第66話 ハンター

「ちっ、また降りだしやがった」

 黒いスーツに身を包んだ男が笠井町海浜公園の野鳥エリアで携帯用の望遠鏡を覗いている。その視線の先には鳥の姿はない。あるのは下駄をはいた男と白いスーツの男だ。男の左手にはレーザーライトが握られている。その赤い点が白いスーツの男の額にあてられたとき、どこからともなく大きな叫び声が聞こえた。

「紫明! 傘を取れ!」


 我に返った紫明が落ちている傘をしゃがんで取る動作と、下駄の男が持っている傘を光線と狩野紫明の間に差し出すのはほぼ同じタイミングだった。

「武井か。どこに隠れていやがった」

 黒いスーツの男のいる位置は、野鳥を観察するための屋根つきの小屋で、離れた場所から沼地に集まる野鳥を観察するスポットである。

「まぁ、いい。役目は果たした。こんな真っ昼間からドンパチやるのは俺の趣味じゃねえしな」

 観察スポットに設置してあるベンチに大きめな黒いバッグが置いてある。望遠レンズなどを収納するカメラ用のバッグのようである。黒いスーツの男は、望遠鏡をたたみ、レーザーライトと一緒にバッグにしまおうとしたが、背後に人の気配を感じ、一瞬手を留める。


”武井か、いや、その可能性は低い。奴の声は沼の向こう側から聞こえたはずだ”


 黒いスーツの男は背後の気配を無視して、その場から立ち去ろうとした。

「すいません。ちょっとよろしいですか?」

 聞き覚えのある声、しかし、その男と話をするのは初めてである。黒いスーツの男は足を止め、ゆっくりと声がする方に振り向く。

「はい、なんでしょうか?」

 落ち着いた、低い声で答える。

「ここから、何か見えますか?」

 それは黒いスーツの男がよく知る人物であった。

「ええ、さっきまで白鷺が見えていたんですが、誰かが大きな声を出したせいで、逃げてしまいました」

 男は分厚い胸板をゆっくりと沼地に向けながらそう説明した。

「ほおぉ、白鷺ね」


”なるほどこれが後藤刑事か”


 黒いスーツの男は、戦闘態勢を解き、警戒レベルを二つ上げた。


「あとは烏くらいしか見えませんな。覗いてみますか?」

 黒いスーツの男はバッグの開け、右手を奥の方までさぐりいれる。

「どこかで、お会いしたこと、ありませんか。確か笠井町駅あたりで」

 今度は後藤刑事が警戒レベルを二つ上げながら、黒いスーツの男を注意深く観察する。


”この男を俺は知っている”


 かつて後藤刑事はこの男に尾行されたことがある。笠井町駅で尾上弥太郎とあったときに、その存在に気付いた下駄の男が、その姿をスーツの襟に仕込んだ隠しカメラで撮影した画像の中に、確かにこの男がいたのである。

「さぁ、どうでしょう。あの駅は時々使いますが、大概は車で移動します。私にはとんとわかりませんな」

 後藤刑事も上着の胸のポケットに手を入れる。二人の間に緊張が走る。


「携帯用の折りたたみ望遠鏡なんですがね。これでもよく見えるんですが、雨が降るとだめですな」

 黒いスーツの男が望遠鏡を鞄からゆっくりと取り出す。

「私は笠井町南警察の後藤と申します。最近、ここで見つかった変死体のニュース、ご存じですよね。それでいろいろと聞き込みをしているのですが、何かお気づきのことがありましたら、こちらまで連絡を」

 後藤刑事は名刺を取り出し、黒いスーツの男に渡した。

「さぁて、どうでしょう。私はこの辺りの人間ではないもので」

 黒いスーツの男は名刺を受取り、望遠鏡を差し出したが、後藤はそれを受け取るのを断った。

「失礼ですが、お名前を覗っても、よろしいでしょうか?」

 黒いスーツの男はスーツの上着の襟元を掴み、ゆっくりと胸元を見せながら、上着の内ポケットから名刺入れを取り出した。

「黒岩昭治(くろいわしょうじ)と言います。東京で小さな商いをしております。この望遠鏡もうちの商品でして」

 渡された名刺には


 "有限会社 黒岩商事 代表 黒岩 昭治"


 と書かれている。


「ほう。ご協力、感謝します」

「いえ、どういたしまして。後藤刑事」

 黒岩はゆっくりとした動作でその場を離れようとした。

「私の名刺には……」

 黒岩の背中に向かって後藤刑事が声を掛ける。黒岩の足が止まる。

「刑事とは、書いてないんですがね」

 黒岩は目を細めながらにやりと笑う。 

「これはとんだ失礼を、映画やドラマの観すぎですな。私はてっきり刑事さんかと思いましたよ」

 頭をかきながら大きな声で笑ったが、目の奥には鋭い物が見え隠れしている。


「いえ、刑事であっていますけどね。だいたいみんなそう言います」

 後藤も白を切る。

「そうでしょう。あなたはだいたい、そういう雰囲気を持ってらっしゃる」

 黒岩は後藤刑事の方に向き直って言った。

「よく言われますよ。あなたも、独特の雰囲気を持ってらっしゃる」

 二人の身長はほぼ同じであるが、黒岩の方が一回り大きく見えるのは、胸板の暑さと、首の太さに要因がある。

「ほう。それはどんな?」

 どうどうとしたその風格に似合う太い声で黒いは訪ねた。

「少なくとも覗き屋ではないでしょう。覗くことは好きだが、それは観察するためじゃない」

 黒岩は首を少し横にかしげ、不敵な笑みを浮かべた。

「ほう。それで」

 後藤刑事はゆっくりと両腕を上げ、ライフルを構える動作をする。

「ハンター」


 黒岩は大きな声で笑いながら、手に持っていた折り畳み式の望遠鏡を後藤刑事に向かって放り投げた。

「あんた、やっぱり面白いな。まだショーは終わっていないようだぜ。好きにしな」

 黒岩は手袋をしていない。犯罪者が指紋のついた品を刑事に渡したことになる。

「商売上手だな」

 黒岩は背をむけ、手を軽く振りながら雨の降る公園の中に消えて行った。


「なんの仕掛けもなきゃいいんだがなぁ」

 後藤は素早くポケットの中のハンカチを取り出し、望遠鏡を包んだ。おそらく指紋は検出されないだろう。仮にされたとしても、それは黒岩につながるようなものではない。さっきまで黒岩が使っていた望遠鏡をとっさに他の望遠鏡にすり替えて放り投げた可能性を後藤刑事は疑っていた。

「やつは手品もできるらしいな」


 後藤刑事は望遠鏡に頼らず、現場を肉眼で観察し始めた。

「どうやらもう、一悶着あったらしいな」

 沼を隔てた向こう岸に人影が見える。葦の影で胸から下は見えない。その胸から上の部分も傘で隠れて見づらい状況だった。雨が激しくなるとなおさら視界は悪い。

「スナイプする環境としては、最悪だな。それでも黒岩という男、何かをしようとしていたようだが」

 様子を覗う後藤の背後から、別の声がした。

「後藤さん、あんたか」


 そこには白鷺組組長代理、武井徹の姿があった。

「白鷺組の武井……。なんでお前さんがここにいる」

 どちらも会いたくない相手に出くわしてしまったという顔をした。

「訳は後で話す。それよりこの辺りに誰か他にいなかったか。危うく狙撃されかけた」

 武井のスーツは泥が撥ねた跡がある。よほど慌てたのだろう。

「その男ならもういない。腕のいいスナイパーのようだな」

 武井は周りを警戒し、異常がないかを確認すると、後藤刑事に話しかけた。

「俺の役割は、あそこに居る男の護衛です」

 隠し立てをするつもりはなかったが、後藤がこの状況についてどれだけのことを把握しているか探る意味もあり、武井は意図的に断片的な話をした。

「なぜお前が動いている。やはりここで見つかった遺体と白鷺組、何か関係があるのか」

 武井はあきれ果てた顔をして答えた。

「なんでも単刀直入に聴けばいいという物でもないでしょう。後藤さん」


 後藤は胸ポケットから煙草を取り出し、口にくわえた。

「ここは禁煙ですよ」

 武井はポケットの中からライターを取り出し、火をつける。

「関係あるようだな……、心配するな。俺も表向きはここに居ないことになっている。ことを荒立てるつもりはないし、誰かをしょっ引くためにここにきているわけでもない」

 後藤刑事は煙草に火をつけ、一服するとすぐに濡れた地面で火をけし、携帯灰皿に吸殻をしまった。

「で、どうなんだ。向こうの様子は」

 やりにくい。武井はそう思いながらも、内心どこかほっとしている自分に気が付く。

「俺にはよくわかりませんが、どうやら決着はついたようです」

 武井は事実をそのまま伝えた。

「ほう? それでどっちが勝った?」

「下駄の男の逆転KOと言いたいところですが……」

 武井は少し間をおいてから答えた。

「完敗ですよ。役者が一枚上というところでしょうか」


 武井には何が起きたのか、説明することはできなかった。しかし、断片的な会話の様子とレーザーが狩野紫明の額にあてられたときの下駄の男の反応に驚かされた。思うにあれは威嚇であって、本気で狩野紫明を殺そうとしたわけではないのだろう。狩野紫明は用心深い男である。敵からも見方からも自分の身は自分で守るということをここまで徹底してきた。彼が雨の日にしか外にでないのはそのためである。防犯カメラ、人の目撃情報、盗撮、監視カメラ、スナイプに至るまで、彼は自分でできる最大限のリスク回避を行ってきたのである。

 しかし、リスクを冒してまで下駄の男に姿を晒したのは……

「おそらく、あの男は、自分のすべてを掛けることをしない限り、下駄の男には勝てないと踏んだのでしょう。この勝負は最初から分が悪かった。それでも挑まなければならなかった」

 武井が親指を立てて、歩きながら話そうとジェスチャーを送り、後藤はそれに従った。

「つまり追い詰められていたと?」

 武井の背中に向かって後藤が話しかける。雨は小降りに変わった。

「いや、おそらく自分で自分を追い込んでいたんでしょう。もっとも、自分にはあっちの世界のことはよくわかりませんがね」

「ああ、そうだ。それに関しては俺も同じだ」

 武井が足を止める。観察スポットから少し離れたところに沼地に降りられる場所がある。もちろん一般の人は立ち入り禁止で普段は鍵がかかっているところだが、鍵は壊されていた。

「器物破損だぞ。武井」

「それに不法侵入……ですか。ここで待ちますか。それとも正式な手続きを取るとか?」

 武井はそう言いながら奥へ進んでいく。

 後藤は何も答えず、武井の後に続いて中に入っていった。




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