バッタだ

幼卒DQN

第1話 君を拾った日 前編

(中略)このときのラスコーリニコフの気持ちを四十字から五十字以内で書きなさい。

 はい来た。ぐるぐる、寸胴をかき回す。

 ……やっぱりこの手の設問は絶望的に苦手だ。


 大体さあ、文学は芸術なんだからどう解釈しても構わないはずだ。

 ええ確かに教師は仰いました。「文中には必ず正答の根拠がある」とね。でも一生懸命ただ正答を導くためだけの小賢しい解法テクニックを習得してどうなるって言うんだ。


 オレはそんなくだらないものに拘泥こうでいしない。とらわれない。迎合しない。

 不器用と人は言うかもしれない。オレはオレの信念に則って孤高に生きてやるのさ。

 

 オレはもう仕上がってる。さんざん捏ねて熟成も済み、伸ばして均等に切ってある。あとはでるだけという状況だ。


「後5分」

 と教師がオレの菜箸を掴んで現実に引き戻す。太麺だって十分に茹で上がる時間じゃないか。焦るな焦るな。


 しかしこんな紙切れでオレの力を測ろうだなんてさ。ナメられたものですよ。ああ時間ですか。ええ結構。


 そんなにお勉強が大事ですか。

 教師は教師を演じている。オレは学生を演じている。みんな学生を演じている。

 よいこを演じている。

 内申点や評定ひょうていを気にしてるのさ。

 オレはもうよいこを演じるのに疲れたよ。

 窓の外から、セキレイの鳴き声が聞こえた。セキレイだって必死に縄張りを守ろうとするセキレイを演じている。


 

 木の葉はカサカサ音を立てアスファルトを這い回っていたかと思うと、木枯らしに弄ばれ、散り散りになっては巻き上げられ、土に還るまで、もしくは焼却炉に入るまで忙しない。ただし風は異様に冷たかった。マフラーを少し、きつく締める。

 

 一歩一歩、家路を進む度に開放感が滲み出た。終業式のカバンは軽い。

 今日は景色が違う。ほら、例えばあそこに。

 

 視界の端っこに、何か変なものが映った。真新しいダンボール箱が駐車場に置かれていて、その中で真っ白な丸いものが蠢いている。

 

 躊躇なく行ってしまうのは非道だろうか。カリカリとスナック菓子を囓る音が聞こえる。

 

 胸に溜まった重いものを思いっきり吐き出すと、また勢い込んで歩き出す。

 しかしどういうわけか足が重くなって、振り返った。唇を噛んで、生唾を呑む。

 

 もし、誰にも拾って貰えなかったらどうなるだろう。見たところ飲み水もないようだし。今日は殊に寒い日だった。体力を消耗して……。


 どうにかして自分で自分を丸め込もうとしている自分に気付く。苦笑い。

「ああ! もう!」


 はいはい。どうせこうなることは解ってたよ! 爪先に力を入れてアスファルトを力強く蹴って、舞い戻る。酸欠に意識が混濁し、異世界を浮遊するような錯覚に陥る。

 

 いや。実はね。飼ってみたかったのは確かなんだよ。

 いや。ほらね。あるじゃないか。姉妹がいない奴の妹がいたらどんなにいいだろうなあとか、猫がいたらどんなに癒されるだろうなあとか、そんな現実を直視しない幻想ゆめが。幻想といったのは他でもない。

 

 オレにはリアルに妹がいるから夢を見られない。まあ妹属性は別腹だけどね。 

 膝を屈めて、手のひらに乗せ、空っぽのカバンに入れた。小さい体は奥に収まり、それきりおとなしくしてくれる。よし。


 これも運命さ。

 幸い、オレは進学校に通うため親元を離れアパートで独り暮らし。許可を得る必要もない。まぁ、生活費が削られるのは痛いけど。


 あ……れ?

 なんで今日こんな道を選んだんだろ。

 いつもの通学路と違う。かと言って寄り道コースでもない。はっきり言うと帰り道は反対側だ。


「くしゅん!」

 ?

 ……またか。


 生き物が入ったダンボール箱が視界に入った。

「あの……何してるの?」


 いや、ダンボールに入っている、という表現はいささか不適当かもしれない。上半身は完全にダンボールの外に出ていたから。


 自分をぎゅっと抱きしめて、そっぽを向く。長い金髪がぴょこんとこちらを向いた。目に染みる真紅のヘアバンドカチユームが目を惹く。


「お巡りさ~ん、ここで~す」

 びくっ。華奢な背中が震える。


「そこに入っていれば誰かが拾ってくれると思ってるの?」

 女の子は振り向いた。

 この《こ》は、何を演じているんだろう。

 彼女には引力があった。と言えば、感傷的だと揶揄やゆされるだろうか。

 オレの目は一流店のラーメンが目の前においでになったかのように釘付けとなった。網膜がじりじりかれる。まぶしくてオレは目を背けた。


 小麦を直に感じられる細麺を想起させる腕。この寒空の下、剥き出しになった肩は同様に色鮮やかながらもスープに溶けてしまいそうなほど薄く千切りにされ高貴な芳香を放つ九条ネギを思わせる。鼻は普段見慣れている顔よりも高く、そう、日本人の顔ではなかった。


 オレのカバンが蠢く。もぞもぞしている。もぞめいている。 

 このまま行ってしまおうか。このはどうなってしまうんだろうか。

 後ろ髪引かれて。


「どうしたの? ああ、そういうことか。これから結婚式なのに急に怖くなって逃げ出してきたんだ」

 はらはらと目に鮮やかな金髪ブロンドが風に遊んでいる。生地の光沢はマンガリッツァ豚のチャーシューのよう。艶やかな肩がこの寒空の下、むき出しで目を凝らすと鳥肌になっている。絵にならない赤茶けた路地に華やかなウエディングドレスはあまりに不釣り合いだ。


「結婚なんてしないしする予定もないわ」

 感情に乏しい声だった。日本生まれではないのだろう。発音が変だ。


「最近、日本も治安が悪くなってるからねえ。こんなところで無防備にしゃがみ込んでたらどんな目に遭うか判んないよ? ほら、例えばオレが急に……」

 オレは両手を振り上げた。一気に振り下ろして女の子の薄い肩を掴む。

 無抵抗だった。冷え切った白い肌は氷なのではないかとまごう。


「家に帰って暖まった方が……」

「帰るところなんて……ないわ」

そう言って顔を伏せた。

 細い顎から赤いものが伝い落ちた。唇が血で滲んでいる。オレも唇を結んだ。


 参ったな。

 女の子はまた咳をした。オレの胸に生臭い動物系スープが流れ込む。

 まるでラーメン屋店主にでもなったかのような気分。本日の客も変わった方がいらしております。


 しかし今日はもう一匹拾ってしまっている。この仔だけでもう手一杯だというのに。

 雲を仰ぐ。豚骨スープの空から妖精達が降りてきて、ウエディングドレスに雪化粧。真っ白な肌が眩しいぐらいにキラキラ輝きだした。


「あれ……? そういえば前にどこかで逢わなかったっけ?」

 自分の口から零れ出た言葉に驚く。なんだ。どうした。よくもまあ突然こんな軽薄なナンパをおっ始めたものだ。


「まあ呆れた。あなた憶えていなくて?」

 深く、呼吸をした。オレの口から白い息がたなびく。

 ありえない。こんな可愛い娘と出逢ってそれを忘れるなんてことはありえない。

 どういうことだ。


 つまりこれは、彼女なりのSOSだ。

 手が震える。なあに、厚意でやることだ。警察のお世話になることもないはずだ。

 オレはうつむいて、しっかと女の子の手を握った。


「え? え……?」

 そのまま力任せに無理やり立ち上がらせる。そしてそのまま手を引いて、ダンボールを脱し、引っ張っていく。


 ほら、騒げよ。

 顔が火照る。脇に気持ち悪い汗がへばりつく。

 『離して!』みたいな感じでさ!


 ふわふわする。初見のラーメン屋に入り込んだみたいに、不安。

 往来する人たちがオレ達を見やる。なぜオレはタキシードを着ていないんだろう。まあ、スーツすら着たことないネクタイすら結んだことないけど。


 なんならビンタの一発だってもらう覚悟はしていた。

 彼女は一言も発さずにオレの手に従った。彼女の手を引く力加減に迷う。

 だって、女の子の手ってこんなにも柔らかくて、喜多方ラーメンみたいな感触で、口に入れただけで千切れてしまいそうな、そんな感覚。


 気がつくと、オレの住処であるボロアパートの前だった。

 途方に暮れる。横顔を盗み見た。本当に生きているのかさえ疑わしい。オレも彼女も。ただ、僕と女の子の唯一の接点である手からはどちらから流出したかも知れぬ冷たい液体が不可解にぬめっている。


 ――最悪だ。

 昔からそうだった。

 女の子は、果てしなく遠い存在だった。すぐそこにいるのに。

 数えるほどしかないけれど、女の子と話すだけで、顔がにやけた。熱を持った。真っ赤になった。我ながら本当に気持ち悪い。

彼女達と普通に接し普通に会話し普通に付き合っているオレとは異人種の男達はたくさんいる。きっと形質どころの騒ぎではなくY染色体やミトコンドリアから相違が見られるに違いない。


初めて、この部屋に入った時のことを思い出した。

 彼女は口を開いた。

「ドキドキ、するわ」

 ?

「殿方とこんなに触れているなんて初めてで……」

 ……。オレだから特別・・ってわけでもなさそうだな。


 オレの家なんかに入れていいものだろうか。

 女の子がオレの手を握る力がわずかに増した。振り向く。女の子はそっぽを向いた。

 ……なんだよ。嫌なら嫌って言ってくれればいいのに。


 どこかから子供達らしき歓声が上がった。ザリガニを見つけたとかで騒いでいる。

「いつまで、ここで待っていなければならないのかしら」 

 目が覚める。我に返る。

 オレはどこにいるんだろう。

 突き刺さるような視線を感じ、オレはうつむいた。


「あの……いれてくださらない?」

 ぴくっと震えて、僕はさらに身を固くした。空いている方の手を握りしめる。

「いいのか? いいんだな? もう知らないからな!」

 女の子は初めて見るラーメンを眺めるようにして。目が合った。オレにその視線を受け止めることなんてできるわけもなく。


 ええい。

 左手で鍵を差し込むのは初めてだ。だから手が震えるのも仕方がない。


「ただいま」

 沈黙に耐えかねて、こんな呪文を唱えてみたりする。

「おかえりなさい」

 なんと後ろから返事があった。


「何の音?」女の子がカバンを眺めて言う。

「……ああ、これは」

 オレはカバンを下ろした。開けると真っ白い塊が勢いよく飛び出してきて、それきり動かなくなった。いやよく見るとブルブル震えている。オレはカバンを置きに部屋に入った。

「この卦魂ケタマ、どうしたの?」

「拾ったんだ」


 そうだ。こいつは卦魂ケタマって名前だった。まさか人まで拾う羽目になるとは思わなかったけど。

「まだ幼いから体温調節ができてないわ。何か暖めるものを」

 その言葉に気圧されたように「暖房つけて。三十度」とつぶやく。「暖房を三十度に設定して開始します」初老のエアコンが不満げに身を震わせ口を開け、気怠そうに唸り声を上げる。


「まだ足りない」

 伸びたラーメンみたいにただオレに手を引かれていた子が突如熱々の激辛スープみたいな目をする。オレはロフトに上がって電気毛布を掴むと下に戻った。卦魂を電気毛布に乗せ様子を見る。

 さっきまでしっぽを下げへっぴり腰で部屋を探検していた卦魂は丸い体を縮め更に丸めてそこで動かなくなった。


「どうやら、落ち着いたようね」

 女の子は頬を緩ませた。とてとて歩いて窓際に立つと熱風を受けようと腕を伸ばす。本当にオレと同じ人間なのか疑わしいほど、細くて、儚げで。温風に乗って彼女の香りが部屋全体に広がる。


 気がついたときには彼女の背中がオレの腕の中にあった。

 え? 何? オレがやったのか? 我に返る。おののいて飛び退く。

 彼女は振り向いた。


 ……終わった。

 事情も聞かず、強引に家に連れ込んで。一体何をやってるんだ。

 そして彼女は叫んだ。それを聞きつけ誰かが通報。オレの両手首には初めての手錠が嵌められ、早くも経歴に傷がつき、お先真っ暗。親元を離れさぞかし頑張っているに違いないと期待する両親を完全に裏切る結果になり。


 あ……れ? 

 彼女はそのままオレを見つめている。その目から逃げる。生唾を呑み込む。まだ、終わりじゃない。何を。何を言えば正解だ?


「いや、あまりにも寒くてさ……」

 ……オレは何を言ってるんですかね。


「そう」彼女は振り返る。「であれば」

 彼女のしなやかな腕がオレの首に巻き付いた。そのままオレの胸に頬を寄せる。ははは。あったかいね。ははは。


 何が起こったのか理解するのに時間を要した。落ち着くのに時間を要した。

 判った。そういうことか。突如、身を翻しダッシュ、玄関のドアを開ける。血眼になって辺りの様子を窺う。

 カメラを構えた男やアシスタントディレクターがきっとどこかに潜んでいるのだ。オレを撮って笑いものにしようとしているに違いない。そうはいくかってんだ。手と顔がひりひりした。オレの上半身は植え込みの中に潜り込んでいる。この辺にカメラの一つも隠してあるはず。


「……あの、何をしているの?」 

「君もグルなんだろう? 実は芸能人かなんかでさ。オレを騙そうとしてるってわけだ。そうだこれで何もかもが説明がつく!」

 振り返ると遠慮がちに女の子がオレの肩に手を添えている。どんな顔をしていいのかわからない。


 何か、おかしい。

 家に戻るその短い道程ですら体がふらついた。

「どうしたってんだ……」


 オレの部屋に、女の子がいる。玄関には、オレの靴と妹のではないハイヒールが並んでいて。不思議な感覚だった。そして忍び寄る沈黙は蠱惑的で不愉快で。


「こたつにでも入ってて」

「こたつ……?」

「ここだよ。こうやって、足を入れるんだ」

 やはりそうか。外国生まれで日本に来て間もない。


「悪くないわね」

「とっ……とりあえず、お茶でも淹れるね」

しなに計らいなさい」


 日本人の血が入っているようには見えなかった。

「オレはカガミ。君は?」

「わたくしはルーシー」


 こういうとき、『可愛い名前だね』とか言ったほうがいいんだろうか。んで『いや違うな、君は実際、本当に可愛いね』とか?

「んなこと言えるかよ!」オレはやかんを投げた。ガラガラと音を立てて床を転がる。ルーシーは微塵も動かない。


「紅茶で良かった?」カップを二つ、こたつまで運んでいく。

「結構よ」

 背筋を伸ばしてそう言ってたたずんでいる様は、オレの家の一部が絵画にでもなってしまったんじゃないかと錯覚するようで。一度ルーシーに目を向けると吸い込まれて二度と抜け出せなくなるんじゃないかと夢想した。


 あれっ!?

 オレはたたらを踏んだ。踏ん張ろうとするが、足が働かない。

 ルーシーは目を瞑った。やむを得ない。カップを放り出して、倒れる前に両手をつく。


 両腕の間に、ルーシーがいた。鼓動が高鳴る。

「大丈夫?」

「……ええ」


 ルーシーはまだ目を瞑ったままでいた。唇を結んで。ティーカップがフローリングの床に弧を描いた。

 ちょうど、オレはルーシーを押し倒した格好だ。え? これって?


 違うんだよ! そういうわけじゃない! 口を動かすも言葉は何も出てこずに、あたふたと視線を彷徨わせるうちにスカートが茶色に汚れているのが目に留まる。

「あ、ドレスを脱いで!」

「……ええ」


 無感情な言葉が殊更ことさら悲壮感を増してしまう。ルーシーは目を開けた。そしてオレをちらと見遣るその視線が、なんだか蔑んだもののように感じられた。

「違うんだ! シミになっちゃうから! あ、オレは上に行くから!」


 慌ててルーシーに背を向けるとはしごを駆け上り、布団に飛び込んだ。はっと目を真開く。ルーシーに何か着るものを渡さなくちゃ。


 非常事態だからな。仕方ないんだ。ロフトの奥、レースとラメに飾られたクローゼットに手をかけ、中に整然と散りばめられたパステルカラーの布地の海を掻き分け部屋着らしきものを引っ掴むと「はい! これ着て」と階下に放った。


 下から玄関のドアを叩く音が響いた。

「どんどん! ……カガミー。開けてー。……あ、開いてるから入るねー?」


 玄関が開く音。そしてコツコツ靴音。オレは起き上がると下に降りようとしてようやく気づいた。今、下には脱衣中のルーシーがいる。そこに猛然とオレが登場したら。オレは咄嗟とっさにシーツを被って身を翻した。


「ほら、見えてない! 見えてないから!」

 壁に手をつきながらはしごを降りる。足音が近づく。気が急く。

 平衡感覚が狂う。!? 足をつく場所がない。

「カガミ……」

 ルーシーの気配がオレの目の前に接近した。ルーシーをぺしゃんこにするわけにはいかないがオレもこんなところで怪我をするわけにはいかない。ルーシーを掴んでなんとか勢いを弱める。オレはルーシーにのし掛かり、そのまま二人で床に倒れた。


「大丈夫、かしら?」

「……ああ、助かった。ありがとう。ルーシーこそ怪我してないかい?」

 こんな状況にならないとまともにルーシーと話せないなんて。

 背後でドアが開いた。


「カガミ!? 何やって……」

 

 セーラー服姿のチサトは養豚場の豚を見るような目でオレを見下ろしていた。

「ド変態!」

 これでは、幽霊のコスプレをしてハイテンションのオレが半裸のルーシーを押し倒すというプレイ……にしか見えない。


「オレのこと名前で呼ぶんじゃない。兄貴とか、お兄ちゃんとか、何か他の呼び方があるだろう……」

「やだ」

 そしてチサトは携帯電話を取り出すとオレに背を向けた。

「ピポパ……。ママ? あのね、カガミがなんか家にヒトスジシマカを連れ込んで……」

 オレはシーツの中から顔だけ出して恐る恐る振り返った。ルーシーは無表情にチューリップスカートに足を通していた。その目が、オレの顔を捉えた。オレはチサトに詰め寄り、問答無用で携帯電話をひったくる。即座に電話を切った。


「何すんの! イラッ」

「この娘は事情があって帰る場所がないそうだ。この寒空の下に放り出せと言うのか?」

「ふーん。カガミが連れ込んでおいてヒトスジシマカに変なことをしようとしてるんだ」

「だっ……大体なんだよヒトスジシマカって!」

「ふん……」チサトは一歩、二歩、ルーシーに詰め寄って。「ぷんすか。それチサトのなんだけど。上に上がって、脱いで」

「ルーシー、こいつの言うことは聞かなくていい」

 チサトはこめかみをぴくぴくさせ、口元をもごもごさせて、目を泳がせたかと思うと不意に携帯電話を奪い取った。


「いいの? ママにヒトスジシマカのこと教えちゃうけど」

「……交渉しよう」

「じゃあね。にやり」


 苦渋の決断。

「三つ、条件を呑んでもらう」

「断りたい」

「ぴしっ! 一つめ、チサトを名前で呼ぶこと」

「拒否権は?」

「二つめ、冬休みの間このアパートにチサトを住まわせてその家事一般を引き受けること」

「無理」

「三つめ、毎日一つずつチサトがお願いをするのでもれなく受諾すること」

「それは反則だろ」

「ふふふ」チサトは携帯電話を見せつけ、小首をかしげ口の端を上げた。


「まぁ……今晩はこのを泊めるつもりだったから……仕方ない、許すぞ……」と、大仰に如何にも仕方ないという演技ふりをしてみせる。

「ありえない」


 そしてチサトは大きな目を血走らせてオレを貫く。そのままルーシーに詰め寄った。

「ぱたぱた。ヒトスジシマカ、日本語解る? どっから来たの? さっさと帰りなさいよ。カガミをどうやってたぶらかしたの?」

「チサト。この娘を追い出すようならもうお前もここに泊まらせない」

「どっくんどっくん」

 こういうときにチサトの相手は楽だ。心拍数の上昇まで手に取るように判る。


「落としどころを探ろう」

 どこでそんな言葉を覚えてきたんだか。

「もじもじ……んーとね、チサトと本気ちゅー」

 そう言うと耳まで真っ赤にして上目遣いでオレの様子を窺っている。オレは頭を抱えた。そして横目を使うと、ルーシーは彫塑と化し微塵も動いていない。オークションハウスに持って行って名工の代表作とうたっても信用されるだろう。


 オレはどこで何を間違ったのか。


 オレとチサトは所謂いわゆる、血のつながっていない兄妹(きようだい)というわけではない。変なドラマでも観て感化されたのだろうか。

「しゅぴぃん。いいよ。電話しちゃうから」

 ああ、これからオレのすることを、オレはどうにか正当化しなければならない。


「チサト、ちょっとこっちに来い」

「やだ、ここからぜっったいに動かない」

 ちくり、胸に箸が刺さる。

 オレは、チサトを抱きしめた。

「ドキドキ。違うよ、カガミぃ。チサトはちゅうしてって言ったのにぃ……」

 オレは構わずチサトを抱きしめる力を強くした。チサトはまだもごもご言っていたが、その抵抗する力が、だんだん弱くなっていく。終いにはものすごい音量でおならをしてみせた。

 一目惚れしたんだよ。ルーシーに。

 だからこうして君の居場所を見つけるために、チサトを抱きしめるんだ。

 俺の肩の上で蕩けていたチサトの顔が、笑みに変わる。手を伸ばした。その指先の行く末を見ようと、首だけ振り返る。


 チサトは、誰かに向けて指を二本立ててピースする。ルーシーがいたところにはどこから紛れ込んだのだろう。瞬き一つしないフランス人形が突っ立っていた。

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