三人の翼人 第12話

 彼が、必ず決まった時間にこの神殿の前を通ることにケリーは気がついた。

 夜明け前と夕暮れ時である。

 女官は相変わらずケリーの言葉に耳を貸そうとはせず、ひたすら自らの役目を果たそうとそればかりだった。その甲斐甲斐しさは、良く言えば女官見習いのようであったが、すでにトウが立っている彼女では、気の毒だが初々しさは微塵もない。

 神殿内の誰とも馴染もうとしないケリーは、決まった時間に姿を見せる彼を眺めるのが唯一の楽しみとなっていた。

 目が合ったのは、少なくともケリーはそう思っているのだが、最初の一度きりで、それからはただ黙々と歩いていく彼を、こっそりとテラスの窓から覗き見るだけだった。

 いつもと同じ上着を羽織り、腰には複雑な文様が刻まれた長剣を携えている。背筋を伸ばして歩く彼の姿は男であるのに、さながら気品溢れる白百合のように凛としていて目を惹きつけた。

 ある日のことだった。

 一陣の風が彼の上着の裾を大きくたなびかせた。その下から現れた帯の絢爛さはケリーを釘付けにした。上着の乱れを整える彼の所作のひとつひとつが優雅で、彼がその場を去った後、ケリーは鏡の前で彼の真似をして楽しんだ。

 ケリーのそれは、けして優雅な動きとは言えなかったが、鏡に映る自分の姿に彼を重ね合わせると──何だかとても面映かったが──彼のように背筋を伸ばしてみれば、腰にあの立派な剣を携えているような錯覚に陥り、ただの部屋着の綿のブラウスが、彼の身体を包んでいる異国の服のように見えた。

(あの人の声はどんなだろう。)

 自分の耳が不自由であることを忘れたケリーは、聞こえもしない彼の紡ぎ出す声や言葉に思いを馳せた。


 ケリーの神苑の儀を明日に控えたフィデリオの元へ、オルレカの衣装が届いた。花狩りの時に着用するものだ。もちろん神苑の儀でも身につける。

 箱から取り出した衣装の出来栄えに、フィデイオは溜息を吐く。どんな思いであの二人がこれを縫ったのだろうかと思う。──サムとルードである。

 生地はすべて絹で織られ、胸当てにはスプレケリアの花の色でもある紅い宝石が縫い込まれていた。胸の中央には大振りの鮮赤色の貴石が、そこから左右に星型に縁取られた刺繍をさらに囲うように、小振りの貴石が散りばめられている。

 額飾りの貴石は涙の雫にカッティングされていて、こちらも大振りな石だった。

 明日の晩には、いよいよケリーがこれを身に纏い、儀に望むのだ。

 オルレカとして、神苑の剣と二対の翼を得るのだ。フィデリオの中で、すでにケリーは選ばれるものと決まっていた。望む望まないに関わらず、ケリーはオルレカとして剣を振るう日が来るのである。

 その時には、ケリーの辛さも苦しさも、何もかもを一緒に抱えて生きていくのだ。

 フィデリオは心に誓った。


 木染月の満月の日を迎えた。

 夜の帳が下り始める夕刻。

 フィデリオは、パンディオンの神殿へとオルレカの衣装を届けに向かっていた。

 ケリーとはまだ会えないのだが、何故だか浮き足立っていた。大きな箱を抱え、フィデリオは早足で石畳の上を進んだ。

「大きな荷物だな。今夜オルレカが着る衣装か。ご苦労なことだ。それが花狩りをするわけでもあるまい?」

 聞き慣れた声の嫌味をやり過ごすこともできたが、今日はとても気分がよかった。極度の緊張は、精神的にどこかの螺子が緩むようだ。

「しかし儀式である以上、形も大事だ。一度きりの儀式なんだから─それに花狩りの衣装でもあるんだ。美しいものに越したことはないだろう」

「ずいぶんとご機嫌だな。以前はあんなに嫌がっていたのに、変われば変わるものだ。それとも──ご執心の花がオルレカになるのは嬉しいものか」

「いやに絡むじゃないか。確かに以前の俺は気が重たくて仕様がなかった。カスケードの耳にも入っているだろうが。今、国中のあちこちで疫病が流行っている。病気は花芯の命を奪うことなく、ただ病を蔓延させているだけだ。オルレカが必要なのだと言われれば、納得もする。違うか?」

 フィデリオが問う。カスケードの顔に暗い影が落ち、ぽつりと呟く。

「病を治すことなく花芯を奪うが正義か?」

 フィデリオは腑に落ちない顔で、どういう意味だと訊き返す。

 しかしカスケードは踵を返し、背を向けたまま、

「意味だと? 気にするな。お前に言ったのではない」

 そう言って立ち去るカスケードの背中を、フィデリオは憎憎しく睨みつけた。


 フィデリオだけではない。その場に居合わせた誰もが、形容し難いほどの美しさと気品を漂わせるケリーに心を奪われていた。

 衣装の煌びやかさなど瑣末なことである。ケリーの所作のひとつひとつがまるで王族のそれのようで、儀式に居合わせている者は呼吸することすら忘れてしまうほどだ。

 その中にあって、フィデリオだけはさの様子に奇妙な違和感を覚えた。裾捌きの際の細やかな指使い。腰に体重を乗せる独特の立ち姿が誰かに似ている。

 ケリーは四人の神々の前に立ち、両手を高々と天へ向け─掲げた。満月は煌煌と輝き、下界を照らす。

 ケリーを中心に、円を描くようにして立つ神々の祝詞が天へと吸い込まれていくと、満月から一条の光が差し込んできた。神殿を囲む草原が、月からの光で引き起こされた風でざわざわと波立ち始める。

 光はケリーだけを取り込むように広がり、目も眩むような強い光を放った。

 そして、あれほど激しかった風がぴたりと止み、耳鳴りがするほどの静寂が訪れた。

 月光の中の細かな光の粒子が次々にケリーの肢体を包み込む。螺旋状に回転しながら、光の粒子はひとつの形を形成し始めた。

 背中に群がる光の粒子の密度が濃くなっていく。俯いたケリーの顔を粒子の輝きが激しく照らすと、舞い上がった彼の黒髪の向こうに二対の翼が現れた。

 ケリーは翼を広げ羽ばたかせると、羽根の先から残された粒子が飛ばされ、きらきらと光を放ちながら落下していく。

 そしてケリーの頭上には、ふわりと一振りの剣が浮かんでいた。

 古びた文字のような文様が描かれた鞘に収まっている。柔らかな曲線を描いたその剣は、ゆっくりとケリーの元へ下りてくる。

 ケリーはその剣を受け取り、しっかりと握り締めた。ケリーは選ばれたのだ。儀式は成功した。

 そしてケリーは迷うことなく、それを腰に携えた。

 瞬間。フィデリオは違和感の正体を知る。

 カスケードである。ケリーのすべての所作のオリジナルは間違いなくカスケードだった。

 ぎゅうと手を握り締められて我に帰ると、儀式はすっかり終わっていて、目の前には無事大役を終えたケリーが立っていた。何度声をかけても返事をしなかったものだから、不安そうな表情で覗き込んでいたようだ。

 フィデリオの目がこちらを向いてくれたことでようやく安堵したケリーは、

(ぼく、上手にできていた?)

「ああ。上手だったよ。あの裾の捌き方なんて見事なものだ。あれは一体誰に教わったんだい」

(誰にも教わらないよ? だって、あの神殿にいる人たちは誰もぼくの言葉をきいてくれないからね。)

「じゃあ、どうやって覚えたんだ? 屋敷では誰も教えなかったはずだ」

(知らない。)

「そんなはずはない」

 一体だれなんだと尚も問いただすフィデリオの声音には、明らかな敵意が感じられた。

 ケリーは顔を顰める。フィデリオがどうしてそんなことに拘るのかが理解できないからだ。それでも懸命に応えようと、辺りを見回してみるが見当たらない。

 そう告げようとした時である。

 一人の青年の姿が目に飛び込んできた。

 あんな風に歩きたい。あんな風に立ち、振舞いたい。そう願い、どれだけの時間を費やして彼をみつめていただろうか。その人物が、今、自分と同じ場所に立っている。ケリーの心は震えた。

 その横では、ケリーの視線の先に立つカスケードを、険しい表情で睨み据えるフィデリオがいた。

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