一角龍


「わぁ……っ!」

 少し険しくなってきた川沿いの道を上っていくと、突然視界が開けた。落ちてきた水が岩肌に叩きつけられ、それが霧のようになって一面を白く染めている。

 いつ見ても壮観な光景だ。見上げればそのまま反り返って倒れてしまうほどに高い崖の上から、湖をひっくり返したみたいにたくさんの水が落ちてくる。ゴゥゴゥという音がわたしの身体を叩き、虹のかかる霧が髪を濡らす。

 わたしは渦巻いている滝壺に落ちないように(落ちたら一巻の終わりだ)距離を取って、先に進む。水で濡れて滑りやすい岩に気をつけながら、より滝に近い場所に生えている木々を目指す。

 無事に服がびちょびちょになった頃、目的の木を見つけた。わたしたちの家の数倍は全長がある大樹はわたしでも手の届くところに枝を垂らし、それには桃色の実がなっている。わたしは背伸びしてそれを二つ三つもぎ取ると、服の裾で軽く拭ってバスケットに入れた。

「ふふっ」

 ミアが幸せそうに目尻を下げて木の実をかじるのを想像して、思わず微笑みが漏れる。

 早く持って帰ってあげよう。もしかしたら、もう目が覚めてしまって、わたしを探しているかもしれない。

 そう思って踵を返したそのとき。

「……っ」

 わたしは息を呑んだ。

 滝壺の中に、大きな、とても大きな何かがいる。降ってくる水に首をもたげながら、艶やかな鱗の肌を震わせながら、それはそこにいた。

 一角龍。家にある危険種図鑑に、確かそう載っていた。

 村を飲み込めるほど大きな滝壺から半分ほど身体を乗り出して、頭に生えるレイピアのような角を天に向けている。全身を覆う鱗は青色に鈍く光っており、黒光りする鉤爪は一度にわたし二十人くらいを凪払うことが出来そうだ。

 なぜ気付かなかったのか。たぶん、滝壺の中に潜っていたんだろう。

 あまりの事態に上手く状況を飲み込めず、ただただ悲鳴を押し殺すことしか出来ない。ガクガク震える膝を押さえようと手を伸ばすと、そのまま腰が抜けてしまう。

 尻餅をつく、どさ、っという音がやけに大きく響いた。

 それに気付いてか気付かないでか、一角龍がこちらを大仰に振り向く。

 振り向く。

「……ぁ、あぁ……」

 目があった。アメジストのような瞳の中で、獲物を見つけた喜びの炎が淡く燃えている。

 危険種図鑑に載っていた一節を思い出す。『一角龍は子育ての時期になると子供に与える餌として人を襲うことがあります』。


「――ッッァァァァッァァアアアアアアア!!」


 鼓膜が破れるほどの言語化出来ない咆哮が滝とともにわたしに降り注ぐ。一角龍は滝壺から這いだし、その全身を水上に露出させた。背から伸びる大翼が滝壺の周りの木を覆い隠し、森は白昼の闇に包まれる。

 わたしはただただ見ていることしか出来なかった。身体を動かすことは出来ない。声を出すことも出来ない。ただ、一角龍がこちらに近付いてくるところを見ていることしか……。

 ミアと過ごした日々が走馬燈のように駆けめぐった。

 わたしの頭を、ぶっきらぼうに撫でてくれるミア。窓際でうつらうつらと頭を揺らしているミア。リビングで今か今かとご飯を待っているミア。

 オムライスをおいしそうに頬張るミア。

 たくさんのミアの顔が脳裏に浮かんでは消え、浮かんでは消えた。

 その間に一角龍はこちらに一歩一歩近付いてくる。大翼で木々を薙ぎ倒し、鉤爪で地面を掘り返しながら。滝の叫び、森の悲鳴を一身に受けながら。

 近付いてきて、止まった。

「ぁ、っく、ぁ、はぁ、はぁっ、はぁッ」

 目と鼻の先に蒼鱗がある。喉元でつっかえて上手く呼吸出来ない。見上げる。わたしの頭より大きい瞳に、目を見開いたわたしが映っていた。生臭い呼気がわたしの身体を包み、粘着質の涎が頭に降り注いだ。

 目の前に、一角龍がいる。

「おね、がぃ……たすけて、ごめ、ごめんなさい……」

 手が必死に動き、なんとか後ずさりする。がん、っと何かが背中に当たった。振り返る。そこには大木がある。

 逃げ道は、ない。

「――…………――…………」

 呼吸音だけさせながら、こちらを一角龍はじっと眺めている。身体は少しも動く様子はない。

 ……どういうつもりなんだろうか。もしかしたら、今なら逃げられる?

 反応は速かった。それまで微動だにしなかった足に力が入り、立ち上がることに成功する。地面を蹴り、一角龍の前足をくぐる。

 ――逃げられる!

 わけなかった。

「――ァァア、アァアアアアアアアアアッッ!」

 咄嗟に腕で腹を庇う。両腕が砕けるような衝撃と浮遊感があった。

 身体のあちこちに衝撃が加わり、世界が回転する。木々は空中に飛び、大空が降ってくる。足が空を蹴り、頭が地面を踏む。

 背中が吹き飛んだような感覚の後、世界の回転はようやく止まる。

「っく……ぁ、ぅ……」

 どうやら、鉤爪で凪がれて吹き飛ばされたらしい。動かない両腕からかなりの量の流血がある。

 地面が揺れる。大樹が倒れる音がする。顔を上げた。一角龍が近付いてくる。

 もう、ダメだ。

 ほんとに、ダメだ。

 ミアのことを考えると涙が出てくる。ミアは目を覚ましてわたしがいないことに気付いたらどんな気分になるだろう。わたしを思って探してくれるかな。たぶんきっと、探してくれる。でも、どれだけ探してもわたしは見つからない。ミアがわたしを探している頃、わたしはもう一角龍の雛の餌になっている。もう二度と、ミアには会えない。ミアもわたしに会えない。

 ひとりぼっちになったミアはちゃんとに家のこと出来るだろうか。わたしが最初に来た頃の家はゴミ屋敷だった。また、あの状態に戻っちゃうのかな。それにミアは料理が出来ないから、わたしが来る前の生肉とか木の実を食べる日々に戻るんだろう。オムライスなんか、もう二度と食べることは出来なくなっちゃうんだろう。

「だめ、だめなんだよぉ……ミアにはっ、わたしが、いなくちゃ……」

 涙がぽろぽろこぼれてきて、鼻水がじゅるじゅる流れてきて、ミアの顔が浮かんできて、もう二度とミアに会えないんだ、ミアはまたひとりぼっちになっちゃうんだ、って、そんなの、絶対、絶対に、嫌で……嫌、で。

 一角龍は、今度はためらわなかった。一気に鉤爪を空に大きく掲げると、そのまま、振り下ろす――。

 ああ、結局、最期までミアの笑顔が見れなかったなぁ。

 わたしは目を閉じ、最期の感覚を待った。


 ――ぐしゅっ、と。柔らかい肉が抉れるような、そんな音が、聞こえた。


 聞こえたのに、いつまで経っても痛みはやってこなかった。もしかしたら、痛みを感じる前に死んじゃったんだろうか。そう思って、目を開いた。


 そこには、漫画の中の魔法少女が、立っていた。


「リリィ、大丈夫?」

 魔法少女――ミアは振り返る。その顔は痛みに歪んでいて、頬は飛び散った血潮で染まっていた。ミアの左腕は、抉り取られていた。

「なん、で……?」

 なんでここにミアがいるんだろう。どうして、わたしの前に立っているんだろう。ミアの腕は、どこに……。

「リリィ……その血……」

 ミアは驚いたようにわたしに駆け寄り、わたしの両腕を右手で抱いた。低い声で何かを呟くと、わたしの腕はなんだか軽くなったような気がした。

 ミアが両腕を離す。傷が、完治していた。

「――ァァアアァアアァアァアアアアアアアッッ!」

 一角龍の咆哮が大地を震わせる。びりびりと身体が灼けるような圧迫感が襲ってくる。それにミアはゆっくりと振り返る。

「あのときの、生き残り……か」

 その呟きは滝の音にかき消される。

 ミアの横顔は、今まで見たことがないほどの怒りに歪んでいた。


「――おまえ、絶対殺すから」


 短く何かを詠唱すると、空中に黒蝶と共にバトルアックスが現れる。それを右手で掴むと、ミアは地面を蹴った。黒蝶がミアの背中に翼を成し、彼女を大空に誘う。

 一角龍の方はミアの飛翔に反応し、雷を纏う一角を突き出す。ミアはそれを余裕綽々に避けると、角にバトルアックスを振り下ろした。

 お互いに拮抗する力があるのか、バトルアックスと角はかち合ったまま動かない。そこでミアが何かを呟いた。すると、瞬く間にバトルアックスは黒炎を吐き出し、一角を両断する。

「――ァアァアガァアアアアアアアッッ!」

 角にも神経は通っているんだろうか、痛みに濁った声をあげて一角龍は頭を振った。角を庇い鉤爪を振り上げると、それもあっけなくバトルアックスの炎に灼き斬られる。焦げ付いた臭いが森に充満していく。

 一角龍は形成が逆転したと感じたようで、大翼を羽ばたかせ、空に逃げようとする。しかし、それを逃がすミアではなかった。右手でバトルアックスを振り上げると、そのままの勢いで回転しつつ大翼に斬りかかる。

 蒼鱗が空に舞った。

 右翼をもがれ、一角龍は地面に墜ちる。バランスが取れないのか立ち上がることもままならず、足をじたばたさせている。

 ミアはバトルアックスを軽く撫でると、それを黒蝶に変える。黒蝶は集まり、一挺の大槍となった。

「……ばいばい」

 大きく振りかぶって、投擲する。槍は大気を裂き、一角龍の前足の付け根あたりに突き刺さる。

 一角龍が一度大きく痙攣すると、そのまま動かなくなった。

 ミアはゆっくりと降りてきた。地面に足が触れた瞬間、ミアはバランスを崩してふらつく。

「ミア……っ!」

 駆けつけて、その小さな小さな肩を抱く。べっとりとした感触が左手にあった。

 ミアの左肩より先が、ない。

 ミアはわたしを上目遣いに見る。

「リリィ、大丈夫だった?」

 わたしは、大丈夫だった。

 ……でも、ミアが、大丈夫じゃないじゃんか。

 左腕があるべき場所に、何もない。肩の辺りからそっくりなくなっている。真っ赤な血が服を濡らしている。

「ぁ、ぁぁっ、ぅう……うぁぁぁあああああああッ!」

 わたしは泣き叫んだ。

 目の前が真っ赤になった。あの日――前の世界の最期の日のことがフラッシュバックしてミアと重なった。

「……リリィ」

 抱きしめられる。右手だけで背中を抱かれた。

 わたしは、ミアに抱きついてずっと泣いた。日が暮れるまで、森が眠るまで、泣いた。

 ミアはずっとわたしの頭を撫でていた。右手で、撫でていた。


 ミアが腕を失った。わたしを、守るために。

 ミアが腕を、失った。

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