第604話 見送りの面々
朝というには少し遅い時刻、革通りの一角ではちょっとした騒動が起きていた。
いつもは槌音や断裁の音で喧しい工房が静まりかえり、ずらりと並んだ職人達が、一斉に見送りの挨拶をする。
「「「それでは、行ってらっしゃいませ」」」
「ああ」
右手をあげて、見送りに応える。
公的な接見という位置づけのせいか、ニコロ司祭からは革通りの工房までお迎えの聖職者が2名もやってきた。
1人はミケリーノ助祭だが、もう1名は知らない顔だ。
それに対し、こちらの従者は護衛のキリクと、聖職者というより秘書官のような業務をこなしているクラウディオの3名だけだ。
サラ以下、他の新人官僚達は見送り組である。
ただごとでない雰囲気を感じ取ったのか、工房の職人総出での見送りには、こちらも苦笑せざるを得ない。
今では手伝いを含めれば50名を超える人間が工房で働いているわけで、そんな人数が一斉に大声をあげれば、革通り中の注目の的である。
「心配いらない。仕事に戻ってくれ」
手を振って仕事に戻るよう指示すると、職人達は工房に戻っていく。
靴の注文は積み上がり続けており、解消の兆しは全く見えない。
今日も工房の仕事は山積みなのだ。
「ケンジ・・・」
「大丈夫。ちょっと説明してくるだけだから。夕方には戻れるさ」
サラが心配してついて来ようとするのを、何とかなだめて戻ってもらう。
自分が不在の間は、サラに工房を見ていてもらわなければならない。
本人はついてくる、と強く主張していたのだが、サラには街の市民権がないので、それが叶わなかったのだ。
市民権があると納税の義務が増えるし、俺が失脚した時にまともに巻き込まれるおそれがある。
だから、これまではわざと取らせないようにしていたのだが、今回ばかりはサラも後悔していたようだ。
印刷業か製粉業が軌道に乗るようであれば、サラの市民権も合わせて要求してもいいかもしれない。
「慕われていますね」
「茶化すなよ、聖職者のくせに」
ミケリーノとは付き合いも長いので軽口も叩ける仲ではある。
だが、もう1名の見知らぬ聖職者は冗談が通じない性格のようで、こちらをジロリと睨んできた。
それに構わず、ミケリーノは言葉を続けた。
「いえ、人数に驚いたのです。子供や女性も含めて、ずいぶんと大勢の人が働いていらっしゃるのですね」
ミケリーノからすれば、確かに驚くことかもしれない。
家族規模の工房が多いこの世界で、たかが靴の工房が子供や婦人を合わせて50人からの人数を働かせているというのは奇異に映ったに違いない。
「ちょうど飯を食わせた後でしたからね。今が一番人数の多い時間帯ですよ」
「工房で食事を出しているのですか?」
ミケリーノが感嘆の声をあげる。
「子供や婦人にも働いてもらっていますからね。その方が都合がいいんです」
怪物の皮を熱処理をする関係で、革通りには産業用の熱源が豊富にある。
各家庭で薪を消費して食事を作るより、まとめて調理するのが経済的というものだろう。
「食事についての報告はしなかったのか?」
ふと気づいて、後ろに控えるクラウディオに尋ねてみる。
「いえ、記述はしたはずです。ですが、報告すべき事柄があまりに多いので埋もれたかもしれません」
クラウディオの回答に、ミケリーノ助祭が補足をする。
「たしかに報告書には食事についての記述がありました。ですが、実際の人数を見ると印象がまた違いますね。私もすっかり机の上で仕事をすることが増えて、足を運ぶことを怠っていたようです」
ミケリーノ助祭の教会内での位置づけはよくわからないが、枢機卿の懐刀のニコロ司祭の、そのまた懐刀として多くの仕事を抱えているはずだ。
「多忙ですね」
「何を他人事のように言っているんですか。多忙なのはケンジさんのせいもあるでしょうに」
思わず同情して感想をもらしたら、逆に叱られてしまった。
たしかに、多少の自覚はある。
ニコロ司祭が無茶ぶりをし、それに応えると仕事が増えて、応分の負担がミケリーノ助祭にもいく。
無茶と多忙は連鎖するのだ。
要するに、俺は悪くない。
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