかったのが問題だ。今後の捜査のために面が割れるのを防ぐとはいえ、戦隊メンバーの方が向いていたと思うのだが…

「こっちにも、風船ちょーおだい!」

 中身は汗水垂らした阿修羅のような形相の私だが、無邪気な子供達からしてみれば大きなウサギちゃんの人形なのだ。着ぐるみの中で無意識に苦しい笑顔を作り、ひとかまたりの子供達に風船を配る(どこかぎこちない動きなのは許してもらいたい)。

 と、悪ノリした男の子達に背後へ回り込まれ、ふくらはぎへ渾身の蹴りを入れられた。思わず「ぐぇっ」と声が出る。

 視界を狭めんとする被り物が邪魔さえしなければ普段なら造作もなく回避するのだが、まともにふくらはぎに食らってしまい、膝をついた。

「ウサギちゃん、だいじょーぶ?」「へーきだろこんくらい。どーせなかにはオトナが入ってるんだぜ」「そーそー、大体きったないおっさんが入ってるんだよな」「ほら立てよー!おっさん!!」

 私は膝をさすって立ち上がる。はじける無邪気な子供達の笑い。たしなめる親たちの口調も顔も、同情と哀れみはまとわせているものの、どことなく真剣味に欠ける。

 私は自分を蹴った無邪気な男の子の頭を撫でてやった。

「愚かな行為で君の勇気を無駄遣いすることはない。友達が君の力を必要とするときまでとっておけ。そうすれば本当に君は、誰よりも強い男になれる」

 威風のこもった私の低音の呟きで、瞬間冷凍されたようにかしこまるその子を後に、私はまるで何事もなかったかのようにめげずに風船を渡していく。

 雑踏の中には何体もの動物のぬいぐるみ達がいる。プリンウサギの私から少し離れたところにはまさかりを担いだパンダがいて、先刻から人目を引いていた。

 そのパンダは私などとは打って変わって楽しげである。プロの演者が妙技を披露しているといったところか。まさかりに回転を加えて高く空中に投げ上げたり、キャッチしたところから身体にくっつけたまま頭や肩や指先で回したりもできるようだ。ああいうのを確か看板曲芸サインスピニングというのではなかったろうか。

 あちこち目まぐるしい動きでおどけ、ひょうきんなボディランゲージで子供達が湧いている。…別に子供に好かれているからといって嫉妬なぞしないぞ、絶対に。

 私、斑鳩いかるがスバルは細く撓められたフェンシングの刃のようだと同僚に言われる酷薄な視線を一層鋭く凝らした。

 私が質流れで手に入れた宝石に不純物があるかどうかを見極めようとする鑑定士さながらの眼差しを投げかけているのは、他ならぬこの群衆だ。

 寒波から解き放たれた晩春のなか沿道になびく人々は、色づき始めた樹々のように活き活きと眩しい。今日の気温が3月の下旬の最高気温を更新したこともあり、薄着でいられる老若男女は幸せを表現しているようだ。

 だが、気を緩めてはならないと両脇を締める。武者震いが私の腕を這い上って肩まで達する。

 眼に映っているのは至って安穏、希望と平和とを絵に描いたような光景なのだが、この内のどこかに潜んでいる筈なのだーーー決して見逃してはならない標的が。

 こんな締まらない着ぐるみを隠れ蓑にしているが、私は捜査官だ。それも元はといえば荒くれで名高い第八機動隊の経験者。

 警視庁刑事部第一特殊警備課、略して特警の警部補にして、先ほど申し述べたように身長は1m83㎝、体重は77㎏。その重みのほとんどが筋肉であると言えば自慢たらしいので好きではない。むしろ水泳訓練では脂肪率が低すぎてろくろく浮かび上がれず、はては泳ぎ方すら限られるので閉口しているのだ。

 長く長く引き伸ばされたパレードのそこかしこでは、熊に兎に犬猫などデフォルメされた動物のキャラクターの縫いぐるみが愛想を振りまいている。

 風船やキャンディを配り歩いている大きな動物達。私は少しく苦笑する。

 笑みが漏れずにはいられない。そうではないか。さながら遊園地テーマパークめいて可愛らしい着ぐるみが溢れる和やかな光景を一皮剥いた裏側では、熱い正義感に燃えている警視庁のむくつけき猛者どもが、角ばる身体を押し込めているのだから。

 宴会の余興ならいざ知らず、なんと不恰好で可笑しい任務であることか。

 そして御多分に洩れず私自身が、お耳の長ぁい兎さんの着ぐるみを筋肉の上に纏っているのだ。

「それにしても、きついな…」

 ついひとりごちて、その軟弱な物言いに人知れず赤面する。

 こんな泣き言じみた台詞をもし亡き父親が聞いたなら、「お前は普段は弟に威張ってばかりおるくせに、着ぐるみ人形の窮屈さに耐える根性一つ見せられんのか。そんな体たらくで儂の後裔だなどと呼ばわれるのは心外。即刻官憲など辞職しろ」と叱咤するだろう。

 とはいえ、私の体格にこの着ぐるみは小さすぎる。急ごしらえで手直しすることができなかったから仕方ないといえばそれまでなのだが…

「しかし…これはなんとも…せめて前の方だけでも……」

 くぐもった声を漏らしながら、着ぐるみの前の方、更にいえば上の方をもぞもぞと引っ張っていると横からハイトーンの声が心配げに聞いてきた。

「どしたんすか先輩?腹痛ハライタっすか?」

 ひょいと視界を妨げてきたのは、仮面ライダーと体操選手を足してさらにディズニー映画の王子様を乗算したような巫山戯た格好の男だった。

 昨年末から某民放で放送が始まり人気を博しているヒーローものの番組、『正義戦隊刑事デカリオン』。毎週日曜日の午前中、腕白小僧やお転婆少女を夢中にさせ、かつ彼ら彼女らを膝に乗せる奥様方も魅了されているという、二枚目揃いの役者をす人気番組だ。どの曜日のどの番組も軒並み視聴率が低迷しているこのご時世にあって、30%を超える高視聴率を稼いでいるという。

 その番組の主人公、普段は大人しく美術館のキュレーターなぞをしているが一朝事あるときには勇ましいヒーロー変身するキャラクターが用いるスーツを身にまとい、番組の設定と同じように額と目元だけを仮面から出している青年。

 面相の下半分が隠れていても若笹の眉の下の涼やかな目元と高い鼻筋でキャラクターにふさわしい美形だと判る、大村米太おおむらべいた。彼もまたれっきとした警察官で、私の部下に当たる…形式上は。

「ダメっすよ先輩、そんな身体をまさぐってるみたいなエロい動き。子供達が真似したら困るでしょうが」

「ち、違うんだ大村。これはちょっとその、私の……分かるだろう?」

「ああ!そうですか」

 分かってくれたか。これを口に出すのはさすがに私とても羞恥心が疼く。

 大村はそっと口許を手で衝立し、私に囁いた。

「大丈夫っすよ。トイレだったら次のポイントまで先回りすれば駅ビルがありましたから。僕ちんが案内するっす。そこまで我慢し」

 みなまで言わせるものかと鉄拳でつむじあたりから頭を叩き落す。

「馬鹿もん!そんなものではない!胸がきついんだよこの着ぐるみが」おっといけない、ボリュームを下げて…「あとトイレの話題を簡単に振ってくるな、無神経なやつめ!」

「ああ…なるほどでした」

 イテテとヘルメットをさすりつつ、まじまじとこちらを観察する大村の遠慮のない視線。ブリーチをかけた前髪をかきあげてこう言い放った。

「巨乳っすもんね、スバル先輩!」

 ぷっちん。かの有名なプリン菓子の如く、私の繊細なアンテナが折れて中味の憤怒が飛び出した。

 子供達にこの場を借りてお詫びしよう。昼日中の路上で同僚警官の頬に右ストレートを入れて吹っ飛ばしたウサギは私です。残念な事実でありました。大変申し訳ない。ぺこり。着ぐるみのままで失礼。

 しかし、だ。痩せても枯れても、腹筋が8つに割れていても前鋸筋がゴツゴツ肋の後ろに浮いていても、上腕二頭筋も僧帽筋も大腿四頭筋も腓腹筋もどこもかしこも盛り上がっていても、女は女だ。

 そう、私はーーー斑鳩昴は24歳、花も恥じらうほどではないが乙女なのである。

他人よりも若干大きい胸囲バストや排泄にかかわる事柄を直球で言及されたら、それはちょっとばかりは赤面したりもするさ。

 そう、私はかつて警視庁第8機動隊に入隊した史上最年少にして初の女性警官だ。昴という名前は、父…交番勤務で地域から親しまれる稀有な人徳者であった斑鳩義照よしてるがつけてくれたものだ。

「ひろいっす斑鳩先輩、ぼふひんは今、捜査官大村米太ではなくヒーローなんふよ。着ぐるみキャラがヒーローほなふるなんへ反則っすよ」

 頬をさすりながら戻ってくる大村。上顎が腫れてしまって若干台詞が間延びしてはいるが、私の拳をまともに受けてその程度で済むとはさすがにタフだ。この打たれ強さと素直さと明るさがこの経験思慮共に浅はかな後輩の取り柄でもある。

「気を抜いてないできりきり歩け。私達の働き如何で犠牲が出ないとも限らんのだからな」

「でもですよ、やっこさんやりますかねえ、ここで」

「やるさ。間違いない」

 私は自分と大村が演じたコントがざわめきの中にうまくごまかされたことにホッとしながら行進に従う。ここで標的にこのパレード自体が罠、警官の集まりだと看破されたら元も子もないのだ。

「奴はーーー『都会のリンゴ』は必ず何かしでかす。そう分析されたのだからな」

 『都会のリンゴ』ことフランシス=クランプトン、男性で英国生まれ、推定年齢35歳。本名より通称のほうが悪人列伝を賑わせ世界に轟いている、押しも押されぬ危険人物。

 コードネームの響きこそ牧歌的だが、世界の法治国家から平安を乱すものと警戒されており、世界警察からは危険度Aダブルを付与された犯罪者。

 その犯行の特性は、爆弾狂アップルクラッカー

 もともとはイギリスの孤児院で育った在野の天才爆破技術者だったのだが、高等教育機関に籍を置いている間から様々な火薬を駆使した犯行イタズラを重ね、それがバレるや裏の世界に身をとした。

「僕ちんよく分からないんですけど、その分析って確かなんですか? 警視庁の犯罪発生予想プログラムワトソンの予想では銀座ポイントの出現確率メチャ低だったんでしょ?」

 ああそうか、大村は新卒採用でうちの課に配属されたばかりだから、まだ今回の分析を担当した「警視庁きっての名物課長」であるあいつのことを知らないのだな。ならばそう訝しむのも無理はない。

「ワトソン?あんなもんアテになるか。コンピューターは所詮コンピューターだ」

 今年に入って警視庁に導入された、スパコンを超えたスパコン、ニューロン基盤を内部にみっしりと這わせた新世代コンピューター、ワトソン01号。

 その虎の子が稼働させるメインプログラムは、古今東西の犯罪者の情報と分析を組み合わせることであらゆる犯罪の発生予想を可能とし、プロファイリングにおいては心理士が百人いるより頼りになると言われている。

 それに盲従することを厭うているわけではないが、私はスパコンよりも名物課長、つまり璐美のほうを信じる。いや…信じざるを得ない。

「またまた時代錯誤な。そんなこと言ったらうちの課の分析官だってただの人間でしょ」

 ただの人間ーーーーーーーか。

 私は深く息を吐いてかぶりを振った。どうやらこの後輩の、あいつに対する評価はまだ軽すぎるようだ。遅からず己の認識の甘さを思い知ることになるのだろうが、今はそれを待っている余裕はない。

「いいか大村…」

「はい?」

「私達の課の責任者をただの人間と思うな」

 はふ、と間の抜けた音が大村の口から聞こえた。

「天流神をそこいらのエリート警察官僚キャリア組と同列に捉えてはいけない。官僚は掃いて捨てるほどいる上に、なるほど現場では威張り散らすばかりで使えん奴らだ。しかしな、天流神は警視庁で、いやこの日本でただ一人しかいないーーーほとんど超能力としか呼べない悪魔的な推察力を持っている。多少非常識なところがあって、つねに周囲に災厄を振りまいてはいるが。それだけではなく恩義に欠けて礼節を軽んじる砂糖中毒者で、他人が困ろうが悩もうが我関せずなエゴイストで、私がこれまであいつの肩代わりに片付けたトラブル、貸しにしてきた様々な助力すら飽き足らず、入庁以来これまでにも増して膨大な面倒ごとをなすりつけてくる忌々しい奴なんだがな」

「…なんか後半部分が、斑鳩先輩の愚痴みたくなってるっすけど」

「ともかくだ」私は咳払いをし、沿道の子供らに手を振ってやる。「そんな数限りない欠点を備えたあいつのたったひとつの特技が犯罪分析なんだ。それ以外では一切役立たずだがな」

 へぇー、そうなんすかと言う大村。本当に分かっているのかどうかは定かではないが、こいつが私を評価していることだけは確かなので、そこを押し込む。

「いいか、この私が言うのだからな。天流神あまるがむ璐美ロミーとはそういうものだと心しろ」

「…了解です」

「よし」

 分かってくれたのなら良し。この大村も多少粗忽ではあるが根は良い男だ。何より女であるというだけで実力を評価せず謂れのない侮蔑すら買うことのある男ばかりの組織において、私に対しきちんと隔てなく(なさすぎるのが玉に瑕だが、先程のトイレ発言のように)接せられるというのは得難い美点だ。

「あの疫病神…もとい天流神に対する認識が共通できたところで定時確認だ。路美と通信をとってくれ」

 私は背伸びしてパレードを見はるかした。前端が遠すぎてどのあたりまで進んでいるのかわからないが、そうなっても構わないように散らばった捜査員は各自の集団内での定位置にいるはずだ。

「それなんですけど先輩。僕ちんそれを報告しようと思って来たんです」

「ん?そういえば大村は右翼中後方にいるはずだったな…」嫌な予感がザワリ私の胸をよぎる。「まさか」

「さきほど、パレードが始まってすぐに天流神課長の通信が入らなくなりました。多分、ってゆーか十中八九自分でインカムのスイッチ切ってますね」

私は普段ならあり得ないことにクラッときてふらついた。「あ…あ…あ」足を踏みしめてこらえる。

が、我慢の方はこらえられなかった。

「あんの糞馬鹿者ぉぉぉぉぉ!!」



 数日前のこと。

 天井に設置された古めかしい照明付きのプロペラシーリングファンは、室内に流れる曲に完全に合わせたリズムで回転していた。

 これもまた年代物のオーク材の壁板は音を反射する効果抜群で、遅い午前の控えめな朝陽を招く室内を、明るく懐かしい感じにいろどっている。

 こうしてややもすると怠惰に陥りそうな時間帯に起き出してシャワーを浴び、トーストにサラダの簡単な朝食を済ませて食後の飲み物の準備をしている時。

 それが私、斑鳩昴の至福のひとときだ。

 コーヒーミルに浅煎りの豆をザラザラと流し込み、BGMに合わせてシャンソンをハミングしながらハンドルを回す。挽かれる豆の抵抗感が手に心地良い。

「Je sais … est fini,J'ai perdu … Neanmoins je te pie,De m'accorder ma chance…」

 サン・トワ・マミ。原語で理解し歌うことができるというのはいいものだ。日本語訳も素晴らしいものだが、私はやはり仏語のちょっと気取った発音が好きだ。

 ひと束の濡れた前髪が雫に引かれて前に落ちる。私はそれをかき上げ、またハミングを続ける。

 私は自分の声が好きではない。女にしてはしゃがれた声だ、男のようだと昔からことあるごとにからかわれてきたからだ。…しかし最近は、とある男性から「渋いけど味のある響きだね」と言われたので、こうして一人でいる時などは我知らず口ずさんでみたりしている。…褒められたのが嬉しかったと言いたくはない。けども。

「にははははは。男からの褒め言葉ぐらいで気を良くするなんて、チミも安い女よのぅ」

 妖怪さながらの声で笑う悪魔のような腐れ縁…幼馴染と呼ぶのも近頃は嫌気がさしている…のツッコミがしたような気がして、私は思わず室内をぐるりと見回した。

 異常はない。あいつは、もしこの部屋に居たらというか、この世に居ることそのものが異常という存在なのだが。

 念のためもう一度。やはり居ない。当たり前のことにこんなにも安心して肩から息を抜く。まったく、鍛練を重ね、武道においては男共よりも秀でたこの私がたかが(悪)友の幻に怯えるなど。滑稽だな。

 ゴツゴツとしたグラスにかち割の氷がザラッと転がり落ち、とぷとぷと淹れたての珈琲が注がれる。

 グラスの持ち主としてふさわしい無骨な手が持ち上げ、やや鷲鼻がかる高い鼻先で飲み口が揺れる。たっぷりとモカの芳香を楽しんでからおもむろに一口含み、ゆっくり舌の上で転がしてから飲み下し、つぶやく………

「んんーむ、まさしく戦士の休息にふさわしい。素晴らしい休日だ」

 こうやって数杯のアイスコーヒーを飲み干し、それから読書か趣味であり日課でもあるボトルシップに取り掛かる。それが私、斑鳩昴の休日の過ごし方だ。

 私はこの春で警視庁勤務2年目、当年とって24歳だが、荒っぽい現場で揉まれた叩き上げのベテランだ。

 昨夜も遅くまで古巣の第八機動隊の援護要員として、スズメバチのバッジを胸にきらめかした屈強な男達に混じって活躍してきたばかり。入隊したての頃は毎日のように腕相撲や格闘の稽古をつけられ、女だから容赦すると思うなだの悔しかったら腕立て500回はこなしてみろだのとなじられたものだ。ーーー今ならその倍の回数はこなせるが。

 だがそういったものは男ばかりの隊がただ一人の異性に対して気後れ、あるいはどう扱って良いものか分からぬがゆえの粗暴な対応だったのだろう。女である以前に新人警官として、私は一切口答えも反論もせず、ただひたすらにそれら全てを鍛錬として飲み込んで来た。だから、私の「いま」がある。少なくとも私自身はそう捉えている。

 もし世の女性文化人やら女性政治家やらがその場に居合わせたとしたら、とんでもない蛮行愚挙の類だと攻撃の槍玉に挙げていただろう。そうならなかったのは幸運だった。これから、もしそういう機会があるなら、私が当時の先輩方を見習って厳しく後輩の女性機動隊員を指導せねばならない。

 とはいえ、今日はともかくも、休みだ。折角の休暇は十二分に楽しんで、もって鋭気を養うべし。

 シャワーを浴びたタンクトップ一枚の上半身にはまだ水滴が光る。数多の凶悪犯を取り押さえてきたハムのような二の腕、板のような僧帽筋、筋肉と乳房で深い谷間を刻む胸、畝のように盛り上がる腹筋。ジーンズは最大サイズだが、それすら窮屈なほど密度の濃い筋肉で覆われた脚。

 腰に手を当て音楽に癒されながら、さて今日はトルコ帝国の軍艦エルトゥールル号でも仕上げようかとリビングに続く書斎に目を向けると、卓上で携帯電話が震えた。

 相手を確認するまでもない。着信音が竹内まりやの「マイスイートホーム」ということは、これを設定してくれた家族が発信元だ。

「もしもし、私だ」

 途端にスピーカー部分から風を巻き起こして発信者が吠えた。

“私だじゃないよ!マンションそっちに居るならどうして電話してくれないんだよ!物騒な仕事なんだから、何かあったのかって心配するじゃないか!”

 着信音を設定してくれた肉親の、憤慨したテノールの台詞が耳朶を打つ。無意識に受話スピーカーをこめかみから逸らした。

「何もありはしないさ。昨夜は遅かったんだ。帰宅したのが深夜だったからな、起こすのも悪いと思って」

“そしたらメールの一本も打てばいいじゃないか!何も音沙汰ない方がよっぽど悪いよ!姉貴の分のちらし寿司、母さんが用意しちゃったんだからね!”

 送話器のむこうで「私は別に構わないわよー」というのんびりした母の声。それに対し「母さんがそうやって甘くするから姉貴がだらしなくなるんだよ!」という叱咤が聞こえる。

「済まなかったな。まぁ、その、なんだ」私は後れ毛をいじりつつ言い訳を探す。「今度は気をつけるよ。遅くなりそうな任務のときには前もってしらせておこう」

 私の7つ下の弟…都内の公立高の調理科に通う斑鳩いらかは、憤慨やるかたない声を出していた。立体映像でもないのにそこに唇を尖らせている表情がくっきり浮かぶほどだ。

“ーーーもうほんとにさ、色々しっかりしてよね。姉貴だって年頃の女の子なんだから……まさかまたタンクトップ一枚で部屋の中ウロウロしてたりしないよね?”

 まさにその通りなのだが。

「女の子って…あのな、私はそこらの男共よりずっと強いんだぞ」この歳の離れた弟の過保護な心配はときとして鬱陶しく、ときとしてくすぐったい。「なんせ庁内にも私にかなう男性警官はいな」

 甍が私の語尾をすくい取る勢いで言う。

“ーーーいない、って?柔道でも弓道でも薙刀でも右に出る者がいない、って言うんだろ?耳タコだってば。そんなの相手がスタンガンとか使うような奴だったら通用しないんだし、俺が言ってるのはそういうことじゃないんだよ”

 社会人である私に対してまだほんの高校生の癖に、甍は精一杯背伸びをして、分別めかした口調をしている。

“姉貴は自分の容姿に無頓着すぎるんだ。もし変な奴に写メ撮られてネットとかに流されたら大問題だろ?もとは良い素材してんだからさ、せめて璐美ロミーさんぐらいお洒落してくれよ”

 引き合いに出された名前に表情が固まっているのが自分でも分かる。

「…なぜあいつの名前が上がるんだ」

“…べっ、別にいいだろ”受話器の向こうで明らさまに動揺して赤面している様子がうかがえる。“た、ただ姉貴もさ、あの人を見習ってみればいいじゃん?同じ服装とかそんなんしなくていいからさ、それは無理だろうし。せめてたまにはスカート穿いてくれるぐらいしてくれたら、もっと安心なんだよな、俺も”

 確かに私はスカートを穿かない。パンプスもヒールも履かない。スニーカー、それもランニングシューズか底の滑りにくい靴に限られる。なぜなら華美な女性用のものは動きづらいし走りにくいし総じて闘いにくい。いつなんどきでも臨戦態勢をとれる格好をしておかねば警官として論外だ。

“いや、そんなん姉貴だけなんじゃないの?璐美さん見てみなよ。いつだって可愛い格好してるじゃないか。勤務じゃないときぐらいはさ…”

「甍、姉として忠告しておくぞ」

“な、なんだよ”

 私は大きく息を吸い込んで、璐美について思いつくありったけの表現を台詞に詰め込んだ。

「いいか甍、あいつは奇人変人などとうに超越してしまっている、遠く別の宇宙からやってきた甘味星人だ。己の欲望の赴くまま良識を踏みにじる変態で、欲しいものを手に入れるためなら何万人という他人の不幸をも厭わぬ妖怪、もっと言えば死神か一種の悪魔だ。何よりも最悪なのは、あいつ自身は自分をいたって平凡普通の人間と思い込んでいることだ。あんな女と自らすすんで関わり合いを持つな。いいか分かったな」

 人が人を嫌うのには、二種類の理由がある。

 一つは、相手の嫌いな部分に自分自身の欠点を見出せる場合。近親憎悪の変形ともとれるが、自分が普段克服しようとやっきになっていたり恥に思い隠しているもの見せつけられるのだから忌々しく思ってもしょうがない。

 二つ目は、相手が自分にとって不利益をもたらす存在であること。例えば金銭、時間、労力を何らかの簒奪により失わせられること。私と璐美の場合はこちらだ。そして、これまで主に時間と労力を徒らに消耗させられた記憶があまりにも多すぎる。

 取り立てて悪意がなかったとしても。

 一拍置いて弟の冷え切った台詞が返ってきた。

“いくら親しいからって、友達のこと、そんな風に言うもんじゃないぜ。いくら俺でもちょっと引いちまう”

「私は悪口を言ってけなしているわけじゃない、というか付き合いがあるのも仕事と行きがかり上止むを得ずだし、事実璐美はそういう個性の持ち主で、だからな」

“それ以上璐美さんのことを変に言うなら、もう電話切るよ”

 ああ、弟よ、お前もか。この姉想いで他に文句のつけようがない甍の唯一の欠点らしい欠点は、あの璐美に憧れを抱いているということだけだ。

 私はブルータスに背中を預け全幅の信頼を寄せたシーザーが裏切られたときのような気分で弁解しようとした。が、ここで次の話者が受話器を弟から取り上げたらしい。

“あ、もしもし昴?お母さんよ。甍がうるさく言うことはあまり気にしないで、気ままにおやんなさい。なんたって貴女はお姉さんなんだから。それよりも身体の方は無理してない?ちゃんと寝られている?”

「…うん。そっちはちゃんと管理してる。なんといっても頑健であることは警察官の義務の一つだし、この仕事は身体が資本だから」

“そう。お父さんもきっとそれを心配していたでしょうからね。ま、しっかり仕事をして、楽しむところは楽しむことよ”

 私はふっと微笑みを取り落として書斎の方に視線を投げる。巨きな瓶の中で、歴史的な船の作りかけの模型があたかもドックで建造中であるかのように存在感を放っている。

「大丈夫。楽しみもそれなりにあるし、好きにやってるさ」

“あ、あと今日は帰ってくるんでしょう?”

「そのつもりだけどね。今のところは事件よていも無いし」

“それなら好都合ね。ーーー甍、昴帰ってくるって。良かったわねーーー甍がね、貴女のために調理実習でアップルパイ焼いてきたのよ。他の甘いものは貴女あんまり食べられないものね。悪くならないうちに頂きましょう”

 ちょっ、母さん!別に姉貴のために作ったんじゃないよ!はいはいそうなのね、じゃあね。あ、璐美ちゃんにもよろしくね、こんどまた遊びにおいでなさいって伝えておいて。

 最後の方はややかしましく通話は終わった。

 父もきっと、で始まり過去形で終わる短文にも、やっと慣れてきたな。ーーー亡くなってもう十数年近く経とうというのに。

 父は画数の多い名前がまるで武将のような四角張った雰囲気を醸しているが、性格は厳格というよりは柔和な謹厳をしていた。家の内でも外でも、警察官にたまに見られる権力風を吹かせるような威圧的な態度をとったことは一度たりとてない父だった。

 そんな父は、はじめは交通課に配属され、それからじつに謹厳に交番勤務をこなし、大きな事件に巻き込まれることもなく世を去った。40代の若さでの白血病である。

 私は父が亡くなってから、母と頑是がんぜない弟という小さな家庭を護ってきた父の責務を自分が負うことを決意した。それはまず父の言葉遣いを再現することから始まり(弟が女言葉に慣れすぎないように)、立ち居振る舞いにまで及んだ。

 今では思考の根本が父のそれに近いものにまでなっている。そのため母からも、少しは女らしさも必要だとたしなめられる。最近ではそんな叱言こごとの役割をだんだん弟が担うようになってきているのがちょっとばかり煩わしい。

 父は大変計画的でもあったので、突然の病死にも関わらず、ローンを組んで買ったばかりのマイホームに私達姉弟の進学資金まで、あらゆる費用の準備が貯金と保険とで賄えた。何不自由のない暮らしぶりは、母子家庭としては幸運に過ぎたものだといえよう。

 おかげで私は大学まで出させてもらい、父が上層部からの覚えもめでたかったがために警察に就職することができた。

 就職については何か強い思い入れがあるわけでもなく、消防官でも自衛官でも希望が叶うだけの体力と学力は備わっていたのだが、ではどれか一つ選べと言われればそこに引き抜くカードはやはり警察官への道だった。

 常日頃から誇りに思っていた理想の「町のおまわりさん」であった父。その娘としてそうすることがふさわしいと自然に、それはもう蛙の子は蛙の例えの通りするすると決まったのだった。

 私は首と肩を回して背中と足のストレッチも行い、室内作業に勤しむための準備を怠らずにボトルシップの前に腰を据えた。

 デスクには作業道具の一式と、咽喉のどの乾きを潤すための珈琲の保温マグ、BGM用のスマートフォン。手袋。素手で扱う方が作業しやすいのだが、いつなんどき呼び出しがかかるか分からないので接着剤や塗料カラーで指先を汚さないようにしている。

 さて、スマフォのアプリを室内のサウンドシステムとリンクさせて…と。今日の作業のBGMは何にしよう。ジャズにしようか。それならビング=クロスビーもいいがgegeも捨てがたい……

 と思案している手元をバイブレーションが揺らした。スマフォにまた着信が入っている。着信音はクラシックの『怒りの日』。

 私は頭の先からさっと血の気が引くのを感じ、急いで応答する。応答ボタンをタップするや、差し迫った響きの悪友の声がした。

“繋がった!助けて、昴!”

「璐美!緊急コードじゃないか、どうした!何があった!!」

“大変なの。とにかく警視庁の璐美のところに”

 そこで通話は切れる。ツーツー音に「もしもし」などと無駄な呼びかけをするようなノロマなことはしていられない。私は一瞬ぶるっと身震いして弛緩していた意識を引き締め、手を払うと、素早くジーンズとシャツに袖を通して部屋を飛び出した。

 そして15分後のこと。

 警視庁の建物の中をほとんど全力疾走で移動する長身で私服の女性警官、私こと斑鳩昴の姿があった。

 段ボールを抱えた私より若い女性警官にぶつかってピーポくん人形を大量に廊下に撒いてしまうが、「すまない!」と断るだけで拾いもせず先へ行く。

 私に激突された女性警官がポッと頬を染め「いいえお気になさらず」となぜか丁寧語で呟いていたのは耳に入らない。

 緊急事態コード。それは滅多に鳴らされないホットラインだ。警視庁特務係特殊警備課という、まるで実在感の無い部署に配属されてからまだ一度しか使用されたことはない。その一度目は、主相官邸のパーティに紛れ込んだ某国のスパイが監視の網をくぐり逃亡したので捕まえろ、というものだった。

 あのときはまさに水際での逮捕劇だった。豪華客船スターホイール号に逃げ込んだターゲットを治外法権に觝触しつつもなんとか確保することができた後、上層部のお偉いさんはすっかり冷えた肝を温めなおすのにたっぷり数週間はかかったという。

 今度は二度目になる。余程の出来事、それこそ国家の命運や市民の生命に関わるようなものに違いなかった。

「一体どうした、璐美っ」

 私は『特殊警備課資料室』とある部屋のドアを開ける。

 そこには山があった。ガランとした部屋に盛られた紙の山である。過去の裁判の判例集、警視庁創設以来の事件記録、あるいは押収品などなど、膨大なーーーただただ膨大な量の資料が無造作に積み上げられていた。

「おい璐美ーーーどこだ?この資料の山は一体」

 カツン、と私の靴が何かに当たる。携帯だ……

 ピンクの外装に施されたスワロフスキーのスマフォアート。これは、天流神の持ち物だ。いつもこれでゲームしたりTwitterとかLINEで誰かをおちょくったりしている姿を見ている。間違いない。

 この紙とファイルと電子記録媒体で形作られた山。落ちているけばけばしいスマートフォン。呼びつけておいて姿の見えない同輩、天流神………

 私はことの重大さを悟り、猛然と叫びながらその山に飛びついた。

 あの通話の切羽詰まった響きは、天流神自身の生命に危機を知らせていたのか!

「璐美、璐美、この馬鹿!いま助けてやるからな!!こんなところで下敷きになるなんて、だからあれほど1人で探し物をするなと」

「にははははは。あたしはそんなところにいないってば」

 笑い声に続く涼しげな科白。息咳切る私が振り向くと、そちらの方にも築かれた山があった。ただしこちらの方はあちこちに菓子折りやキャンディー缶が飛び出して資料とごった煮にされている。

 部屋の反対側に築かれたその山の上に、まるで馬鹿でかい磐座いわくらにのぼって祈りを捧げる太古の巫女か、或いはライン川の岩礁に腰掛ける妖精のような姿勢で天流神がいた。

 私を冷徹に見降ろす砂糖菓子のように白く繊細な顔立ち。所々に色とりどりのリボンを結んでたゆたうカラメル色に近いブルネット。

 肩をふんわりと膨らませた、狭い肩細い腰にフィットするピンクのドレスシャツ、沢山のフリルを咲かせる黒絹の煌びやかなチュチュ。膝上から踝まで散らされたビーズが光を反射するカスタード色のソックス、まるで砕いたガラスで形成されたようなパンプスは、およそ走る・追う・捕まえるといった警官の業務にそぐわぬ脆そうな華美さだった。

 この、スレンダーな身体の上にほとんどコンサート衣装同然の装いをしている年若い娘。天流神璐美。

 さらにしどけなくタオルケットを巻きつけ、手袋の指を優雅に立てて書物のページを繰る、およそ現実味の薄い美少女ともいえる姿…を、してはいるが。

 顔の造作の中でも最も印象的な淡いラベンダー色の瞳は、魚河岸に並ぶ命尽き果てたマグロのごとく、ドロリと濁っている。これ以上はないというくらい腐りきって死んだ眼差しだ。

 その光のない瞳と、瞼の下に貼り付けられた立派なクマが、可憐な乙女に異様で不気味な雰囲気を与えていた。

「無事だったのか璐美!焦ったぞ」

 璐美は私の心配なぞ鼻で笑い飛ばして細い手首の腕時計を見る。

「焦ってこの程度なのぉ?わざわざ呼んであげたのに遅ーい!14分もかかってるじゃない」

「いや、いやいやいや待て、待てよ。私はその14分前まで久しぶりの非番でしかも前日は機動隊に加わっていたところをいきなり呼びつけられたんだぞ?シャワーを浴びて朝食を済ませてゆっくりしようというところを、訳も分からず緊急事態だと呼ばれて愛車で駆けつけたんだぞ?その言い方はおかしいだろう」

「えーそんなの璐美知らなーいしー」

 天流神璐美は欠伸をする。私の疫病神、この人生に望まぬして登場してきたトリックスター。

 平たく言えば幼馴染の腐れ縁なのだけど、そんなもので済ましてしまうには生ぬるい。こいつさえいなければ、私はもっと楽に自由に職務を果たし、能力に見合ったステータスに駆け上っていただろう。

 天流神あまるがむ路美ロミー。フィンランド系イギリス人の父親と、純日本人の母親の間に生まれた変た…………美少女。

 この女は小藪の奥へ置き去りにされた兎のように男性の庇護心をくすぐる外見をしている。内実の荒廃した未来都市に生きるしぶとい悪漢のような人格を知っている私としては、路美の外見とは即ち生物としての高度な擬態なのではないかと推し量らずにはいられない。

 そうとしか思われないほど精巧に綿密に、髪の一房のカールから服装の隅々に至るまで計算され尽くした『可愛らしさ』を醸しているように見えてしまうのだ。

彼女は、私のキャリアアップの階段の途上にデンと腰を据えて動かない障害物そのものだ。

「おま、おま……だって助けてって」

の山に埋もれて死にそうだ、とは言わなかったじゃない?そうでしょ?長い付き合いなんだからいい加減慣れないのかにゃー」

 自分の座す山の中から菓子折りを一箱取り出して、中に収められていた高級そうなバウムクーヘンを抜いて包装を解き、切り分けもせず両手に持ってもりもりと齧る。

 小作りな面立ちと四肢の華奢さが巨大な菓子とあいまって、妖精ティンカーベルが可愛らしい食事をとっているような、ファンタジックな絵面になっている。

が、恐ろしいことにこれが路美にとっては通常進行、普段通りの食事なのだ。

 菓子の糖分と脂分の詰まった塊を綿菓子のように咀嚼する光景にこっちは腹がくちくなってしまう。

 これを、甘味類や糖度の高い果物を常食とする生活を、路美ははじめの乳歯が生えてからずうっと続けている。いくら脂肪と砂糖のカロリーを摂取しても、チョコやナッツなどの刺激物を胃に収めても、彼女には吹き出物一つ現れやしない。もしその消化吸収サイクルが常人のそれであれば、美貌も若さもあっという間に崩れ去ってしまうだろう。

 ダイエットに四苦八苦している一般的な女性達にとってこれほど羨ましく嫉妬を誘う話もないだろうが、そうしているのにも理由がある。いや、そうせねばならないのだ。

 そう、彼女が普通の人間並みの生活を送るためには、大量の糖分が必要不可欠であるために。

 そして彼女が糖分を必要とする理由でありそれの帰結するところが、この資料の山だ。

「携帯!ここに落っこちてたぞ、これは一体なんなんだ!」

 半ばあきらめ半ば腹立ちまぎれで璐美のスマフォを放る。口と目は瞬く間に欠けていくバウムクーヘンに集中したまま、片手でそれを受け取る璐美。

「わざわざそこまで降りてって取るのがめんどくさいからそのままにしてるだけじゃない。それにこれは五台目よ?プライベート用はほら、ここにあるし」

 別のiPhoneをポケットから出して掲げて見せる。私が掴んでいたものとはデコレーションが違う…のだろうか?そんな見分けがつくほど私は少女趣味に精通しているわけではない。

「じゃあお前が私を呼んだのは一体全体何のためだ?助けが欲しいとは?」

 あれほど巨大だった丸太状の焼き菓子を跡形もなく胃にしまい込んで、お次はダックワーズとマドレーヌとクッキーの詰め合わせを貪る璐美は「んーとね」と指先で自分の頬を押すようにして首をかしげた。

「なんかさっき経理担当官がすんごい勢いでやって来て、うちの課の経費で買った分の本とかDVDとかの購入費の洗いざらいをリスト化しろ、でないと予算を下ろしてあげないよ、それすぐ作れ、今日作れなんて厳しく言うのよ。提出するのに必要な領収書ファイルがあるんだけど、瑠美そこらへんに適当に置いておいたから見つからなくなっちゃったのね。昴ちゃんが探してくれない?ちなみにリミットはあと一時間。よろしく☆」

 焼き菓子をぱくぱくと頬張りながら、璐美は膝の上に開いた巨大な洋書の図鑑に見入る。

 私は茫然自失の波に押し流された。分かるか甍、弟よ。これが璐美の本性だぞ。

 このだらしない幼馴染みの仕打ちに吠えたけるだけの精神力はない。というか、友人さえ踏み台にして罪悪感を持たないサイコパス同様の精神構造を持つ相手にそんなことをしたところで無駄なのだ。

「やれやれ…この中から一時間で探し出せと仰せになるか」腰に手を当ててぼやく。「後でしっかり埋め合わせをしてもらうからな!」



 いつだってそう。私こと天流神璐美は、特に感慨も感動もなく、ごく自然な光景として親友であり幼馴染の昴がポツポツと文句を垂れながらも資料の山に這いつくばる様子を眺めた。

 斜面を上ったり潜り込んだりエリア区分してやり直したりしている女っ気の希薄なジーンズとシャツの格好。あのジーンズは姉のあまりに服装に無頓着なことを嘆いた昴の弟が誕生日にプレゼントしたもので、筋肉質な上半身を隠すどころか強調するシャツは昴自身が選んだのだろう、腹のあたりにこれでもかと大きくブルース=リーの精悍な肖像がプリントされている。

 お尻の形は締まって小さいし、男の子を惹きつけるせっかく大きくて日本人としては珍しいタイプの胸部をしているというのに、あれでは宝の持ち腐れだ。

「ああもう、本来なら私は非番なんだぞ。やっとこさやりかけのボトルシップを進められると思っていたのに…」

 嫌な顔はするものの、ちょっと大袈裟に助けを呼べばいつでも駆けつけ、結局はこうして私の役に立ってくれる。それをありがたかろう感謝をしろといつも昴は言うけれど、なにに対してどう感謝すればいいのか未だに私には分からない。

「怒りはお腹の底にしまって、私が散らかした跡を粛々と片付ける昴ちゃん。なんてカッコいいのかしら♪ワーキャー!」

「お前私を虚仮こけにしているのか」

「とんでもにゃい」

「いいか、お前が呼びつけた時は朝食を摂った後で、貴重な戦士の休日を楽しもうとしているところだったんだぞ。全く、どうしてくれるんだ?あとその気の抜けた語尾をよせ」

「それは残念だったわね。代わりにあたしがいい物をあげちゃおっ。ああ、なんて心が広いのかしら?ここは感涙にむせびつつ敬っていいところよ?」

 私は髪に結わえつけていたタブレットケースを外して昴に放り投げた。中には色とりどりのガムがみっしりと並んでいる。糖分はあまり含有されていない。あくまで様々なフルーツやハーブのテイストを楽しむための口休めの品だ。

「甘いもの苦手でも、それだったら食べられるでしょ」

 ムムムとうなり、やけっぱちにガムを口の中へ流し込む昴。あーあ、勿体無いことして。

「これが終わったら、すぐに帰ってやる。なんの因果で休日にこんなことをしなければならないんだ」

 ぐしゃぐしゃギュッギュ、ガムを噛みしめる白い歯の隙間から呪いの言葉が滑り出る。

「その点はぬかりないわよ。総務課の人に頼んでぇ〜、あたしが今日の昴ちゃんを有給休暇に変えてもらったの❤️」

「ああ、それなら良かった………いや良くない!!なんてことをしてくれたんだ‼せっかくの数少ない休日なんだぞ!!戦士の休息を!!!!」

「そんなエクスクラメーション増やすことなくない?」

 激する昴に私は小首をかしげる。気を利かせてあげたのに、お礼をしてくれないのかな?

「怪訝そうな顔をするなあっ!!」

「ほらほら、そんなことより手を動かして。文句言わないの」

「こんな職場はもういやだああああ!!」

 女としてもったいないセンスをしている竹馬の友の、武張った悲嘆。それも肴のひとつに、私はダロワイユのチョコレートを頬張る。ちなみにメインのほうは書物の情報だ。

 山の形が壊れないようバランスを整えて座り直し、片手に19世紀前半の上海のイギリス領事がしるした一冊の手帳を持って、いかにも気難しくお堅い筆跡をたどる視線は止めない。内容は、日々のこまごまとした買い物や食事、雇い人についてのとりとめもない事柄の羅列。

 中身がどうあれ、読める代物であれば構わない。時には読めなくとも構わない(読めないものなどこの24年でほぼ存在しなくなってしまったのだが)。

 十数分程度でその一冊を読み終えた私は、自分の座る山から部屋の端のほうへ高く投げ捨て、次の書物に取り掛かる。パキスタンの研究者によるペルシャ語とウルドゥー語の語彙の共通点その他についての研究書だ。

「おい璐美、高みの見物を決め込んでないでお前も手伝ってくれ。手が増えるだけでも早く済むだろう」

 少しく汗をかきながら、こちらを仰ぎ見る昴。もう資料の山が二つに割れている。片一方の半分がたは、調べた後のようだ。

 私は予想していた結果に満足する。やっぱりこういう仕事は昴にやらせるのが早い。

「私が何のために昴ちゃんを呼んだと思ってるのかにゃ?」

「は?なにを?」

「禁断症状が出てる重篤なアルコール中毒患者に、酒蔵での捜し物を頼むとかする?しないよね?昴ちゃんが璐美に言ったのはそういうことなんじゃよー。正気の沙汰じゃないにゃー。異常だにー。残酷だにー。非道だにー。常識を疑っちゃうのにゃ」

「お前にだけはその一言を言われたくなかった!」

 私は世に言う一種の過読症ーーー汎好奇心転移型過読症ジェネラル・クリオシタス・ハイパーレクシアだ。

 私にとって情報とは、シナプスを駆け巡る電子信号のかたちをした必須栄養素。頭の中の空腹を埋めるためのもの。食糧だ。それが供給されなければ精神の成り立ちを維持できない、薬にも等しいものだ。

 昔から「好奇心は猫も殺す」というけれと、情報不足のもたらす退屈こそが私を殺す最も単純にして効果的な凶器、毒薬となる。

 私がその特殊な体質を持っていると医師が判断したのは、私が4歳でロンドンはチャップマン社1924年版の『クリスマスキャロル』を読破したときだった。

 以来私の家族も親族もこの友人さえ私を「一種の疾患持ち、端的には病気」と見そなわすが、私自身は自分のことを不健康だの病気だのと考えたことは一度もない。

 なぜなら不自由を感じたことがないからだ。

 私が過読症においてこうむる影響は、多少音感の良い人が「総ての音が音階に認識されるのが鬱陶しい」とか可視外の光線を見られる人が「光の色が多すぎてクラクラする」といった感覚とはまた違う。情報処理に脳の神経細胞が糖分を必要とする以外に平均的な人間と日常生活に変わりはないのだ。

 ただ常につきまとって有るのが「膨大な飢餓感」であることを除いて。

 この脳の飢餓感を私は「おつむが空いた」と表現する。それ以外はしっくりこない。普通の人の感覚に例えるならーーーそう、敢えて例えるならば、漫画好きな小学生が大好きな連載がある週刊誌の発売を待ち焦がれる気持ちの一億倍あっても足りないくらい、といったところか。

 平たく言えば、退屈で気が狂いそうになる。

 書物に対する欲求を、薬物で抑えることはできなくもないが、それをすると深刻な知能の退行及び意識不鮮明を引き起こすので、あるがままにしている。

 このちょっとした可愛らしい特性の他は、私はか弱い普通の女の子。お洒落もお化粧も大好き。

 反対にこの幼馴染の斑鳩昴は言動は無駄がなく快活で明快、ポニーテールにした黒髪が肩甲骨にかかるほどでなければファッション誌のメンズモデルに間違われそうな凛々しい顔立ち、そして意外に女らしいスタイルをしている(悔しいことに主に乳房の面で私より成長している)。付け加えておくが、こういうギャップが好まれるのか、庁内の「抱かれたい職員」No. 1の大人気を誇っている(男女問わず、という注釈が入る)。

 精神の強靱さも筆舌尽くしがたい。もしこの作業を命じられたのが自分だったらと仮定する。自分が書物や映像を脳の中の胃袋に収めるのに夢中になっているときに、昴から電話がきたら。

 多分、無視する。強要されたら、キレることうけあい。

 なのにこの女友達は、逆上もせず倦むこともなく黙々と資料を調べ整理していく。

「こういうのをマゾっていうのかしらにー?」

「ん、璐美、何か言ったか?」

「ううん、なんでもにゃい」

 見てくれは悪くないのに、というか宝塚の男役よりは余程女らしいのに、この幼馴染は化粧一つすることさえ厭う。唇に紅でも引けばと進言しても、

「私には任務がある」

 とトンチンカンな返事をするばかりだ。化粧だけでなく服装よそおいの女らしさもその「任務のさまたげ」になるらしい。だから私服だってスカートなんかもってのほか、ヒールなぞは無駄に体力を擦り減らすだけ、アクセサリー?武器にならなければ重りと変わらん!…という徹底ぶり。

そこまでお洒落をかなぐり捨てるほど、警察官って頭の固い職業じゃないと、私なんかは思うんだけど。

「しかし恐ろしい読みカスの量だな…何日溜め込んだんだか。そういえば大村はどうしたんだ?この量に恐れをなして逃げ出したのか?」

『読みカス』ーーーーー読み漁ったあとの資料のことを私はそう呼んでいる。一度目に触れた書物は脳の中で咀嚼され情報に分解された後は記憶の図書館の中で再構成されてながの眠りにつくのだ。無論内容をいつでもそらんじることができる。

 だから読んでしまった本は栄養の抜け殻、『読みカス』というわけ。

「ううん。全部まぜこぜだった資料をこの二つに仕分けしてくれたのが米太君なのだ。ただ、二日連続して徹夜したせいか医務室で寝込んでるの」

 それは間違いなくお前のせいだな、と両手を腰に添えて溜息をつく昴。

「しかしあの大村がなぁ…根性がある方ではないと思っていた。意外と見所があるのかもしれんな」

「そう?なんか半ベソかいて『合コンとデートの約束があったんですけど、やるっす。天流神課長の叔父さん…もとい、警視総監に睨まれたくないっす。権力、最高!万歳!!』って言ってたけど」

 言葉の節々に滲むヤケクソさが哀れを誘う、女の子と仕事を秤にかけたら前者を取ることは想像に難くない警視庁きっての『狩人ガールハンター』こと大村にそう言わしめたとは。そう呟いて昴は同病相憐れむといったため息をついた。

「いつも香水を身に着けて、ひとえにモテるための髪型の刈り上げのミックスショートを入念にスタイリングしているのに…あいつの泣きっ面が思われるな」

 昴は気の毒さに同情の黙祷を捧げているようだ。こういうところは優しいと思う。

「にしても、あいつわざわざそんな愚痴を言ったのか…お前はそれを聞いたところで痛くも痒くもないのにな」

「イヤならやらなきゃいいのにねー」

「そういうわけにはいかないだろう。掘楠さんがお前を猫可愛がりするのは有名だし、事実叔父でありかつ警視総監なんだからな…だからお前は物事が分かってないというんだ」

 私の叔父の堀楠和源ほりくすかずよしは優しい。昴は「お前の親戚連の中でもむやみやたらとお前を甘やかしているNo. 1」というけれど、私にとってはただの優しい親戚の1人だ。でも、それと叔父さんの役職はなんの関係もない。

「ほんの少しばかり便宜を図ってはくれるけど、璐美のお仕事は全然別なんだけどね」

「それを堂々と言ってしまえるのは、お前のちょっとした長所だな」

「でしょ?にへへへ」

「短所のほうが多いお前を褒めたつもりは毛頭無いぞ」

 昴が無駄口を叩いてしまった、あと30分じゃないかと読みカスの中から購入記録を発掘する作業に戻ると、ドアが開いてしっかりきっちり制服を着込んだ経理担当官が現れた。

「どうですか、少しは進みましたかーーーあら?斑鳩さんはお休みだったのでは」

「鈴木さんか」昴は頭も上げずファイルの背表紙をチェックしていく。「そこのろくでなしのおかげでこの体たらくだ。済まないが待ってくれるとありがたい」

 鈴木すずき空波うな。キラキラネームがこれほどそぐわない性格もないなと評される、実直一辺倒の経理担当官。警視庁の予算計上の実権を一部握っていると噂されてもいる彼女は、昴の返答を眉間に皺を寄せて訝しむ。

「事務も大好き昴ちゃんは、お休みではなくなりました。ついさっきのことです」

「お前がそうしたんだろうが!」

「特殊警備第三課は、璐美と昴ちゃんと米太君の三人がいる課です。ですから、課のピンチに一丸となって臨むことは、チームとして当たり前なのではにゃい?」

「こんなときに正論を持ち出すな、余計腹が立つ!第一璐美、お前が常日頃からきちんとファイルを定位置に戻すよう気をつけて、しっかり保管しておけばこんなことには」

「ーーー状況は察しますが」空波は鋭角にカットされたレンズの眼鏡を掛けなおす。確か入庁は私や昴より二年早かった筈だ。でも、階級としては課長の私の方がヒラの彼女より2段も上なんだけどね。「公僕としての自覚に欠けているのではありませんか」

 疑問形でありながらもそのじつ皮肉的な表現の不機嫌な声。昴は「すみません」と謝った。それを見下ろして私は「欠けてません」と正直に真情を吐露した。

 私の正気を疑るかのような二人の視線が飛んでくる。昴はその表情から読み取るに「大体なんで形式上は部下にすぎない私が天流神を詰問する場に立ち会わねばならないのだ?」とまで考えているらしい。

「あなた達が課内で購入している物品の数と種類は多すぎます。というより不要です。無駄なのです。言って悪ければ公金横領ですよ?…天流神さん、申し開きはしないのですか」

「にゃ、あたしですか?」

「そうです。先程から斑鳩さんが謝るばかりであなたは何も言い訳しないですね。この多額の出費はほぼあなた一人のために計上されていると推察いたしますが、あなたは警察組織というものをどのように考えておいでなのですか」

「警察ぅ?そうねぇ」

 まずいことは言ってくれるなよ、璐美。そう祈る昴の心の祈りが響いてくる。

 私が知ったことではないけど。

「なんかおかしたべてごほんよんでたらおかねくれるところぉ?」

 わざわざ平仮名の発音で言い、ニッコリと小首をかしげて見せた。

「………っふざけないでください!!」

 人間の髪が逆立ったり、怒声に雷鳴がかぶるなんていうことが現実に起こり得るとは思わなかった。本や映画などの情報の中でだけだと思っていた。

 でも、空波は確かに生きたくちなわのごとく巻き上がった髪をのたくらせ、半径10メートルにゴロゴロドカンと雷を落とした。…ように、見えた。

「貴女が警視庁にいるだけでどれだけの損失が計上されると思うの!?仕事をしない文字狂いは、さっさと出て行きなさい!!」

 さすがの私もこの言い方にはカチンときた。「ひっどーい!文字狂いとは何よ!璐美、映像とか音響の情報だってちゃんと摂るんだからね!!」資料の山から一息に飛び降りて、相手の真正面から胸を張ってやる。

「いや璐美、鈴木さんはそういうつもりで言っているのではないと思うぞ」

「そうだなぁ、確かにこのままでは特警三課はキャットフードばかりたらふく胃に詰め込む飼い猫と変わらんなぁ」

 昴の台詞のあとから発した古びた銅鑼のような声。空波は声の主に気づいて飛び退いた。

「やぁ鈴木くん。君はいつも仕事熱心だなぁ。感心感心」

 寺院の山門に型を構える仁王像のような壮年の男。そのギロリと剥いた目玉が恵比寿様みたいな笑みに沈んでいる。

「け、警視総監!失礼致しました!!」

「なぁに、そうしゃっちょこばらないでくれ。フランクにいこう、フランクに」

 役職を叫ばれて鷹揚に手をかざし、私の顔を認めると、そんな処にまで筋肉があるのかと言うほどに顔面の表情筋をうねらせて微笑む。糸のような目元が一層細くなって顔の中に沈んだ。

「相変わらずの甘い物への執着だなあ。ということは、元気ということだね」

「ごきげんよう叔父様」私は警視総監の叔父、堀楠和源にちょこりんと礼をした。「璐美ちょっと叱られちゃった。エヘヘ」

「このいけない子猫ちゃんは、きちんと反省しているのかなぁ」

 堀楠叔父はつんと指で私の額を押す。それからきゅっと唇と目元を引き締めて、自分の役職にふさわしい表情を作った。

「猫ならばその本能に従って鼠を獲ってくるがいい。本日午後、成田空港のエアポートガードからイギリス国籍の爆弾狂フランシス=クランプトンが警備網をすり抜けて入国したと連絡が入った。奴が日本で爆弾を使用する前にお縄にするよう警視庁及び各県警の総力を挙げての逮捕作戦を行う。

ーーーこれは他部署には極秘だ。存分にお前と昴君の実力を発揮してきなさい」

 一転して、その場に居合わせた空波にも「君にも他言無用で頼むね」と笑顔を向ける。

「お…お言葉ですが総監、『ワトソン』が既に分析課のほうで実装配備されているのでは?」

「君は、警視庁予算ひいては国庫から大枚はたいて納入したコンピューターに、なぜワトソンと名付けたか知っているかね」

 空波は謙虚に首を振る。

「いいかね、その名を小説や映画で活躍する探偵ではなくその助手にしたのは、ひとえに私の好み…ということはさておき、最後の選択の場において責任を持つのは人間であるべきだからだ。つまり我々、警察官の職務であり本分でもあるからだよ」

 その理念に沿って運用されればこそ道具は道具として能力を発揮するのであり、失敗を取り繕うために責任を機械に押し付け、言い訳に使うようなことになってはならないーーーと、叔父は得々と語った。

 空波は神妙に頷いて、昴はそれに輪をかけて…あるいは尊崇の面持ちで聞き入っている。けど、そんなの私には関係ない。

「そうしたら何かご褒美もらえる?」

 びし、と空間に亀裂が入るような緊張。「な」と言葉を失う昴、「貴女一体ーーー」と言いかける空波。

「勿論だとも。次の休みの時に銀座と新宿と浅草と丸の内、足を伸ばして鎌倉あたりまで甘味屋を巡ってあげよう。私の顎足持ちでね」

 やったぁ!叔父様大好き!私は手を打ってピョンと飛び上がる。昴が空波に憚っておい落ち着け、と私に寄ってくるが、足元にあった資料に蹴つまずいた。

「う、うわっ」

 普段なら武道で鍛えてある平衡感覚と深部筋肉コアで何ほどのこともなかったろうが、踏めば割れるUSBなどの資料を避けようとしたのが悪かった。無理な姿勢で重心がズレた昴の高身長が、堀楠叔父に倒れこむ。

 おっと、と痩せた女の子2人分の体重の昴を羽のように受け止めた叔父は、かつて重量級の柔道世界選手権で準優勝したという腕でしっかりとうら若い女性の部下を立たせ、気をつけたまえよと言う。

「そうだ、斑鳩くんも璐美と一緒に来たら良い。ーーー璐美、このご褒美は言うまでもないが」

「成功報酬でしょ?まっかせてちょーだいにゃ!」

 空波が溜息をついて肩を落とし、叔父が朗らかに笑い、親友は黙る。ーーーーーもっとも私にはすべからくお見通しだった。

 その私の親友こと斑鳩昴が、堀楠叔父にほんの束の間抱きすくめられた瞬間に、まったき恋する乙女の血潮で彩った面になっていたことを。




 そして数日が経った。その間に璐美の分析により、クランプトンはこの東京は銀座のパレードを標的にするだろうという予測が立てられた。そして私達特警三課のみならず、多数の警察官が綿密な計画を練った上での作戦行動を実行しているのだ。

 だのに。あいつは一体全体どこへ!?

 私はインカムに耳を澄まし、いくつも飛び交う会話のやりとりから璐美の声を拾おうとするが、それらしいものは聞こえてこない。

「ポイントサクラより全ポイントへ。ターゲット補足、できたか」「ポイントモミジ、未だ現れず」「ポイントツバキ、同じく」「ポイントボタン、カエデ、その他もまだだ」「了解。引き続き監視態勢を怠るな」「了解。…しかしよ、こんな人混みの中でテロリスト一人を見つけるなんて千葉の由比ヶ浜で貝殻一個見つけるより難しいぞ」「文句を言うな。今回のターゲットはあの『都会のリンゴ』だ。奴はやると言ったら必ず実行する。弱音を吐いたらおしまいだぞ。あと、特警Ⅲの課長は天才美女らしいしな」「璐美りんだろ?可っ愛いよなー彼女」「…もう誰かと付き合ってるかな」「貴様ら無駄口が過ぎるぞ。ちなみに、天流神課長は未だフリーとのことだ」「了解」「了解」「了解!!」

 私はため息を吐く。誰と誰がしゃべっているかは今の時点では分からない。何しろ急ごしらえの包囲網なのだ。もし分かったら弾む声の主に忠告してやるのだが。

 璐美はただの美女じゃないぞ、並一般の男どもが束になったって1日ももたないぞ、と。

 一層高くなる音楽に、無線がかき消される。後方から行進をずらして出発してきたメインパレードの到着だ。

 外国人観光客も歓声をあげる。日本のカワイイ文化の麻薬に浸りきった彼らの最も関心を寄せる物がーーーコスプレの一団やアイドル、人気なキャラクターやゆるキャラを満載したトラックを先頭に、賑やかな行列が銀座の街のメインストリートへ乗り込んできたのだ。

 と、さっきまで夢と希望のおとぎ話から出てきたようだったまさかりパンダが、いきなり持ち場を離れた。「ねえ、ふうせんちょーだい!」とねだる幼児を押しのける。その子は尻餅をつき、きょとんとする。

 ザッザッと人の海を肩で切り開いていくパンダ。注意を受けても眉をひそめられても、まるで頓着しないあの尊大な態度。…まさか………

 行動指針を乱したその着ぐるみに、すぐさま無線の制止が飛ぶ。

「おい何をしているんだ、そこのパンダ!パレードの隊列に戻れ!」

 パンダは、こちらも無線で応答した。漏れるため息のようにサラリとした口調で「見つけたのにゃ」とただ一言。おいおいこの聞き覚えも甚だしい声と、喋り方は!

 私もインカムに語りかける。着ぐるみのままなのに、つい頭に手をやりながら。

「璐美、お前か?お前がパンダなのか!?」

「なーんか哲学的な問いに聞こえるにゃ。璐美はー、パンダであってパンダではありませーん」

 にひゃ、という笑い声に切断されそうな堪忍袋の緒をぐっと引き締める。こいつのこの口調は、獲物を見つけて舌なめずりしているときのものだ。

 過読症ハイパーレクシアという呪われたくびき(璐美にとっては「生活の一部」らしいが)がその飽くなき情報への欲求とともに璐美にもたらしたもの。

 平々凡々とした人生を謳歌する人間からすれば、辛うじて日常に踏みとどまっているといおうか、もしくは異常の末端に引っかかっているだけというべきか。底知れぬ読書と映像・音響鑑賞の結果、なるべくしてなった璐美の特殊な能力ちから

 それは最高の、現時点でこの国の頂点を極めた推理力だ。

「見つけたってまさか、クランプトンのことか」

 面相パターン認識装置に繋がれたオービス、定点監視カメラ、各種センサー等の膨大な公共の網。また警察犬、それに人海戦術として投入された300を越す猛禽類の眼と猛犬の嗅覚を持つ警官達。

 1人の爆弾狂相手にそうまでしても、璐美一人の能力には敵わない。厳重にチェックされるはずの国際空港のセキュリティさえ魔法のようにすり抜けた目標を、いともたやすく特定したというのか!

 息を荒げて走る私の耳許に、ツンとすました旧友の声が呟く。

「じゃなきゃなんのために誰を探してたのよ昴ちゃんは。大丈夫、璐美に任せて?酷い事態にはなるかもしれないけど必ず目標は確保するから」

 全く安心できないし、むしろ危険を宣告する璐美を追って私も列を出る。肩を掴んでくる他の縫いぐるみを腰払いで背後に転がす。

「こら璐美、勝手なことはよせ!スタンドプレーは禁止したはずじゃないか!」

「禁止したのは璐美で、昴ちゃんの上司で、だから璐美は自由なのです」

 パンダ…の皮を被る璐美は、とうとうトラックの前に立ちはだかり、両手を広げて行進を止めた。先頭集団のただならぬ雰囲気にメインパレードの音楽もさざ波のように引いていく。

 間髪入れずパンダがトラックに素早く這い上がり、一体のとあるネズミ的な有名キャラクターに襲いかかった。

 おそらくは人の好い、善良な観衆のそこかしこから「やめてえ」と痛切な悲鳴が上がる。それをものともせずに、パンダは有名キャラクターの着ぐるみを脱がそうとする。

「貴方には黙秘権および弁護士を呼ぶ権利がありますただし激しく抵抗すると執行妨害の罪状をこうむる可能性があります弁護士に電話をかけますか」

 無線を通して伝わる、ネズミに向けて発された権利条項の予告。つらつら読み上げているが、全くの棒読みだ。

 そして有名キャラクターが…こちらはインカムを通さず地声で答えた。

「てっ、てめえサツか!?へ、クヘヘへッお間抜けなザマだぜ」

意味は大方こんな感じだろうか。なにせ相手は日本語ではなく癖のある聞き取りづらい英語で、それも厳格に言えば米語ではなく連合王国のものであるクイーンズイングリッシュで応えてきたのだ。

「それはどうもありがとにゃ」

 英語で会話しているので訳文がニュアンス重視にはなるが、相手に合わせて単語のチョイスも文法も崩して璐美は迫る。

 この時点で璐美の予測が的中したことは判明した。ーーーどうやって一瞬で犯人を見破ったのかは定かでないが。

「待て璐美、応援がまだ離れているのに勝手なことをするな!私を、せめて私を待て!」

 私も走るが、着ぐるみが重い!!

 細身の璐美はネズミに組みついて被り物を脱がせようとしている。恐らくアドレナリンの分泌で普段以上の力を出しているのだろう、白人男性の成人を相手にしているというのにひけをとっていない。

 もっとも、獲物を狩る時の璐美はいつもこうなのだ。五感は研ぎ澄まされ、息が切れることもなく体力は無尽蔵。本人はそれを『ハイテンション・モード』とよんでいるがーーーとにかく、着ぐるみを執拗に脱がそうとするその魂胆は私には分かっている。今はそんなことにこだわっている場合ではないことも。

「おいお前、シェパードパイは好きか」

 もがく有名キャラクターは、怪力を発揮している璐美と自分の間に何かグリップのようなものをかざした。

「もう分かってると思うが、この近くには俺様の爆弾を仕掛けてある。こいつのクリック一つで罪のない誰かがミキサーにかけた羊肉みてぇに挽肉ミンチになるぞ。それでもいいのか⁉」

 聞き取りにくい着ぐるみ越しの会話とはいえ、英単語の中に紛れた『爆弾ボム』に反応して人垣が揺れる。

「何あれやばいんじゃないの」「撮影でしょ?なんかのデモンストレーションとか?」「でもほら、あいつ本気でパンダと取っ組みあってっし」

 ウサギの私がトラックに走って追いついた。「やめおお」と叫んで(気ぐるみの中なので声がこもっている)ステージに上がろうとするのだが、台の側面に取っ掛かりがなく着ぐるみをつけているせいで、肉球のついた可愛らしい手をのたくらせてツルツル滑るだけだ。

「あっそ、やりたきゃやれば?」

 璐美は爆弾にとりつかれた男からの脅迫を平気の平左で受け流した。

「璐美はパイなら甘い方が好きだし。そうだにゃ、できれば甘ぁいアップルパイが今の、き・ぶ・ん!!」

 パンダの丸い手の部分が、内側で握られたグーの形に歪んだ。奪い取る意図ではない振りかぶった腕に、ネズミに扮した爆弾凶は咄嗟に頭部を庇う。

 しかし空へ伸びるように上がった璐美の拳(を内包した着ぐるみの手)は迷わず爆弾のリモコンに落ちていった。私はまどろっこしい殻を恨みながらジャンプし、なんとか舞台に上がることに成功!

「璐美、馬鹿なことはやめーーー」

 金属部品を組み合わせた手作りの発信装置のスイッチが入るカキン、という硬質の音がやけに大きく聞こえた。

 どこか上方、雲海の下で閃光が花弁を開いた。

 1秒か2秒、あるいはそれ以上ーーー恐ろしい振動が大気を叩き、ビルディングのガラスの壁面がわりわりと震えた。その幾つかは確実にヒビが入っていたことだろう。

 咄嗟に身を伏せた観衆は幸いだった。そうでなかった不運な者は、衝撃波で突き倒された。

 私は、いや私含め警官隊とパレードの何も知らされていなかった面々と…最後に加えるならば有名キャラクターのネズミは喉を詰まらせたなり、動きを止めた。

 パレードの行われていた銀座から少し離れた上空に浮かんでいた飛行船が爆発したのだった。

 辺りは静まり返っていた。群衆も呻くことさえ忘れ突然の大爆発に空を見上げるばかり。

 誰も立たない。誰も座らない。身じろぎ一つない一時停止のような光景の中で、パンダの皮を被った璐美は、えいとばかりに有名キャラクターの頭を引っこ抜く。

 灰色がかった金髪がこぼれた。眉間に深々と皺の刻まれた中年にほど近い男の貌が驚愕に歪んだまま固まっていた。

 そしてただひと言、「…Holy crap」と呟く。

 なんてこった…それは私だって、いや私こそ喚きたい意味の科白だった。

抜け目のない璐美はどこからともなくごてごて飾り付けたスマフォを取り出し、素顔をあらわにした爆弾狂の写真を撮影する。特有の電子的なシャッター音がとんでもなく場違いに響いた。

 そして自分も被り物の頭を外す。脱魂した相手に比べてこちらはニコニコと相好を崩した生気にあふれた表情だ。

「『都会のリンゴ』、フランシス=クランプトン。英国グレートブリテンロンドンのキングスクロス地区では有名なゴロツキだったんだってに。貴方をテロ未遂容疑で確保します。権利は先に述べた通り。…っていうかもう観念したほうがいいよ、既に凡百の警察官に囲まれているんだからにー」

 よどみない英語だが緊張感が全くこもらない呟き。そして、大事な卵のようにスマフォをしまう。ーーーたった一葉のシャッターを切るために、璐美以外の大勢の努力や残業じかんや生命の危険すら内包した記録を。

 にんまりと口角を上げる亜麻色の髪の美少女。この場にいる誰よりも愛らしく可憐なその笑顔は、魔女の喜びに満ちていた。

「なるほどにゃ、その表情かおなんだ。おじさんのおかげでまた一枚璐美の素敵なコレクションが増えちゃった」

 そしてこれまたどこからかロリポップを取り出して花弁のような唇でくわえる。

 薄いコバルトブルーの瞳のまなじりを、ここ数日来の徹夜のみならず、積年の不摂生で濃く色付いた隈がまるでアイシャドウの一種のように縁どっていた。

 金縛りになっていた私も溜息をついて着ぐるみの頭を外した。外気がどっと頭を洗い、汗が冷えて怒りに爆発しそうな精神を落ち着かせてくれた。

「璐美…お前、その悪い癖が全然治らないな」

 璐美の唯一の趣味にして生きがいが「犯罪者の吼え面を撮ること」なのだ。そのために警視庁に入庁し、特警三課の長に収まっているといっても過言ではない。…それだけを理由にすることは避けよう。でなければ、他の芯から真面目に職務に取り組んでいる仲間達に申し訳がなさすぎる。

 なんら悪びれることもなく璐美は「ほら早く手錠かけちゃってよ昴ちゃん。お手柄立てたんだからさ」と私を手招きする。

 苦々しい思いを噛み殺して、改めて現行犯逮捕の口上を述べながら抵抗のそぶりを見せない(こんな非常識な事態にはさすがに直面したことがないのだろう)犯人にお縄にかけ、遅ればせながら駆けつけてきた警官の集団に引き渡す。

 パレードはもう跡形もなく台無しにされて、進行どころの状態ではない。言葉尻が引きつってしどろもどろのアナウンスが流れる中、私は璐美になぜクランプトンの爆弾を破裂させたのかと出来るだけ穏便に詰め寄った。

「その前に聞くことがあるんじゃないの?どうして爆弾の位置が分かったのかー、って」

 璐美はなんら悪びれることもなく手にした装置をひらひら振ってとぼける。

「…いやそれはどうでもいい…というか、あの爆発でどれだけの犠牲と損害が出たのか考えるだけで頭が割れそうだ。口惜しいがな璐美、私はお前の業務上過失について法廷で正直に証言しなければならないんだぞ。お前のお目付け役を頼まれているというのに、ああ、堀楠さんにどう言えばいいのか…」

「はぁー?何言ってんの昴ちゃんは?」

「…何をってお前、飛行船に乗っていた人達が爆死」

「んなわきゃないでしょー?」

 …?

「もう質問されるのも面倒くさいから先に答えちゃうね。

『都会のリンゴ』のこれまでの犯行から爆弾を設置する好みとかー、癖とかー、璐美には分かっちゃってたの。だからぁこーゆーとこだったらどこを破壊すれば最も効果的かにゃーって璐美は考えて、そのポイントのいくつかを随分前から抑えてあったの。後は不自然な行動を取っている人が見晴らしのいい位置にいるかどうか、それだけ探してたってわけ」

「…???ちょっと待ってくれ、話が見えない」

 んもー、だから一々いちいち説明するのってイヤなんだよねー!と璐美は空気を支えるように片手を上げて顔をしかめる。

「いい?あの飛行船にはそもそも誰も乗ってないの。っていうか璐美が丸ごと買い取って、ドローンプログラムを組んで海の上で自動操縦させてたの。今頃は人払いしてある東京湾のどこかに落っこちてると思うよ。もともとなんてことない広告宣伝用だったし、ほんの30億円だったしね」

「ほ、ほんの…?さささんじゅうおく!?」

「3兆だったら定期預金に手をつけるところだったに」

「す、すけーるがでかいのかちいさいのかわからん!」

 色を失って平仮名発音になる私を尻目に璐美の解説は続く。

「クランプトンを見つけたのだって原理は同じよ。まず一番見晴らしのいいのは客席よりも舞台なんだから、パレードの参加者かスタッフに紛れて高い位置にいると踏んだわけ。で、このトラックの上にいる中で特定の方角を注視する平均値が他のメンバーより高かったから、あのネズミにアタリをつけたの。で、その対象がどうやら飛行船の方角だなって分かったから後は安心して突撃したんだにゃ」

 なんたる行き当たりばったりだ…いや、それも計算のうちなのか?ともかくもこの論理的なようでいて不可解で、理解できそうだが不条理な推理力こそ璐美の真骨頂なのだ。

「まー、体格の大きい白人男性が中に入れるキャラクターの数は少ないし、あとはまー……ん、諸々もろもろ?etc.etc?説明するのが面倒くさくなるぐらい理由があっての行動なわけ!」

 こういう時の璐美の話は、頭の中を整理するよりも丸ごと飲み込むほうが手っ取り早い。ハイテンションから通常の気の抜けた調子に戻ったのか、ユラユラしはじめた璐美に私は帰庁を促す。

「とどのつまりは、ありとあらゆる要素からあいつの着ぐるみしか犯人たりえないと判断したってわけだな。流石だよ。これなら始末書も短くて済む」

 そっちは昴ちゃんにまかせるよ、と言った璐美の瞳に瞼の覆いが半分ほどかかっているのに気がついた。

「璐美、どうした?どこか殴られでもしたのか?お前は私と違って華奢なんだからあんな無理は」

 ぶつぶつと先程の推理の続きを垂れ流しながら、風変わりな幼馴染は電池の切れたアンドロイドみたいに頭も腕も下げていく。

「まぁ…だからちょっと気になることも出てきたんだけど…もう…璐美も…う……疲れちゃっ………た」

 がくん、と弦が切れたように下半身から崩れ落ちる璐美を咄嗟に抱える。眼を閉じた顔は苦しげに歪み、顔色は蒼白で動悸が激しく、呼吸が弱いスタッカートになっている。

「璐美、お前まさか」

 こくりと頷く相手の面に、思いつく限りの罵倒を浴びせてやる。

「このめ!糖分の補給も忘れるほど入れ込む奴があるか!お前の身体は、脳のつくりは、ほかの人間とは違うんだぞ!?自分のことだというのに、まっっっっったく理解していないんだなお前は!」

「んー…やっぱり三時間耐えるのは難しかったかにゃー…」ロリポップをちゅるんと飲み込み、弱々しくピースをする。「でも偉いでしょ…これで鈴木空波なんかに…あーだこーだ言われないもんね…」

 璐美の脳は、その異常な記憶力と知性とを与えることと引き換えに、恐るべき速度で糖を代謝していく。普段から甘味ばかりを口にしているのもそのためだ。もっと合理性を優先するのならブドウ糖そのものを摂取したほうが効率的なのだが、この偏屈な幼馴染は「だって璐美は女の子なんだよ?薬みたくチューチュー啜るの絶対ヤダ!」と、その方法を好まない。

 私は急いで璐美の着ぐるみを脱がせ、殻となったそれを投げ捨てる(下が裸でなくてよかった、シャツとハーフパンツ姿だ)。ぞんざいに放り出されたそれが宙を舞って幼児の足元に辿り着き、その子は身をすくめ、やがて激しく泣きじゃくりはじめた。ーーーきっと最低のパレードの記憶になることだろう。済まない。心から謝罪する。

「子供達の夢を壊し一般市民に多大な迷惑をかけたうえに倒れるなど、警視庁が許しても私は許さんからな!」

 このままでは移動しにくい。自分も忌々しい…もとい、可愛らしいこのぬいぐるみを剥ぎ取らねば。

 私は着ぐるみを脱ごうと焦りすぎて、却って胸の豊かさが邪魔をしてつっかえてしまう。なんとか無理矢理厚ぼったい厚手の生地を腰まで引きずり下ろし、足を引き抜く。裸足になるが、四の五の言ってはいられない。読者諸君には安心してほしい、私も下にはハーフパンツを穿いている。

 璐美は私に横抱きにされさながら薄眼を開けて「わぁ怖い…昴ちゃんてば…鬼瓦みたいだよ…」と微笑む。

 それも当然だろう。実際、綿密に練った計画が全ておじゃんにされたこの惨状を見て平静でいろというのが厚かましい要求だ。

「その計画…立案したのが誰だか…忘れてな、い……?」

「ああ分かってるよ、お前だ!」

 だからこそ腹を立てているんだろうが。手柄を自分から台無しにするとは愚かしいにもほどがある!

 世に言う「お姫様抱っこ」の状態で細身の璐美を抱え、ステージを飛び降りて駆け出す。たちまち風にあおられて繊細で豊かで無駄に長い髪の毛が腕といわず腹といわずこちらにまとわりついてくる。

 ああもう、走りづらい!

「いいか、璐美、これは大きな貸しだからな!

「…昴ちゃんは…あんまり受けてなかったし…いいじゃにゃい」

「ああそうだな、はっきり、正直、パフォーマーには、向いてないんだ!」

「補給…してたつもりだったんだけどにゃ…」

 戦隊ヒーローの格好をした大村とあわやぶつかりそうな勢いですれ違った。

「斑鳩先輩!課長がどうかしたんすか!」

「私は先に行く!ここは任せた!!」

 いくつもの交差点を抜け、歩道脇の柵をハードル走のように飛び越える。髪さえ邪魔をしなければ、軽い璐美の一人や二人を運んで走るのに苦労はしないんだが。

「えいくそっ、これでまた、第三課の信用回復が遠のいた!お前のせいだからな!厄介な体質をして!!」

 私は毒づきながら駆けていく。こうなった璐美に必要なのは、たっぷりグルコースを含んだ飲み物か、手っ取り早く点滴か………救急隊には是非に前者を選択してもらいたい。この小癪な唇をこじ開けてドロリとした液体を流し込み、鼻の穴から逆流させてやったらさぞかし溜飲の下がる思いができるだろう。

「犯罪者の写メ集めなんて趣味の悪いもので、自分の命を落とすなんて、下らなすぎてお前に相応すぎるだろう!そんなことは私がさせない!!」

 この幼馴染との思い出の数々が走馬灯のように浮かんでくる。あれは幼稚園のとき。クラスで飼っていたヤギのユキちゃんに璐美がちょっかいを出して逆に襲いかかられた。その反撃から私が庇って、蹄で鎖骨を折られたっけ。

 小学校での林間学校のときは、璐美が廃ホテルに忍び込んで不審者とでくわし、それを駆け付けた私が拾った角材で退治したが、右肘をナイフで切られる大怪我をした。

 中学生になって、天流神家の広大な私有地内を自家用車で危険運転した璐美に巻き込まれ、車外に飛び出した璐美をキャッチして代わりに庭石に叩きつけられて脇腹に消えない痣をこさえたっけ。

 ………あれ、なぜか良い記憶が出てこないぞ?

「ところで…昴ちゃん……」

「黙っていろ。余計な体力を使うな!」

 ありがたい、すぐそこ、和光の前の救護ポイントで救急隊が担架と点滴の用意をしているのが遠目からも確認できた。多分大村だろう、そつなく事態を把握して、この変態もとい病人を収容する用意をさせたのだ。

「さっきから…沿道の視線が昴ちゃんに…釘付けなの、分かってる?」

 こんなときに、そんなことを!それは滑稽というか奇異にも見られるだろうよ、黒髪の長髪で長身の筋肉女が、もっと長髪のお姫様みたいな女の子を文字通りお姫様抱っこして激走する様子なんか、そうそう遭遇できないシーンだろうからな!

「お前に入院されでもしたら、お前のことを私に頼んでくれた総監に、申し訳が立たんだろう!」

 後少しの辛抱だ、璐美。

 こんなときになってやはり思う。璐美よ、お前は私のかけがえのない朋友ともなのだ。たとい小憎たらしい悪魔っ子だとしても。

「昴ちゃん…見えてるよ………っ……ぱい………」

 だから、死ぬな!

 救護隊のテントが目前だった。点滴の準備に大急ぎの隊員達を前にして私の足が止まり、呼吸が止まり、そしてーーー

 心臓が止まった。

「…おい璐美、いま、なんて言った?」

 やっとのことでふわふわと口を開き、璐美はその事実を言った。

「だから、見えてるよ。おっぱいが」

 私は我と我が身を見下ろした。裸足の踝、膝、ハーフパンツ、それから臍、その上は…

 私の上半身はまごうかたなき裸身だった。興奮が冷めて、外気にさらされた素肌が寒さとそれ以外の感覚で粟立つ。

「汗かきすぎたんだね…昴ちゃん。着ぐるみと一緒に…シャツ…下着も脱げちゃってたの…全然気づかないんだもん」

 耳が詰まったように何も聞こえなくなった。私の腕から璐美が落ちるより早く救急隊員が担架に移し替える。

 手際の良い男性医師の点滴の管を繋がれ酸素吸入器をあてがわれる璐美は、まるで不思議の国のチェシャ猫みたいな邪悪で意味深な笑みを浮かべた。

「慌てん坊…昴ちゃん。まだ処女バージンなのに、大サービス」

 雲間が割れてキラキラと陽光が降りてくる。それを眩しいほどに浴びた私は、今や公衆の、同僚達の、また一部マスコミの面前でその視線を浴びていた。

 くちん、と誰かがくしゃみをした。

 瞬間、凍りついていた意識を取り戻して私は蹲った。

「いやーーーーーーーーーーーっ‼︎」

 ーーーーーそれは、私が上げた悲鳴が動画投稿サイトに拡散され『日本一男前の女性警官の禁断画像』として世界中に蔓延した瞬間だった。

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