第44話 エメラルド・バー
後藤が強い警戒心を持ちながら、少女と接していることは鳴門刑事にはすぐにわかった。しかしその理由までは皆目見当もつかなかった。
「ほんの少し前までは静かな――いや、何もないということもないですが、こんなに騒がしい街ではなかったんですがね」
「あら、そうなの。もうこの街にはながくていらして?」
「そう、7年になりますか」
「虫たちが騒ぐのは短い命を懸命に全うしようとしているに過ぎないわ。でも鳥たちが騒ぐのはどうかしらね。駅前のムクドリたちは、まるで何かに怯えているようだったわ」
笠井町の駅前には大きなクスノキがある。数年前からそこにはムクドリの群れが現れ、糞や羽で路面が汚れ異臭を放っていた。今年は特にその数が多かった。
「あれは本当に迷惑ですよね。それにあれだけの数がいるとさすがに怖いというか……不気味です」
鳴門刑事は後藤と少女の間の張りつめた空気をなんとかしようと試みたが、これといって解決策を見いだせないでいた。少女は静かに微笑みながら鳴門刑事に話しかけた。
「鳥を怖がるのは普通のことよ。あなた、鳥の目をじっと見たことがある?」
鳴門刑事は少女の脳髄を直接刺激するような美しい声に一瞬我を忘れて少女の瞳を見入ってしまった。まるで何かに吸い込まれてしまうかのような感覚に襲われ、背筋に寒いものを感じながらも体温の上昇も同時に感じていた。
「鳴門、行くぞ」
後藤が鳴門刑事の肩を強くたたく。
「あっ、はっ、はい。す、すいません」
そのときとっさに鳴門刑事は後藤に詫びを言ってしまった。言ってしまってすぐになんで謝らなければならなかったのか、自分でもわからない妙な不快感を覚えながら、鳴門刑事は席をたった。
「す、すいません。私たちはこれで――」
鳴門刑事は少女に軽く会釈をして席を立った。
「鳥はおきらいですか? それとも怖い?」
不意に後藤が少女に問いかけた。少女は静かにマティーニの入ったカクテルグラスを置き、まるでマティーニに話しかけるように話し始めた。
「そうね。好きか嫌いかといえば、嫌いね。でも怖いからではなくてよ。鳥は運び去る者――渡り鳥は季節を運び去るわ。別れの象徴ね。別れといえば、死別というのもそうね。鳥を死の象徴として考える民族も多いわ」
「チベットには確か鳥葬というのがありますね」
鳴門刑事が口をはさんだが、後藤はまるで聞いていない様子だったし、少女もまた、言葉を一呼吸置いただけで、何事もなかったかのように語り始めった。
「――そうね。だから嫌いというよりは、さみしいって感じかしらね。だから鳥たちが騒ぐとき、きっと近くで魂が旅立とうとしているのね」
「死を呼ぶと?」
「そうね。でもちがうわね。鳥たちが死を呼ぶのではなく、死が鳥たちを呼ぶってことかしらね。それはまるで――」
そこまで話して急に少女は黙りこくり、そして静かに笑いながら後藤の方を向いていった。
「こういう素敵な場所には似合わない話ね。私はともかく、あなた方も死というものにそれほど遠くないお仕事をされているのかしら」
「それは、どういう――」
後藤は少女の表情の中にこれ以上何も話すつもりはないという空気を読みとった。
「いいでしょう。では、これで失礼します」
「きっとまた、お目にかかることがあるかもしれませんね。私、そんな気がします」
「そうですか――では」
後藤は静かに会釈をしてマスターに目で合図をした。
「ありがとうございました。またのご来店をお待ちしております」
会計を済ませて店を出る。雨上がりの笠井町の夜空に煌々月が白く輝いていた。
「ご馳走様でした。おー、今日は満月ですかね。いや、ちょっと欠けているかな」
「満月も死の象徴……だったか」
「どうでしょう。そういう話も聞いたことはありますけど、科学的な根拠はないという話ですよ」
「科学的根拠か――」
「さっきの女の人、すごくきれいな人でしたね。それになんだか不思議というか神秘的な方でしたね」
「女の勘ってやつかな」
「えっ、なんです?」
「いや、なんでもない。さぁ、帰るぞ」
後藤は少女が単なる勘で『死というものにそれほど遠くない仕事』をやっていることを言い当てたのかどうかを考えていた。確かにある程度独特な空気を身にまとっているという自覚はある。しかし、そう簡単にわかるものでもないし、少女もまた『死というものにそれほど遠くない存在』であることを含ませていた。後藤の脳裏に下駄の男の存在がちらつく。
「ふんっ! まったく……妙な男と知りあってからというもの、ずっとこの調子だな」
後藤は出てきたばかりの店を一度だけ振り返り、エメラルド・バーと英語で書かれたドアの向こうにいる少女の存在を気にしながら家路へと急いだ。
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