廻りだした環 第1話
静まり返る湖面に、微かな水音がひとつ響く。
ゆるりと水面から現れた細い指。何かを掴むような仕草をして、ゆるりと沈む。
にわかに湖面がさざめくと、弾けた水滴が玉になり辺りを激しく打ちつける。
その音に紛れながら、呪文のような美しい歌声が聞こえてきた。
悲しげな旋律のその歌は、ただ一人を愛する歌であり、ただ一人を呪う歌でもあった。
霧の中に歌声は含まれて、緑深い森の中を当て所もなく彷徨うようにたゆたう。
疫病の発端の地でもあるプラージュ地方の小さな漁村─ラケナリア。パンディオンの部下は現状を把握するよう命を受け、視察に来ていた。
当初ガーデンでは、海から吹く潮風に因る塩害であろうと見ていた。しかし国全土を徐々に覆い尽くそうとするそれは、塩害に因るものではないようなのだ。
村のそこここに骸と見紛うばかりに干乾びた人々が横たわっていた。
だが─ガーデンの人々は死なない。
神苑の剣により魂を狩られ、オステオスの庭へと運ばれた人々はそこで再生の時を待つ。そうして死なない彼らは、巡る命の環の中を幾度も再生を繰り返し、ガーデンを生きるのだ。
干乾びても尚、彼らの額にはオステオスの祝福の紋章が輝いている。それは、まだ彼らが狩られる人々ではない証だとも言えた。
「しかしこれは、また。随分と酷いものだ。パンディオンさまはけして我らには伝染りはしないと仰ってくださったものの、この有様を目の当たりにしては──いささか不安になるというものだ」
「プラージュはフィデリオさまの領地でありましたね。このような事態になるまで何故放っておかれたのだろうか」
異臭が漂うその骸のひとつを、ある意味で感慨深げに眺めながら言った。もう一人の男は鼻を上着で覆い、臭いを嗅ぐのを酷く嫌いながら─それは君─と言い、
「フィデリオさまが今のオルレカさまにご執心だからだよ」
「いやいやそれは噂だろう? 幾ら何でもご自分のお立場は理解っておられるはずだ。領地の大事は最も慮るべきこと。君もそのような噂を信じるなど。浅はかにも程があるというものだ」
「君が何故と問うからこそ答えたんじゃあないか。──ああ、ほら。あそこをご覧。まだ動ける者がいるようだね」
彼が指し示したのは、領主の屋敷の門から顔を覗かせている少女だった。
少女は、この身分の高そうな衣服を身に纏った二人の男をじっと見つめていた。救いを求めるわけでもなく、その双眸は見知らぬ侵入者を威嚇しているように見えた。
「あの子は救われると思うかい?」
「まず無理だろうね。ここは十中八九オルレカさまに拠って殲滅される」
「あの子が侵されているとは限らないじゃないか。今からでも保護すれば間に合うかもしれないだろう」
そう真っ当な意見を述べる同行者に向ける男の瞳に、蔑みが篭る。
「愚問だね。他の国民の不安材料はすべて取り除かなければならない。多くの国民のために神々は、その胸から血を流しながらラケナリアを抹消するんだ。─それがあの子にとっても最良であるのだし。何より─新しいオルレカさまの御身を拝める最初のひとりになれるかもしれないんだ。素晴らしいことじゃないか。君は見たかい? 今度のオルレカさまの美しさは尋常じゃあない。フィデリオさまが心を奪われてしまうのも頷ける」
だから、と彼は言って少女に一瞥をくれ、誰一人不幸と思う者など居やしないのだと吐き捨てた。
もう一人の男はなにも語らなかった。その気すら失せたと言った方がいい。頭を二三度振り、その場を後にした。
二人が屋敷から離れ始めると、少女は首を伸ばし、彼らの行く先を見た。
男が振り返った時にはすでに少女の姿は消えていた。
パンディオンの神殿から、すでに日常と化した女官の叫び声が轟いてくる。
「ああ。これはいい所においで下さいました。フィデリオさま。オルレカさまをご存知ありませんか?」
息を切らしながら神殿を飛び出してきた女官の目の前に、都合よくフィデリオが立っていたのだ。
どこか出先から戻って来たばかりなのか、二人は正装をしていた。フィデリオは、ステムとちらりと目を合わせると、
「残念だが、私たちはたった今戻って来たばかりでね。オルレカの行く先は皆目見当がつかない。─いつもいつもすまないね。私が自由奔放に育てたのが仇になったようだ」
「いいえ。そんな滅相もございませんわ。確かにいささか奔放ではございますが。わたくし、その分使命に燃えておりまして、必ず──あの神苑の儀で見せた所作が常日頃から出せるように頑張りますわ。それでは──」
彼女は軽く会釈をし、神殿へ戻って行った。
神苑の儀で見せた所作─。その言葉にフィデリオの表情がにわかに曇る。
「フィデリオさま? お急ぎになりませんと、オステオスさま方がお待ちでございます」
塞ぎ込むように口を噤んだ主に、ステムが優しく声をかけた。
フィデリオは思い出したように、ああと呟いてオステオスの神殿へと向かった。
ラケナリアの報告である。
フィデリオが握り締めている書簡がそれだった。
都合よく奇跡が起こるはずもなく、フィデリオの領地の小さな漁村は壊滅的な打撃を被っていた。そこまでの放置の理由を問いただされるだろうことは必至である。
しかしーー。
フィデリオにとってそれは寝耳に水だった。国中を震え上がらせている流行病が、フィデリオの領地から出たものだということ。
フィデリオとカスケードの二人はそれぞれ領地を国中に持ち、その町や村に必ず屋敷を持っていた。二人はそれぞれの領地に行くとその屋敷に宿泊し、何日もかけて見回りをする。
それを怠ったことなど唯の一度もないとフィデリオは豪語する。それなのに病は突然現れ、フィデリオの領地を荒らし、その触手を国中へと広げようとしているのだ。
パンディオンが調査に向かわせた部下の報告を、フィデリオにも知らせてくれた。とにもかくにも件のラケナリアに急いだフィデリオとステムの目に飛び込んできたのは、報告通りの骸ばかりで、唯一の希望とも言えた少女の姿はなかった。
骸のひとつとなったのだろうとステムが溜息交じりに呟いた。
「急ぎましょう」
ステムは立ち止まってしまった主の背を軽く押した。機械人形のそれのように、フィデリオの足はぎくしゃくと歩み始める。
胸をよぎるケリーへの心残りを、胸の奥深くに押し込めて───。
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