21・黄昏の室

 そろそろと陽が傾き始めた夕刻。ファルシスは、ティラールとフィリアという面倒な二人を自分で招待しておきながら、どう見ても朝より元気そうな様子で『やっぱり頭が痛いので館で休んでいたいの、アトラも残ってくれるというからいいでしょ? ごめんなさいね』などと言い出した妹に納得のいかなそうな態度を残して、船遊びの為に出かけて行った。

 別にアトラウスまで残る必要はないのでは、と思ったが、ユーリンダが不在でアトラウスとティラール、という顔合わせも何だか微妙な空気を招きそうな気がしたので異は唱えなかった。父も来られないという話で、仕方なく自分が場の主人として一人で客をもてなさなければならなくなり、前もって招待しておいた『宮廷での恋人』ロマリアとゆっくりする事も出来そうにない。

 ユーリンダが来れば、人々の目はそちらに向くだろうと思っていたのに……と心の中でぶつくさ呟きながら、表面上は完璧な貴公子、ルーン公の嗣子として立派ないでたちのファルシスが湖畔の船着き場を目指して馬車で行ってしまうと、ユーリンダは、うきうきとした気分で、アトラウスとの約束の小応接間へ入っていった。

「アトラ?」

 扉を小さく叩いて開けて覗いてみたが、想い人の姿はなかった。

「まだ帰ってきてないのかしら……」

 唇を小さく尖らせてユーリンダはひとりごち、夕陽が差し込む窓の方へ近付こうとした。

「きゃっ」

 いきなり背後から誰かに目隠しをされ、彼女は飛び上がる。

「ごめんごめん、ふざけただけだよ」

 扉の傍に隠れていたらしいアトラウスは、笑いながら彼女の顔から手を離した。ほんの数瞬だったが、背後から抱きすくめられたような形になって、ユーリンダの鼓動は早くなる。アトラウスの大きな手の温かな感触に、彼女は思わず顔を赤らめて自らの頬をなぞった。

「もうっ。びっくりしたわ」

「ごめんね」

 柔らかな笑顔で見つめるアトラウスには、今朝見せた翳りはみられない。普段と同じように、優しく妹に接するような態度で、よく見たら既に長椅子に置いてあったリュートを手に取りながら、ユーリンダに正面に座って欲しいと言った。

 彼が普段通りの態度なので、ユーリンダは、会ったらすぐにでも言おうと思っていた、父が暗に結婚を認めてもいいというような事を言った、という話を切り出しづらくなる。

「なんの曲がいいかい?」

「『愛の目覚め』か『乙女の喜び』がいいわ」

「じゃあまず『愛の目覚め』にしよう」

 アトラウスはぽろんと弦を爪弾き、楽器の調整をする。窓から射す夕陽の朱が俯き気味な彼の黒髪を柔らかく彩る。影になった表情はよく見えないが、そんなアトラウスを、ユーリンダは期待を込めてうっとりと見つめた。

 アトラウスは演奏を始め、ユーリンダはその優雅な旋律に聴き惚れた。ユーリンダが頼んだのはどちらも有名な曲で、アトラウスに弾いて貰うのは初めてでもないのに、今日は何故だか、そのしらべの美しさに、彼女の頬には我知らず涙が伝っていた。完璧に違う事のない見事な演奏だった。夢見る乙女の明るい旋律から愛に悩む静かな流れへ、そしてその愛が花咲き、生のよろこびを激しく奏で上げる、そんなメロディーに、ユーリンダは我知らずおのれを移入させ切っていた。うっとりとしたユーリンダの様子を見てアトラウスは、一曲弾き終えるとそのまま『乙女の喜び』を続けて奏でだした。これも似たような甘やかな曲調で、どちらもユーリンダのお気に入りだ。

 二曲弾いたところでアトラウスは手を止め、

「少し喉が渇かないかい?」

 と尋ねる。

「えっ? ええ、そうね。お茶を運ばせましょうか」

「いや、僕が言ってくるから、きみは座ってていいよ」

 そう言ってアトラウスはリュートを置いて立ち上がる。

「ありがとう……あの、アトラ、私、お話があるの」

「話は後だよ。ちょっと待ってて」

 アトラウスが前もって飲み物を運ばせるように指示していなかったのは、勿論彼の意図だった。扉を開けて、通りがかった侍女に茶を用意するよう言いつけると、彼はそのままそこで待っていた。普通ならば、侍女がテーブルまで運んでくるものだが、彼は扉の所で茶と茶菓子の載った盆を受け取り、侍女を室内に入れなかったのだ。それは、ユーリンダの前に彼女の分のカップを置く前に、用意していた媚薬を茶に混ぜる為。アトラウスはもう躊躇しなかった。


 アルフォンスに言われた通りに隣の小部屋に待機していたエクリティスは、こうしたアトラウスの、不審とまでは言えないがやや不自然な行動を窺い見て、はっきりと言葉には出来ない違和感を抱く。だが、これだけの事で、二人が寛いで過ごしている室へ踏み込む訳にもいかない。壁越しでは、音楽は聞こえてくるが会話までは聞き取れない。

(あのお二人に限って、そんな間違いが起こるとは思えないが……)

 というのが、エクリティスの正直な気持ちである。

 何年間も、二人が互いを想い合いながらも、幼馴染みのいとこ、という以上の間柄になれずにいたのを、彼はずっと程近くで見ていた。

 アトラウスは聖炎騎士団の一員でもあり、身分上は主君の甥でも、騎士団に於いては部下の一人。エクリティスは全ての部下の能力と気質を的確に把握している。アトラウスはいずれ剣技で自分を凌ぐ可能性を持つと感じるふたりの内の一人――勿論もう一人はファルシス――であり、流石、王国五指の剣士と言われるアルフォンスの血を継ぐ若者と感嘆させられる事も多いが、やや歯痒く思うのは、ファルシスと違い、己の器量をなるべく伏せようとする傾向がある所だった。

 故に騎士団の中では、温和な性格故に表面上の敵はいないものの、やや軽んじられているきらいがある。『実力は程々なのに、ルーン家の人間というだけでファルシス様の一の親友、しかもルーン家の黄金色を持っていない……』というやっかみから、『本当は、母親の魔道でルーン家の血を引いていると証明された、という話は、ルーン公殿下が親なし児のあいつを哀れんで作られた話なんじゃないか』と陰で言い出す者までいると聞き、これは見逃してはおけない事だと思った。当時国中に伝わったあの一大悲劇も、若い騎士や騎士見習いにとっては、子どもの頃に耳にした噂話に過ぎないのだ。アトラウスの出自を疑う者は大神官の裁定を覆そうとする大罪人、とそれを言い出した発端者に伝える事で、その者はすっかり怯え上がってしまい、以降はその話は聞かれなくなったものの、アトラウスの容姿をあげつらって、秘かに『ブラック・ルーン』と仇名されているのは今でも止めようがなかった。本人が気にする風もなく対処もしないからだ。常に己が己に課した立ち位置に留まり、ファルシスの隣ではなく後ろにいようとする。他人がそれをどう思おうと構わない……それが、エクリティスやアルフォンスの見るアトラウスだった。

『気概はある筈だ。能力もファルシスに決してひけを取らない。だがどうしてかそれを隠そうとする。特殊な幼年期を過ごしたせいなのか……爵位を継いで一人前になれば変わるのか……わたしにもわからない。わたしにも……責任のある事だからな』

『……決してアルフォンスさまのせいではありません』

 かつてあるじとそんな風にアトラウスを語った事もあった。

 そんなアトラウスが積極性を示さないのは、武芸においてだけではなく、恋愛ごとについても同じだった。誰からの誘いも断り続け、浮いた話はひとつもない。これだけは従弟のファルシスとは全く違うし、別段ファルシスに遠慮してという訳でもなさそうな事は見るだけで明らかだった。

 アトラウスの視線はいつも、ユーリンダがその場にいる限り、他の女性に目をやる事はなく、彼女だけにあった。そしてまたユーリンダも同じ……見つめ合う。だが、それだけだった。きょうだいのように話したり、ダンスをしたりはしても、アトラウスはユーリンダと、男女としての距離を縮めようとはしなかった。もう、求婚してもよい年頃になったというのに。

『何を考えているのだろうか……もう少し腹を割って話してくれればよいのに。わたしはあの子の事を息子のように思っているのに、あの子の方ではわたしに対して壁を築いたままだ。もしやまだわたしを恨んでいるのだろうか?』

『そんな事はないと思います。十前後の頃のアトラウスさまはもっと屈託なく、アルフォンスさまにも懐いておいでだったではありませんか。成長されて、遠慮されているのでしょう。他人に対し壁を築くのはアトラウスさまの元々の気質ではないでしょうか。誰に対してもそのように振る舞っておられます』

 恩人である伯父への遠慮……そう受け止めるエクリティスには、アトラウスがそれを破ってまでユーリンダに手を出すとは考えにくかった。真に彼女の為を想うならば、彼はきっと想いを遂げる事よりも身を引く事を選ぶだろうと……自らも知る感情であるだけに、エクリティスはむしろ無意識に、アトラウスにはそうであって欲しいという思いを重ねていたのかも知れない。


 だが。かちゃんと何かが割れる音が、エクリティスの注意を引いた。壁越しのほんの微かな音……彼でなければ聞き逃してしまっただろうその音に続いて、何かが倒れるような物音がした。アトラウスの声が聞こえる。何を言っているのか聞き取れはしないが、ユーリンダの名を呼んでいるように思えた。エクリティスは廊下へ飛び出し、扉を叩く。

「ユーリンダさま! アトラウスさま!」

 ……どうしてか、室内からは物音だけが聞こえ、呼びかけに対する返事はなかった。エクリティスは焦って扉を開けようとしたが、驚いた事に扉には内から鍵がかかっていた。


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