第67話 幻夢

「なぜそこまでして法術を極めようとする。お主もわかっておろう。その道を極めれば極めるほど、人の道からは外れていく。ゆえに、そのような法術の使い手は、仏の道や神に仕える誠実さを持って、バランスをとるものじゃ。お主にいったい何があった。そして何をなそうとしておるのじゃ」

 雨は容赦なく狩野紫明を打ち付けている。雨水はどんよりとした空の色を受けて泥水のように濁って見える。狩野紫明の顔からはすっかり生気が失われ、まるで雨ざらしのオブジェのようだった。狩野紫明は下駄の男の言葉に何ら反応せず、ただじっと、ぬかるんだ地面を見つめている。自分の足跡が小さな水たまりになっている。雨粒が小さな波紋を作っては消え、作っては消えていく。狩野紫明の耳には、その小さな水たまりに降り注ぐ雨音しか聞こえていない。


「姉さん――」

 紫色の紫明の唇から、かすれた声が漏れる。


"史朗(しろう)、史朗……"

 狩野紫明には雨音が誰かを呼ぶ、女性の声に聞こえる――姉さん――それは紫明の姉、京子のものだった。

"史朗、何も心配することはなくてよ。あなたはあなたの思うことをすればいい。お姉ちゃんがずっと見守っていてあげる"


 北関東の小さな町。

 史朗はそこで生まれ育った。

 母は史朗を産んですぐに病にかかり、そのまま帰らぬ人となった。史朗にとって、姉、京子は母親のような存在でもあったが、その姉も病にかかり、史朗を残して逝ってしまった。史朗10歳のときである。

 史朗の家はもともとその別の土地で小さな神社を守っていたのだが、史朗の父、成忠(なりただ)は、これまでの神社のあり方に疑問を感じ、大学で神道を学んだあと、日本中を歩き回り、海外まで足を伸ばして自分の進むべき道を模索していた。だが、史朗の祖父の理解を得ることはできず、次第に孤立していった。そして最愛の妻を亡くすと、これに絶望し、自暴自棄になっている時期にある人物の噂を耳にする。


 その男――奇跡を起こす"生き神"だと。


"そんなものは、まやかしに違いない"


 成忠は、その"生き神"がいるという北関東のとある町に、そのことを確かめにやってきた。最初はいかがわしく思っていたものの、不治と思われていた病を治したり、探し物のある場所を言い当てたりと、いくつかの"奇跡"を目の当たりにするにつれ、次第にその男に心酔していき、ついにはその土地に住み着き、"生き神"信仰を広めるために働き出した。


 その男――鏡の中に写る未来を目にし、風の音に精霊の囁きを聞き、水の中から命の源を取り出すという。


 生活は苦しく、それでも食べるのにはなんとかその土地で取れたものを近所の人から恵んでもらいながら、何とか暮らしてきたが、長女が病にかかっても医者に見せることなく、祈祷と"生き神様"から授かった神水で治癒しようとした。そして病は治るのである。しかしそれが自然治癒であるのか、"生き神"のなせる業なのかを論ずることは無碍である。


 そして史朗10歳の夏、姉、京子は肺を患い、この世を去った。


"僕は、姉さんを助けることができなかった。あんな詐欺師の戯言にたぶらかされたあの男――僕はあの日から神生成忠を父親だとは思っちゃいない。僕は復習を誓ったんだ。偽りの"生き神"と、詐欺師にだまされたあの男を僕の力で……本物の呪術で呪い殺してやると"


 姉の死のあと神生史朗は、成忠の言うことを聞くふりをして、神学や様々な宗教、陰陽道から世界の民間信仰に至るまで知識を得て、成人する頃には、ある程度の法力を身につけるまでに至ったが、その頃には"生き神"の神通力も底をつき、詐欺と障害の容疑で家宅捜索を受けると、史朗は、それまで集めていた"偽りの神通力"のタネを警察がみつけられるところに隠し、ついに"生き神"は10を超える容疑で逮捕された。


 父、成忠の失意は大きく、ついには精神をわずらい酒におぼれ俳人寸前のところで実家に引き取られ、医者に通いながら余生を送った。史朗は実家からの支援を受けながら神学を大学で学び、卒業旅行と称して大陸に渡るとそこで姿を消した。実家からは捜索願が出されたが、史朗はもっと強力な法力を求めて、闇の世界に足を踏み入れた。


"正を学べば、偽を知る"

 狩野紫明は下駄の男の術中にあった。紫明の顔には和紙が貼り付けられている。"幻夢"という文字が書かれているが、それは文字というよりは絵画に近いものだった。字を模した絵なのか、或いは絵として画かれた文字――書画である。


"偽を知り、真を得る"

 下駄の男の言葉に、紫明が答える。

"そなたの真の名を問う"

 紫明は答えない。そして続ける。

"真を得て、力を求めれば、そこに道あり。道は果てしなく続き、進めば険しく、細く、そして危うい。道は闇の中にあり、光は道を照らす。光あるところに闇あり、闇なきところに光なし"

"何時に問う、真の名は?"

 下駄の男はさらに問い詰める。だが紫明は答えず、続ける。

"闇は闇に在らず、光は光に在らず。無は無に在らず。真は真、虚は虚、実はあるところに真在り、実あるところに虚在り。真実虚実交じり合うところ、これ現に在る実"


 下駄の男は大きく後ろに跳ねよけた。狩野紫明の顔に張られた"幻夢"の書は中央から真二つに破られ、紫明の足元で泥水に溶けていく。

「貴様に名乗る名は、"狩野紫明"、それだけだ」

 それを生気といえば、そうなのかもしれない。狩野紫明の活力は確かに戻っている。しかし、その禍々しさは、瘴気を伴う悪気――鬼のまとうそれに近い。


「自力で解くとはさすがよ。よほどの鍛錬を積んだのじゃろうが、ただそれだけでもあるまい。うぬが内に飼う鬼、甘く見ておったわ」

 言って下駄の男はにやりと笑う。まるで今の状況を愉しんでいる様子だ。

「貴様ごときの符術などに惑わされるなどと、あの方に申し訳がたたない。もうじきあれも完成するというのに……」

 雨がまた、激しく降り注ぐ。紫明は傘を拾い上げはしたがさそうとはしない。

「認めてやるぞ。下駄の男。今の私では貴様を抑えることはできない。だが貴様もそれは同じこと。本気を出さずに、この狩野紫明を抑えようなどと、ふざけたジジィだ」


 下駄の男は舌打ちをしたあと、大きな声で笑った。その声は雨音に負けることなく視界の範囲を突き抜ける。淀んでいた気の流れは弾き飛ばされ、歪んでいた時空は正常な時を刻み始めた。

「これ、いつまでそんなところに隠れておる」

 下駄の男は狩野紫明の背後の茂みに向かって声を張り上げた。


「どうやら終わったようですね」

 後藤刑事が草むらの影から姿を現す。

「それなら……長居は無用だ。紫明」

 後藤の後ろから武井が姿を現す。


 笠井町海浜公園の野鳥園に、4人の男が顔を合わせた。そこは数日前に、女性の変死体が発見された場所であった。


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