第678話 食べて眠って働いて

教会の大掃除をしてのち、出稼ぎ農民達の態度は明らかに軟化した。


「あんなに怖れられていたのに、不思議です」などとパペリーノは不思議がるほどに、それは急激な変化だった。


客観的には出稼ぎ農民達の状況に変化はない。

彼らの身分は相変わらず不安定なままだし、耕すべき畑もなく、教会の周囲で粗末な毛皮を敷いたりするだけで暮らしている。


だが、そこで暮らす者達の様子は、明らかに以前と違っていた。


女達の顔には笑顔が浮かび、子供たちは遠慮なく走り回りながらも、ゴミがあれば拾うようになった。


「不思議でも何でもないさ。誰だって汚い場所より綺麗な場所で暮らしたいし、空腹よりも満腹の方がいい。仕事もなく座り込んで無力を感じるよりも、体を動かして何かができる、という希望を持てたほうがいい」


「なるほど。救貧院でも奉仕がありますね。私は関わったことはありませんが・・・」


パペリーノはニコロ司祭傘下の、いわばキャリア組のエリートであるから、そうした下々の仕事はしなかったのだろう。


「そこは少し違うな。別に施しをしたわけじゃない。代官として報酬を払って仕事を依頼したんだ。領内の教会を清潔に保つことは代官の義務だからな」


実際、施しだとは全く思っていない。出稼ぎ農民達は労働力を提供し、こちらは報酬を払った。対等な取引だ。


「それにしては報酬が多いのでは?いえ、文句があるわけではないのですが」


グラグラと煮立つ大鍋に放り込まれるレンズ豆や小麦、たっぷり使われる塩を見ていると、つい、その価値を計算したくなるのだろう。

数字をついつい計算してしまうのは、優秀な官僚としては仕方ないことだし、1日の労働の報酬としては多いというのもパペリーノの言うとおりかもしれない。


「パペリーノ、これは投資だ。身奇麗にして、腹いっぱい食べて、虫に刺されない寝具で十分に眠れば、話も聞いてもらいやすくなるだろう?」


「それは、たしかに」


汚れた環境で見捨てられたと座り込んでいれば、人の意見は耳に入らない。


座り込んでいるのをやめて体を動かし、石鹸で髪と体を洗い、温かい飯を腹いっぱい食べて、石鹸で磨いた床で蚤を燻した清潔な毛皮の寝具で十分に眠れば、明日の自分達の暮らしに希望を持つことができるし、今後について考えることができれば、それをしてくれた人の意見を聞こうと思うようになる。


まずは、自分達でも何かができる、と信じられるようになること。


それが全員で教会の掃除をさせた意図である。

彼らの笑顔を見ていれば、その試みは成功したように思える。


「あとは、こちらが約束を守り続けることだ。例え少なくとも仕事を提供し、こちらは彼らを見捨てない、という意図を伝え続ける。その積み重ねで信頼関係を築かないとな」


前任の代官に手ひどく裏切られ続けた人間に言葉は届かない。

だが、ようやくに人々と動かすだけの契機を掴んだように思えた。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇


翌朝は、未だ夜が明けるか明けないかのうちに、サラが悲鳴をあげて部屋に駆け込んできたせいで叩き起こされることになった。


「ケンジ!屋敷の門の前に人が大勢いるわよ!みんな棒とか持ってるの!」


「なにぃ!」


さては一揆か暴動か。怪物の襲撃という線もありえる。


キリクがいれば正門は守れるな、あとはサラとパペリーノをどうやって逃がすか隠すべきか、などと瞬時に算段を立てつつ剣を片手に駆けつけて様子を見れば、少しばかり拍子抜けすることになった。


「なんだ。教会にいた連中じゃないか」


「え、あ、あれ?ほんとね!」


完全なるサラの早とちりである。


とはいえ、まだ太陽も登らない早朝に20人以上の男達がだまって正門の外に板切れなどを持って立っていれば、暴動と勘違いするのも仕方ない部分はある。


ただ、彼らの目には暴動を起こす者達に特有の熱気や殺気がない。

格好が粗末ではあっても、すっかりと身奇麗にしているところから、おおごとにはならないだろう、と呼びかける。


「なにか訴えがあるのか!」


一応は門を閉じたまま問い質すと、返ってきたのは「鶏小屋を作りに来やした」という答えであり、全員が思わず脱力した。

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