第72話 死顔
「姉ちゃん、姉ちゃん……」
小さい男の子が嗚咽をもらしている。
「独りにしないでよ」
狭い部屋、季節は夏。近くにひまわりの花が活けてあるが、バランスが悪い。花瓶に対してひまわりの花は大きすぎ、今にも倒れそうである。
少年の前には布団が敷いてあり、少年よりも二回り大きい、大人よりは小さな、そしてか細い身体が横たえている。生気はない。死んでいるようだ。
「さあ、もうこっちに来なさい。いつまでも泣いていても仕方なかろう」
聞きなれたその声に、鼓動が高鳴る。
「お前が……、お前が姉さんを殺したのだろうに!」
どんなに大きな声で叫んでも少年には聞こえず、もう一人の声の主も姿は見えない。それはまるで映画館で昔のフィルムを見ているようであった。観客は他に誰もいない。カメラは少年の背後からゆっくりと近づいていき、ついに少年の震える肩越しに、布団に横たえる人の姿を捉える。
「なんて美しい、死顔なんだろう」
死に際を誰も看取ってはいない。少年がひまわりも持って部屋に入った時には、すでに息はなかったのかもしれないが、そのことに気付いたのは少年がひまわりを生けた後、四葉のクローバーを探しに出て、もう一度帰ってきてからだった。
姉、京子の死顔は、あの時見た陽が落ちて萎れてしまったひまわりのように、だんだんとくすんで行き、やがて朽ち果てていく。
「やだ、姉さん。僕を独りにしないで下さい」
狩野紫明がたまりかねて目を背けると、不意に少年が立ち上がり、紫明の手を握る。痛いほどに強く握る。
「貴様、何をする!」
言った紫明は、すぐに言葉を失う。少年には、目も、鼻も、口もなかった。少年は何もない顔で笑っていた。
「はっ、離せ!」
赤子の手を握るように少年は紫明の抵抗をものともせずに、笑いながら腕を引っ張る――ものすごい力である。紫明はなすすべもなく、闇の中に引きずり込まれる。
突然都会の雑踏が迫ってくる。その勢いに押しつぶされそうになるとのどうにか堪えると、今度はそれがすーっと波を引くように拡散する。
「ここは……」
紫明はコンクリートの上に裸足で立っていた。夜である。風に乗って遠くのざわめきが聞こえてくる。クラクションの音、電車の走行音、人の話し声。どうやらここはビルの屋上らしかった。それも4階か5階。それほど高い建物ではない。エアコンの室外機が異音と共に熱気をはきだしている。かなり昔から使われている物だろう。サビと排気ガスの汚れと油と埃にまみれ、不機嫌な音を奏でている。
ふと背後から人の気配がする。振り返るとそこには、独りの少女の姿があった。
彼女は、まるでフランス人形のような、透き通った白い肌をしていた。
髪の毛は少し重たく感じるくらいに黒々としている。
目はパッチリとしている。
瞳はどことなく日本人のそれとは違うような、色素の薄い色をしている。
「まだ、私に……、何か用があるのか」
「私はこうして、いつでもあなたを見ることができるわ」
「無粋だな。ずけずけと人の心の中を覗き見するなど、まともな人間のすることではない」
「だからいつでも、あなたがその気になったら、私をお呼びなさいな」
「余計なお世話だ」
「私は黒き望みをかなえる者。悲しき想いを見つめる者。深き闇をさ迷う魂の叫びに、耳を傾ける者よ」
「望みなど、何もない」
「いつまでもお姉さんにすがるのはおよしなさい。さもないとあなたの魂も死人に引きずられるわよ」
「姉のことはわかっている。それは私の問題だ。何も望まないし、誰の助けもいらない」
「そう、なら、いいのだけれど」
「貴様こそ、すぐにここを離れた方がいいぞ」
「どうして?」
「お前のような存在は、より強き闇には飲まれてしまうのではないか」
「さぁ、どうかしら。私の闇も、覗いてみる?」
それまで無表情だった少女の顔が、微笑みを見せた。それはぞっとするほどに、冷たく、悲しく、恐ろしく、儚げだった。
「同じ顔を……しているな。姉と」
「あなたも似てきているわよ。これは忠告ね。本来そんなことをしてあげる義理も義務もないのだけれど、あの子たちの魂が私に囁きかけるのよ。だから私からではなく、あなたに利用されながらも、それを甘んじて受けた彼女たちの、これは償いのようなものね。ありがたく受け取りなさいな」
「償い……だと?」
「そう。あなたが道を外すのだとしたら、それは自分たちにも責任があると、彼女たちは考えているわ。他人の親切を無駄にすると、後悔するわよ。特にそれが、女性であればなおさらよ」
「それだけか?」
「何が?」
「わざわざこんなことまでして、私に会いに来たのは」
少女は少し驚いた顔をして、そして笑った。それはとても可愛らしく、少女らしい笑みであった。
「そうね。そういうことなら、一言言わせてちょうだいな」
少女は後ろ手に手を組み、腰を少し屈めて紫明を見上げるように言った。
「あなたの服の趣味も、髪型も、覗きの趣味も、私は嫌いよ。何よりシスコンは苦手なの。残念ね」
狩野紫明は夢の中で声を出して笑った。
「なんだ、こいつ、気持ち悪いな。夢見ながら笑っていやがる。めでたい奴だ」
車の中、子供のように眠っている狩野紫明を見て、武井は張り詰めていた緊張の糸を、ようやく緩めることができた。
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