第637話 怯える農夫
翌日になって、キリクとサラだけを連れる形で、ある農家を訪ねた。
徴税記録で言えば、農村の中で豊かでもなく貧しくもない、ごく標準的な家を選んだつもりである。
家屋と納屋が別れており、家屋の方は石レンガと木材を組み合わせた壁を持ち、木組みに藁で葺いている。
ニコロ司祭の領地になるだけあって、元々は豊かな領地であったらしい。
先触れもなく訪れたせいで、農夫はひどく動揺していた。
「これは、代官様。急なご訪問で。どういったご用でしょうか」
「いや。村長の件でね、誰を推薦したらいいのか、村の人に聞いて回っているのさ。入っていいかな?」
「は、はあ。何もありませんがどうぞ」
足の泥を払ってドアを開けて入ると、玄関からすぐ先に大きなテーブルと椅子、それに暖炉があって、応接間になっているようだ。
「なかなかいい家だ」
褒めたつもりだが、農夫は揉み手をしながら引きつった笑顔を見せるのみであった。
「ケンジ、怖がられてるから」
サラが小さな声で耳打ちしてくる。
そうか。とは言え、どうしたものか。
「家族は元気かな。名簿によれば妻と子供が3人いるはずだが」
「は、はい。急なことで隣家に作業で出ておりますもので」
キリクに視線を向けると、微かに首を左右に振った。
この家にいない、というのは嘘だな。
隣室で息を殺している気配がする。
得体の知れない代官から、家族を守っているわけだ。
その姿勢は立派だが、できれば子供の様子から栄養の状態や食事の回数などを知りたかったのだが。
この調子で衣装箪笥で服を探したり台所の竈を探ったりすれば、大変な騒ぎになるだろう。
少しばかり暗い気持ちになりながら、昨夜の議論の通り作戦を変更する。
「ところで、最近は村の者が怪物に襲われたことはないか。あるいは、村の外で魔狼の声が聞こえたことはあるか」
「あ、ええと、ありません。最近は平和なことで、ありがたいものです」
家の中のことでなく、村の外の話を聞いたせいか、農夫の口が少し軽くなる。
「外の畑を見たが、隣家との間で柵が倒れていたが何かトラブルでもあるのか」
「あ、柵ですか。またやられたか!いえ、去年、小麦の落ち穂を勝手に拾われたもんで文句をつけたら、畑の落ち穂の権利は村長に言ってあるからとか言って、いえ、前の村長の話なんですがね。それで、今も揉めてるんですが、村長さんが、そのいなくなっちまったもんで」
「なるほど、それは困っているだろうな」
よくある農地の境界と収穫物の取り分の裁定の話である。
農家同士のトラブルと言えば、水利権と境界線の確定が多くを占める。
それを裁定するのが村の仕組みであり、村長のや代官の仕事である。
村を統治する仕組みがなくなっている現在、類似の騒動が村中に転がっているに違いない。
「後で、耕している畑を教えてもらえるか。教会の記録とすり合わせたい」
そう確かめると、農夫は嬉しそうに何度も頷き、案内を約束した。
農夫の立場からすると、俺が有利な裁定を下してくれるように見えるらしい。
そのあたりは、記録に基いて判断するつもりだが勘違いするのは自由である。
ここに来て、農夫の態度は随分と軟化してきた。
俺が村の財産を奪いに来た役人ではなく、代官として村内秩序の調整を図る姿勢を打ち出したことが好印象に映ったに違いない。
各農家の財産状況には触れず、まずは裁判と警備に注力する姿勢を示す。
これが俺の作戦である。
小さな政府、夜警国家、様々な言い方はあるだろうが、一旦は村人との関与を最低限のレベルまで減らし、私有財産と私生活には介入しないことで安心させる。
本当はいろいろと施策をうちたいところを、ぐっと我慢する。
本来は、色々と確かめたいことはある。
小麦以外に、救荒作物は何か育てているか。
冬に備えて保存食は準備しているか。
家族に病人は出ていないか。
外部の商人と掛けで取引をして、法外な金利を取られていたりしないか。
そこまで、お節介をしなければ暮らしは良くならないだろう、とも思うのだが、今は信頼がない。
「大丈夫よ、後であたしが聞き出しておくから!」
耳元で安心させるように囁いてくるサラに期待するしかないのも事実だ。
何とも歯がゆい。
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