20・企みとすれ違い

「宰相閣下……大変深くも有り難きお言葉に、わたしは今すぐにでも、この婚約を調えたい気持ちになりました」

「そうか」

 宰相は相好を崩す。だがアルフォンスはすぐに言葉を繋いだ。

「宰相閣下が我がルーン家の行く末を憂いて下さるお心は生涯忘れがたく、わたしの心は王家に次いで宰相閣下への敬意で満たされたままでございましょう。ですが、そのように我が家を思いやり下さる閣下ならば、返答を数日延ばしたところで、それをお咎めになるような狭量とも思えませぬ。最初はお怒りをかったのかとひやりとしましたが、そうでないと解り安堵致しました。娘を説得するように努めますが、もしもこのお話がうまくいかなくとも、元々バロック家とルーン家とは縁戚の間柄。不肖の弟には、改めて、地元へ帰りましたら、アサーナ殿をもっと大切にするように言い聞かせます。二人の仲が改善すれば、アサーナ殿が男子を産んで下さる事も期待出来ましょう。そうなれば、一層我が家とバロック家の間柄は深まり、何も問題はない筈です」

 宰相の顔面を怒色が走った。

「アルフォンス、本当にその返答でよいのか」

「はい。繰り返しますが、お断りしている訳ではなく、ただお返事の前に、娘に話しておきたい、というだけですので」

「今返事が欲しい、と私が言っているのに、か」

「数日……いや、お急ぎであれば、三日頂ければ。勿論、その間にティラール殿を我が邸にお招きして、二人で話す時間を作りましょう」

「…………」

「何かお急ぎになる理由がおありでしたら、それをお話し下されば……」

「いや、もういい! わかった、三日だぞ。三日経って、そなたが色よい返事をしないようなら、ルーン家は我が家に敵対したと思う、と知っておくがいい」

 激しい言葉を吐くと、宰相は立ち上がり、足音を立てて部屋を出て行った。ここまで感情的になった宰相をかつて見た記憶がなかったので、アルフォンスは自分の台詞が及ぼした効果を反芻してみる。最高の選択でなかった事は承知の上だったが、元々切れるカードはごく限られていた。宰相が怒りを露わにする程のなにかがやはりあるのだ、と知れた事を収穫と思い、三日の間に対策を練るしかない。本当に宰相と敵対してしまっては、まさか王国の七本柱が表だっての衝突に及ぶ事はないだろうが、宮廷での冷遇はファルシスの代にまで尾を引く事になるだろう。

表面上、何故宰相があのように怒ったのか判らない、といいたげな不思議そうな表情を浮かべたアルフォンスに、ティラールが、

「あの……姫から、今夜船遊びへ、とお誘い頂いているのですが」

 とおずおずと言う。

「申し訳ないのですが、娘はやはりまだ体調が優れぬようで、外出は難しいようです。明日また、我が邸にお越し頂ければ」 

 アルフォンスは柔和な笑みで若者に返した。

「おまえ、父上を怒らせたな」

 シャサールは勝ち誇った笑顔でアルフォンスに言い放った。

「怒られるような真似はしていないと思うが?」

 と答えたアルフォンスにシャサールは、

「父上は、即答できない相手を信用なさらない。おまえ、本当に馬鹿だな。いいことを教えてやろうか。リーリアは、最初、かなり本気でおまえの息子に惚れていたようだ。王妃候補になっている、家の為に絶対に王太子殿下の心を射止めよと告げた時、一晩部屋に籠もって泣いていたぞ。だが、翌日には腹をくくった。女にとって幸福な結婚とは結局、恋愛沙汰よりも何を得るか、と悟ったからだ。それが普通なんだぞ」

 いくら結婚前の話とはいえ、王妃が王以外の男性に心を奪われていたなど、軽々しく口にしていい筈もないのだが、父親が席をたつとシャサールの口は途端に軽くなる。あの賢しい王妃が普通の娘と同じ価値観を持っているとは思えないが、何せ宰相の孫娘。童話のような日常に包まれて育ったユーリンダとは次元が違うのも無理はないと思ったが、アルフォンスはただ表情を崩さずに、ご忠告感謝する、と述べるに留めた。


 二人に別れの挨拶をして執務室を出た時には夕刻になっていた。蔦の形を彫り込んだ金塗りの枠が嵌めこまれた大窓から庭園を見下ろすと、真っ赤な夕焼けが色とりどりの花々を紅く染め上げている。美しいこの光景に何故か、常になく薄ら寒いものを感じながら、アルフォンスは回廊を歩く足を速めた。

「殿!」

 王宮まで同行してきていた侍従が控えの間で待っており、心配げな響きを含んだ声をかけた。アルフォンスはその、常との僅かな語調の違いから、思わず壁に設えられた金縁の鏡に目をやり、己が自然と険しい表情になっていたのを悟る。

「どうかなされましたか」

「いや……何も」

「そうでございますか。この後は、ローズナー女公殿下をご訪問の予定となっておりますが?」

「……そうだったな。いや、しかし今は一刻も早く館に戻らねばならん。そなた、ローズナー公邸へ、火急の用件が出来た故に、申し訳ないが話は後日に、と断りをいれてきてくれ」

「承りました」

 侍従は一礼して室を出て行った。アルフォンスの使用人たちは皆、主を深く敬愛しきっているので、要求に対して無駄な口をきくことはない。かれの判断が時に、誰かを、何かを護る為に、或いは己の信念を貫く為に、身を危うくしかねないものになる可能性を秘めていると知っており、場合によっては諫める事も厭わないのは、騎士団長のエクリティスと老執事長のウォルダースくらいである。しかし、もし二人がこの場にいたとしても、アルフォンスがスザナの事を後回しにして宰相から突きつけられた難題に取り組もうとした判断に異議を唱える事はなかっただろう。ただ単に、説明をする為だけの訪問は急用ではない。この予定の変更が重大なことを引き起こすとは、誰にも想像出来得るものではなかった。


―――


 同刻、ローズナー公邸では、女主人のスザナが、アルフォンスをもてなす準備を取り仕切っていた。普段はそこまで神経質ではない……というよりむしろその身分にそぐわない大雑把な気質の女主人が、あれこれ細かな指示を出すのに、使用人たちはやや違和感を覚えていた。スザナもまた、鷹揚でかれらに慕われる存在であったので、不満を持つ者はなかったが、ルーン公の訪問は別にこれが初めてという訳でもないのに、妙に張り切った様子であるのが不思議に感じられたのだ。準備万端にしていた豪華な夕餉も、多忙だからと遠慮されてしまったというのに、スザナ・ローズナーはあまり気にしていないようだった。


 スザナは一通りの指示を出し終えると、自室に入り、そこへ信用している一人の部下を呼び寄せた。

「あれの用意はちゃんと調ったでしょうね?」

「勿論ここに、入手してございます」

 使用人の男は懐から布包みを取り出して恭しく女主人の手に渡す。普段は下人に身をやつしているが、極秘の用を頼む時に、スザナにとって口が堅く信用できる数少ない必要な人間なのだった。

「……」

 スザナは少しの間、黙ってその布包みを弄んでいた。こんな事を企むなんておかしいと、自分でも充分に理解している。昨夜の惑乱は勿論とうに静まり、今はただ計算で動いているだけのように自分では思えた。アルフォンスもカレリンダも大切な友人だ。なのに、こんな手段で騙すような真似をして、本当に後悔はないだろうか? ……いや、あるに決まっている。この包みの中身を用いて望みを叶えたとしても、その先はない。自分にも、大切な人々にも、苦痛をもたらすだけだ。冗談で済ませられることではない……表面上はそう取り繕う事になるだろうけれども、アルフォンスはきっと自分を許しはしないだろう……。

「店主が申すには、この品が同じ日に二人の客に売れるのは初めてだそうで」

 部下の声も、考えに沈み込んだスザナの耳には入らない。ずっと、自分で考え得る完璧な女公爵であり、妻であり母であった。だけれど、それは本当の自分ではなかったのだと、今まで知ろうとしなかった事を、知ってしまった。

(ローズナー女公としてのわたくしにとって最も大切なものはローズナー家。でも、スザナとしてのあたしには……)

 いい歳をして、何を小娘のように戸惑っているのか、自分でも解らない。そうだ、こんな事は宮廷ではよく聞く話だ。何でもない事の筈だ。王国の七本柱として役目を果たし、女と侮られまいといつも男装で己を引き締め、女の武器を磨くことしか頭にない宮廷婦人達とは常に距離を置いてきた。だからこんなに迷うだけで、彼女たちならば機会さえあれば朝飯前にやってのける程度のこと。手段を問わず、軽蔑と引き替えてでも、欲しいものを手に入れる、それが自分の本性なんだと、蔑視してきた女の本性を自分もまた持っていたのだと、気付くのがあまりに遅かっただけだ。でも、遅すぎた訳じゃない。

 スザナは傍の鏡を見た。午餐会の礼装を基本に、髪型を少し変え、アクセサリーを、金鎖に緑石を散りばめたネックレスから、銀の台に大きな紅石を嵌めこんだ首飾りにしてみた。この紅石は、以前アルフォンスが、髪の色にぴったりだと褒めてくれたものだが、きっとかれはもう忘れているだろう……。鍛錬を欠かさずにいるので身体の線はまったく崩れていない。深緑の大きな瞳を縁取る睫毛は長く、頬には張りがあって小皺も全くない。

(シャサール、ひとのことをよくも若作りだなんて言ってくれたわね。わたくしはまだまだ若さも美しさも保っている。子どもだって産めるわ)

 子ども……いや、そこまでは考えまい。スザナは小さく首を振って鏡から離れ、常に身につけていた、亡夫から贈られた緑石の指輪を外した。

「これが褒美よ」

 辛抱強くその場に立って待っていた部下の掌に、彼女は押しつけるようにそれを置いた。

「えっ、こ、こんな上等な……ただの使いですのに」

「いいの。さっさとどこかでお金に換えなさいよ」

「は、はぁ。それでは有り難く頂戴致します」

 男は恐縮しながら出て行った。

(これでいいの……女当主として固く縛られてきたあたしの人生にも、幾ばくかの自由が与えられていい筈……)


 その時だった。男と殆ど入れ替わりに侍女が入室の許可を求めてきた。

「どうしたの」

 入ってきた侍女は、自分のせいでもないのに申し訳なさそうな表情を浮かべながら、

「ただいま、ルーン公殿下より使者の方が来られまして、今宵は火急の用件が出来た故に訪問は後日にさせて頂きたいと……」

「なんですって!」

 スザナは柳眉を逆立てた。女主人が今宵の会談を楽しみにしていた様子であったのは判っていたが、ここまで怒りを露わにするとは予想していなかった侍女は怯えた表情になる。だが、スザナは侍女になど構っていられなかった。

「どこなの、その使者は?」

「い、一階の小客間に……」

 スザナはそれ以上何も言わずに、使者に会う為に階段を殆ど駆ける勢いで下りた。

「どういう事情なのか説明しなさい! わたくしは昨日も今日も、約束を確認していたのよ!」

 気の毒なアルフォンスの侍従は、何の事情も知らないのに詰問される羽目になる。

「申し訳ありませぬ、女公殿下。我が殿からは、宰相閣下と会談なされた後、どうしても早急に館へ戻らねばならぬので、申し訳ないが話は後日に、とお伝えするよう申しつけられました。わたくしはそれ以外何も存じ上げません」

「それで、後日というのはいつなの?」

「わたくしにはわかりかねます。何やら大変懸念されたようなお顔で……あくまでわたくしが感じただけで、どういう事情なのかはさっぱり……」

「もういいわ!!」

 スザナは常になく声を荒げ、罪のない使者を一層恐縮させる。

「わたくしは数日中に領地へ帰る予定なの。その間に顔を見せないなら、長年の友誼もおしまいだと帰って伝えなさい!」

 そう言い放つとスザナは貴婦人らしくもなく音を立てて扉を閉め、自室へ早足で戻った。戻りながらも、なんと子どもじみた感情的な事を口走ってしまったのかと激しく悔いながら。

 自室に飛び込んで扉に施錠すると、彼女は先程手に入れた布包みを暖炉に放り込んだ。暖炉に火はなかったが、包みの紐はほどけ、中の粉薬は飛び散ってそこにあった灰と混じり合った……サイモンの店の、サテュリオンは。彼女は飾り立てたドレス姿のまま、寝台に伏して少女のように泣いた。

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