【閲覧注意】! スペクター・キャプター

高尾つばき

第1話 鉈女とセレブ女子高生

 じっとりと湿った空気は、どぶ川の澱みのように停滞している。

 杉や松などの樹木が密集する丘陵は、黒い画用紙を鋏でザクザクと鋭角に切って貼りつけたような影となり、三日月の従者となっていた。


 にわかに灰色の厚い雲が動きだし、何層にも重なっていく。淡い月明かりは闇に溶け入り、おぼろになっていく。

 

 町から離れた場所ではない。喧噪のかけらもとどかないのは、途中で故意に遮断されているのか。それともこの地帯だけが、忘れ去られているのか。

 

 森林に囲まれた、雑草が生い茂る地帯。獣道さえないところに、ボウッと黄ばんだ小さな光が浮かび上がった。

ひとつ、さらにもうひとつ。二つの光が草原をゆっくりと泳ぎ始める。懐中電灯の明かりだ。

 大人の膝から腰くらいまで伸びた、えのころ草やせいたかあわだち草が群生する中を、人影が二つ見え隠れしている。

 

 足音を殺すように歩いているのだが、雑草をかき分け踏みしめる音が静寂にひっかき傷をつけていく。

懐中電灯の光は草むらを照らしながら、時おりぶれて進行方向を浮かび上がらせる。


 たまたま二つの光が重なったとき、前方に浮かび上がったのは一軒の屋敷であった。

 ゆっくりと進む足音。むしろ恐々歩いているといったほうが正解かもしれない。


 ひとりの足が止まると、もう片方が何ごとかをささやき、また移動し始める。屋敷に近づくにつれ、歩く速度はさらににぶっていった。


「おい、そろそろ懐中電灯は消したほうが、よくないか」


 若い男のくぐもった声。


「そ、そうかな。でも、やっぱり明かりがないと、転んだときに危ないよ」


 うわずった声を返す相手。

 二人とも若そうである。十代半ばといったところであろうか。


「ここまで来たら大丈夫さ」


 言いながら、ひとりは手にした懐中電灯をオフにする。


「せっかく来たのに、目的が果てせなかったら意味ないし」


 わかった、と、もうひとつの光も消えた。


「なにか、寒気がしないか? さっきから背中がゾクゾクしちゃって」


「夏休み前に風邪かよ。それとも、まさか怖くなってきた、なんて言うなよ」


「へへっ、おまえこそ大丈夫か。途中で帰るんじゃないだろうな」


中京都ちゅうきょうと高校怪異研究会部員、桐山きりやまの名にかけて、今宵こそ決定的な証拠をつかんでやるぜ!」


「ば、バカ! 声がでかいよ、桐山。大声出したら、現れないかもしれないじゃん」


「あうっ、すまない、城田しろた。来期の部費アップのために、先輩方もいろいろ苦労して取材してっからさあ。僕も、つい力んでしまった」


 二人の男子高校生はお互いに、人さし指を口元に立てた。


 桐山と名乗った高校生は、刈り上げの七三分けでメタルフレームの眼鏡をかけている。

 片方の城田は髪を無造作に伸ばし、かけていた同じような眼鏡をはずすとハンカチで丁寧にレンズを拭いた。


 夏特有の雑草群は、森林を切り開いて作られたこの五百坪あまりの土地全体に広がっている。元々地主が屋敷を建てる際に、大きな庭園用にと造成していたようだ。

 ところが今ではすっかり荒れはて、自然のなすがままに、つまり放置されている状態になっていた。


 城田は胸ポケットからスマートフォンを取りだし、画面を確認する。


「いま、ちょうど午前一時四十分だ」


「あと二十分ってとこか」


 あいかわらず小さな声で二人はやり合う。

 ゴクリ、とのどを鳴らし、桐山が前方の屋敷を指さした。


「さあ、行くぜ。この町に伝わる都市伝説、『山賊峠さんぞくとうげ鉈女なたおんな』の存在を我々がスクープしてやる」


「ビデオカメラは、準備オッケイだ。

 えーっと、今日は七月二十二日の土曜日、ただ今午前一時四十二分と。

 どうせなら、今日から夏休みにしてくれたらよかったのになあ。月曜の一日だけ終業式で、学校に行かなきゃなんないし」


 城田は片手にハンデイビデオカメラを持ち、グリップベルトに手のひらを固定して液晶モニターを折り返した。日付とバッテリーの確認をする。

 互いに顔を見合わせると、同時に前方を凝視した。


 桐山と城田は高校指定の夏服である、開襟の白いシャツに紺の学生ズボンを着用していた。

これは万が一警察官に呼び止められた場合、「学校の研究課題のため、僕らは両親の許可を取ってきています」と言い訳するためである。

 中京都高校といえばこの町、N市の中でも進学校であり、学校の課題ということであればとがめられないとふんでいるのだ。

 実際には高校生がこんな深夜に徘徊していれば、理由はどうあれ近くの交番まで連れて行かれるのは間違いないが。


 山賊峠とはN市の東南、中京都高校の学び舎がある天白区てんぱくく緑区みどりくの境の小高い丘陵地帯を指す。

舗装された道路の両側には自然のままの状態で森林が広がっており、一部にトレッキングのコースも作られているのだ。


 彼らが草原に身を隠すようにしながら向かっている屋敷は、山賊峠の頂上付近から森をさらに奥へ入った場所に建てられていた。

道路からは樹木にさえぎられ、知らない人は屋敷に気づかず通り過ぎるであろう。


 二階建ての建物は黒い陰影となって闇に溶け込んでいる。電線は引かれているが、どこからも明かりはこぼれていない。

百坪ほどの広さを持つ屋敷は日本家屋の様式ではなく、出窓があり、さしかけ屋根でロフト部分が一段高くなっている洋風であった。

モルタル塗の壁には、蔦が毛細血管のように張っている。よく観察してみると、壁は剥げ落ち、出窓はガラスが割れている。その内側から板が打ちこんであるようだ。廃墟であった。


 桐山と城田はヒビの入った木製の玄関前に立っていた。


 雲が動き、三日月があわい光を投げかける。


 桐山は黒いナップサックを背負い、片手にスイッチを切った懐中電灯を持っている。

 一歩後ろでそわそわと辺りをうかがう城田は、スポーツバッグをたすきがけにし、カメラをにぎる手には、かなり力が入っていた。そうしないと、指先が震えてしまうのだ。

 懐中電灯はバッグにしまった。


 桐山は、そっと手をのばして玄関の錆びついたノブをつかみ、音を立てないようにゆっくり手前に引いた。ギッ、ギギーッ、ときしむ音に城田は思わず首をすくめる。


 玄関を半分ほど開いたところで、桐山はノブから指を離した。心臓が大きく脈打ち、指先まで鼓動に合わせて動く。板張りの玄関内へ、爪先からそっと入る。

 建材は風雨に耐えていたようで、腐食している部分はないようだ。


 桐山は振り返り、城田にうなずく。大丈夫だ、という合図である。

 二人は空き巣狙いのようにもう一度周囲を見渡すと、屋敷の中へ忍び込んでいった。


~~♡♡~~

 

 N市天白区平針ひらばりと隣接する緑区植田うえだの町を結ぶ丘陵地帯、山賊峠にあるこの廃墟には、いつの頃からか怖い都市伝説がささやかれている。

 その語られている話とは、こんな具合である。


 地主が何十年も前に森の一部を拓き、自分の娘のために西洋風のモダンな屋敷を建てた。

 なぜそんな場所に建てたのか?

 それは娘が病んでおり、治療に専念させるためであったという。病気とは身体のではなく、心の病いであったらしい。


 屋敷には地主の家族は一切顔を出すこともなく、高額で雇われた住み込みの中年女性が二人で娘の世話をしていた。人目をはばかる暮らしが三年間続いた。


 そして娘が十八歳の誕生日を迎えた日の深夜二時、惨劇が起こった。


 娘は二階の自室で寝ていたのだが、突如奇声を発して部屋を飛び出した。長い髪を振り乱し、純白のネグリジェ姿で階段を駆けおりる。

 一階の使用人部屋で休んでいた女性二人は、驚いて部屋を出た。


 年に何回か起こる発作だと思い、看護師の資格を持つひとりが鎮静剤の注射器を片手に、もうひとりの大柄のほうが娘を抱き止めようとするが、娘の暴れかたは尋常ではなく弾き飛ばされてしまう。

 いつもであれば非力な娘をたやすく確保できるのに、この日は違ったのだ。


 娘は金切り声を上げ庭に飛び出すと、伐採用に置いてあったなたをつかみ再び屋敷内にもどってきた。

 血走った眼を見開き、口から泡をふく娘の形相に、二人は背筋を凍らせた。


 普段は外出することもなく一日のほとんどを自室で過ごす娘は、白くほっそりとした印象でありながら、面立ちは美しく儚げであった。

 それが、両眼はつり上がり、歯をむき出して獣のような声で威嚇してくるのだ。

 しかも手には、鈍色に光る刃渡り三十センチ以上の鉈をつかんでいる。


 やにわに娘は二人に襲いかかった。ブンッ! と鉈が空気を裂く。


 まさかこんなことが起きるとは思っていない使用人二人は、パニックに陥った。

 凶器の餌食になるまいと逃げるのだが、恐怖のあまり身がすくんで思うように動けない。

 腰が抜け、フローリングの床に尻から崩れる。


 ガツンッ、という音とともに頭に衝撃があり、大柄の女性は何事かと両眼を上向けた。

 とたんにぐるりと黒眼がひっくり返り、白眼になった直後眉間にまで打ちこまれた鉈の刃先から、大量の血が音を立てて勢いよく噴き出す。


 横でその光景を目の当たりにした看護師の口から、絶叫がほとばしる。


 娘は鉈を抜こうとするが、骨と肉に絡んで思うようにいかない。すると娘は女性の肩に足をかけ、強引に引っこ抜いた。粘着質の血液を巻き上げながら、鉈の刃が宙に舞う。


 ギロリ、と看護師を振り向いた。血走った両眼が大きく見開かれているが、左右の眼球はグルグルと別々の方向に動いているのだ。


 女性は泣き叫び、逃げるように這いずるが、身体が強張ってしまって思うように動いてくれない。鉈が再び宙を走った。

 硬質の物体を叩き斬る音。鉈の刃は這っていた女の左足を、膝のあたりから切断していた。のどからしぼり出される女性の悲鳴が、屋敷の外へも響く。

 ガッ! ガツッ! ガツンッ! 続けざまに骨ごと肉を切断する鉈の音、女性の絶叫、娘の哄笑が一階のリビングに戦慄の不協和音を奏でる。


 二人の使用人が息絶え動かなくなるのを見おろすと、娘はグルグル動き回る真っ赤な眼球で鉈を観察する。一段と高い、怪鳥のような叫び声をほとばしらせた。

 娘は鮮血をしたたらせた鉈を、なんと自らの首に打ちこみ始めたのだ。噴水のように吹き上がる血しぶき。何度も何度も鉈を振り、おのれの首に打ちつける。


 一振りごとに、刃先が肉に深く食い込んでいく。

 ゴギュッ、という頸椎けいついが断ち切られる音。娘の高笑いが、うがいをするように湿った声に変わった。


 とうに意識は無いにもかかわらず、立ったまま鉈を持つ腕だけが機械仕掛けで動く。最後の皮一枚のところで、ぐらりと頭部が傾いた、

 血まみれの顔面。見開いた眼が宙をあおぎ、笑ったような口元やのどから流れ出た真紅の液体が床を染めていく。

 娘は頭部を肩に乗せたまま、背中からドウッと倒れ込んだのであった。


 西洋館の惨劇は、こうして娘の自害で幕を閉じた。


 その一件が引き金となり、地主は殺害された使用人たちに対する賠償問題がこじれ、莫大な借金を抱えたまま、いつのまにか一家全員が行方をくらませてしまっていた。


 ところがこの都市伝説には、続きがあったのだ。


 事件から数年経ったある日、流れの中年ホームレスが、殺人現場であることを知らずに屋敷で寝泊まりしていた。

 電気は通っていないものの、家財道具は揃っているため、雨風にさらされることなく生活することができたからだ。

 娘が起こした事件のあと、地主は業者を手配して綺麗にリフォームしていた。買い手が見つかるかもしれないという、吝嗇家りんしょくかの浅知恵であったかもしれない。


 ある晩のこと。その日は奇しくも娘が殺戮さつりくをおこなった、誕生日の日であった。

 ホームレスは夏場であったため、二階の寝室で窓を開けたまま寝息をたてていた。浮かぶ三日月が今夜にかぎっては、まるで死神の鎌のように鋭利な光を放っている。


 深夜二時過ぎ。


 バタンッ! バタンッ! 出窓の窓ガラスが勢いよく開閉し、その音で目覚める。


 何事かとベッドをおりて窓ガラスを閉めようとしたとき、階下からバタバタッと人が駆け回る音とともに、笑うような甲高い声が聞こえてきた。

 男は驚いて、寝室のドアを開いた。瞬間、男は思わず悲鳴を呑み込んだ。


 目の前に、小首をかしげた若い女が真っ赤なネグリジェ姿で立っていたのだ。長い髪をゆらしながら、女はニタリと笑う。

 ゴボリ、と口元から塊となった血がこぼれた。かたむけていた首がさらに角度を広げ、頬が肩にくっついた。


 男は「ヒイッ!」と喉を鳴らす。

 なんと、首が根元から切断されているではないか。

 男の口から、せきを切ったように叫び声が上がった。

 切断された首が、皮一枚で肩に乗っているのが月明かりに見える。ネグリジェは赤い繊維で編んだものではなかった。真っ赤な血をかぶったように染められていたのだ。


 横向きになった女の顔がケタケタと笑いながら、おもむろに腕を振り上げた。その手には、真っ赤な血を滴らせた鉈が光っている。


 ブォンッ、とうなりながら男の脳天に鉈が振りおろされた。


 男は悲鳴を上げたまま、後方ではなく、振りおろされた鉈をかいくぐるように前方に転がった。これが生死の境を決めた。

 後方に下がっていたら、閉めた窓ガラスを突き破って、二階から外へ飛び出す以外に脱出方法はなかったからだ。廊下に転がりでると、男は寝室を振り仰いだ。


 月光が差しこみ、女の背中が陰となっている。


 ぐらり、と肩に乗った顔が反転し、男の目と合う。見開かれた両眼がグルグルとあらぬ方向に回りだした。女は口からゴボゴボと真っ赤な血をこぼしながら、笑う。


 男は遠のきそうになる意識を、自ら絶叫を上げることでとどめ、転がるように廊下を走り出した。すぐ後を、頭部を肩に乗せたまま、女が鉈を振りかざして駆けてくるのだ。


 階段を転がり落ちながら、したたか腰を打つも男は屋敷から急いで抜け出す。

 あとは振り返ることなく、一目散に山賊峠を走り、平針の街灯りが見えるところまで命からがら逃げだしたのであった。


~~♡♡~~


「という話がまことしやかに語り継がれているけど、実際はどうなんだろな」


 桐山は一階のリビングで、ほこりの積もったテーブルを指先でさわりながらつぶやく。


 さすが怪異研究会に籍を置くだけあり、やけに落ち着いた、冷静な学者のようなふるまいで『山賊峠の鉈女』にまつわる都市伝説を語った。

 子供たちが勝手にこの屋敷に近寄らないように大人たちが作ったお話なのか、それとも実話に基づいているのか。城田は落ち着かない様子で、一階を見渡していた。


 二十畳以上はあると思われる広いリビングルーム。窓には板が打ち込まれているため、外の明かりはほとんど入ってこない。

玄関を開けた隙間から、ちろりと月明かりが差しこむ程度である。それでも暗闇に慣れた城田の眼には、室内の様子がおぼろげながらわかる。


 大きなダイニングテーブルに腰かけが六つ。壁際には食器棚や本箱が並んでいる。しかし、食器や本の類は収納されてはいない。

 誰かが持っていったのか、廃棄されたのかは定かではない。


 カビやほこりの臭いであろうか、停滞した空気でむせそうだ。閉めっぱなしであったので蒸し暑いはずなのだが、背中だけがやけに冷たく感じる。


 やはり、なにかある。城田はゴクリとのどを鳴らした。


 あとから考えれば、この時点で帰ればよかったのだ。大きく後悔することになるのであるが、中学時代から仲の良かった桐山の頼みとあればそうはいかない。

 同じ高校に進み、映像研究会所属である城田のカメラマンとしての腕を買ってくれているのだ。


 桐山は城田を見た。


「そろそろだな。鉈女が現れるのは二階の寝室らしいから、行くぜ」


「あ、ああ」


 二人は物音を立てないように、忍び足でリビングルーム横の階段を上り始める。


 まさかその様子を二階の暗闇からじっとのぞく双眸そうぼうがあるなんて、考えもしなかった。


 じっと見つめる眼。


 三日月に、再び灰色の雲がかかる。


 桐山と城田の叫び声が廃墟から森林に響きわたるのは、それから数秒後であった。


~~♡♡~~


 会場は、独特の高揚感に包まれたざわめきに満ちていた。

 といってもパイプ椅子を百も並べれば満員になる、小さなライブ会場である。


 N市天白区はらにあるマミヤミュージック。その楽器店の地下にはライブができるホールが設けられているのだ。同じフロアには貸スタジオも併設されている。

 ライブには中学生から社会人にいたるまで幅広い年齢層の参加バンドがあり、多彩な音楽をプレイする。ポップスからジャズ、ヘヴィメタルまで何でもありなのだ。


 午後四時開演で始まったライブは、ステージ上で三番目に演奏したバンドが撤収作業を行っていた。

 ホールスタッフがあわただしげにマイクスタンドやラインケーブルを、次のバンド用に合わせて作業しているところである。


 マイクを持った髭面の若い男性が出てきた。黒いTシャツにはマミヤミュージックのロゴがプリントされている。

 店長のピートさんだ。もちろん日本人であり、通称である。ロンゲを無造作に後ろでまとめており、トレードマークのあご髭をさわりながら会場を見渡す。


「はい、ただいまの演奏は『ビードロズ』でした。懐かしいビートルズのトリビュート、コーラスがばっちり決まってましたね。もう一度盛大な拍手を!」


 ピートさんは片手を上げてステージを振り返る。アンプからシールドをはずしたり、スネアを取り換える作業中のメンバーが頭を下げた。

 八割ほど埋まった客席から、拍手や口笛が鳴る。


「はいはいどうも、お疲れさんでした。

 本日七月二十二日、月に一度のマミヤ祭ですが、みなさん楽しんでますかあ。

 えーっと、ここで告知です。来月、と言っても二週間後ですけどね、区民ミュージックフェスティバルが原の天白区民ホールで開催されます。

 厳しい審査で選出されたバンドが十組、どんな音を聴かせてくれるのか今から楽しみです。

 協賛は、もちろんマミヤミュージックでぇす」


 ここで拍手が起こり、ピートさんはうやうやしく頭を下げる。


「そんなことでマミヤ祭、八月はお休みとなります。九月からまた開催いたしますので、多くのミュージャンの参加をお待ちしておりまーす」


 ちらりとステージを振り返る。次のバンドがそろそろスタンバイかなと。

 ところがスタッフの作業はほぼ終わっているのに、肝心のバンドメンバーが現れていないのだ。ステージの裏から、スタッフのひとりが走り寄って来た。

 ピートさんに耳打ちする。とたんに眉をしかめ、小声でスタッフに指示を出した。


「みなさーん、もう少しお待ちくださいね」


 言いながら、音響担当のミキサーを指でさす。

 会場内に、軽快なノリのロックがBGMとして流れ出した。


~~♡♡~~


 週が明け終業式の朝、「今日でしばらく登校できないのは、寂しい。なぜこんなに長期間、お休みをしなければならないのか」と、嘆く生徒に出会ったためしはない。

全国の高校にまで探索範囲を広げれば、いるかもしれないが。


 N市天白区原に学び舎をかまえる市立中京都高校にいたっては、そんな希少価値のある学校大好きな生徒はもちろん見当たらない。

といっても、生徒が全員だらけているわけではない。N市内の高校の中では、上位の偏差値である中京都高校。毎年数十名の生徒が難関大学へ進学しているのだ。

トップクラスの生徒でなくても、ほぼ百パーセントに近い生徒が大学へ進学している。

がんじがらめの学習課程で縛るわけではなく、生徒の自主性を重んじる校風があり、生徒たちは、のびのびと高校生活を謳歌している。


ようは、生徒のやる気を引き出す先生たちの、怒力の賜物でもあるということだ。


「あーあ、月曜は眠いなあ」


 広いグランド横に設置してある駐輪場にママチャリを置くと、群青牧人ぐんじょう まきとは大きなあくびをしながら、バッグを肩からかついで歩き出した。


 長身ではあるが、ヒョロリとした頼りなさげな印象で、ボサボサの髪は寝起きのままのようだ。白い開襟シャツに紺色のズボン、夏の制服である。

 バッグからのぞく二本の細い木の棒が、歩くたびカチャカチャと音を立てる。


 自転車やソフトバイクで通学してくる生徒たちとすれ違う。知った顔に出会えば、「おいーすっ」と声をかけ合った。


 始業時間までは、まだ三十分ある。牧人は何ごとも時間ぎりぎりというのは好まず、余裕を持って行動するのをよしとしている。そんなところだけは、やけに神経質なのだ。


 二年二組の教室は三階にある。牧人は下駄箱で上履きに替えると、靴底を引きずるような歩き方で階段を上った。

 運動系クラブの連中は早朝練習のためか、それぞれのユニフォームで校舎内を足早に移動している。

牧人はどのクラブにも属しておらず、そんな連中を肩越しでながめながら教室へ向かう。


 二組は男子十五名、女子二十名という編成である。二年生からは進学希望先によって、クラスが決められるのだ。私立文系大学を目指す生徒のクラスが、この二組であった。

女子の割合が多いのも、そうした理由による。


 牧人は「おいーすっ」と誰にともなく挨拶しながら教室に入り、自席である窓側の後ろから二番目の席にバッグを置く。


「おはよう」


 先に来ていたクラスメイトたちも、口々に声をかけてくれる。時間がまだ早いせいで、教室内は半分程度の生徒しかいない。

 牧人は教卓前で五、六人がかたまって、なにやら話しているのを視線の隅にとらえた。


「まさか、本当に見たのかな?」


「ええ、そうらしいわよ。だって私のお母さんが、城田くんのお母さんから直接聞いたんだから。それで原因不明の高熱が出て、今も寝込んでるらしいわよ」


「なにそれ、コワい!」


「じゃあ、三組の桐山くんも今日はお休みなのかしら」


「鉈女の都市伝説って、本当だったのね」


 女子三人ほどが声をそろえて悲鳴を上げた。


 牧人はその会話には関心を示さず、自席で大きくため息をついた。机上のバッグからのぞく二本の棒を取り出す。それは長さ四十センチほどの、ドラム用スティックであった。

 両手でグリップを握り、チップと呼ばれる先端をじっと見つめる。

 もう一度大きくため息をつき、視線を窓側に向けた。一昨日のライブ会場での失態を思い返していたのであった。マミヤミュージックでのことだ。


 牧人は『クロスワード』という三人編成のロックバンドを、中学時代の同級生たちと組んでおり、リーダー兼ドラムスを担当している。

オリジナルのロックを演奏し、国語が得意な牧人が作詞を手掛けている。


 そもそも牧人は中学生になるまで、音楽には一切興味を持たなかったのだが、四つ年上の姉である美樹みきの影響で洋楽を聴くようになった。

 牧人はコンポのスピーカーから聴こえるサウンドに、耳を傾けた。特にロックミュージックに大きなショックを受けたのだ。「カッコイイ!」とエイトビートに身体が自然と乗っていく。


「こんなに楽しいのか、音楽って。ロックって最高じゃーん」


 これだ! 牧人はコブシをにぎりしめ、突き上げた。


 それから親を説得し(美樹の後押しがかなり効いたが)、マミヤミュージックのドラム教室の門を叩いたのだ。

平針の新興住宅街に、小さいながらも両親は製パン店を経営し、隣接する一戸建てに家族四人で住む群青家。

 牧人は六畳の自室を与えられているが、ドラムセットのような大掛かりな器材は当然置けない。


 美樹がバンドを組んでいる友人から、電子ドラムセットの中古を格安で仕入れてきてくれた時に牧人は涙ながらに姉に抱きつき、思いっきりグウでぶん殴られたのは良き思い出であった。

その姉は、旧帝国大学であるN大学法学部の二回生である。


「おはよー、マッキー」


 いきなり耳元に息を吹きかけられ、牧人は思わず「ウヒャッ!」と叫んだ。あわてて振り返ると、シャギーカットの女生徒がニンマリと微笑みながら腰をかがめている。


 登校したばかりなのだろう。手には通学用のバッグを持っている。

 子猫のような丸く、目尻の上がった目元に特徴のある女生徒だ。夏用の白いセーラー服に青いリボンの制服がよく似合っていた。


「なんだよ、すみれ、びっくりするだろ」


「どしたん? 朝から陰鬱いんうつなオーラをかもしだして。

 あっ、まさか、一昨日おとといのライブの失敗を気にしていたとか」


 ドキッ、と牧人は息をのむ。


「いつものことじゃーん、マッキーのド緊張癖は」


 鈴堂りんどうすみれは張りのあるソプラノボイスで言いながら、牧人の肩をベシッと叩く。そのまま牧人の横の席に座り込んだ。


「あれだけスタジオ練習の時には正確無比のビートを刻めるのに、なぜ、なぜアンタはいっつも本番になると、あーも緊張しちゃうわけ?

 お手洗いを占拠しちゃってさあ。おかげで出番には大きく遅れるし。ピートさんが上手く場をつないでくれていたから良かったけど」


 すみれはため息をつく。


「それよりも問題は、ライブステージよ。つーか、はっきり言って、ありゃリズムでもなんでもないぞ。

グダグダ! 玩具であるじゃん、あのシンバルを叩くおサルを置いて鳴らしてたほうが、よほど客受けするんじゃなあい?」


 すみれの強烈な皮肉に、牧人は小さくなる。


「本当に、すみません!」


 牧人は深々と頭をたれる。すみれは真顔のまま、牧人の頭に目をやる。


「なんでなのかなあ。まあ、アンタは尊敬する美樹姐さんの弟さんですし、なんといってもアタシたちのリーダーだからね。

 それにマッキー、アンタの書く詩の世界観はアタシ好みなんだよねえ。こうさ、頭の中にイメージがどんどん膨らんで、それを五線譜につらつら書くと素敵なメロディになっちゃうんだ、自画自賛だけど。

しかも、だよ。マッキーの叩くビートにアタシのベースが絶妙にリンクして、リズム隊としては天下一品だって胸を張れるんだよ。スタジオ練習の時だけはね」


 すみれはセーラー服の胸元を突き出す。


 幼稚園時代からお互いの家を行き来する間柄ではあるが、高校に入ってからのすみれは一段と女性らしい体型になりつつある。牧人はなぜか、ポッと頬を赤らめて横を向いた。


「今回の失敗は次回、捲土重来けんどちょうらいってアタシは思うけど。問題はギターのやっちゃんよ」


 ギター担当の同級生であるやっちゃんはライブの出番が終わるや否や、かなりキレてソッコーで帰っちゃった、のであった。


「それで、連絡あった?」


「いや、ない。昨日、夜にもメールしたけど、返信がないんだ」


 牧人がポケットからスマホを取り出した、その時。ヴィーン、ヴィーンとバイブがメール受信をお知らせしてくれた。牧人とすみれは思わず顔を見合わせる。


「ううっ、やっちゃんだ」


 牧人は画面をスワイプした。その顔が青くなっていく。すみれは片眉を上げて、牧人に問う。


「なになに? どしたん、マッキー」


 牧人は黙ったまま、スマホの画面をすみれに向けた。

 すみれは声を出さずに、ピンク色の唇を動かす。


(もう無理! ライブもまともにできないバンドとはおさらば。『千手観音せんじゅかんのん』に、ギターで参加することにした。あしからず)


「って、どういうことよ! マッキー」


 すみれは息巻いて立ち上がる。


「い、いや、この文面の通りなんだろ。やっちゃんはテクニックあるから、どのバンドも欲しがるよね」


「そういうことじゃなくて! どうして脱退を止めようとか、やっちゃんにもう一回チャンスをくれとかって言わないの」


 牧人と苦笑いを浮かべながら、頭をかく。すみれはそんな牧人にいらだちを覚えた。


「やっちゃんは高校が違うから、アタシたちみたいに毎日会うことはできないんだよ。

 せっかく中学時代から三人でやってきたのに。ギターがいなくなったら、クロスワードはどうするのさ」


 牧人は無言のまま、瞳を落ち着かない様子で動かしている。

こんな表情を浮かべるときは、考えているふりをしながら実は何も考えてはおらず、じっと黙って時間が過ぎることだけを待っているのだ、ということをすみれはよく知っていた。


(だてに十年以上の間柄じゃあない、つーの)


 バンッ、と机を叩きながらすみれは眉間にしわを寄せる。


「いいこと! やっちゃんを引き留めるか、それとも代替案をきっちり提出するのか、早急に決めてちょーだい! リーダーなら当然でしょ?

 来月は区民ミュージックフェスティバルがあんのよ。デモテープ送って、審査が通っちゃってるんだからね。選ばれた十組に入っているんだよ、アタシたちは。

今さらメンバーが抜けて出演できません、なーんて恥ずかしいことを言わせないでよね、リーダー!」


 すみれはたたみかけるように、特にリーダーの部分を強調した。

 黒板の上にある時計に顔を向ける。


「もうこんな時間だから、アタシは教室にもどるけど。ちゃんと考えてよ、マッキー」


 膝上丈の紺色スカートをひるがえし、すみれは五組の教室へもどっていった。

 五組は国立理系を目指すクラスであり、女子生徒はすみれをふくめて三人しかいない。


「困っちゃたなあ。どうしよう」


 牧人は大きくため息をつき、椅子にズルズルともたれこむのであった。


~~♡♡~~


 牧人は終礼後、明日からはいよいよ夏休みという浮かれた気分にもなれず、机の上に肘をつけたまま、開け放たれた窓からボーッと校庭に目をやっていた。


 すみれから言われた代替案とは、やっちゃんに替わるギタリストを探さなければならないということである。牧人にそんな当ては「あるわけないし」なのだ。

すみれに頭を下げて、いつものようにいっしょに考えてもらおうかなとも思う。

だけど、さすがに今回は「なに、またあ? すぐにアタシに頼るんだからあ。仕方ないね。それじゃあ」なーんてことは絶対に言ってくれなさそうな雰囲気であった。


「無理。絶対に無理だわ」


 クラスメイトたちはクラブに参加する者や、図書館で自習する連中が鞄を持って三々五々教室から出ていく。牧人は定まらない思考を鞄と一緒に持ち上げた。


「こんな時は、原点にもどれ、だな」


 上履きを鳴らしながら教室から出た。

 牧人はマミヤミュージックへ行ってみることにしたのであった。


 お店は地下鉄はら駅前に建つ、ビルの一階と地下に店舗を構えている。

一階にはエレキギターや、アコースティックギター、アンプ類、それにドラムセットやキーボード、管楽器にいたるまでのあらゆる楽器を店頭販売している。


 牧人は通学用バッグをたすきがけにし、愛用のママチャリにまたがると夏の陽差しに目を細めながら走り出した。

歩道には日傘をさした主婦や、学校から帰る高校生、国道には行きかうクルマが排気音を暑苦しそうに響かせている。

 牧人はペダルをこぐ足になるべく力を入れず、ゆっくりと走る。学校から自転車で、五分も走れば地下鉄駅前に着く。見慣れた五階建てのビルが近づいてきた。


 店舗一階のガラス張りの内側にはカラフルなエレキギターが並べられ、店内から流れる音楽が耳に入ってくる。

 牧人は自転車を歩道のガードレール側に停めると、マミヤミュージックのガラスドアを開いた。


広い店内には制服姿の高校生や、いかにもロックをやっていますという派手な出で立ちの大学生、仕事中なのであろうがクールビズスタイルのサラリーマンが、並べられた楽器を熱心にながめている。


 楽器店の雰囲気は、牧人は好きだ。あらゆる世代を超え、同じ趣味を持つ人々が集まるお店。

じっとギターをながめる姿、試奏する真剣な表情、棚に並んだコピー本を手に取る人。それぞれに好きな音楽があり、好きな楽器がある。


 ネガティブ思考であった牧人は、店内に流れる音楽のリズムにいつのまにか身体をゆらしていた。


 ギター用のエフェクターが並んでいる棚横の壁に大きなコルクボードがあり、メンバー募集用のチラシがたくさんピン留めされている。これが目的であった。

 牧人はそのチラシを一枚一枚ながめ始めた。


 ワープロで綺麗に印刷したものもあれば、汚い殴り書きで何が書いてあるのかまったくわからないものまで、多種多様なチラシ類。

 ボーカル募集、ドラマー急募、完全プロ志向などと書かれており、牧人はその中からギター加入希望のチラシを探す。牧人は一縷の望みをかけて、ギター担当としてバンドに加入したいという人間を探そうとしたのだ。


 牧人は丹念にチラシを見つめていく。ふと鼻孔に、なにやら良い香りが漂ってきた。目でチラシを追いながら、鼻の穴をふくらませる。中腰になっている牧人のすぐ真横に、その香りの元がいた。


「ショエッ!」


 牧人は驚いて思わず身を引く。

 白いブラウスに紺のベスト、スカート姿の制服で、女子高生が中腰姿勢のまま、しかも牧人にくっつくように掲示板を見ているではないか。


異性にこんなに近くに寄られたことはないから、のけぞってしまったのである。まあ、美樹とすみれとは、近い距離で接することもある。しかし、あくまでも姉であり、幼馴染みであるからして異性を意識することはないのだ。

 しかも、見知らぬ女子高生はこの店、楽器屋にはまったくそぐわぬ恰好であった。


 学校の制服自体が問題ということではない。頭にはつばの広い麦わら帽子をかむり、片手には捕虫網、肩からは青いプラスティック製の虫かごらしきものを携えていたのである。

 遠慮のない牧人の視線を浴びながら、その女子はジッとボードを注視している。


 牧人は(なんだ、この場違いなスタイルの子は?)という表情で、その子の横顔をマジマジと観察する。

麦わら帽子からのぞく髪はストレートのショートで、長くカールしたまつ毛にスッと通った鼻。かなり整った顔立ちだなあと見つめる牧人に、ふいに女の子は振り向いた。


「ごきげんよう」


 にっこりと微笑みながら、小首をかたむけたのだ。


「ご、ご、ごきごききき」


 牧人の身体が緊張で固まる。心臓から送りだされる血液は氷点下になり、筋肉が凍結されてしまう。

女子高生はまるで旧知の間柄であったかのように、なんの警戒心もなく真正面から牧人に挨拶をしてきた。


(ウヒャーッ! もんのすごい美形だわっ)


 血液が一気に沸騰し、脳内からアドレナリンが大量に流れる。牧人は目尻を下げながら、どちらかといえばイヤらしい視線を飛ばした。

 西洋系の血が混じっているのか、透きとおった白い肌に眉のあたりでまっすぐ切りそろえられた前髪、その下には、大きな茶色の瞳が輝いている。

口元はほんのりピンク色で、自然と口角が上がっており、その柔らかな表情が牧人の緊張感を魔法のように解く。


「こ、こんにちは」


 牧人はニヤけた笑顔で挨拶を返す。


 女の子は中腰の姿勢から、よいしょっと背を伸ばした。清潔感あふれる制服であるが、背が高く、牧人と変わらないくらいだ。

スカートからのぞく脚が長い。群を抜くスタイルだ。

 比較対象として、牧人はすみれを思い浮かべるも、あっさり却下した。

すみれはキュートで、どちらかといえばカワイイ部類であり、目の前の子は美人タイプだな、と勝手に選り分ける。


「今日はまたお暑うございますこと」


 女の子は顔を店の窓側に向けた。


「はあ、お暑うございますですわね」


「うふふっ、面白いお話の仕方でいらっしゃるのね」


 そう言うと、網を持っていないほうの手で口元を隠し、笑う。

 デヘヘッ、牧人は頭をかいた。


「先日、こちらのホールでライブをされていたお方ですわね」


「はっ?」


「ワタクシ、お店に用事がございまして、あの日こちらに参りましたの。地下ホールで、ライブが開催されているって店員さまにうかがいまして。失礼ながら、拝見させていただいておりましたのよ」


 牧人は照れながらも、少し誇らしげに言った。


「そうなんですか。よく覚えていてくれましたね。僕はクロスワードっていうロックバンドで、ドラムス担当なんですよ」


 音楽人口は増えているのだが、実際にバンドを組んでライブをやっているといえば、大抵は「へえ、すごいね」と返してくれることが多い。


「はい、なにやら楽しげなメロディを演奏されておられたので、よく覚えておりますわ」


「オリジナルの楽曲なんですよ、僕らのバンドは」


 得意げに鼻の穴をふくらました。


「でも残念ながら、すぐに失望いたしました。なぜならドラムスが、てんでチグハグなんですの。

まったくリズムを押さえてらっしゃらないから、もしかしたら前衛プログレの変拍子かと推測までいたしましたけど、違いましたわ。リズム感がゼロとでも申しまょうか。

幼稚園児の発表会のほうがまだまとも、そう思ってしまいましたのよ。園児たちのほうがお上手じゃないかしら、と不謹慎な考えをいだいておりました」


 鼻の穴を広げたまま、牧人の顔からサーッと血の気が引く。


 女子高生は変わらぬ口調で言うと、会釈した。


「ワタクシ、そろそろ失礼させていただきます。ごめんあそばせ」


 顔面蒼白の牧人の横を、いい香りを漂わせながら通り過ぎる。ふと何かを思い出したように立ち止まり、牧人の背後から声をかけた。


「リズムの要であるドラムス。バスドラとスネアの入れかた、ハイハットの叩きかた、それぞれきっちりと基本に忠実。さらにフィルイン(おかず)は楽曲のフィーリングを壊すことなく、それでいてシンコペーションや三連譜などを上手く取り入れている。

スタジオ練習で叩くのであれば、充分な技能と思われる。

 ベースに関しても文句なし。女子高校生で、あれだけの手数を正確に弾けるベーシストはそうはいない。しかも、ハイトーンのボーカルも気取りがなく、ストレートな曲調に見事に溶け込み、かつ聴く者のハートに響く歌声。

 オリジナルの楽曲は、荒削りながらも新鮮で聴いていて楽しい。

 ギターに関しては、確かに上手いといえるが、テクニックに走り過ぎ。音量も全体とのバランスが取れていないし、エフェクターの使いかたが耳にさわる」


 牧人の耳は、その言葉をとらえていた。


「あら、ワタクシったら。それでは、ごきげんよう」


 捕虫網を持った女子高生は軽い足取りで去っていった。


(て、的確だ! 正体不明の女子高生、なぜにあんなに詳しいんだよ)


 牧人は我に返り、女の子を呼び止めようとしたが、その姿は店内から消えていた。


~~♡♡~~


「どしたの? マッキーくん」


 牧人は店の一番奥にあるレジカウンターまでフラフラ歩いてきたところで、声をかけられた。ロンゲにオレンジ色のバンダナを巻き、マミヤミュージックのスタッフTシャツを着た店長のピートさんである。

ピートさんはレジ奥にある工房で、ギターのリペアを行っていた。


「あ、ああ、ピートさん、こんにちは」


「なんか顔色が悪いぜ。熱中症か、はたまたいつもの緊張かい? っていっても今日はライブじゃないよね」


 髭面に笑みをたたえながら、修理専用のドライバーを器用に指先で回す。


「そういえば、先日のライブ、すいませんでした」


 牧人は多大な迷惑をかけたピートさんに、頭を下げる。

 声に出して笑いながら、ピートさんは頭をふった。


「いいって、いいって。マッキーくんのその癖は、中学生のころから僕もよーく知ってるしさ。でも、すみれちゃんたちに散々文句を言われたんじゃないかい?」


「え、ええ、まあ」


「惜しいよなあ」


 ピートさんは作業台に置いてあるレスポール(米国ギブソン社の製造する、ソリッドエレキギター)を見おろす。


「僕はきみたち、クロスワードを応援してんだ。高校生ながらいい曲書くし、スタジオ練習なんか聴いてるとベリーグウなんだよな」


 牧人は舌を出して、頭をポリポリとかいた。


「今日はどうしたの? スタジオ予約は入ってなかった気がするけど。しかも月曜日のこの時間でさ」


 牧人はレジ前のスツールに、ちょこんと腰を降ろした。


「はあ、練習じゃないんですけどね。それと明日から夏休みなんです。今日は終業式」


「そっかあ、いいなあ学生さんは。

 そういえば、これを預けに来たオーナーさんも、そんなことを言ってたな」


 ピートさんは作業台に鎮座している、チェリーサンバーストのボディをなでた。


「綺麗なギターですね」


「そうだね。オールドヴィンテージだけど、コンディションは悪くない」


「メンテナンスなんですか?」


「うん。ペグ(糸巻)が少しゆるくなってきているのと、配線が接触不良みたいなんだ」


 牧人は、へーっとカウンター越しにのぞきこんだ。


「それ、大学生が持つにしては、かなり値が張るんじゃないですかねえ」


「ああ、市場価格で言えば多分これは下らないだろうね」


 ピートさんは、牧人に向かって人差し指を立てた。


「じ、十万円?」


「いや、ゼロをもうひとつプラスね」


「ゲゲッ! 百万円」


「くらいはしてもおかしくない代物だよ。それと、これのオーナーは大学生じゃない」


「だって、午前中で授業が終わってって、ピートさん、言いませんでしたっけ」


「そう、言ったよ。オーナーさんは、あのお嬢さん学校の錦丈きんじょう学園高等部二年生さ」


「ドヒャーッ!」


 牧人は本日何回目かの、驚愕の声を上げる。


「高校二年生なら、僕とタメじゃないですか。同じ年齢の、しかも女子がそんな高級なギターを持っているなんて。どういうことですか?」


「彼女の保有するギターは、これだけじゃないんだな。

 少なくともウチで購入いただいただけで、十本だ。それもすべて輸入物だよ。一千万円とまではいかないけど、七百万円近い大金をエレキギターにつぎ込んでいるんだよ」


 ピートさんの言葉に、牧人は目まいがした。


 錦丈高校はN市内でも有名な超お嬢さま学校であり、幼稚園から大学まで一貫教育を行っている。医者、弁護士、議員、企業経営者などのセレブご令嬢が通う、牧人にはまったく縁のない高校である。


「そんなにギターが好きなら、腕前はどうなんですかね」


 いくら高級品を持っていても、飾っているだけなら楽器の意味がない。

 ところが、である。


「超絶テクニックの持ち主、ときてるんだなあ、これが」


 牧人はゴクリとのどを鳴らす。


「う、上手い、のですか」


「購入する時に試奏するんだけど、はっきり言って、そこいらのプロと称するギタリストなんか彼女の足元にも及ばないよ。あのフィンガリングは、まさに神が降臨したとしか思えない」


 ピートさんは思い出すように、宙に目を向けた。

 超お金持ちで、超テクニックを持っていて。そんなはずはない、神さまは平等のはず。


「で、でもたとえば見てくれが、どっかの漫才師に似てるとか」


 牧人の問いかけに、ピートさんは意外そうな表情を浮かべた。


「なに言ってるの、マッキーくん。さっきまでメン募の掲示板の前で、親しげにしゃべっていたじゃない」


「ギョエエェィ!」


 牧人は今度こそ跳びあがって驚いた。あの麦わら帽子に捕虫網を持っていたモデル並みの美しい女子高生が、その本人だったとは。

神さまは二物も三物もあげるヒトにはあげちゃうんだ、牧人は立ちくらみを覚えた。ガックリとカウンターに突っ伏す。


「だけど、あれだけのテクニシャンでありながら、もったいないよなあ」


 ため息まじりのピートさんの声に、牧人は顔を上げながら訊いた。


「何がもったいないんです?」


 ピートさんは工具箱からハンダごてを取り出した。


「いやなにね、彼女くらいのギタリストなら、どこのバンドも欲しがるだろうになって思ってさ」


「えっ、じゃあその子はバンドも組まずに独りで寂しく高級ギターに囲まれながら、もんもんと弾きまくってるだけなんですか?」


「うん。みたいだよ。あまり立ち入ったことを訊くのもはばかられるから、詳しくは話してないけどね。しかし、つくづくもったい」


 ピートさんは言葉を途中で切った。

 牧人がカウンターを乗り越えるように、すごい形相で身を乗り出してきたからだ。


「ちょ、ちょっと、どうしたの? マッキーくん」


 両眼を見開き、牧人は声をしぼりだした。


「ピ、ピ、ピートさん! あの子、あの子を紹介してください! 一生のお願いですーっ」


 牧人はカウンターの上に両手をつくと頭を下げた。


「紹介って、まさか惚れちゃた?」


 ブルンッブルンッと大きく顔を横にふると、牧人はやっちゃんがクロスワードを脱退した経緯、それにすみれから代替案を早急に提出するようにと、きつく申し渡されたことを涙ながらに語った。

目から涙は一滴もこぼれなかったのだが。

 ピートさんは作業を中断し、ウーンとうなりながら両腕を組んだ。


「そうかい、やっちゃんが千手観音に引き抜かれちゃったのか。

 すみれちゃんも焦るわなあ、ミュージックフェスティバルへの出場が決まっているからねえ。あのオーディションは、ウチのマミヤ祭とは比べ物にならないから、バンドに箔がつくし、よけいだよなあ」


「ピートさん、なんとか仲を取り持ってもらえないでしょうか」


 牧人は藁にもすがる気持ちで懇願した。

 店内に流れるアップテンポの音楽が、二人の頭を通り過ぎていく。


「クロスワードはスリーピース(三人編成のバンド)だからなあ。確かにギターがなかったら、ベースとドラムだけじゃ無理だよね」


 ピートさんは作業台から立ち上がり、カウンター越しに牧人を手招きする。牧人はカウンターを周って、リペア用のスペースに足を踏み入れた。


「僕はきみたちを応援したいし、あの子がバンドでどんなアンサンブルをかもし出すのかも、とても興味を持っている。だからね、ここからは絶対に他言無用ということで聞いてほしい。

あの子の名前と住所を教えるから、マッキーくんが直接アタックしてみな」


 牧人は驚きと喜びの入り混じった、複雑な表情を浮かべた。


「個人情報を漏らしたなんてことがバレたらまずいから、くれぐれも僕からの情報ということは内密にしてほしい。僕が口利きするのもいいだけど、マッキーくん、きみがリーダーとして正面から当たってみなよ」


「ピートさん、ありがとうございます!」


 牧人はピートさんの両手をつかんだ。


 そうだ、あの女子高生とのとっかかりがあれば。ギタリストとして勧誘して、すみれからイニシアティブを奪還できる、千載一遇のチャンス到来か。


「お礼はいいから、彼女を口説き落としてメンバーにしてよ」


「はい! 必ずや群青牧人の音楽人生を掛けて、頑張ります! 

 ところで、あのお嬢さまの氏名と住所はわかるんですか」


「ああ。だって彼女はマミヤミュージックのお得意さまだからね」


 そう言うと、カウンターに置いてあるパソコンを操作し始めた。画面を見ながら、カウンターに置いてあるメモ用紙に何かを書き写す。


「はい、これを持って行きなよ」


 牧人はメモ用紙を受け取った。


「えーっと、葉隠里亜津美はがくれざと あつみさんっていうのか。名前からして何やら由緒正しき家柄を想像しちゃいますね」


 住所は、天白区原南七丁目のグランシャトー原二〇一、とある。牧人はその住所が通っている高校の番地に近いことに気づくが、首をひねった。


(あの辺りにそんな高級マンションなんてあったかなあ)


 疑問符を浮かべながらもメモを折りたたみ、開襟シャツの胸ポケットにしまう。

 牧人はそこで思いだした。


「そういえばピートさん。この葉隠里さん、先日のライブを観戦したらしくって、ものすごく的確なダメ出し及び評価をしてくれたんですよ」


「ああ、あの日彼女は来てたっけか。ホールをのぞいていったのかな」


「ところで、なぜ葉隠里さんは、虫捕りのスタイルだったんですか?」


 牧人の脳裏に、葉隠里亜津美の印象的な姿が浮かぶ。


「ああ、あれね。僕も気になって訊ねたんだけど、アルバイトをしておりますの、オホホッて、はぐらかされちゃった」


「昆虫を捕まえて、どこかに売るんですかねえ。

 あっ、でも高いギターをポンポンと買えるお嬢さまでしたよね。何か理由でもあるんでしょうか」


 ピートさんは、思案顔する牧人の肩を軽く叩いた。


「人はそれぞれさ。それよりも早く仲間にして、新生クロスワードの音を聴かせてよ」


 牧人は頭を深々とさげた。


「ピートさん、本当にありがとうございます!」


 来店した時とは打って変わり、足取りも軽やかにお店を出ていく牧人であった。

 

~~♡♡~~


 天白区原南は東側にN市第二環状自動車道が通り、北側に国道五十六号線がある。


 牧人はピートさんにもらったメモの走り書きを思い出しながら、陽差しをまぶしそうにペダルを漕ぐ。ママチャリでまた学校まで引き返す気分ではあるが、どうしても今日中に会っておきたかった。

 モデルのような美形女子高生が、ピートさんが絶賛するほどのテクニックを持つギタリストであったとは。それに、一回聴いただけでバンドの良し悪しを的確に分析する能力。


(お子さまのお遊びバンドには興味ありませんの、とか言われたらイヤだなあ)


 喜び勇んでマミヤミュージックを出たものの、自転車を漕ぎながらネガティブな思考が頭をよぎりだす。


(やっぱり、今日はやめておくかな)


 突如、すみれの目力のあるつり目気味の大きな瞳が、ギロリとにらんだ。ような気がした牧人は首をすくめ、漕ぐ足に力を入れた。

 原南七丁目であれば、もう目の前である。二車線の道路左右には一戸建ての住宅が並んでいるものの、お嬢さまが住まう高級マンションのような建物はここらには見当たらない。

 ピートさんがあわてて番地を書き間違えたのかな、と思いながら歯科の看板を曲がると自転車の速度を落とした。


「たしか、この先だったような」


 牧人はつぶやいた。買い物帰りの主婦が自転車を重そうに漕いでいる。

 牧人の視界に一軒のアパートが写った。このあたりには珍しい、木造の古い二階建ての建物である。二階へ上がる鉄板の階段は赤黒く、錆が見て取れる。

各階に五つの玄関がついており、洗濯機を玄関横に設置している部屋もあった。鉄柵には不動産会社名の入った「入居者募集中」の札が、複数さがっている。


「まさか、ねえ」


 牧人は胸ポケットからメモを取り出す。

 手前の玄関横に、番地を表示する青いステンレスの板が貼ってあった。その下に朽ちた板に墨で書いた文字があり、『グランシャトー原』と読める。


(こ、ここだよっ。グランシャトーって、どういう意味だっけか)


 牧人は呆気にとられながら、自転車から降りる。


「葉隠里なんて名前だから、どこかの名門のお嬢さまかと思いきや。いやいや、自宅にはお金をかけない資産家かも」


 牧人は階段に足をかける。階段は錆が浮くというより、錆そのものであった。履いているローファーの下で錆が削られるいやな感触がある。

それでも牧人は特に気にせず、上がっていく。灰色のコンクリートがむき出しの、廊下になっていた。


(手前が二〇五号室だから、一番奥かな)


 アパートの吹きさらしの廊下側は西向きらしく、太陽が直接照らしてくる。てすりにもたれないようにしながら、二階から道路を見おろした。宅配業者のトラックがゆっくりと走っていく。牧人は奥の部屋前に立った。

 合板のドアの横を指さす。そこには小さな直方体の板が貼ってあった。すこぶる達筆な筆文字で「葉隠里」と手書きしてある。


「これって、カマボコの板じゃね?」


 眉間にしわを寄せ、もう一度マジマジと確認する。玄関横には、昔懐かしい牛乳瓶を入れる木製のケースだけが置かれている。アルミサッシの窓があるが、曇りガラスであり、防犯用の枠で囲われていた。


 しばらく躊躇ちゅうちょする牧人。マミヤミュージックで初めて出会い、ピートさんからこっそり個人情報を聞きだし、そして今ここに立っているのだが、これって一歩間違ったらストーカーに間違えられないだろうか。

やはり先に電話でもして、いわゆるアポイントを取ってからのほうが良かったんじゃないだろうか。

 牧人はそこでメモを確認するが、自宅の電話及び携帯電話の番号は記載されていない。

 つまりこれはピートさんが書き漏らしたわけではなく、「電話じゃなくて、直接アタックしてみなよ」ということじゃないだろうかと思った。


 意を決し、恐る恐る牧人はインターフォンに指を伸ばした。ピンポーンではなく、ジジジッと絶命間近のセミの鳴くような音が、合板製の玄関を通して聞こえてくる。

三秒ほど押して、牧人は耳を近づけた。


(いないのかなあ)


 もう一度押す。室内から物音は聞こえてこない。内心ホッとする気持ちをふるい払うように、玄関を拳で叩いた。


「すみませーん、お留守ですかあ」


 ドンドンと響く。その音に重なるように、もっと低音でお腹に響きそうな音が聞こえてきた。下の道路を走ってくるクルマの音のようだ。牧人は道路側に顔を向けた。

ドドドドッ、と重低音で走行してくるのは大型のオートバイであった。思わず


「カッコいい!」とつぶやく。ホンダのGL一五〇〇である。

 グラファイトブラックという光沢のある黒で統一されたボディの横に、同じカラーリングの側車(サイドカー)がついていた。このタイプは皇宮こうぐう警察や警視庁でも採用されているのだ。


「へえ、サイドカーだ。屋根までついているな」


 陽射しの加減でライダーの様子がよくわからない間に、アパートの前を通り過ぎて行った。牧人はもう一度玄関に視線をもどす。物音がしないということは、お留守なのか。


(仕方ない。明日もう一度くるかな)


 牧人は外人のように肩をすくめ、両腕を上げた。こういう仕草は顔立ちとスタイルのバランスがとれている牧人がやると、妙にさまになる。きびすを返して一歩踏み出したとき。

トントンと階段を上がってくる音が、牧人の行動をストップさせる。


 階下から誰かが二階へ上がってくるらしい。トンッと最後の階段を踏んだ音とともに、その人物が姿を現した。最初に目についたのは、麦わら帽子。次はその手に持った捕虫網。

 葉隠里亜津美が帰ってきたところであった。


「は、は、はが、はがくっ」


 牧人は前方に現れた女子高生を見たとたん、緊張のあまり固まってしまった。しゃべらなきゃと焦るが、口を開けたまま言葉が出てこないのだ。


「あら、先ほどマミヤミュージックでお会いいたしましたわね」


 亜津美は警戒する様子もなく、牧人を真っ直ぐ見る。


「あっ、は、はい! ぼ、ぼく、群青と言います。群青牧人です!」


 牧人は腰を九十度に曲げてお辞儀をする。


「あら、それはご丁寧に。

 ワタクシは、葉隠里、名前は亜津美と申しますの。よろしくお願いいたします」


 同じように腰を曲げた後、続ける。


「たしか、ライブの時には、マッキーさんと呼ばれていらっしゃいましたわ。

 ワタクシも、マッキーさんとお呼びして構わないかしら?」


「もちろん、そう呼んでいただけると嬉しいな」


 にっこりと微笑む亜津美は、ピートさんが言っていたようなギターの弾き手というよりも、やっぱりティーン雑誌のモデルだよね、と思った。

 牧人は緊張感がうすれてきたのか、アイソ笑いを浮かべたまましゃべりだした。


「突然お邪魔してごめんなさい。僕はすぐそこの中京都高校の二年生です。だから葉隠里さんとは同級生かな。先日観ていただいた僕らのバンドなんだけど、実はギターが脱退しちゃってさ。

来月の区民ミュージックフェスティバルに出場するために、急きょギタリストを探しているんだ。それで、葉隠里さんがギターをやっているって噂を耳にはさんだもんだから、ついご自宅まで押しかけてしまったのです」


 正直に事情を説明するが、これでは亜津美の情報はマミヤミュージックの誰かが漏らしたと言っているようなものである。


「葉隠里さんが指摘したように、ライブでは僕のせいでブーイングを浴びちゃったんだけど。でも音楽が大好きっていう情熱だけは、誰にも負けていないと思ってる。それに、ベースのすみれが書く曲は、演奏していてとても楽しいし。

どうだろう、もしよかったら僕らのバンドで、一度スタジオでの音合わせなんてしてもらえないでしょうか?」


 亜津美は視線を斜め下に向け、なにやらポッと頬を赤らめた。


「それは、ワタクシを欲しい、と遠回しに言ってらっしゃるの? 恥ずかしいわ。大胆な告白をされるのですね。ワタクシ、殿方からくどかれるなんて経験がありませんものですから、なにやら心の臓が十六ビートを打ち始めてしまいました」


 牧人も真っ赤になって両手を振る。


「いやいや、くどいてませんって! あの、あくまでも純粋にバンドに参加しませんかっていう、いたって健全な高校生らしいお誘いです!」


 亜津美は顔を伏せたまま、長いまつ毛の目元を向けた。


「それでしたら、狭い家ではございますが、おあがりになられます?」


 亜津美は片手を上げ、玄関をさす。


「えっ、いいのかな。ご家族の方とかいらっしゃるんじゃ」


「この住まいは、ワタクシ、ひとりなんですのよ」


 このボロアパートに独りで住んでんだ。なにか理由ありかも。


「少し、お待ちになって。ああ、もどってきましたわ」


 トントンと階段を上がってくる音が聞こえる。


「よっこらしょっと」


 そう言いながら、現れたのはタキシード姿の老人であった。背筋をピンと伸ばしているが、亜津美の目元くらいの背丈である。頭髪は禿げあがり、サイドと後部はきっちり刈り込んだ白髪だ。眼光鋭く、俗にいう鷲鼻の下には白い髭をたくわえている。


 黒のタキシードは燕尾服えんびふくではないものの、ショール・カラーと呼ばれるへちま襟である。

 ウィングカラーの純白のプリーツシャツには、この暑いさなかにも関わらず、スクエアエンドの黒い蝶ネクタイをきっちりと結んでいた。手元には革のアタッシュケースを持っている。


「亜津美さま、大変お待たせいたしました」


 老人はよく通る声で、亜津美に言う。そこで、牧人に気づいた。


「この御仁ごじんは、どちらさまですかな?」


「ワタクシを欲しいと、くどきにいらっしゃったマッキーさんですわ、成方なるかた


 牧人はあわてて両手をふった。


「け、決してやましいお誘いではありません! 僕は亜津美さんと学校は違いますが、同じ高校二年生なんです。あくまでも健全な音楽活動でのお誘いです!」


「さようでございましたか。それではすぐにお部屋のご用意をいたします」


 成方と呼ばれた老人は、二人の前で慇懃いんぎんに頭を下げる。姿勢をもどすとスタスタと歩き、二〇一号室の玄関前に立ち止まると上着のポケットから鍵を取り出した。


牧人は、いったい何が起きているのかわからない、という表情で亜津美を見る。

 捕虫網を持った亜津美は、しずしずと廊下を進んできた。


「どうぞ。いまお茶の用意をさせますから」


「あ、あの、葉隠里さん」


 牧人はたまらず呼び止めた。


「なにか?」


 亜津美は振り返る。


「えっと、先ほどここには葉隠里さんしか住んでいないって」


「ええ、そうですのよ」


「じゃあ、いま玄関から入っていく方は」


「成方ですわ」


「お名前はうかがったのですが、どういうお方?」


「成方は、ワタクシのじいやですわ」


 じいや? ハアッ? と牧人は口を開ける。


「ワタクシの執事ですのよ。物心ついた時から、世話をしてくれています」


 牧人はアパートを指さした。


「このおウチで?」


 その時、二〇一号室の玄関が内側から開かれた。


「亜津美さま、ご学友の方、ただいまエアコンを準備いたしましたので、どうぞお入りになってくださいませ」


 成方の声が聞こえた。


「本当に暑うございますこと。ささ、どうぞお入りになって」


 亜津美は牧人をうながす。

 牧人は大きく首をかしげ、言われるがまま二〇一号室の玄関へ回れ右をした。


~~♡♡~~


 牧人は玄関を入ってすぐのキッチン兼ダイニングルームとおぼしき部屋で、向かい合わせのソファに浅く腰を降ろしている。フカフカの高級革ソファだ。


 地震が起きたら真っ先に崩壊しそうなアパートの、これが室内なのか?


 内装は淡い落ち着いたピンク色で、天井からはスワロフスキーの豪華なシャンデリアが照らしている。

十畳ほどの部屋の中央には、いま座っているソファが対になり、間にはステンレスにガラスをはめ込んだモダンなテーブル。


壁には天井まで高さのある観音開きの高級そうな食器棚が設置され、ガラス戸の奥にはマイセンやウエッジウッドの食器が、まるでデパートの陳列のように並べられている。冷蔵庫は三層式で、かなり大型だ。

 ソファの下には、ペルシア絨毯と思われる毛並みの整った絨毯が敷かれていた。


 キッチンは後からつけかえたのであろう、大理石のシステムキッチンがデンと置かれており、上着を脱いでシャツの上から割烹着かっぽうぎを着た成方がお湯を沸かしている。

 部屋の奥は襖が閉められているため、不明であるが。


「マリアージュ・フレイユのお紅茶しか用意はないのですが、よろしくて?」


 牧人の向かい側にゆったりと腰を降ろした亜津美は、まだ麦わら帽と捕虫網を持っている。


「帽子、暑くないの? 葉隠里さん」


 牧人は指摘する。亜津美は麦わら帽をまだかむっていたのだ。やっと気がついたようで、立ち上がると「少々失礼いたします」とふすまを開け隣室に入っていく。牧人は首を伸ばしてのぞいた。


ちらりと視線に入ったのは、ベッドの一部であろうと思われるのだが、お姫さまの寝具のようなレースのカーテンが引かれた支柱が立っている部分であった。


 紅茶の甘い香りが鼻孔をくすぐる。

 白地にイタリアンフルーツが描かれたティ―カップが成方の手によって、丁寧にテーブルに置かれる。


「かわいいなあ! これ素敵な茶碗ですねえ」


 牧人はまじまじとながめた。


「リチャード・ジノイのティ―でございます」


 カップを強めに発音しながら成方は答えた。続いてガラス製のティーポットを持ち上げ、それぞれのカップに八分目まで注ぐ。


 襖が開き、亜津美がもどってきた。牧人は再度、ちらりと隣室に目をやる。やはり、レースのカーテンを引いたベッドが見えた。


「お待たせいたしましたわ」


 制服のスカートをゆっくりとひるがえし、ソファに腰を降ろす。


「それでは、亜津美さま。私は自室にもどらせていただきます」


 成方は亜津美の前で、丁寧にお辞儀をする。


「承知いたしました」


 当たり前のように、亜津美は言う。


「それではご学友さま、いったん失礼をばいたします」


 慇懃に頭を下げ、割烹着姿のまま老人は上着を手に持ち、出て行った。

 玄関の閉まる音とともに、牧人はフーッと肩の力を抜いたのであった。


「冷めないうちに、召し上がれ」


 亜津美はテーブルの紅茶をすすめる。


「えっと、自室にもどるって?」


「ええ。成方はこの部屋のお隣、二〇二号室を住まいにしておりますのよ」


 はあっ? はあ、と牧人はうなずく。


「葉隠里さん、このアパートの外観と室内のギャップが大きすぎて驚いているんだけど」


「あら、そうかしら。快適なアパートメントでしてよ」


「えーっと、さっきの成方さん? 葉隠里さんが雇っているの?」


 亜津美はおかしそうに牧人を見た。


「うふふ。もちろんそうですわ。ワタクシが中学生までは父が契約しておりましたけど。高校生になったらおまえが契約者になりなさいって、言われましたのよ」


「誰に?」


「父に、ですわ」


「じゃあ、お父上もここに住んでるの?」


「ここはワタクシだけですのよ。先ほど申しましたように」


 牧人は眉間にしわを寄せた。


「ま、まあいいや。ところでね」


 亜津美は小指を立てティーカップを持ち、反対の手でソーサーを持ち上げる。とってつけたような仕草ではなく、さりげなく気品がただようのは長年の習慣からのようだ。


「そうでしたわ。ワタクシったら、お話をうかがうのを失念しておりました。

 ささ、どうぞ」


 そう言うとティーカップを置き、いずまいを正す。

 牧人は身を乗り出すように、向かい側に座る亜津美に顔を向ける。何を思ったのか、亜津美も上半身をテーブルに近づけた。二人の顔の位置は十センチも離れていない。

互いの吐息が顔にかかる。牧人はそれにさえ気づくことなく、真剣な面持ちで口を開いた。


「さっき少し言ったんだけど、ギタリストがバンドを抜けちゃったんだ。まあ、原因はこれも僕のせいなんだけど」


 亜津美はじっと牧人を見つめる。


「ボーカルとベース、ドラムスだけでは無理なんだよ。バンドやるには、ギターが絶対必要なんだ」


 牧人は続ける。


「デモテープを送って、ミュージックフェスティバルの審査は通ってるんだよ。結構、倍率は高いんだけどね。テープはバッチリ録れてるんだ、これが」


 牧人は観客のいないスタジオでは本領を発揮できるから、テープの出来も良かったのだ。

 亜津美は無言のままである。


「ど、どうかなあ。練習時間はそんなにないから、曲を覚えるのは大変だろうけど」


 牧人は必死に想いをぶつけようとする。ふいに亜津美は横を向き、指先を口元にあてながらブツブツとつぶやきだした。


「葉隠里さん? やっぱり急すぎたかなあ」


 牧人は声をかけた。亜津美は正面を向き、再び牧人の顔を見る。


「バンドってことは、を組むってことですわね?」


「ま、まあ、ティームというかチーム、かな。バンドは」


 ガバッと亜津美が中腰になり、牧人の手を両手で握った。

 エッ? エッ? 牧人はとっさのことに顔面が硬直する。


「マッキーさん、ぜひワタクシとを組んでくださらないかしら!」


 亜津美は牧人の顔から三センチほど、さらにに近づき、大きな瞳でのぞきこんできた。

 さしもの牧人も顔を引きつらせながら、言葉につまる。


「い、いや、だから、バンド加入のお誘いをしているのは、こちらであって」


「ワタクシ、ピンとひらめきましたの! マッキーさんとなら、上手くやれるんじゃないかって」


 牧人は、しどろもどろに言う。


「と、とりあえず、葉隠里さんのギターを、一度聴かせてもらって」


「ああ、でもその前にしなくてはならないことがありますわ。今からお時間はよろしくって?」


 牧人はかたく握られた手の血流が止まり、紫色に染まっていく指を凝視する。美しい顔からは想像できない亜津美の握力。

亜津美は握っていた牧人の手を振りほどき、やおら立ち上がると冷蔵庫のドアにマグネットで取り付けられている、プラスチック製の小さなボックスを引き離した。

よく見ると、それはファミレスのテーブルによく置いてある、無線電子ブザーであった。


 牧人は顔を引きつらせたまま、紫色から赤色に変わった我が指を懸命にさする。


「お呼びでございますか、亜津美さま」


 コンコンとノックの音とともに、玄関を開けて成方が会釈をしながら顔を出す。


「成方、クルマを用意してちょうだい。出かけます」


「承知いたしました」


 成方は頭を三十度下げ、玄関を閉める。


「それでは、参りましょう」


 牧人はここへきて、何度目かの「?」の表情を浮かべた。亜津美はエアコンを止め、すでに玄関で靴を履き始めている。


「葉隠里さん、出かけるってどこへいくのかな」


 牧人が訊く。


「クルマの中で、お話いたしましょう」


「僕、バンドの話を」


 牧人にみなまで言わせず、亜津美はにっこり笑った。


「存じ上げておりますわ、のことですわね。

 ささ、参りましょう。クルマはこのアパートメントの裏に停めてありますゆえ」


 牧人も、仕方なく靴を履いた。


 玄関を出ると西日が牧人の眼を差した。モアッと蒸し暑い外気がまとわりつく。

 亜津美は玄関の取っ手の内側についた丸いボタンを押し込み、ドアを閉じる。かなり旧式の施錠である。


 アパートの前の歩道を一軒おいて左に曲がる。その角地の家の横にはプレハブの汚い倉庫が五つ並んでいるのだが、ひとつだけシャッターが上がっており、割烹着を脱ぎ黒いタキシード姿の成方がクルマ用の毛箒を持ち立っていた。


 どうやらその倉庫にクルマがあるらしい。成方は二人に気づくと、毛箒けぼうきを持ったまま倉庫の中へ入る。

 亜津美はその場に立ち止まった。ほどなくして、クルマのアイドリングの音が聞こえる。


 そのクルマを見て、牧人はあんぐりと口を開けた。鏡のように磨き上げられた真紅のボディの尖端に、銀に輝くフードクレストマークはフライングレディ。


「ロ、ロールスロイス!」


 牧人は思わず叫んでしまった。小汚いプレハブ倉庫から姿を現したのは、ロールスロイス・ファントムであったのだ。しかも真っ赤である。

ファントムは狭い住宅街の路地にゆっくりと進み出て、歩道に立つ亜津美の前にピタリと後部ドア辺りをつけ、停車した。左側の運転席から成方が出てきて、亜津美の前のドアを静かに開ける。


「お待たせいたしました」


 亜津美は振り返り、首をかたむけた。


「少し窮屈かもしれませんが、どうぞお乗りになって」


 操り人形のようにぎこちない動作で牧人は乗り込もうとし、あわてて靴を脱いだ。


「あら、どうされました?」


 亜津美はびっくりした表情で牧人に訊く。


「い、いや、こういう外車は乗り慣れなくて。土足では、やはりまずいんでしょ」


「あらまあ、マッキーさんて面白い冗談をおっしゃるのね、うふふ。楽しい殿方でいらっしゃいますわ」


 牧人は一般家庭の子供である。パン屋経営と言えど、サラリーマンの年収とさして変わりはないと、以前父親がつぶやいていたのを覚えている。

したがってクルマと言えば、家の自家用車で、もう十五年越しのトヨタのエスティマを思い浮かべる程度だ。


 どちらにしても、芸能人かホテルの送迎用としてしか見たことのない超ハイクラスのクルマを前に、牧人はかなりビビリ始めている。


(アパートの見かけはボロだけど、内装はどこかの高級リゾートホテル並みだし、汚い倉庫から登場したクルマがこれ。

 まさか、まさか実家はで、そのオジョーサマではなかろうか)


 牧人は乗り込む前に、この世との今生の別れになるのでは、と歯を食いしばる。


「ええーい!」


 口元を固く結び、ファントムに足を踏み入れた。泣き笑いのような表情を浮かべ、腰を引くように乗る。亜津美が制服の裾を片手で優雅にまとめ、乗り込む。

 外側から成方がゆっくりとドアを閉めた。


 白い本革のシートが、背中とお尻を優しく包んでくれるようだ。すでにエアコンが入れられており、快適な空気が流れている。

 成方は運転席に座るとシートベルトをはめたのだが、一挙手一投足にピシッと筋を通しており無駄がない。


「それでは亜津美さま。いずこへ?」


「お兄さまのお屋敷へ行ってくださいな」


 亜津美の言葉にうなずき、アクセルを踏む。

 ファントムは静かに走り出したのであった。


~~♡♡~~


 いったい、この女子は何者? いったい、どこへ向かっているの? お兄さま?


 牧人は前を向きながらも、ちらちらと視線を横の亜津美へ向けた。美貌の女子の横に座り、牧人はくすぐったそうな、にやけた半笑いである。


「ああ、なんという巡り会わせかしら。が組めるなんて」


 亜津美は胸の前で手を組み言った。


「そうそう、葉隠里さん」


 牧人は上半身を右にかたむける。


「なんでしょう」


 訊きたいことや言いたいことが、頭の中をぐるぐる回っている。いったい何から手をつけるべきなのか、牧人は脳をフル回転させなければならなかった。


「僕が今日お宅へうかがったのは」


「ちょうどお兄さまに報告することもございましたのよ」


 牧人の話の腰を折るように、亜津美が口を挟む。


「お兄さんがいるんだね。僕は姉貴がいるんだけど。

 なんだ、やっぱりそうか。あのアパートに独り暮らしって言うから、てっきり天涯孤独の身の上なのかな、なんて。ちょっぴり心配したけど」


「あら、それはワタクシを案じて下さっている、そう解釈してもよろしくって?」


 亜津美の大きな眼が向けられる。ドキリとする、神秘的な薄い茶色い瞳だ。


「い、いや、まあね。お兄さんの家は遠いのかな」


日進市にっしんしにお住まいなのですよ」


 日進市はN市に隣接する、人口八万五千人強の町だ。

 ファントムは国道五十六号線を東に走り、途中で百五十三号線に入り豊田西バイパスに乗った。


「それで、バンドに加入いただくにあたっては、お兄さんに報告しなきゃならないのかな」


「ワタクシを、に誘ってくださるのですよね。それはやはりお兄さまにご報告いたしませんと」


 ちょっとメンドーなお兄さんなのかなと、牧人は思った。


「そうだけどさ。チームっていうか、ロックバンドのギターに参加してほしいなってことなんだよね」


「ええ、ええ、承知しておりますわ。うふふ、ワタクシも、もっと早く気付けばよかったのですわ。ひとりよりも二人。これはもう百人力とでも申しましょうか」


 亜津美はくったくない笑顔で話す。

 ファントムは混みあう国道を、なめらかに車線変更を繰り返して走行していく。


「成方、ミュージックをお願い」


「はい、亜津美さま」


 成方はうなずくと車載コンポのスイッチを入れた。ファントムの車内に荘厳な交響楽が流れ出す。


「べートーヴェン?」


 牧人の声に亜津美が首肯する。


「さすがによくご存じですわ。ベートーヴェンの交響曲第九番第四楽章」


 歓喜の歌が大音量で響き渡る。ファントムはバイパスから北に進路を変えていた。


つづく

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