第614話 説明の終わり

こちらの説明は終わった。


聖堂の一室が静まり返ると、正面の聖職者の誰かが、ため息を吐いた。

長い、とてつもなく長い、肺腑の空気を全て吐き出すかのような、ため息だった。


「ずいぶんと知ったふうなことを言う」


やがて口を開いた黒ヒゲ司祭の声は、これまでよりも数段、低く力がこもっていた。


「ケンジと言ったか」


もう何度目になるか名前を確認される。

よほど、発音したり記憶しにくい名前なのだろうか。


「元冒険者で、今は代官であったか」


「はい」


反論を許さない詰問口調に、素直にうなずいた。


「それ以前は何をしていた」


「別の街で商人をしておりました」


これは、別に嘘ではない。ビジネスマンは、商人と言い換えてもよかろう。


「貴族ということはないのか」


「ございません」


疑わしい、と黒ヒゲ司祭は鼻に皺を寄せて、こちらを睨んできた。


「調査では、そうなっておるな」


白い眉の司祭が補足してくれたが、黒ヒゲ司祭の追求は止まず、立て続けに詰問が行われた。


「お主の言いよう、まことに不遜である」


「一信徒として、教会の将来を思えばこそ、でございます」


「聖職者になる気はないか」


「聖職者にならず外から教会のために尽くしてこそ、教会に利益をもたらすことができると確信しております」


「印刷業とやらを、教会に献上する気はあるか」


「教会に現在の最新の印刷機を献上する用意はございます。ですが、それはあくまで研究に留められ、事業は外部に委託なさるのがよろしいかと存じます」


「教会に印刷のギルドを持てと申したな。商人の真似事をせよ、ということか」


「教会はすでに貴族様と伍して立派に領地を経営なさっております。今さら、どうして商人との小さな軋轢を恐れることがありましょうか」


「ギルドの問題はさておいて。お前の工房で事業を行うつもりはあるのか」


「私どもは小さな工房に過ぎませんが、多くの事業者が参入するのであれば、その中の1人として、事業に参加したいと考えております」


「この事業、なぜ貴族に持っていかぬ。伯爵あたりであれば、お主のよく回る舌に大金を出したであろう。爵位を買うこともできたかもしれんぞ」


「教会には、営々と集積されてきた知の蓄積がございます。印刷業を管理する組織として、教会よりも適した組織はございません。それに、私は元冒険者でございます。教会には返しきれない大きな恩がございます。爵位に興味はないのです」


「恩とはなんだ。その足の治療のことか」


「いいえ。それは私個人の恩でございます。そうではなく、この街に冒険者達の共同墓地を建てていただいたことでございます。そして教会での治療に聖職者を派遣していただいていることで、多くの冒険者の命が救われております」


教会と冒険者ギルドの結びつきについて言及すると「そうか」と、奇妙に納得の表情を見せて、詰問は一旦やんだ。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇


先程の詰問が、最後の山場だったらしい。

それ以降の多少は問答はあったが、明らかに会議室の空気は緩み、終局に向かっていた。


そうした雰囲気の中で、黒ヒゲの司祭は最後まで眉をしかめていたが「最後にききたいことがある」と、質問を投げかけてきた。


「ケンジよ。どうしてもわからぬことがある」


「わからぬこととは、なんでしょうか」


「お前個人の望むところはなんなのだ。聖職者の名誉や貴族の身分も要らぬ、印刷事業の権利も要らぬ、利権も金銭も要らぬという」


なんだ。そんなことか。

それなら、胸を張って応えられる。


「私は平民です。代官という地位をいただいてはおりますが、元は冒険者のなにも持たない人間です。


私が望むのは、工房の職人達が美味いパンを腹いっぱい食べ、商人達が新しい商売を興し、農民たちが怪物の脅威にさらされることなく広い麦畑を安心して耕すことのできる世の中を実現することです。私は私の手の届く範囲の者達に、そのような暮らしを送らせたいのです。


私は、印刷業には、世の中を良いように変える力があると確信しています。教会の力をお借りできれば、その力は何十倍にも、何百倍に大きくなるとも信じています。


どうか、印刷業の振興にお力添えをいただけますよう、お願い申し上げます」


言い終わると、深々と頭を下げた。


こうして、教会に呼び出されての印刷業に関する、長い長い説明は終わりを告げた。

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