ねぇ、リリィ、オムライス作ってよ

寂しい里

プロローグ

召喚


 魔法陣に光が走った。

 始祖鳥の血液で自室に描いた、人ひとり囲えるくらいの、複雑な魔法陣。私が五年間の試行錯誤の末に生み出した、誰も描いたことのない、私だけの魔法陣だ。

 部屋の窓から差し込むうららかな陽光は、始祖鳥の血を鮮やかに映えさせ、部屋には木製ゆえの温かい樹の匂いが充満している。

 世界は、『彼女』を歓迎しているように思えた。

 鈍い紅色に輝き始めた魔法陣に手をかざして、その温度を感じる。人肌のような温かみが、ゆっくりと脈動している。いい調子だ。

 私は傍らに置いておいた『相棒』であるバトルアックスに触れる。するとバトルアックスはたくさんの黒い蝶に変わり、それらは血肉で出来た杖を形作った。

「…………ん」

 杖で魔法陣を上からなぞっていく。まだ朧気にしか自分の存在を感じていない『彼女』を、なぞることでこの魔法陣に定着させていく。杖の触れた部分は、まるでまだ起こすなと怒っているかのように反抗的に押し返してくる。

 寝起きが悪いのだろうか。

 私は娘をゆり起こすように、優しく魔力を杖にこめる。それに反応して、一際強く魔法陣は光る。

 こっちに来い――ゆっくり、ゆっくりでいいから……。

「…………がんばれ」

 永遠の海の中から、一人の少女を引き上げるのは、そんなに難しいことではないはずなのだ。

 少女が自ら、こちらに手を伸ばすならば。

 少女が生まれたいと、願うならば。

 強く輝いていた魔法陣の光は、ためらうように弱々しくなった。杖の先から感じられる温度は低くなり、脈動は私の手を拒むかのようにゆっくりになっている。

「…………」

 この少女は少し――難産だ。

 それとも、私の組み上げた魔法陣が間違っていたのだろうか。

 私の魔法陣は、まだ完成していないのだろうか。

 そんな不安を押し殺し、私はただひたすら魔法陣をなぞり続ける。『彼女』を説得するように。優しく、優しく。

 魔法陣の輝きが一瞬、完全に消えた。そして再び弱い光を放ち始め、また消える。『彼女』が私から、この世界から遠ざかり始めているのを感じる。私は、強く、木で出来た床を抉るように魔法陣をなぞる。

「……おねがい」

 祈るように魔力を送り続けていると、口に塩辛い味を感じた。汗が頬を伝って、口内に入っていた。汗を噛みしめて、そのまま歯噛みし、魔力を魔法陣と共鳴させる。

 私が注ぎ込む魔力は、ただ『彼女』に道を示すことしかできない。永遠の海の中を漂う『彼女』が私に、この世界に、たどり着くための道を。

 光は弱くなり、消えるのを繰り返していくが、完全に消えることはない。

 怯えているのだろうか。

 こちらの送る魔力に興味は覚えているものの、その一歩を踏み出せないでいる。

 そこで私はあえて、魔法陣から杖を離した。流れ出る魔力を押さえ、じっと魔法陣の様子を伺う。

「…………ん」

 案の定、光は強くなり始めた。『彼女』は、私の示す道を前に怯えている。だけど、その道が『彼女』の前から消えてしまうのは、もっと恐ろしく感じるのだろう。

 ひどい方法だとは思うが、もうこれしか方法はない気がする。

 私は魔力を注いだり注がなかったりを繰り返す。

 それにつられて、『彼女』は慌てて私についてくる。魔法陣の紅の輝きはより色濃くなり、火炎龍の鱗にも匹敵する神々しさを纏い始めた。

 『彼女』の鼓動に合わせて、私の住む木で出来た小さな家は、ミシミシと揺れる。もしかしたら倒壊するかもしれない。もう少し頑丈に作っておけばよかったと少し後悔する。

「……ふぅ」

 もう、輝きが弱まることはなかった。

 『彼女』はもう、すぐそこまで浮かび上がってきていて、私が手を伸ばすのを待っている。

 私は杖を傍らに置き、その一部を数匹の黒蝶に変えたあと、今度はそれらを小さな果物ナイフに変えた。

 魔法陣の真ん中に、左手を伸ばす。燃えるような輝きと、人肌を求める体温が魔法陣から感じられる。

 左手の手のひらを、果物ナイフで掻く。

 ぱっくりと裂けた手のひらから、私の血液が滲みはじめ、それは緩慢に魔法陣に落ちていった。

 始祖鳥の血液に私の血液が混ざり合い、紅の輝きは、白い輝きへと変わっていく。

 私はゆっくりと目を閉じる。

 するとそこには、目の前の湖以外は真っ白な世界が広がっている。湖は波紋一つなく、静かに私を見つめ返している。

 しゃがんで、湖の中に手を伸ばす。私が触れたところから、湖は鮮やかな血の色に染まり始める。とくん、とくん、と湖は鼓動を返してくる。

「……ようこそ」

 私は呟く。

 何かが、指の先に触れた。温かくて、懐かしい感触。

「ようこそ」

 もう一度、呟く。何かは手の形となり、私の手を握り返してくる。

「この世界へ、ようこそ」

 その手は確かな重みを手に入れ、私の手に縋ってきた。

 私は、『彼女』を湖から引き上げた。

 目を開ける。

 そこは何の変哲もない、ぼろっちい木の小屋の一室で、傍らには黒光りするバトルアックスが置いてある。窓からはもう西日が差し込んでいて、床に描かれた魔法陣をオレンジ色に染めている。魔法陣の輝きは、消えている。

 そして、魔法陣の真ん中には、裸の女の子が倒れていた。

「…………ようこそ」

 私は言った。

「召喚、成功」

 

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