三人の翼人 第10話

 見送りに出てきたサムは、不安である胸中をフィデリオに告げた。

「それは俺も同じだよ、サム。だけど─頼むからそんな悲しい顔をケリーには見せないでやってくれ。あの子には、いつでも帰ることのできる場所があるんだと──そう思わせてやりたいんだ。わかるね? サム」

「はい」

 サムはそう言って、すでに馬車へ乗り込んでいるケリーの元へ駆け寄った。

「ケリーさま。ガーデンへ行かれましたら、けしてつまみ食いなどという卑しい真似をしてはいけませんよ? それから、ベロニカを使って人様にご迷惑をかけることも─です。それから食事の好き嫌いを言ってもいけません。我儘もいけません。それから──それから────」

 サムの言葉が詰まる。あれほど見せてはいけないと言われたのに、やっぱりサムの瞳には涙が溢れる。窓から顔を出したベロニカが首を傾げた後、ぺろりとサムの頬を舐めた。

─サムのお小言を聞かないで済むと思うと、清々するよ。だからサム。泣かないで?

 ケリーはサムの頬に口づけた後、別れの挨拶をした。

「しばらく屋敷を空けることになるが。ルード、サム。後のことは頼んだよ?」

 そう言ってフィデリオは馬車に乗り込んだ。

 向かい合わせに座っているケリーは、俯いたまま顔を上げようとしない。両膝に乗せられている拳は強く握り込まれていて、ケリーの足元で寝転がっていたベロニカも、鼻を鳴らしながら頭を持ち上げ、我が主人を見上げた。

 フィデリオが御者側の小窓を軽くノックすると、直後に馬車はうねるように大きく揺れ、動き始めた。

 ぽつりとケリーの拳に涙が零れる。フィデリオに気づかれまいと、慌ててそれを拭った。しかし、何度拭っても馬車が揺れるたびに涙は零れ落ちてくる。

 その様子にフィデリオも気付いてはいたが、敢えて声はかけまいと思った。

 ケリーが必死の思いで隠そうとしているのだから、ここは気づかない振りをするべきなのだ。ケリーの涙の理由はわからない。オルレカのことなど小指の先ほども知り得ていないのだから、単純に考えれば、気心の知れたサムやルードとの別れを悲しんでいるのだろう。

 フィデリオは、車窓を流れていく見慣れた風景に目をやった。

 ガーデンでの生活は、ここでのものとは一変してしまう。サムやルードとの一時的な別れの悲しみが、ガーデンでは取るに足らないものだと思い知る瞬間がくるだろう。

 フィデリオの眉間に深いしわが刻まれる。

 剣の指南から、狩るべき紋章の見分け方など。ケリーが覚えなければならない事柄は数多くある。それらすべての指導をフィデリオが受け持つ。いつにも増してその大役に溜息が出る。

 神苑の儀。オルレカになる為の前段階的な“拝領の儀”が、恙無く終了したとしても、魂を狩る剣、神苑の剣に選ばれなければ、この儀式は失敗となり、また初めからやり直さなければならなくなる。

 オルレカとなるべき“花”を探しに当て所もない旅を始めなければならないのだ。それもいいかもしれないとフィデリオは苦笑する。次の花を探す旅にケリーを連れて行こう。きっと楽しい旅になる。

 だから、選ばれなければいい。

 フィデリオはそんな自分の考えを鼻で笑った。ケリーが選ばれないはずがないのだ。

 あの森で。初めてみつけた真っ赤な花。辺りの木々といわず、苔といわず、周囲を圧倒させていた赤い花の存在感は、間違いなくオルレカの資質を備わっていた。魂を狩るが故の孤高の魂が、森の中で凛と咲く一輪の赤い花にもあったのだ。

 記憶の中の風景が、車窓の景色へとゆるやかに変わる。視線をケリーへ向けた。

 ガーデンの人々の中に紛れれば、十四、五歳の少年と何ら変わらない姿をしている。それでも彼はまだこの世に生を受けてまだ一年そこらしか経っていなかった。

 その無垢な双眸に映るのが、累々と並ぶ屍のような人々であったり、幼き童であったりするのかと思うと。やはり、選ばれなければいいと思ってしまう。そんな思いを持て余しながら、じっとケリーをみつめた。

 彼の白い肌の上を、滑るように漆黒の髪が流れ落ち、涙を溜めているであろう双眸は、春の陽光を反射した湖面のきらめきのように輝いていることだろう。

 ケリーの美しさは、命の終焉を迎えた者が見るには相応しいものであり、神苑の剣を携えた彼は空恐ろしくなるほどの美麗さに違いない。

 おかしなものだ、と呟く。

 選ばれなければいいと願いながら、その実、選ばれて当然のような思考も働いてしまうのだ。フィデリオは、自分の矛盾した心の浅ましさを呪った。

 泣き疲れたのか。ケリーは俯いたまま窓に凭れ、眠ってしまっていた。

 顔にかかった髪を持ち上げ、肩にかけてやる。

 ずいぶんと伸びたものだな。

 ケリーの髪にはこれまで一度もハサミをいれたことがない。だからある意味思い入れがある。伏せた睫毛にも白い肌にも、艶やかな唇にも。

 フィデリオはそこで思考を止めた。

 小窓をノックすると、ステムの返事が返ってきた。今はどこら辺りを走っているのだろうかと問うと、これから山越えに入るところですという答えが返ってきた。

 目指すガーデンはまだ先である。フィデリオは座席に深く腰掛け、腕を組み、目を閉じた。



 フィデリオたちの乗った馬車は、日が暮れる前にガーデンへ到着した。

「これは決まりごとだから、いいね?」

 フィデリオはケリーをパンディオンの神殿へと連れて来た。

 仕える神の神殿で生活することは、すでに定められたことである。教育係であってもそれは曲げられない。ケリーはパンディオンの神殿でこれからは生活するのだ。そして、神苑の儀が行われる木染月の満月の晩まで、禊のためにケリーは神殿から出ることを許されない。

 ケリーは心細そうな顔でフィデリオの袖口を掴んだまま離そうとしなかった。見兼ねたステムがケリーの手を取り、サムの言いつけをもう破るのかと諭すように言った。

 ケリーは、別れ際のサムの泣き顔を思い出したのか、すぐにフィデリオから離れた。

 ステムは安心したように、柔らかな笑みをケリーに見せた後、フィデリオの方へ向き直り、荷物を運びますので、私はここで、と告げ、馬車の方へと戻って行った。

「ケリー。一先ずここでお別れだ。パンディオンさまは優しい方だから、安心するといい」

 フィデリオは、門番に改めて到着を告げた。門番が中に入ってから程なく、数人の女官を連れ立ったパンディオンが直々に出迎えにやって来た。

「よく来ましたね。私がパンディオンです。神苑の儀までのひと月半は、禊の為にフィデリオに会うことは許されませんが、儀が終われば出入りも自由になります。それまでの辛抱と思って、禊を済ませなさい」

 パンディオンの話し方はとてもゆっくりしていて、その後を追うように、フィデリオが筆談で内容を伝えてくれた。それが終わると、次は翼人としての挨拶が始まる。

「パンディオンさま。此度のスプレケリアの禊、併せて神苑の儀が恙無く終わりますことをお祈り申し上げます」

「フィデリオ。堅い挨拶など無用です。それよりも、日暮れまでまだ時間もあることですし、もうしばらくスプレケリアと過ごしていても良いのですよ?」

「いいえ。私はここでお暇いたします。いつまでも私の姿を見ていればスプレケリアに里心がつきましょう。別れがたいのは仕方の無いことですが、スプレケリアは賢い子です。私の真意をきちんと汲んでくれるでしょう」

 フィデリオは、パンディオンの心遣いをやんわりと断った。

 離れがたいのはむしろ自身の方だと悟っていたから、禊が済む間に自分の気持ちにも整理をつけて、晴れてオルレカとなったケリーの為に、尽力を尽くそうと思うのだ。

 ケリーにフィデリオの言葉はわからない。いつもの別れの抱擁がない現状が、言葉の代わりにそれと理解させた。

 フィデリオの目に映るケリーは、涙を堪えているいつもと変わらない泣き虫の少年だった。我儘を言ってはいけないというサムと交わした約束を、ただひたすら守っていた。

「では」

 フィデリオは軽く会釈をして門を離れた。振り返りもせずに階段をゆっくりと下りていき、石畳の道に出ると真っ直ぐオステオスの神殿へと歩いていくフィデリオの後ろ姿をじっと見送るケリーに、女官の一人が声をかけようとしたが、パンディオンがそれを遮った。女官たちはそれぞれ会釈をし、しずしずと神殿の中へと引き上げていく。

 門の前では、ケリーとパンディオンだけが───フィデリオを見送っていた。

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