三人の翼人 第5話

 朝日がまだ姿を見せてもいない、闇が残る明け方。

 まるで昼間のように明るく照らされた、ケリーの部屋の前。

 フィデリオは、微かに震える拳を扉に寄せた。

 無事であるはずがないことは先刻承知だが、それでも、一刻も早くケリーの顔を見て、安心したかった。

 固く閉ざされた扉を、幾度となく打ちつけてみたが、中からの返答は一向にない。衣擦れひとつ聞こえてこないことが、ガーデンから急ぎ戻ったフィデリオの胸に、一抹の不安を覚えさせた。

 神々の理屈に、一定の理解はしているつもりだ。それでも、この、一枚の扉を挟んだ向こう側で、大切なケリーが辛い思いをしているのかと思うと、フィデリオの胸は息苦しくなる。

 それ以上に、ケリーは音の無い世界で不安に押し潰されそうになっているのだ。

 ガーデンに上がってからでも良かったのではないのか。フィデリオは唇を噛み締めた。

 オルレカの職務の厳しさに、ケリーが耐えられそうにないと、そう判断されてからでも遅くはなかったのではないか。

 なにも知らないケリー。

 自分が何の為に在るのかも、オルレカに選ばれるということの覚悟も。

 これから少しずつ教えていこうとしていたのだ。

 間違いを繰り返さない為に。そうであるのに神々は無情にも刻限を迫り、挙句。

 握り締めたフィデリオの掌に、うっすらと血が滲む。

 それでも、ガーデンの輪を守る為に、オルレカは必要なのだ。フィデリオは、そのジレンマに顔を歪めるほかなかった。

 もう一度、扉を叩いてみる。やはり反応は返ってこなかった。

 ずずず、と力なく床に跪いた。

 様子を見に来ていたルードが、見兼ねて声をかける。

「フィデリオさま。お戻りになられたばかりですから、あちらでしばらくお休みになられてはいかがですか? ケリーさまは私が見ていますから」

 青白い顔で俯くフィデリオに、

「ケリーさまはいつも朝が遅いですもの。まだ起きていらっしゃらないだけですわ。夜が明ければ、きっとその扉も開きます。さあ、あちらでお休みになってくださいませ」

 ルードは精一杯の笑顔を見せた。

「いや、俺はここにいるよ。ここで休むことにする。ケリーが目覚めたら、俺が一番最初におはようを言ってやりたいんだ」

 フィセリオは疲れたように笑い、掠れた声で答えた。

「俺のことよりも、馬をゆっくり休ませてやってくれ。かなり無理をさせて走らせたからな。あれも疲れているだろう」

 フィデリオは、ガーデンから馬車ではなく馬を飛ばして戻って来たのだ。

 休みも取らず、馬上に居続けたフィデリオもかなりの疲労があるだろうに、そんなことより、と強引に山越えをさせた馬を労った。



 ルードが馬小屋を覗くと、遅れて戻って来たステムに、サムが食ってかかっているところだった。

「ガーデンで何があったのか、教えて。ケリーさまに何をしたの!」

「私はなにも知らない」

 ステムは素っ気なく答える。

「そんなはずはないわ。フィデリオさまと一緒にガーデンに行っていたんですもの」

「確かにガーデンには行ったが、そこでなにが行われたかまでは、私の知る範疇ではないよ。フィデリオさまだけがご存知なのだ」

「ケリーさまはね。音も聞こえないし、話すこともできなくなったのよ?」

 ステムは呆れたように、短い溜息を吐き、

「ガーデンでなにかが行われたのは事実だろうが、それらすべてを私たちが知る必要もなかろう。今後、ケリーさまの身にどんなことが起きようとも、それはすべてガーデンの意思なのだ。私たちはそれに従うまでだ」

 ステムの回答に、サムの顔が一気に紅潮した。

 激昂するサムは腕を振り上げたが、ルードが速やかに割って入り事なきを得た。

「ステム。あなたが従うのは──誰の意思?」

 ルードが静かに問う。

「可笑しなことを訊くものだな。私の主はフィデリオさまだけだが……」

 ステムは、そう言って一頭の馬を連れ出した。ルードは黙ってそれをみつめている。

 どこへ行くつもりなのか、と怒りが治まらないサムが怒鳴った。

「山越えで疲れた馬を水浴びに連れ出すところだ。用があるのなら、湖まで呼びに来るといい。──私はそこにいる」

 馬を連れ立って行くステムを見送りながら、ルードはサムに声をかけた。

「不安に押し潰されそうなのは、ケリーさまなの。あなたや私が取り乱していたら、一体どうなるの? こんな時だからこそ───サム。私たちがしっかりしないといけないのよ」

「わかっているけど……」

 サムの声は震えていた。わかってはいても、あの晩のことが忘れられないのだ。

 ケリーが握り締めた、自分の手を一頻り眺めた後。見上げた蔦の這う屋敷の石壁。山裾から伸びてきた朝日が反射する二階のガラス窓。

 いつもの朝なら、あの窓を派手に開けた笑顔のケリーが、サムに向かって憎まれ口を叩くのに。

 その憎まれ口でさえ、今は酷く懐かしい。

 サムは、ルードの肩に凭れかかり、小さな嗚咽を漏らした。

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