第731話 望みはなにか

ニコロ司祭の言う「そなたの望み」とは個人資産のことを指しているだろうか。


欲しいものはないか?と問われて胸に手を当てて考えてみれば、幾つかはないこともない。

まず、今の書類が積みあがった事務所よりも広くて明るい場所に引っ越したいし、サラのやつが気兼ねなくハーブや豆を植えて鶏を飼える庭は欲しい。

書類机も広くて高さが調整できるものが欲しいし、ペンも引っかかりのないものを造りたい。

ランプももう少し明るいものにしないと目を悪くしそうな気がする。

ゴルゴゴにパスタの製麺機を作らせたいし、それを茹でるための寸胴鍋と、麺を和える新鮮で豊富な植物油も欲しい。

そういえばサラに新しい服だけでなく、靴も買ってやらないとな。

あとは銅のフォークも欲しがっていたっけ。


だが、言ってみればそのくらいでしかない。

今の稼ぎでも、その気になれば実現できる程度のちょっとした贅沢だ。


これ以上の、地位も名誉も欲しくない。仕事が増えるだけなのは、目に見えている。


本当に望みはないか?と問われれば、教会でも実現できない望みはある。


それは「全ての駆け出し冒険者が安価に工房の靴を購入できて、人々が怪物に怯えることのない世界」が実現すること、である。

これは、さすがのニコロ司祭の権力をもってしても実現は不可能だろう。


「俺個人では実現できず、教会ならば実現できる範囲の望み」で「個人の欲望に関わる望み」をあげるのは、案外難しい。


「そうですね・・・」と時間稼ぎのために煩悶していると、ニコロ司祭は何を勘違いしたのか「無欲なことよの・・・」などと言い出したりもする。


違います。それは大きな勘違いと言うものです、と声に出して言いたい。

とはいえ、このまま何も主張しないのもニコロ司祭の面子を潰すことになる。


「・・・それでは、教会を建てていただけませんか。小さくても良いので」


それだけでニコロ司祭には意図が通じたらしい。


「革通りに、か。なかなか妙手だ」


「恐れ入ります」


革通りの靴工房に繰り返し襲撃があるのは、要するにその場所が統治者にとって重要な場所でないからだ。

3等街区というスラム、さらにその奥まった場所で事件が起きようとも、市民が害されない限りは衛兵も関知しない。

なので、直接の武力襲撃に対しては自衛せざるを得ない、という状況が続いているわけだが。


「そこに教会があれば、不埒なことを企む者も減ろうな」


そう。教会があれば、武力に及び行為そのものを思いとどまらせることができる。

教会は新しい教会ができることで席次ポストができるし、靴工房に対して監視もできる。

どちらも損をしない取引だ。


教会に餌を投げておいて、もう一つ、本命の要望をあげる。


「新しい教会を革通りにお迎えするにあたりまして、通りそのものを清浄な道に造り変えたいと思います。ご存じの通り、革通りのある3等街区の道は晴れれば土埃、少し雨が降れば排水が溢れ嫌な臭いのする泥濘と汚水の道となります。枢機卿御用達の工房として、せめて通り道の改善だけでも図りたいと、かねてから考えておりました」


「ふむ」


「ですので、新しくできる教会の教区の範囲について、石畳の道路の敷設、排水溝の設置と清掃を認めていただきたいのです」


「殊勝なことであるな」


「実際の工事にあたりましては、領地開発のため呼び集めた技術者達からも人を派遣いただけると・・・」


「良かろう。費用についても、教会建設費から充当しよう」


「ありがとうございます」


これが報酬になるのか、とニコロ司祭が多少いぶかしんでいる気配を感じるが、俺にとっては十二分の成果と言える。


司祭のような1等街区と2等街区だけを行き来する雲上人には想像もつかないかもしれないが、清潔な環境、というのは非常に贅沢な代物なのである。


3等街区において石畳の綺麗な道、雨でも溢れることのない下水、というのは通りで働く職人にとって誇るべきものになるだろう。

誰だって、外見の見窄らしい工房よりは見栄えの良い工房で働くことに働きがいを感じるものだ。


そして、今の要望で得た「もう1つの権利」。これは、後で非常に大きな権利になる可能性がある。

うっかり認めたのは、雲上人のニコロ司祭の盲点だったから、かもしれない。

単に見逃してもらっただけかもしれないが。


「そなたが聖職者になるか、あるいは係累でも居れば、話は簡単だったのだがな」


「あいにく、天涯孤独の身でございますから」


手柄を上げた人間を取り込む報酬として、婚姻や身分の引き上げといった本人への保証の他に、兄弟、息子をしかるべき身分に取り立てる、という方法もある。


もし俺に一族の人間がいれば、一族の人間に利益供与することで自派に取り込むわけだ。

それが有能ならば良し、無能で不祥事でも起こそうものなら、俺への貸しになる。


そうやって貸し借りを増やして雁字搦めにする、というのが聖職者にならない者を派閥へ取り込む方法の一つである。


しかしニコロ司祭、まだ俺を聖職者にするのを諦めてないのか。

できる男は、諦めが悪い。

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