　後藤は、不愉快でたまらなかった。理由はいろいろある。だが、どれ一つとっても後藤に解決のできることではなかった。刑事という仕事は、自分に向いた仕事だと後藤は信じている。たとえ上とそりが合わなくとも、そんなことは気にも留めなかった。町のごろつきから恐れられ、同僚からは怖れられ、上司からは懼れられている。

　正義感が強いわけではない。社会的な規範を重んじるわけでもない。

　例外のないルールはない

　それは後藤の信条ではないが、信じることができるいくつかの法則であった。でも、だからこそ、後藤のような存在は少なくともこの町には必要だと考えていた。

　俺が、この町を、守る

　ごろつきを排除することはできない。組織の中に、それがたとえ警察のようなところであっても不正や不公正はなくならないのと同じように、悪は、悪として存在し、悪が存在すること自体は悪ではない。捜査に必要とあらば、後藤はごろつきに適正な手数料を支払い、彼らを利用する。大事なことは適正であるかどうかである。借も貸も作らない。そうやって後藤はこの町のバランスを保ち、自己と組織と町の間を自由に往来していた。

　組織もそんな後藤を必要悪として、或いはいつでも切ることのできる駒として利用していた。

　すべてはうまくいっていた。

　後藤の前に下駄の男が現れるまでは。

　ﾌﾞﾙﾌﾞﾙﾌﾞﾙ、ﾌﾞﾙﾌﾞﾙﾌﾞﾙ

　深夜２時、ベッドの脇で充電していた携帯が振動する。ツーコール目で後藤は携帯を手に取り、着信相手を確認する。

「糞爺！　こんな時間に」

　後藤はベッドから起き上がり、電話に出る。

「拝み屋のオッサン、今何時だと……」

「あぁ、わしじゃ。こんな夜分にすまぬ」

「わかっているなら明日にでもかけ直して……」

「蟲を退治した。今から言う場所にきて後始末を頼む」

「あんたはいつもそうやって、勝手に動いて……」

　後藤は文句を言いながらも、メモ帳とボールペンを用意した。

「で、場所は？」

　素早くメモを取る。メモを取りながらも文句を言う。

「事情が分かる者に行かせたいのですが、あいにく別件で動けません。医者には見せなくとも大丈夫なんですか……、そうですか。わかりました。近くの交番のものを向かわせます。その男には悪いが一晩お泊りいただくしかないでしょう」

　要件を言い終えた後で、もう一言文句を言おうとしたが、一方的電話を切られてしまった。

「ちぃ！　まったくあの男と知り合ってからろくなことがない」

　後藤はすぐに手帳を確認し、拝み屋の指定した場所に近い交番に連絡した。

「あぁ、江戸川南警察四課の後藤です。すいません、こんな時間に。実は今から言う場所にいってそこで寝ている酔っ払いを保護してほしいんです。あぁ、酔っ払いと言っても、酒によって暴れたりはしません。ちょっといざこざがあったみたいで、顔面に蹴りを食らって伸びているだけです。そこで一晩面倒をみてやってくれませんか。朝、こちらから迎えに行くので。えぇ、えぇ、まぁ、ちょっとした情報をその男が握っているらしいので、いい機会ですから、この際、はい。はい。では、朝８時に迎えに行きますので、宜しくお願いします」

　後藤は身支度をして、家を出た。３時である。現場までは自宅から車で１時間もかからない。交番はそこから徒歩で１５分だ。

「とりあえず、近所に車を止めてそこで仮眠をとるか」

　後藤と下駄の男が知り合ったのは１年前のことである。それからというもの、後藤の身の回りではいくつもの怪事件が発生していた。そのたびに後藤は下駄の男の力を借り、事件の尻拭いの類はすべて後藤が引き受けることになっていた。

『尻拭い』とは、すなわち真実の隠ぺいであり、資料の改ざんということになる。しかしこの隠ぺいや改ざんは、他人からとがめられるような類のものではなかった。

　なぜならそれは警察や公の文章として残せるような類の『事象』ではないからで、これを知る者は後藤の他には部下の鳴門刑事だけである。

　呪い、人外の存在、大いなる闇の力

　まったくもって馬鹿馬鹿し。後藤はいつもそう吐き捨てる。吐き捨てるが不愉快なことに後藤はそれを見て、聞いて、触れて、知ってしまっているのである。ただでさえ、警察組織の中で異端の存在である後藤は、今や人の道をも迷うほどの、境界線にいつの間にか立たされていたのである。その道先案内人が自称、尾上弥太郎という拝み屋、通称『下駄の男』である。