第5章 蟲使い
第30話 蟲
「そんなに慌てた顔をしているということは、やはりお主、人の道を踏み外したかの」
カラン、コロン、カラン、コロン
下駄の男は、ひょうひょうとしながらも、しっかりとした足取りで進み出る。
「私は何も悪いことはしてイナイ」
「では、いいことをしておるのかな? 町のゴミを拾い集めるような?」
「あ、あぁ……」
この町では一月の間に3人の変死体が上がっていた。いずれもごろつきであり、事件はそういう『世界』の出来事であると思われていた。
「もう、充分じゃろう。これ以上関われば、お主、元の場所に戻れなくなるぞい」
この二人は旧知であるのか。下駄の男は歩みを止め、目の前の男を正視する。
「まぁ、わしもな、まさかお主がそこまでの人間だと思わなんだ」
「そこまでの人間とは、どういう意味だ」
「人並み外れた執着、そして正義感。ルールを守ることこそ正義。正義は何よりも優先され、そのためには邪でも悪でも用いる。そこまでできる人間ということじゃよ」
下駄の男の前に立つその男は、まるで評する言葉の見つからない平凡な、どこにでもいる中年男性であった。使い古したカバンは、不格好に膨れ上がり、一見してそこにはこの男の商売道具が入っているか。あるいは暇をつぶすための雑誌や本がはいっているのか。誰の目にも留まらない。誰の気にも留まらない。あえて言えば、それこそが特徴と言えるほどの存在である。
「わしの真似事を一度見ただけであっさりとできてしまうことも、まぁ、恐ろしいことではあるのじゃが、お主、その力が自分で制御できると思っておるのなら身を滅ぼすぞい」
「で、できてしまったのだからしかたがない。あんなものを見せられては……。ワタシをこんなにシタのは」
「わしのせいだというのならそれは甘んじて受けよう。じゃが、もう終いじゃ」
男はカバンのファスナーを開け、その空いた口を下駄の男に向ける。カバンの中から黒い影が顔をだした。影は下駄の男めがけて白い糸のようなものを吐きかける。それをかわすことなく正面で受け止めたかと思うとその糸を思いっきり引っ張った。カバンから黒い影が引きずり出された。それは蟲である。
「まだ幼体じゃが、これ以上育てばお主、その精神を完全に食われるぞい」
キィィイ!
蟲は蠢き、呻き、慄いていた。
男は慌ててカバンの中に蟲を戻そうとする。その動きは人のそれとはどこか違っていた。手足の動きはどこかバラバラで人ではない危うい動きであった。
「すでにリンクしておるか。こいつは踏みつぶして終わりというわけにはいかんか」
下駄の男は、作務衣の懐に手を入れながら大きく一歩後ろに下がった。中年男は蟲のそばに片膝をついてしゃがみこみ、カバンの口を大きく開けて構えた。蟲はカバンの中にもぐりこむ。
「ソイ!」
下駄の男は、下駄を脱ぎすて、裸足で中年男に向かってものすごい勢いで駆け出した。中年男がその動きに気が付いた時、下駄の男の素足が目の前に迫っていた。
右の足裏が中年男の顔面を直撃し、男はその場に崩れ落ちた。素足の男は、蟲の入ったカバンに素早く右手を突っ込む。その手には何かお札のようなものが握られていた。
「覇亜!」
ギィィィィイ!
カバンの中から黒い触手のようなものが素足の男の腕に絡みつく。しかし素足の男は顔色一つ変えず、左の人差し指と中指を口元にまっすぐ立て、聞き取れないような声で呪文のようなものをとなえる。すると右腕に絡まり着いていた触手の動きが鈍くなり、やがてカバンの中にその姿を消した。
「ふう。あと半日遅ければ、さなぎになっておったか。そうなればこの男を救うことはできんかった」
中年男は白目をむいて倒れている。素足の男はカバンから蟲を取り出した。蟲は死んではいない。体をうねらせながら、何かを探しているようなそぶりを見せていた。それはまるで赤ん坊が腹を空かせて母親を探しているそれのようであったが、そう連想するには、その姿はあまりにもグロテスクであった。
「あの男ならすっかりのびておる。貴様の命令は今の奴には聞こえんよ」
素足の男は、蟲を右手に握ったまま、倒れ込んだ中年男のそばまでくると、左手を作務衣のズボンの中に突っ込み、イチモツを取り出した。それは男の体格にしてはあまりに不釣り合いな大きさであった。
「少し臭うが、がまんせい。これが一番効果的なのじゃからのぉ」
素足の男は中年男の頭に向かって放尿した。白い湯気が立つ。倒れた中年男と、作務衣を着た素足の男と異界の蟲と見事な放物線を描く放尿。
「ほうれ、動き出したぞい」
中年男の右の耳から蛭のような生き物が姿を現した。素足の男の尿を浴び、赤黒く変色し、膨張したり、縮んだりを繰り返す。最大で5センチ、最小で2センチほどの大きさである。
「ようし、いい子じゃ。そこでじっとしておれよ」
グチャ!
素足の男は放尿を止めて、右足で思いっきり蛭のような生き物を踏みつぶした。
ギィィィィイ!
素足の男の右手に握られた蟲が悲鳴を上げる。
グシャ!
蟲は握りつぶされ、汚物の塊のよう地面にしたたり落ちた。そのまま怪しげな湯気を上げながら、ついには地面に何も残らなかった。
「まったく。毎回不愉快な思いをさせるわい」
素足の男は下駄を履き、作務衣の懐から携帯端末を取り出した。
「あぁ、わしじゃ。こんな夜分にすまぬ。蟲を退治した。今から言う場所にきて後始末を頼む」
電話の相手はなにやら難色を示しているようであったが、下駄の男は有無も言わさず要件を伝えて電話を切った。
カラン、コロン、カラン、コロン
夜の町の中に下駄の男が響き、やがてそれは雑踏の中に消えて行った。その入れ替わりにパトカーのサイレンの音が聞こえてくる。だが、誰もその音を気にする者はいなかった。
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