第一部・幼年篇
1・訪問
始まりはいつも、幸福な夢だった。なんの翳りもない世界。黄金の陽の光を一身に受け、ただ周囲の愛情だけを感じながら過ごしていた日々。闇なんて知らなかった。無邪気で明るかった、幼い日々。
「ファル! ユーリィ! おいで!」
煌めく陽の光を受けて、大好きなお父さまの黄金色の髪が眩しい。光の神さまルルアに愛されている印の黄金色の髪と瞳は、お父さまもお母さまもファルも私も、家族みんなが持っている。伝説のアルマとエルマ、神の申し子の血を継いだ証し。
光に満ちた花園を笑いながら駆けて行く。お父さまの胸に飛び込もうと。
「ユーリィ!」
背後で、違う呼び声がした。あれは……誰の声だったろう? そう思って振り向いた私の目に映ったのは、金色の鎧の騎士。その背後に燃え上がるのは紅蓮の炎。
「お父さま! お母さま! ファル!」
悲鳴を上げてもう一度振り返った私が見たのは、燃えあがる炎に包まれて苦しむ家族の姿。
「アトラ! 助けて!」
アトラ……どうして私はその名を呼んだのか。それは、幼い私の口を無意識について出た名前。泣き叫ぶ私に、
「ユーリィ! こっちだ!」
と差し伸べられる手。でも、その手を掴もうとした時に、炎は私をも捕まえた。
(ああっ……)
身体中を貫くような痛みから私は逃れる事ができない。黄金色の光が遠ざかってゆく。
「ユーリンダさま……どうして、私を……」
どこか遠くで女性の声がする。それは、よく聞き慣れた声である筈なのに、何故か誰なのか判らなくて……。
そして、私は、炎の獄の囚われ人となった。
「……リィ。ユーリィ。起きなよ」
ぼんやりと霞んだ頭に聞き慣れた声が届く。
「ん……? ファル?」
幼い少女は小さな手で眠い目をこすりながら身体を起こす。
「もうすぐ着くよ。そろそろ目をお覚まし」
頭上から穏やかな声がし、大きな手が黄金色の頭を撫でた。
「お父さま……」
馬車に揺られるうちに、父の膝枕でうたた寝をしていたのだ。
「少し汗をかいてるね。こわい夢でもみたのかい?」
「わかんない……忘れちゃった……」
そう言いながらも幼女は無意識に夢を振り払おうとするかのように、大好きな父親にぎゅっとしがみついた。
「甘えん坊だなぁ。もう四歳なのに」
からかうように言ったのは、幼女を揺り起こした男の子。黄金色に輝く髪を肩のところで切り揃え、細やかで美しい刺繍を施されたお揃いの紺色のチュニックを着た二人は、他人にはすぐに区別がつかないくらい似ていた。双子の兄妹のファルシスとユーリンダ。二人は父に連れられて、叔父の館へ向かう途中だった。
「甘えん坊でいいんだもん。ね、お父さま?」
愛娘の小首を傾げて見上げる仕草に、若い父親は思わず相好を崩す。弱冠17歳で病身の父から公爵位を継いで六年、既に大貴族としての風格をしっかりと身につけているかれが、幼い我が子たち、特に娘が甘えてくる可愛らしさには、蕩けるような甘い笑顔になる。
アルフォンス・ルーンはヴェルサリア王国で王族に次ぐ地位を持つ七公爵のひとり。そして聖都アルマヴィラを中心としたアルマヴィラ地方を治めるルーン一族の長である。若年の身ながらその双肩に負わされた重責に惑う事なく王家と民の為に尽くし、ルーン家の長い歴史の中でもひときわ優れた主として名を残すであろうと早々と囁かれる器量を備えている。すらりと締まった長身に黄金色に輝く髪を束ね、容姿端麗にして文に武に優れた、非の打ち所のない青年貴族である。
黄金色の髪と瞳。アルマヴィラの領主家ルーン一族と主神ルルア信仰の束ねであるヴィーン一族のみが持つ、ルルアの祝福の印。それを持つ者は、伝説に語り継がれる『太陽神ルルアの使わした者』聖女アルマとエルマの末裔なのだ。アルフォンスの一家は皆それを持っている。妻のカレリンダはヴィーン家の血を濃くひいている。
そしてアルフォンスのただ一人の兄弟、弟カルシスもまた同じ黄金色の印を持ち、その妻でルーン分家筆頭の出であるシルヴィアもそうである。アルフォンスは今、長らく病で床についているシルヴィアとその幼い息子を見舞う為に弟の館に向かっていた。
「さあ、叔父さまの館が見えてきたよ」
シルヴィアを襲った不幸に関する追憶を振り払うように、アルフォンスは努めて明るく子どもたちに言った。子どもたちを弟の館に伴うのはこれが初めてである。双子も四歳になり、一歳年長の甥、五歳になっても言葉を発する事もないというカルシス夫妻の息子アトラウスの遊び相手になれるかも知れないと考えてのことだった。子どもたちは、初めて会ういとこと楽しく遊べるかも知れない、という期待に胸をはずませている。両親の深い愛と周囲の温かさに包まれ、何の憂いも知らずに伸びやかに明るく育ってきたふたりである。
「アトラウス、どんな子かなぁ。仲良くなれるよね? お父さま」
と、ファルシスが笑顔で言った。ルーン分家にもヴィーン家にも、歳の近い子どもはいない。自分たちと同じ黄金色の髪と瞳を持つ幼い子どもにまだ会った事がないのだ。どんな子であるのか、想像は膨らむばかりだ。
「勿論、なれるさ。ただ、館を出る前にも言ったけれど、アトラウスは病気で、お話ししたり歩いたりする事ができないらしいから、お外で一緒に駆け回ったりはできないだろう。でも、絵本を見せてあげたり、歌を歌ってあげたりしたら、きっと喜ぶ……叔父さまがいいと言ってくれればだけれどね」
最後に付け加えた言葉にはアルフォンスの迷いが含まれている。何しろ生まれて五年間、一度も会わせてもらえない甥なのである。病身で室に閉じこもっているという幼い甥をひたすら不憫に感じ、歳の近い子どもたちならばきっと甥にとって良い刺激になるだろうと思い、そう言って弟を説き伏せるつもりではあるが、これまでの弟の頑なさは尋常ではなかった。元々、子どもの頃から、良かったとは全く言えない兄弟仲である。
「私、アトラウスにたくさんお歌を歌ってあげる!」
ユーリンダは父の胸中も知らず、無邪気な笑顔で言った。
「会わせられないと言っただろう! 誰にも会わせてはいかんと医者から言われているんだ。何回来ても無駄だ!」
玄関ホールで通せんぼをするかのように立ちはだかったカルシスは苛立ち、声を荒げた。幼いファルシスとユーリンダは、叔父がなぜ機嫌が悪いのかわからなくて、不思議そうに叔父の顔を見上げた。
叔父のカルシス。ルーン一族のしるし、黄金の髪と瞳を持った、父アルフォンスとよく似た人物。父よりやや背が低く、目は父と違い一重で、唇はやや厚ぼったく、頬は父よりも丸みを帯びていたが、全体として、一目で兄弟と判るくらい、二人の容姿は似ている。顔の造作だけをとれば、アルフォンスが美男子といわれるなら、弟にもその権利があってよいようだった。だが、カルシスには、何かが欠けていた。アルフォンスに出会った人が皆まず一番に感じる、気品と知性。神は不公平にも、兄のほうにしかそれを与えなかったのだ。或いは、それは後天的な努力によって得ることも出来たのかも知れなかったが、それを得ようとする意志も、カルシスは持たなかった。ただただ、なぜいつも兄の方にばかり人が集まり、賞賛するのか、妬み嫉みに満ちた目でじっとりと見つめ、兄が嫡子であり自分が次男に生まれたせいとだけ思いつめ、自らの普段の振る舞いを顧みたり反省したりする事は一切せずに、兄を羨み憎みながら生きてきた。
アルフォンスの方は、この出来の悪い弟を、それでも兄として愛情を持って接し、何か持っている筈であるよい性質を引き出してやろうと常に気にかけていた。一族の定めた許嫁がいながらも後から出会ってしまった娘と生涯唯一度の激しい恋に落ち、悩み抜いたのちに許嫁と別れた後、許嫁を弟に託したのも、彼女と弟、ともにかれにとって大切な存在であったからだ。彼女、ルーン一族の娘、おとなしく善良なシルヴィアは、互いに年端もいかぬ頃に周囲がアルフォンスに定めた許嫁であり、そして年頃になる頃には、凛々しくも優しいかれに一途に恋していた乙女であった。だがその恋が破れ、傷心がすこし癒えた頃、親から、かれによく似た弟に嫁ぐように言われると、彼女は頬を染めて了承した。どちらにせよ、彼女には親に背くような振る舞いは考えられなかったのだが、それよりも、世間知らずの少女は、うわべだけよく似た笑顔が中身も伴うものと思い込んでしまっていたのだ。
結婚生活は、暫くは順調だった。狭量なカルシスが、何を言っても従順で優しい妻に対して徐々に心を開いていった。それとともに心栄えもよくなり、これならば色々と弟に任せても大丈夫だし、彼女も幸福になって良かったと、アルフォンスは随分喜んだものだった。
だが、待ち望まれていた筈の彼女の出産を機に、すべてが変わってしまった。ひどい難産でシルヴィアは起き上がる事も出来ない身体になり、生まれた男児アトラウスはとても虚弱な赤児だったという。シルヴィアは一切姿を現さず、カルシスは以前よりずっと怒りっぽく陰鬱な性格になった。
「いくら身体が弱いとは言っても、部屋に閉じこもったままではよくないだろう。アトラウスを子供たちと仲良くさせてやってはどうかね。言葉が喋れなくても、楽しいと感じる事はできるだろう?」
「お節介はやめてくれ。シルヴィアもアトラウスも、どうにもならん。静かに部屋にいるのが一番いいんだ。あんたの子どもたちが、あんたに似て素晴らしい出来栄えなのはわかってるよ、兄さん。俺のがきはどうにもならないんだ。どうかこれ以上、俺を惨めな気分にさせるのはやめてくれ」
「しかし、少なくともシルヴィアはまだ若いのだし、もう少し回復する手だてがあるのではないかね。色んな医師の意見を聞いた方がいい。アトラウスも、色々刺激を与えた方が……」
「玩具はたくさん与えているし、不自由はさせていない。あんな惨めながきを人前に出せと、どうしてそんな非情なことが言えるのか? さすが徳の高い公爵さまの仰る事は違うね」
「そういうつもりでは……」
父と叔父の口論は、今までにも見聞きした事はあったが、幼い子どもにはただいたたまれないだけだった。ユーリンダは泣きべそをかきながら兄の袖を引いた。ファルシスは妹の頭を撫でながら言った。
「お父さま、ぼくたち、あそこのお庭で遊んできてもいいですか?」
庭園を指差して言うと、アルフォンスは頷き、カルシスは不機嫌そうに、花を傷つけるな、と言った。ファルシスは、気をつけますと答えて、妹の手を引いて大人たちから離れた。
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