第378話 誰が育てても麦は麦だ

金貨10枚の価値を持つという領地経営指南書。


一瞬だけだが、それを印刷技術を使ってバラ撒いてしまえば一攫千金だな、という誘惑が心をよぎる。

だが、それは机上の空論で、実行不可能な絵空事である。


なぜなら、俺が原稿を持っていて印刷できるという話と、それを売りさばくことがは、まったくの別問題だからだ。

著作権という概念の薄いこの世界、糸の切れた凧のように天井知らずで上がった価値の本には、様々に政治的な思惑や利権が絡みついているものと、容易に想像できる。


危険なものには近寄らない。


せっかく代官に任命されて社会的な地位があがったことで、暗殺の危険が遠のいたのだ。

何を好き好んで雲上人達の暗闘に関わろうというものか。


売り出し始めた途端に利権に関わる印刷業ごと事業を潰されるだろうし、俺も良くて軟禁、悪ければ暗殺だ。

そして、利権を持っているのはニコロ司祭と枢機卿に連なる派閥であると想像される。

あのニコロ司祭を敵に回すなど、とんでもないことだ。

命が幾つあっても足りない。


首を左右に振って、意識を現実に戻し、新人官吏達に管理方法策定の意義について説明を続ける。


「まあ、その本にあるように領地を発展させるための大まかな方針は、広まりつつある。それをより細かい部分で検証しよう、というのが今回の試みだ。言い換えれば、ここでの議論は教会の上層部を通じて、王国やそれ以外にも広まっていく可能性が高い、ということだ」


「俺達みたいな、平民の意見を偉い人達が聞いてくれるんですか?」


と、それまで言葉少なだった職人のシオンが尋ねる。


「ああ、そうだ。聞くだけじゃなくて、意見が正しければ実際に採用される。そして、農民の暮らしを豊かにすることに役立つんだ。数字の正しい、正しくないに身分は関係ないからな」


と、聖職者や貴族出身者がいる中ではあるが、一歩踏み込んで表現する。


「数字の正しさに身分は関係ない・・・」


「そうだ。麦を考えてみるんだ。男が育てようが、女が育てようが、貴族様が育てようが、麦は麦だ。麦はよく実ったか、実らなかったかのどちらかだ。我々が相手にするのは、農村の実りを脅かす自然であり、社会の仕組みだ。そのためには、身分を超えて全員が結束して当たらないといけない」


身分制社会の否定と取られないよう、全身分が協力して、と末尾を言い換える。

それでも、冒険者になったこともなく、街中でずっと職人として生きてきたシオンには、刺激的な言葉だったらしい。


「身分は関係ない・・・」


と言葉を繰り返している。

俺は、そんな彼の様子に頷きを返しつつ、横目でそっと聖職者や貴族出身者の様子を見る。

だが、今のところ否定的な様子はないように見える。それどころか、


「すごいことだ・・・」


「ああ、すごい。本当にすごい」


「志願してよかった・・・」


などと熱い口調で話し合っていた。


若手の彼らは教会全体の組織や貴族社会のピラミッドでは末端に近い位置にあるので、その意見が教会や王国のトップに届く、という事態に興奮しているのかもしれない。


「すごい?んだよね」


「そうらしいですね」


ただ、冒険者のサラと商人出身のリュックは、比較的、反応が冷めている。


このあたりは、頭の善し悪しの問題というよりも、国家や教会の方針に関与したいという権力志向への差異なのかもしれなかった。

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