魔転のアリアドネ
イカニモン
魔転編
第01話 少女が魔に堕ちる時
魔王城はすぐ目の前。勇者達はここまでの旅を経て、魔王を妥当できる力を得たであろう。準備は万端だ。
そして今は決戦前夜。敵地での野宿は辛いが、仲間と一緒ならば怖くはない。決意と結束が固まった四人は、城から少し離れた森の中で一夜を共にすることにした。
「なぁみんな…………俺達、ここまでよく一緒に来れたよな」
緊迫した空気の中、代表者である勇者のレスクが口を開く。
いつもムードを明るく盛り上げてくれたのは彼であったが、今日は様子が違う。
やはり魔王を前にしては流石の彼もこうなるか、と彼を気遣う仲間達。
「色々あったけどこれが最後だし、頑張ろーぜ!」
これに仲間達は、心配は杞憂だったかと安堵の息を吐く。
「そうだなァ……」
「はい!」
「わかってるわよ!」
三者三様の答えが返ってきて、レスクは満足そうに頷いた。
焚き火の仄かな光が眩しく見えるのは、彼の元来の明るさから来るものだろうか。それに感化されて最初に笑ったのは、女戦士のイレーネであった。
均整のとれた体は女性らしくありながら、鍛えて身に付いた筋肉がその邪魔になっていない。後ろで結った長い黒髪もよく似合っている。
勇者の装備とは対照的に動きやすそうな軽装の鎧を身に付けており、それぞれの足りない部分を補う考えがそこに表れていた。
彼女はいつも隣で並んでいた勇者の肩を、今日は笑いながらビシビシと叩いている。
「アタシ達は色々あったけど……アンタはいつまでも変わらないわね。このボケ勇者!」
「いっで! なにすんだよ乱暴女!」
「その口も、相変わらずよ……ねっ!」
「いででででで!!」
イレーネが勇者の口を左右に引っ張り、そのまま掴み合いの喧嘩になってしまう。
じゃれ合う二人を微笑ましそうに見つめる男女が二人。両者ともこのやり取りには慣れてしまっていた。
男はその巨漢で幾度も仲間達を守った闘士グリーズ。熊型の獣人である彼は仲間達からも頼りにされている。
加えて左目に刻まれた傷痕のせいでよく誤解されるが、内面はとても繊細で優しい心も持ち合わせているのだ。
「相変わらず元気でいい……若さだな」
「ちょっと元気すぎる気もしますけど……」
傍らの女性は魔術師アドネ。白髪と赤眼が特徴的で小柄な彼女は、雪のような肌も合わさってどこか薄幸に見える。
自らの陰鬱な過去や現状に悩み、荒んでいたところに、レスクが手を差し伸べて今に至る。
まさか自分が魔王を討つまでに至るとは、かつての自分からは考えられない偉業であろう。
「レスク、君……その」
「ど、どうした、アドネ」
難を逃れたレスクが慌てて駆け寄ると、アドネがおずおずと顔を上げて上目遣いで彼を見る。
庇護欲をくすぐる表情に思わずドキリとしたレスクだったが、邪な考えをなんとか振り切って赤い瞳と視線を合わせた。
「…………頑張ろうね」
「……おう!」
なにか言いたげではあったが、深く追求することなく頷く。今は魔王のことだけに集中するべきだと思ったからだ。
イレーネもグリーズも戸惑うことなく、四人集まって視線を交わす。彼らは最早それだけで通じ合う仲間であった。
「勝った後のことも、負けた後のことも考えるな。迷えば魔王は付け入ってくる」
「ええ、大丈夫よ」
「俺はもう、迷わん」
「……そう、ですね」
快い応えの中に一つ、歯切れが悪いものが混じっている。か細く響いた声の主はアドネ。
彼女は未だに戸惑っている。先ほどのレスクの言葉はそれを見抜いた上でのものだ。
いくら魔術の天才と言えど、元は体が弱く自己主張の少ない少女だ。魔王討伐後の世界に希望を見出だせないのも仕方がない。
スラム出身のイレーネにもその気持ちはよく理解できる。種族間の抗争に嘆いていたグリーズも同様だ。
「何にせよ魔王がいたら世界が滅ぶんだ。ならそいつを倒さねーと何も始まらない。ゼロになっちゃ意味がねぇんだ」
自らに言い聞かせるように、レスクは強い口調で静かに続ける。
「それにもし問題が起こっても、解決できないことばかりじゃないはずだ。俺達なら、きっとそれができる」
選ばれし勇者、英雄、救世主。
王の前で聖剣を抜いただけでそんな色眼鏡で見られ、期待され、使命を運命づけられ、時に顰蹙を買った。
持て囃されることは、決して良い事ばかりではない。そして、勇者としての宿命も。
「魔王が滅べば、勇者も滅ぶ」
「……っ!」
レスクの口から出たのは、有名なおとぎ話の決まり文句。その言葉に、仲間達は歯噛みする。
結局のところこの問題を解決する糸口だけは全く見つからなかった。そもそもおとぎ話の出来事への対策など無かったのだ。
「なんてよく言われたけどさ……俺達は、結局同じ穴のムジナなんだ。だから悩むなとは言わねぇ。でもこの戦いだけは、何も考えず全力で挑んでくれ」
自分の命が秤に乗っているにも拘わらず、レスクは至って冷静で、無表情だった。
普段明るかったことへの反動か。この時だけは、その本心が垣間見えた気がする。
その悲壮な決意をするまでに一体彼は、どれほど悩んだのだろう。どれほど涙を流したのだろう。
レスクの感情を想像するだけで、誰もが口を噤み、誰もが己の悩みを小さなものだと考え直したのだ。
「…………っと、暗い話はここまでだ! 飯も終わったし、そろそろ寝ようぜ!」
「そ、そうね! んじゃアタシはお肌が気になるんでとっとと寝ることにするよー!」
「最終戦か……武器と毛並みを整えなければな」
レスクの声に合わせてイレーネとグリーズがテントの中に引っ込む。
それに続こうとしたアドネがレスクに呼び止められ、振り返る。
「なぁ、アドネ」
「はい……何ですか?」
明るい表情をしているように見えるレスクと対照的に、アドネはどこまでも暗い。
振り返って見せた顔にも影が差し、今にも消え入りそうな程の覇気の無さ。
どうしようもないとわかっていても、こんな顔をいつまでもさせたくはない、と思うレスク。
「この戦い、絶対に生きて帰るぞ……俺はそのつもりさ」
「レスク君……」
方法がないにせよ、どのようにして自分の命が奪われるかはわからない。
ただの迷信で終わってくれることを期待したいが、歴代の勇者も魔王も皆そこで命を落としている。
魔王の死に際の悪あがきの牙にかかる勇者が後を絶たないだけ……と根拠なく笑い飛ばそうにも、選ばれし者としての直感がそれを許さない。
だから今は奇跡を期待して、それに近づけるよう祈りながら、魔王に負けないようベストを尽くすべきだ。
これまで何度も言い聞かせたことなのにまだ足りないのか、と心のなかで自分を鼓舞するレスク。
「ここは魔力が濃いが、体は大丈夫か?」
「うん、大丈夫。むしろ、なんだかいつもより元気が沸いてくるぐらいだよ」
「そうか。ならいい……んじゃ、おやすみ」
「おやすみなさい……」
こんな時でも他人の心配ばかりするレスクに、アドネは思わず苦笑した。
それから夜は更け、静寂が流れる。アドネの強固な結界に守られたテントには何者も寄り付かない。
常に暗闇に包まれた魔王城周辺の空に朝はない。しかし夜明けはある。空がどす黒い濃紺からやや明るめの紫になった時がそれだ。
結界を解除し、装備を整えて魔王城へ向かう準備を済ませた四人。もう後戻りはできない。
元々魔力が濃く枯れ木と沼ばかりで人間の住めそうにない環境のここに長居する気はなかったのだが。
「来るぞっ!」
グリーズの一声で、皆が臨戦態勢になり円陣を作る。襲いかかってきた魔物の大群相手に、彼らは今まで培っていた経験と一糸乱れぬ連携で勝利する。
大柄なオークやドラゴン、小柄なゴブリン、人に似た悪魔に動く屍など様々な魔物を相手取りながら。
何度も目にした敵ではあるが、今までとは格が違った。城を発生源とする高濃度の魔力が強敵の繁殖を促したのだろうか。
無駄な消耗を極力避けながら進むと、紫の空の下でも一際目立つ建造物に当たる。魔王城だ。
城門をくぐり、扉をアドネの術でぶち破る。ここからはいかなる油断も許されない。一瞬の判断が命の分け目となるだろう。
禍々しい空気に包まれた魔王城は薄暗い。頑丈な作りではあるが不気味な装飾が多く、厳かな雰囲気は感じさせない。
「ここを通りたくば私を倒してみよ!」
途中、何度か隊長クラスの魔物にも出会ったが、それらは難無く倒すことが出来た。
魔物達を倒すことで順調に強くなり、更に同じ魔物の弱点を理解していく。
修羅場をくぐってきた彼らからすれば至極当然のことだ。多勢に頼らない魔物の打倒は容易かった。
「ぐ……貴様らなど魔王様が…………グァッ!?」
首から下を無くしても喋り続けている頭を、レスクの聖剣が貫く。憎悪の表情をしたそれは灰となって消える。
もう何体こうやって消してきただろう? 長く入り組んだ魔王城は階を進めるに連れて魔力の濃度を高めていく。
今でこそ全戦全勝だが、これらを率いる魔王相手に自分達の力はどれだけ通じるのか。不安が頭から離れない。
一歩一歩進む度に体に感じるプレッシャーはどんどん強くなっている。
螺旋階段の終点まで登ると、全長三メートルのオークが二人並んでくぐれそうな黒塗りの扉が目に入る。
恐らく、いや確実にこの先に魔王がいる。感じる力が押し潰されそうなぐらいに強くなっているからだ。
「さあ、それじゃ行くぞみんな!」
「待て!」
レスクが仲間に呼びかけると、それに反応して誰かが声を上げた。
扉の下、その中心。顔を包帯で覆った細身の青年がいる。誰もその正体がわからない謎の男だ。
周囲にはサソリのような魔物が二匹、彼を守るように金属音を鳴らしている。
「魔王と戦う前に、この僕が相手になろう……」
青年は両指に針を構えて臨戦態勢を取る。ジリジリと詰め寄るレスクとそれに動じず魔力を練る青年。
魔王の前にまた一つ長い戦いが起こるかと思われたが……
「させるかっ!」
「なっ…………ぐあっ!?」
突如現れた人影が、青年を後ろから蹴飛ばす。
予想だにしない出来事により、そこにいる誰もが動揺し、目を見開いた。
よろつきながら起き上がった青年が指差し、サソリに攻撃態勢を取らせる。
「ここは拙者に任せるでござル!」
長いマフラーと漆黒の意匠。身に付けた武具の数々とそれに見合わぬ身軽さ。
彼はニンジャ。名を知る者は未だにいないが、幾度と無く勇者を助けた義に生きる男だ。
「今まで不審な男だと思っていたが、助かった。感謝する」
「んじゃ、お先!」
グリーズとイレーネが感謝を述べ、アドネが頭を下げる。レスクは三人の先頭に立ち、扉の中心に剣を突き立てる。
すると眩い光が迸り、魔王への道を開く。まるで最初から扉など無かったかのような空洞だけがそこに残った。
ただ、その空洞はあまりに細い。ひと一人が通るだけで精一杯な太さで、グリーズのように大柄では入れそうにない。
「残念だがその門は二人が通れば閉じる! 魔王様の元へ行けるのは二人だけ! もう一度言うぞ、二人だけだ!」
「そんな魔術、聞いたこともないでござル!」
「魔王様は物好きでな……勇者と最も結束の強い仲間を踏み躙りたいんだそうだ」
包帯の青年が愉快そうな口調で言う。ニンジャに応戦しながらも、勇者達の様子をチラチラ見ていたのだ。
この悪趣味さは魔の者特有なのかもしれない。レスクとしては当然戦力は分散させたくないが、この門の話が嘘だとは思えない。
だとすれば魔王は相当狡猾で悪趣味で、臆病なのだろう。絶大な力を持ちながらも多勢を相手にしたくないとは聞いて呆れる。
「行ってみなきゃわからないな。じゃあ、とりあえず俺と……」
言いかけて固まる。この場合前衛として魔王とぶつかり合う自分が支援魔術でアドネにサポートしてもらうのがベストだろう。
だがしかし、本当にそれでいいのだろうか。アドネを危険な目に合わせて、自分の死に目を見せるのが正しいことなのだろうか。
彼女はここでニンジャとグリーズに守って貰うべきなのではないか。考えるほど不安が膨らみ、レスクは答えを決めた。
「アドネ!」
「は、はいっ!」
ハッと顔を上げてアドネが反応する。杖を構えたところを見るに、恐らく共に行く覚悟をしていたのだろう。
だが自分の中の答えは違う。彼はイレーネを選び、二人がかりで魔王と戦うことを選んだのだ。
「……お前はここに残れ」
「えっ……」
「行くぞ、イレーネ」
聞いた途端、アドネの顔に深い影が差す。逡巡したレスクだが、そこに必要以上の言葉は重ねない。
しかしその肩に手が乗った。何事かと足を止め振り返ると、イレーネが顔を真っ赤にして肩を震わせていた。
「……確かにアタシなら、ちょっとやそっとじゃ傷つかないわよ」
「イレーネ?」
戸惑うレスクを目の前に、イレーネが顔を上げて「でもね」と付け加える。
切なさと悲しみが入り混じり、筆舌に尽くし難い表情をした彼女を見て、レスクは絶句している。
「アドネはアンタを守りたいって思ってるのよ!? そのアンタがブルってどうすんのよ!」
「だけど俺は……」
「だけど、何なのよ? 大切に思うなら、もっと彼女のことを信じてあげたら?」
「………………」
レスクの面持ちはどこまでも鎮痛なものだった。それだけアドネの身を案じているのだろう。
しかしそれは同時に、アドネを信じていないということでもあるのかもしれない。
本当は全員で行きたいのだが、この入った人数に応じて閉じる壁は、魔術的なものではないのでどうにもならないという。
「ごめんな、アドネ……俺、臆病になってたんだ。お前を失うのが怖くてな……」
「ううん……いいの。私も同じ立場だったらそうしてたと思うから」
向き合って、互いに頭を下げる。
レスクは自分より頭二つ分低いアドネの頭を撫でた。白髪が手の中でくしゃくしゃと乱れる。
何度やっても不器用なのは直っておらず、緊張を忘れて微笑むアドネ。
そんな二人を見るイレーネの顔は微笑ましくもあり、やはり切なくもあった。
「ありがとう、イレーネ。じゃあ悪いけど、ここで戦ってくれるか?」
「まっかせなさーい! じゃ、行ってくるの……よっ!」
どん、と背中を押されて無理矢理結界内に入れられるレスク。もう彼は後戻りできない。
「ありがとう、イレーネ……私、行ってくるね!」
「ええ、行ってらっしゃい! 絶対に帰ってきなさいよ!」
「うんっ!」
続いて入るアドネの顔は晴れやかで、もう何があっても大丈夫そうだ。
これで自分も心置きなく戦える。イレーネは素早く腰の剣を抜き、包帯の男に向かって駆けていく。
「上等よ……全員まとめて、ぶった斬ってあげるわ!!」
▼
アドネが結界を抜けた時には、既に隣にレスクがいた。にこやかに声を掛け合い、眼前に広がる光景を見た。
一言で言えば、異質だった。大地と切り離されたかのように浮遊した円状の床の四隅に、青い炎が灯っている。
そしてその中心を陣取るように、禍々しい意匠を凝らした玉座が仰々しく鎮座していた。
『フフフ……よくぞここまで来た』
突然、頭上から声がした。この場にはおおよそ不釣り合いな、鈴のような少女の声だ。
その時、鉛色の雲の隙間から花びらが舞い降りた。目を凝らすとその正体が解る。花びらは漆黒のフレアスカートであった。
同じく黒いハイヒールを履いているのは、雪のような白い脚。それは一人の幼い少女だった。
ウェーブのかかった黒髪に見るものを吸い込む紫色の瞳。見た目は幼くとも、放つプレッシャーが証明している。
圧倒的な存在感と表情から感じる人間離れした人格。間違いなく彼女が魔王だと、二人とも確信した。
「では早速、始めるとするかの……人間よ」
「いいだろう!」
間髪入れず地を蹴り、レスクが魔王のもとへ駆ける。
アドネが支援魔術でその素早さと筋力を強化する。そして有事の為に回復魔術の準備も整えておく。
魔王はやや驚いたような顔で漆黒のパラソルを取り出し、勇者の振った聖剣を受け止めた。
「おやおや……今世代の勇者はやけにせっかちよのぅ。よもや本当に悪即斬をされるとは」
「生憎俺は、お前と話すことなんてねーからな」
「そうかそうか……ならばよい。戦いを続けよう」
その言葉を皮切りにして、攻防が始まる。聖剣とパラソルという一見不釣合いな武具のぶつかり合いだが、魔王には関係ない。
剣閃による火花を散らしながら、時に魔術による火球を飛ばし、アドネが水流を操って反撃する。
魔王はあらゆる属性を操って巧みにこちらの不意を突いてくる。それに対抗するのでアドネは手一杯だった。
ここにきてレスクは、改めてイレーネに感謝した。もしアドネがいなければ今頃魔術の荒波に押され倒れていたことだろう。
「ではこれはどうかな……闇の力だ!」
「ハンッ! そんなもん、聖剣の餌食だ!」
そう言ってレスクが聖剣を前に突き出して構える。だが、魔王が練り込んだ魔力を感じてアドネが息を呑んだ。
禍々しい黒紫の球体が魔王の手から発生し、やがてそれは自身の体の倍以上の大きさになって放たれる。
「ダメ! レスク、それは受け切れない……!」
「なんだと……ぐうう!?」
聖剣は確かに魔を祓っている。だがそれでは足りない。単純な質量による圧力が、彼に圧しかかってくる。
これでは魔を祓い切るより先に、勇者が圧死してしまう。そうでなくとも魔王の魔力は無尽蔵だ。現状を打破しない限り、レスク達に勝利はない。
そんな状況で、アドネは杖を捨ててこちらへ駆け寄ってきた。
「レスク君……!」
「ア、アドネ!? お前、一体何を……」
「一緒に押し返そう! 支援魔術も直に触れたら早く出せるし、二人ならいけると思う……!」
「だ、だけど……!」
危険過ぎる賭けに、思わず躊躇しそうになるレスク。だがその臆病な考えをイレーネの言葉が押し戻しす。
迷い、宙に彷徨った視線を魔王に固めて、聖剣を握る両手に力を込める。その上からアドネの柔らかい指が添えられた。
「そうだな……どっちにしろ俺の明日はわからねぇが、まだやれることがあるなら乗る! アドネ、俺はお前を信じるよ!」
「うんっ!!」
「ふむ、これが人の力か……成る程面白い…………面白いぞォォォォォ!!」
光に上書きされた重力が、魔王の体に殺到する。二人は勝利を確信するが、力は緩めない。
やがて眩い光が晴れる。見えてきた魔王の姿は傷だらけだ。漆黒のドレスのあちこちが焼け爛れ、胸の中心に大きな穴が開いている。
「あ、熱いな……ぐううぅぅぅ! フフ、やはりこうなったか勇者よ……」
燃え盛る身体も意に介さず、尚も笑顔で語り続ける魔王の姿に、勇者は空恐ろしいものを感じた。
同時に、自分も覚悟を決めなければならないのかと今更ながらに思う。だがこれでこの空は晴れ渡り、人々に平和が訪れるのだと考えれば報われる。
最早全てが終わり、自分の命にも終焉が訪れるのだ。これはどうしようもないものだと、なんとなく悟ってしまう。
体から力が抜け、安堵と達成感と喪失感に包まれながらその場に座り込む。もう立ち上がることはできなそうだ。
だというのに、「まだ全てが終わっていない」と言うかのような魔王の不敵な笑みが腹立たしい。
「時にそこな少女よ……妾と取引をせぬか? ゴフッ!」
「そんなの、するわけないじゃないですかっ!」
悪あがきにも程がある。呆れて声も出ない。意外に臆病ではないと思った途端にこれだ。やはり自分の命が惜しいのではないか。
傷だらけで満身創痍の状態で、這々の体でありながらも流暢に喋る様は、不気味を通り越して哀れであった。
「勇者がこの先も生きれるとしても……か?」
「え…………」
「そんな方法、あるわけが……ねぇ。 アドネ、魔王なんかの言葉に、耳を貸すな……!」
アドネはこんな甘言に乗ったりはしないはずだ。自分がそうなのだから、彼女だってそうだろう。
「消滅の原因はな、“魔王の魔力”の器である妾が滅ぶところにある。この“魔王の魔力”は毒のようなもので、ここから出られない勇者は必ずこれに触れてしまう」
「そんな……じゃあ、どうすれば……」
違う。今、アドネは冷静ではない。気休めで言った自分の一言が本当に実現できたら、と夢想している。
でもそんな事は現実的に考えて不可能だ。きっといいように利用されて、魔王を助けることになってしまう。
「誰かがこの“魔王の魔力”の新たな器になればよい……とは言え、今や半分程度しか残っておらぬがな」
「器になった人は……魔王になっちゃうんですか?」
「文字通りその者の“器”次第じゃ。いつだって不釣合いな力は身を滅ぼすものじゃろう?」
まさか魔王は、アドネを後継者にするつもりでそんな出鱈目を言っているのだろうか。
もし仮にそうだとすれば、魔王はあまりにも悪趣味だ。世界を救う為にアドネを殺すという状況がいつか訪れるのだから。
「お前はあやつを守れる力が欲しいのじゃろう? この魔力を制御すれば、勇者の命を救えるだけでなく、彼と肩を並べるだけの力が手に入る……全部解決じゃ。この上ない僥倖じゃの」
「私は…………」
「やめ、ろ……アドネ……!」
「少しでも方法があるならって……レスクは言ってた……」
そうじゃない。そうだとしても、その方法だけはダメだ。魔王に頼るなんて方法は、最も忌むべきものだ。
戦闘による疲労が顔を出したか、上手く声が出ない上に体も思うように動かない。這うような動きでアドネに近づき、喉を絞って声を出す。
「妾の手に触れよ……お主は人にしては魔力との適正があまりにも高い。上手くいくことは、妾が保証しよう」
「魔力との、適正だと……?」
そう言えばそうだ。彼女は生まれつき体が弱かったはずなのに、ここに来てからかなり元気が良くなっていた。
レスク達はむしろ魔力の濃さに参って酔いそうになったというのに、一番心配していた彼女が平気だった。
もしかすると、アドネは元から魔族に親しい存在だったのか……そんな想像が頭を過る。
このままでは本当に、魔王になってしまう。
「や、やめろォォォォォォ――――――――!!」
互いの白く細い指先が近づくのを見て、思わず叫んでしまった。そこに、どす黒い液体のようなものが垂れていたのだ。
喉が枯れるのも構わず、アドネを引き止めたいことで頭が一杯でおかしくなりそうだった。
「フフ……素直でいい子じゃの」
「んあっ……!?」
触れてしまった。もう、止められないのか。
「あ、あああああ…………う、うああぁぁぁ……!」
アドネが震えている。何かを恐れるように両腕で体を抱きながら。魔王の魔術と同じ、黒紫の燐光を纏いながら空中に浮遊する。
この光は魔王から放出される“魔王の魔力”だろう。その全てがアドネの中に入っていく。レスクは黙ってその様子を見ているしかない。
魔力は彼女の白いローブを切り裂き、一糸纏わぬ姿となった幼い体へ次々と流入する。襲い来る衝撃に、彼女は思わず声を上げた。
「ふ、ふぁあああああ!?」
一瞬何が起こったかわからなかったが、異変は既に始まっていた。彼女の体がビクビクと震えながら、少しずつ成長しているのだ。
幼く短い手足も指もしなやかに伸び、腰回りから脚までも肉付きがよく女性らしいものへ変化していった。
慎ましやかな乳房はとどまることを知らず膨らみ、今やイレーネのものより遥かにボリュームがある。その下の括れも徐々に引き締まっていく。
特徴的な白髪は膝下まで伸び、白銀に輝くプラチナブロンドに変化する。だがその顔は苦悶に満ちており、まだ魔力に耐えている。
「あぁん……あっ、あっ……うぐうぅぅぅ!」
魔王より高かった声も、やがて艶やかな低音に変わっていく。その声は今や本当に悶え苦しむ時のそれかもわからなくなっていた。
妖艶な成長を遂げた肉体の面積が大きく広がった肌の上、そのあちこちに魔力光と同じ黒紫色の紋様が刻まれていく。
「ぐっ、ふうっ……あ、ぐぅああああぁぁぁぁぁぁぁ!!」
更にその上から、より一層どす黒い影が纏わり付く。それは徐々に固形化していき、彼女を包む漆黒の鎧へと変わる。
その鎧はかつての幼く受動的だった自分を否定するかのように艶めかしく挑発的で、悪鬼のように禍々しくもあった。
だが待っていたのは服装の変化だけではなかった。露出した背中の肩甲骨辺りから左右対称に、蝙蝠のような漆黒の翼が大きく突き出し、額からは一対の角が突き出るようにして生えた。
「はあっ……うっ、ぐ……ハァ……ハァ……ッ」
度重なる急激な肉体の変化からくる痛みと疲労。そのせいか、全てが終わった時彼女の両手は地を突いていた。
「アドネ。おい、アドネ。返事をしてくれ…………」
もう叫ぶこともできないのか、レスクの声もどこか弱々しい。
対照的に高笑いする魔王の声はどこまでも響き、強く響くものであった。
「フフフ、フハハハハハハハ……! 面白い、あまりにも面白すぎるぞアドネ……」
「………………ちが、う」
鎧をガシャリと鳴らしながら、アドネであった者が立ち上がる。
凛々しく引き締まった顔に感情はなく、切れ長になった赤い瞳が横目で魔王を見た。
「わたしは、アリア……もうそんな、名前、ではない」
「そうかそうか! フフ、実に上玉よ……素晴らしい。我が魔力を全て受け切り、そのように美しくなろうとは……想像以上じゃ」
変わってしまった。アドネが、自分の目の前で魔王の分身になってしまった。これでは報われるどころか、最悪の終わり方だ。
以前より大きく、禍々しくなった外見。それ以上に何か、彼女の中で大切な何かが変わってしまったように思える。
その目には光がない。その顔には慈愛がない。その口調は辿々しく、人間味がない。
「どうじゃ勇者よ。かつての仲間が魔道に堕ちた姿は…………」
「煩い、女だ……」
ゴミを見るような目で、アリアと名乗る女性が魔王に吐き捨てた。彼女は刺々しいガントレットに包まれた両手の平から、黒い球体を発生させる。
球体は長剣となって、彼女の右手に収まる。逆手に持ち替えたそれに左手を添え、真っ直ぐ下に突き立てた。
「がぅ!? お、お主は…………!」
「最早、お前に、用はない……消えろ」
「ぐ、があぁぁぁ……!」
かつてのアドネからは想像できないような振る舞いに、レスクが息を呑み絶句する。
それを見る魔王の顔は、血の気が失せて真っ青になりながらも、とても愉快そうなものであった。
あどけない少女の激しい変容を見て、そしてそれに絶望する勇者の表情を見て、痛みが吹き飛ぶ程の愉悦を感じていたのだ。
「ゴフッ……ヌ、フフ……これはいいものを見れた。もう少し見ておきたかったが、妾もここまでの、ようじゃ……の」
「魔王、お前……おまえはぁ…………!」
「城主を失った……この城は、じきに、崩壊する……せいぜい、気を付ける……ことじゃ、の」
その言葉を最後に紫の瞳は閉じられ、手は力なく崩れ落ちる。魔王は二度と動かなくなった。
彼女の亡骸が灰になって宙を舞う。同時にあちこちの壁や天井が崩落する音がする。
この状況に危うさを感じ、レスクは思わずかつての彼女の名を呼びかける。彼女が目を覚ます僅かな可能性に期待して。
「おいアド……ェッ……! 早く、逃げッ……!」
「その名で呼ぶなっ!」
「グァッ!?」
その時、信じがたい衝撃が彼の身に降りかかり、体ごと宙に吹き飛ばされる。
黒騎士と化したアドネが手をかざしただけで、空気が振動しこのような力が生まれたのだ。
魔王との戦闘で消耗したレスクにこれを防ぐ手段はなく、彼は紫の虚空に投げ出された。
「だから、呼ぶなと……言った、のだ」
「あぁ、アドネ…………アドネェェェェェェェェェェェ!!」
無意味なことだと理解しながらも、彼はその名を呼ばずにはいられない。
魔王は倒したが、これでは自分もアドネも救われない。彼は離れていく空を見上げながら祈った。
せめていつか、彼女が幸せになれますように。誰かが彼女を救ってくれるように、とだけ。
やがて彼の姿は闇に消え、その生死は誰にもわからなくなる。一人残されたアリアがどこかへ飛び去ると、浮遊する玉座が崩落した。
魔王の痕跡が完全に消え去る。これで全てが終わったと、何も知らない民達は思うだろう。勇者と魔王が雌雄を決し、共に滅びたのだと。
だがこの一件は、当事者達の間に大きな蟠りを残すことになる。魔王による支配は、誰も想像だにしない形で終焉を迎えた。
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