第569話 あの日の光景

印刷業が神書の印刷につながり、ある種の神学論争が起きるであろうことは予め予測していた。

元の世界でも、カソリックとプロテスタントという形で起きたことだ。

だから教会の管理下で印刷業を行うことで、その手の争いは教会の内部で解決してもらい、自分は一歩身を引くつもりだったのだ。


ところが、ミケリーノ助祭が言うには、印刷業はもっと生々しい形で教会の出世争いの道具として使われる可能性があり、政治的闘争から距離を置くことは難しいと言う。


「勘弁して欲しいところです。私は教会内部の争いに興味はないのです」


取り繕った表層が崩れて、思わずウンザリとした声が出てしまう。


「知っていますよ。あなたが聖職者としての出世に興味があれば、私の席はとっくにあなたのものです」


こちらの気分が下降するのとは反対に、ミケリーノ助祭はいっそ上機嫌に見える笑みを浮かべた。


確かに、ニコロ司祭からは何度か聖職者にならないか、との誘いを受けた。

代官に就任していることも、外部からはニコロ司祭の派閥に所属したと見られているのは知っている。

それでも聖職者でないからこその自由、というものがある。


「どう見られているのかは知りませんが、私の根本は冒険者です。今は代官に就任していますから、代官として領地と領民を豊かにするために全力を尽くします。製粉業で供給を増やす小麦粉の出口として、街の平民達に小麦粉を使用した料理の冊子を印刷しようと考えています。

ですが、最終的に印刷機を使って何をしたいかと言えば、冒険者のための印刷物を作りたいのです。その他のことは、言わば余録です」


「例の冒険者への依頼用冊子を、各地の教会に置こうという話ですね。しかし、余録と言うわりには、いささか影響が大きいように思いますが」


ミケリーノ助祭は笑みを崩さずに指摘する。


「すると、論点は一つですね。印刷業は教会の中に置くか、外に置くか。私は中に置いておくべきと考えていたのですが。どう思われますか?」


教会として、印刷機の進歩によってもたらされる印刷業という波を、どうするつもりなのか。

これまでの情報を元に聖職者はどのように判断をするのか。

教会としての知見を知っておきたい。


ボールを投げられたミケリーノ助祭は、少しの沈黙の後、ゆっくりと話し出す。


「難しいところです。正直なところ、最初は議論の余地なく教会で事業を買い取るつもりでした。印刷機を買い取り、技術者も教会の所属とする。そうして教会のための事業に邁進してもらう。そのような形を考えておりました」


要するに、事前に想定した「普通の場合(ケース)」ということだ。

ゴルゴゴも自由が制限されることはなく、専門家達と同じように教会の保護下に入るという形になる分、いくらかマシかもしれない。


「ですが」とミケリーノ助祭は続ける。


「ですが、ケンジさんが持ってきた多数の見本を目にして迷っています。これらの見本一つ一つが、聖職者である私達では発想できない、市井の暮らしに密着したものばかりです。私達が印刷業を抱え込んだとして、これらの声に応えることができるとは思えません。それは、世の中にとって損失であるように思います」


教会の利益のみで判断をしない、というミケリーノ助祭の言葉を意外に思い、視線を向けるとミケリーノ助祭は苦笑した。


「私も生まれは農村です。ケンジさんに連れられて行った、あの農村の光景を忘れたわけでありません。そして、あの困窮した親子のことも。もし農村に文字を教えるための冊子が潤沢にあり、全ての農民に文字と数字を覚える機会が与えられていたなら、あの時の光景を少しは減らせたと思うのです」


そう語るミケリーノ助祭の目には、ここではない、あの時の農村の光景が映っているようだった。

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