6・動き始める想い

 応接室に客が訪れている事に、二階の自室にいるアトラウスは気付いていた。彼は元々眠りが浅い性質だが、この朝は結局寝台に横になっただけで、眠りは訪れないままだった。それでも、ダンスや様々な付き合いを慌ただしくこなし続けていたファルシスと違って、彼は夕べの舞踏会では殆ど、交流のある男性貴族たちと会話して過ごしていたので、徹夜したとは言ってもさほど疲れてはいない。一見、文芸肌で華奢な印象を持たれるアトラウスだが、実はよく鍛錬を欠かさずに己を磨いており、体力には自信があった。

(ティラール・バロックとフィリア・ローズナーか……)

 部屋の奥の窓の外から、丁度、馬車寄せに二台の紋章付きの大型馬車が停まっているのが見えたのだ。バロック家とローズナー家の人間で、こんな時間にわざわざユーリンダに面会を求めてくるのは、その二人くらいなものだろう。挨拶に下りて行ってもいいのだが、あまり気乗りがせず、アトラウスは再び寝台に身体を伸ばした。ほどいた黒髪が白い枕の上に網のように広がる。

(ティラール・バロックは、ユーリンダに随分惚れ込んでいたようだったな……。末息子で何の役職にも就かず、気儘に放浪しているばかりとか。そんな男でも、宰相にとっては息子だ。役に立たない息子をユーリンダの婿としてルーン家に送り込めば、何か益があると宰相が思ったら……)

 宰相が、ティラールとユーリンダの縁組を申し入れて来たら……? 宰相の縁組の申し入れを断る親が王国にいるとは思えない。孫娘を王妃となし、即位したばかりの若き王に国政に関する全ての助言を与えるヴェルサリア随一の権力者。前王の時代に既にその基盤は築き上げてきてはいたが、今回の婚姻によって、それが崩れる事は当分考えられなくなった。いくら七公爵の一人ルーン公といえども、その申し入れを断るのは、宰相の顔に泥を塗るのに等しいこと、出来る筈もない、と思う。

(闇の中から光の溢れる世界に出たあの日。光を知ったあの日。あれから僕はずっとユーリンダを……。ユーリンダは僕のものだ。昨日初めて会ったような奴にユーリンダを渡すなんて絶対に駄目だ。どうしたら……)

 頭の切れるアトラウスでも流石に、これまで全く意識していなかった宰相の末息子の唐突な言動に、どう対処すればよいのか考えあぐねていた。

 ユーリンダの気持ちには、とうの昔から気付いている。悲劇の原因となったこの黒髪と黒い目を綺麗だと言った幼い頃から、今に至るまで、彼女の美しい黄金色のひとみは、いつも自分に対する崇拝と慕情を映していた。

『すごいのね、アトラ、そんな事を知っているなんて!』

『本当に綺麗な音色だわ。私、アトラの弾くリュートが一番好き。どんな有名な吟遊詩人のよりも』

『騎士の正装がすごく似合っていたわ! ファルと並んでいる所、うっとりしてしまったわ』

『ねえ、アトラ、今度の王都での舞踏会、一番最初に私と踊ってね? お願い、約束よ?』

 愛くるしい笑顔で無邪気な言葉を投げかけてくる従妹。それでいて、自分の想いが相手や周囲にはあけすけに見えている事にはまるで無自覚なのだ。あまりにも純粋で、子どもの頃となんの変わりもない心のままで、おとなになってきた彼女に対して、アトラウスはまるで壊れ物を扱うかのように接してきた。

 一度だけファルシスに何気なく、どうするつもりなのか、と尋ねられた事がある。実の兄弟のように育った間柄の彼であるから、思うように答えてもよかった筈だった。しかしアトラウスは、何のこと、と返した。以降、その話が会話に入る事はなかった。ファルシスは妹の恋に対して、一歩引いた所から見ているようだった。大切な大切な妹であっても、ルーン家の嫡男として、妹の私的な感情より、父の判断を優先させるべき、と思っているらしい。それは、ファルシスが自身に対しても強く言い聞かせている事だと、アトラウスは知っている。

(……もっと早く行動していればよかった)

 彼女が十七になった時に。何となくそう思っていた自分に気付く。

(仕方がないのか? いまの僕にはまだ力が足りない。だけど……)

 その時、扉が叩かれた。

「アトラウス様、ユーリンダ様がお話ししたいと仰っておられますが……」

 やや落とした声で小姓が扉の向こうから声をかけてくる。まだ眠っているかも知れないと思っての事だろう。アトラウスは素早く起き上がり、すぐ行く、と答えた。


 階下の小応接間に入っていくと、黄色のドレスを着て黄金色に輝く髪をお気に入りの黄色い髪飾りで結ったユーリンダは、アトラウスの気配を感じて笑顔でさっと振り向いた。

「おはよう、アトラ! ごめんなさい、まだ眠ってた……?」

「僕はそんなに寝坊しないよ、大丈夫」

「でも、夜中も起きていたんですって? ファルは、お客が帰ったら、寝直す、って言って部屋に戻っちゃったわ」

「ファルはずっと踊っていたから流石に疲れたんだろう」

「アトラは?」

「僕はきみと踊った後は、礼儀上必要な相手と少し踊っただけだよ」

 その言葉に、ユーリンダの顔はぱあっと明るくなる。

「そ……そうなの。折角の舞踏会なんだもの、もっと踊りたかったんじゃないの?」

 嬉しいのが見え見えなのに、ユーリンダはそんな事を言う。

「踊りたかった相手はきみだけだよ。約束しただろう?」

「えっ……」

 今までかけた事のなかったような言葉を投げかけてみると、ユーリンダの白い顔はみるみる上気していった。自分はずっと、『アトラと最初に踊るの!』と憚りなく言い続けてきたのに、と、アトラウスは少し可笑しくなった。

「そ、それは、アトラ……」

「だけどきみは、ティラール殿ともっと踊りたかったんじゃないの? 彼はとてもダンスが上手だった」

 悪戯っぽく言うと、ユーリンダは急に怒った様子で、

「あんな自信屋なひと、私は全然好意を持てないわ。でも、フィリアはあの人を好きみたいなんだけど」

 と言う。

「へえ?」

「そう、だから私、二人の仲を取り持ってあげようかしらと思ったの。明日の船遊びに誘ったのよ。それで、アトラに相談しようと思って。ファルったら、『余計なことだ』なんてしか言わないんだもの」

 確かに、ユーリンダがどういうつもりであろうとも、接する機会が出来ればそれだけティラールはユーリンダに心を傾けてゆくだろう。この純粋な少女が、親友の為に、という善意で一杯なのは解るが、ユーリンダと一緒にいれば、所詮フィリアは引き立て役にしかなれないだろう。気の合う者同士、単純思考なところがあるので、フィリア自身は気付かないかも知れないが……。

「取り持つ、なんて事が出来るのかい? まだ、恋がどんなものかも知らないきみが」

 からかい口調でわざとそう言ってみる。ユーリンダはぷっと頬を膨らませて、

「まあっ、子ども扱いしないで! 私には解るわ、フィリアの気持ちが」

「そう? フィリア姫は昔はファルが好きだったんだろう? それが今は、昨日会ったばかりのティラール殿が好きだという。いや、悪い事ではないよ。でも、きみとは少し違うんじゃないの?」

「え……」

 ユーリンダは戸惑いの表情を浮かべる。確かに、幼い頃からひたすらアトラウスを想い続けてきた自分とは違う、と気付いた。しかし、アトラウスはどういうつもりでそれを指摘したのか……測りかねているようだった。

「きみが昨夜倒れてしまって、とても心配したんだよ。船遊びは止めにして、ゆっくり休んだ方がいいんじゃないか?」

 ユーリンダの抱いた疑問を知りながら、アトラウスは敢えて焦らすように別な事を口にする。

「まあ。私、もうすっかり元気なのよ。どうして倒れちゃったのか自分でも分からないくらいよ」

「分からないから心配なんじゃないか。もし、船の上でまた倒れたりしても、すぐに医師を呼び寄せる事も出来ないだろう?」

「でも。でも私、美しい景観で有名なアデール湖で、船でアトラのリュートを聴くのをずっと楽しみにしていたのよ! それに、もう約束してしまったし」

 アトラウスがこんな事を言い出すとは予想していなかったユーリンダは、混乱した様子になる。アトラウスはそんな彼女に、少しだけ身体を近づけた。彼女が気付かないくらい、ほんの少しだけ。

「僕が一緒にいて、ここできみだけの為にリュートを弾いてあげる。二人はファルに任せておけばいいさ。それじゃ……嫌かい? やっぱり、湖で遊ぶほうが、いいの?」

「えっ」

 アトラウスはもう迷わなかった。何もしないでティラールに奪われてしまうなんて我慢ならない。曖昧にしておく時期は過ぎたのだ。

「きみがずっと僕を見てくれていたのと同じように、僕もずっときみを見ていたよ。もっと、きみがおとなになってから……そう思ううちに日々が過ぎてしまったけれど」

「アトラ……あの……」

 アトラウスは、常と違う様子の従兄に戸惑っているユーリンダの小さな白い手を、怖々、といった様子でとって、そっと手の甲に口づけた。触れるか触れないか、風のように素早く。そして、黒い瞳に熱っぽい影を浮かべて、黄金色の大きな瞳を覗き込んだ。その、憂いを帯びた正体の知れない影は、ずっとユーリンダが訳も分からずに惹かれ続けてきたものだ。アトラウスは囁いた。甘やかに、けれどはっきりと。

「きみが好きだよ、ユーリンダ。従妹としてではなく、唯一の女性として」

「!!!」

 美しく輝くひとみが大きく見開かれ、うれし涙が零れるのをアトラウスは見た。

「私……わたしもっ……!」

 だが、アトラウスは冷静だった。ユーリンダの言葉を右手を挙げて制した。

「それ以上言っちゃ駄目だよ。ごめんね、僕の気持ちを抑えられなくて、きみを混乱させるような事を言って」

「? 何故謝るの、アトラ?」

「だってきみは宰相閣下の子息に愛されている。僕なんかがかなう訳がないのに」

「何を言うの。あんな人、全然好きじゃないって言ってるでしょ!」

「きみの好き嫌いは、大貴族の結びつきの前には無力なものだ。だけど……もし僕に思い出をくれるならば、明日は船遊びに行かずに、この部屋で僕のリュートを聴いて欲しい」

 それだけ言うと、アトラウスは立ち上がった。

「? 待って、待って、アトラ!」

 ユーリンダの叫びにも彼は振り返らず、室を出て行った。

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