第45話 駄の男と団十郎

 笠井町の西側には荒川と利根川水系の支流、中川が合流している。荒川を超えると台東区。東は江戸川があり、これを超えると千葉県浦安市になる。荒川および中川の土手はサイクリングやランニングを楽しむ人も多い。昼間、地面をたたきつけるように降っていた雨は、夜にはすっかりやんでいた。足元が濡れているせいか、今夜はいつもよりも人が少ない。闇の奥から、下駄の音が聞こえてくる。右手に傘を、左手にはコンビニエンスストアのロゴマークが入ったレジ袋を提げている。


 やや下駄の音の主が街灯の下を通る。頭は見事に禿げ上がり、黒く光っている。肌の色は健康的ないい色に焼けている。肌つやからすれば30歳前後に見える。背丈はやや小柄でその割に大股で歩く。背筋はすっと伸び、老いというものを感じない。しかしこの男の年齢は軽く50歳は超えている。見る者にそう思わせる風格というものがある。紺色の作務衣はややゆとりがある着こなしをしているが、決してだらしなくは見えない。


「すっかり遅くなってしまったわい。取り急ぎ、奴にメールしておくか」

 通称、下駄の男。尾上弥太郎と名乗るこの男の生業は拝み屋である。祈祷師、呪術師、陰陽師。そういった言い方をしないところに、この男の矜持がある。男はぶつぶつと言いながら傘を左手に持ち替え、懐からiPhoneを取り出して右手の親指ですばやくメールを打つ。非常になれた手つきである。


『太山、たのみごとがある。何時でもかまわないから会いに来られたし。なお、場所はいつもの店で』


 太山とは書画家の田中太山である。書画とは『絵』であり、『書』である。書をして絵となり、絵として書となる。そもそも文字とは、意味を示す言葉を形にして記号としたものである。一般に象形文字として知られる。『人』いう文字は人体の形を表す記号であり、『火』という文字は、火が燃える様を表した記号である。もともとに書は絵であり、絵は書なのである。太山の書画とはすなわち文字の持つ本質を強く表現しているに過ぎない。それは人の心をつかみ、和ませ、時に励ますことができる。しかし同時のその力を、まさに力として利用することも可能ということになる。下駄の男は太山の書画を利用し、自らの力をより増幅するのに使う。『滅』という文字を紙にしたため、そこに念を込めることによって、『滅』という力を増幅させる。それを符術と呼ぶ者もいる。


「あやつのおかげで、少しは楽ができたが、もう少し働いてもらわねばならぬようじゃ。まったく、高くつくわ!」

 下駄の男は太山に呪い事に使う書画を書くように依頼したのは午前中のことである。午後に出来上がった書画を持って、笠井町海浜公園に現れたのは2時過ぎであった。それからこの時間――午後7時を回るまで、下駄の男はいったい何をしていたのか。いずれにしても、下駄の男の懐には、すでに太山の書画は一枚も残っていなかった。すべて使い果たしたのである。


「負けるとは思わないが、手ごわい相手であることは確かじゃ。それに――」

 下駄の男から、一瞬殺気にも似た怒気があふれる。

「外法に手を染めた相手じゃ。心して当たらんとな」


『外法』とはすなわち、常道、王道の真逆が外道であるように、正攻法ではない『法』。人には人の道、呪いには呪いの道というものがある。道を外れることでしか得られない術法の成果。呪いによって人を殺すのは外法ではない。しかし、より確実な成果を上げるために、大きなリスクを依頼者や時に術者そのものにかけることを外法という。どのような奇怪な呪術も世の中の理を利用してなされるのであるが、外法とはすなわち、理に背き、理を偽り、理を軽んじることで得られる法力である。


「またしばらく、周辺が騒がしくなりそうじゃ。そうなる前に団十郎に挨拶をしておかんとなぁ」

 下駄の男はiPhonを懐にしまいこみ、レジ袋の中を覗き込んでほくそ笑んだ。

「ふん! 太山と飲むより、わしは団十郎と呑んだ方が何倍も楽しいわい」


 団十郎とは、荒川周辺に生息している野良猫である。いつごろから下駄の男と団十郎が親交を持つようになったのか。それはある建築物に関わる。『闇の塔』と下駄の男が呼ぶ、全長600メートルをこえるその建築中の塔は、今夜も不気味にそびえたっていた。なぜ下駄の男が東京スカイツリーを『闇の塔』と呼び、監視をしているのか、それはまだ謎である。しかし、その塔に関心を持っているのは、下駄の男だけではなかった。団十郎もまた、日々闇の塔を監視しているのであった。


「ここいらにおるかのぉ。団十郎! この前の礼にうまいものを持ってきてやったぞ」

 闇の塔がよく見える、ある橋の近くで下駄の男は団十郎の姿を探した。しかし暗闇の中で一匹の野良猫の姿を見つけるなど、容易なことではない。下駄の男は適当な座れそうな場所を探し、腰を掛けて、レジ袋の中から日本酒の小瓶とアタリメを取り出し、酒を飲み始めた。


 酒を一口、二口と呑み進める。二つ目のあたり目を口にしたとき、どこからともなく一匹の猫が姿を現れた。体の大半は黒い毛でおおわれているが、足とお腹のあたりに白い毛の部分がある。何よりも特徴的なのはその猫の顔である。左右に黒と白が別れ、まるで陰陽の対極図のように見える。がっしりとした体躯。大股で歩くその姿を見て、誰ともなく、その猫を団十郎と呼ぶようになっていた。決して人になつくことも、媚びることも、また恐れることもないその佇まいは、単なる野良猫とは思えない畏怖がある。


「おー、おったか。この間の礼じゃ」

 そういって下駄の男は、レジ袋から猫用の缶詰や、魚、鶏肉の人用の缶詰を取り出し、団十郎に見せた。団十郎はいつもと違って下駄の男に対して警戒している様子であることに下駄の男は気づいた。

「うん? どうかしたか? おう、そうか。死臭がするかよ」

 下駄の男は作務衣の袖の匂いを嗅いだ。普通の人ではかぎ分けられない亡者の臭い――瘴気に団十郎は警戒をしているのであった。

「心配はいらん。もう終わったことじゃ。それがあって、太山と会う前にここで清めていこうというのだ。気にするな。団十郎」


 団十郎は下駄の男の話をしばらく聞いていたが、その言葉の意味を解したかどうかは定かではないが、やがて下駄の男に近づき、ご馳走にありついた。団十郎が選んだのは焼き鳥の缶詰であった。

「焼き鳥を選ぶかよ! 団十郎! かっかっかっかっ!」

 下駄の男は豪快に笑い飛ばした。普通の猫なら、その声に怯えて逃げ出すところだが、団十郎はまったく意に介さない。下駄の男が団十郎の選んだご馳走を笑い飛ばしたのには理由があった。


「団十郎よ。お主のおかげで、一つの事件は解決した。お主があの蝉の群れの存在を教えてくれたおかげで、闇に葬られた魂を救うことができるやもしれん」

『蝉の群れ』とは、笠井町の北にある大きな公園に隣接するアパートの一室に、大発生した蝉にまつわる奇怪な事件のことである。蝉を使った呪詛という、特異な方法――外法によってなされた坂口浩子というの女の復讐劇は、権田聡という元暴力団員の男を呪い殺した。権田に殺された姉の魂を利用し、呪詛を掛けたのは浩子の妹、由紀子であった。由紀子は外法の代償として最後はムクドリの群れによって、浄化されたのであった。かくして呪詛は成就した。しかし、姉妹の怨念を利用し、権田を亡き者にしようとした影の存在がいるのではないか? さらには、このような外法を非常の手段としてではなく、ゆがんだ矜持によって、妹の由紀子に授けた者がいるのではないか?

 事件の真相と外法を授けた人物を探るべく、下駄の男は動いているのであった。それはまた、後藤や鳴門刑事も同じことである。そしてもう一人、まったく違うルートから、この事件に関わろうとしている少女がいることを、下駄の男はまだ知らなかった。


「さて、団十郎よ。お主に頼みがある。わしはこれからいろいろと面倒なことをやらねばならん。その野暮用が済むまでの間、闇の塔のこと、くれぐれもよろしく頼む。今日のご馳走はこの前の礼と、頼みごとの報酬の前渡し分じゃ。こっちの事件が済んだら、また呑もうぞぉ」

 下駄の男は残りの酒を一気に飲み干すとゴミをレジ袋にまとめ、その場を後にした。団十郎は低く唸るように鳴き、残りのご馳走を平らげると、どこともなく荒川の土手の闇に消えて行った。




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