第713話 休暇の終わり

とりあえず片付けの済んだばかりの執務室にジルボアを招き入れる。


「意外に荒れていないな」


「鶏の臭いは消えていないがね」


籠城では水と食料の確保が重要になる。

それで水樽と小麦粉とレンズ豆の袋を運び入れたのは良いとして、サラがどうしても鶏を外に放置することを拒んだのだ。

おかげで、軽く掃除をした今でも鶏の臭いがする。藁は敷いていおいたが糞尿がこびりついているのかもしれない。後で床を磨いておかなければならないだろう。


「それで、例の貴人と話がしたいのだが」


理由を尋ねようとして、やめる。

ジルボアにはジルボアの思惑があるのだろう。

同席だけはして、こちらで判断すればいい。


◇ ◇ ◇ ◇


ノックをしてから扉を開けると、例の貴人は血相を変えて立ち上がった。

その視線は、俺でなく背後のジルボアに向いている。


「これはこれは・・・」


室内に歩み入ると、その顔色は青くなった後で赤くなった。


「さぞ、ご不便をかけたことと思います。お父上が心配されておられます。私共と一緒に来ていただけませんか」


ジルボアが形式だけは完璧に優雅に礼をすると、その男の顔色はまた青くなった。

青くなったり赤くなったり、忙しいやつだ。

だが、聞き逃せない点もある。


「まだ身代金をもらってないんだ。勝手に連れて行かれては困る」


結果的に被害は少なかったとは言え、領内の執務や事業は数日の間、完全に停止することになったし、籠城中の食料を領民たちに保証する必要もあった。籠城のための資材の消耗も馬鹿にならない。

それらの費用を充当するまでは、この貴人を返すわけにはいかない。


ジルボアは頷くと、懐から羊皮紙を取り出した。


「こちらに今回の騒動について一切の弁済をする、との署名をいただけますか。保証人は教会と私がなります」


教会の権力と剣牙の兵団の暴力。この世で最強の取り立て能力を持つ債権者だ。

万が一にも取りはぐれはない。そうであれば、こちらも異存はない。


真っ青になった貴人が震える手で署名をしたのを見届けて羊皮紙を綺麗に折りたたむと「印章で封蝋をしてください」と、ジルボアはさらなる要求をする。


もはやジルボアの言いなりの人形となった感のある貴人は、右手の中指の大ぶりの指輪を捻って飾りを外し、灯火で温めた封蝋の上から印章を押した。


仕掛けつきの指輪か。気が付かなかった。それにしても、この印章には見覚えがある。


「結構です。こちらは預かります。それでは、後ほどお迎えに参ります」


ジルボアは羊皮紙を懐にしまい込むと、また形式だけは丁寧に礼をして退室する。


扉を閉めるとき、それまでどことなく自らの境遇を理解していないかのように気楽な様子でいた貴人が、椅子の上で頭を抱えるのが見えた。


◇ ◇ ◇ ◇


執務室に降りて、机を挟んで向かい合うとジルボアに疑問をぶつけた。


「あれは何者だ。知っているのか」


剣牙の兵団の団長は軽くうなずくと、白い指で机を軽く叩きつつ答えた。


「サミア子爵。ルンド伯爵の係累、だな。分家筋だから、それほど近いわけではないが」


「まさか」


ルンド伯爵と言えば、街の所有者(トップ)である。

それほどの大物が印刷業の横やりに動いていた、ということなのか。


こちらの顔色を察してか、ジルボアが首を左右に振りながら「心配ない」と言う。


「教会も街で事業を行う以上、伯爵には報告の義務がある。それをどこかで聞きつけたものだ、と考えている」


「つまりは、跳ね返りの勇み足か。それにしても、よく知っているな」


この世界には写真はないから、先の会見は互いに顔を見ただけで認識したことになる。


「数ヶ月前の舞踏会で見たのさ。放蕩者で、金に困っている、との噂も聞いた」


数ヶ月前の参加者の顔なんて憶えているのか。それに舞踏会に出ているとか。

もはや何を突っ込む気力もない。

順調に出世しているようで何よりだ。


「ところで、ケンジも代官様が板についてきたようじゃないか。農民達が必死の形相で私達を止めに来たぞ」


「あれはなあ・・・とんだ計算違いだ。おかげで籠城の作戦が台無しだ」


頭髪をくしゃくしゃと右手でかき回す。


「村の連中には教会に立て籠もるように言っておいたんだが、傭兵に素行の悪いのがいてな・・・」


先に教会に向かった傭兵達が、監視の目がなくなったのをいいことに、村人相手に小遣い稼ぎと景気づけをしようとしたらしい。


すなわち、略奪、誘拐、強姦だ。無力な村人相手ならなんとでもなると思ったのか。

山賊を追っていた、という名分が聞いて呆れる。


「それで、その傭兵達はどうなったんだ」


「さあな?聞いていない」


とりあえず庭に縛られている捕虜の中にはいない、ということだけは知っている。

それ以上のことは知るつもりもない。

俺は別に正義の使徒じゃない。村人が無事なら、それでいいのだ。


「あの若様だが、鎧は担保に預からせてもらうぞ。支払いを渋られては困る」


「それでいい。護送はこちらでやる。傭兵の処分もな」


一通りの話し合いが終わり、ジルボアが席を立つ段になって、ついでように「そういえば伝言があった」と言い出した。


「ニコロ司祭様が、そろそろ街に戻ってこい、と仰っていたぞ。一緒に来るか?」


どうやら、農村での休暇は終わりらしい。

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