第12話

 「秒読み」、百五十。

 百五十数える間にヴァートがエリオットから完全な一本を奪わなければ、その時点でヴァートの負けが決まってしまう。

 それまでの攻勢から一転して、ヴァートは圧倒的不利な状況に立たされた。

 審判がヴァートとエリオットの間に立つ。

「始めッ!!」

 再開の合図――ヴァートに残された時間、わずか百五十。


「なんとまあ、見事なものだ」

 マーシャが感嘆の声を漏らす。

「あの状況で、手首を痛めたふり・・・・・・・・とは。恐ろしい胆力の持ち主ですね」

 相手を仕留めにかかる瞬間。それは、武術家にとってもっとも気が緩む、油断の生まれやすい瞬間である。

 苦痛に顔を歪めたのも、剣の握りが緩んだのも、すべてその一瞬を生み出すための擬装。ヴァートは、まんまと騙されてしまったのだ。

 力が拮抗した者同士の戦いは、突き詰めれば化かし合い、騙し合いに帰結する。相手の裏をかいたほうの勝ちだ。

「あれもひとつの幻惑術さ。悪く思うな、グレンヴィル」

 リゲルが、にやりと笑う。

「いえ、敵の策にはまったヴァートが未熟なだけです。しかし――」

 マーシャは、試合場のヴァートの表情をうかがう。闘志の炎、いまだ衰えず。

「まだ試合は終わっておりませぬぞ」


 「秒読み」がかかり、エリオットとしては残り時間を護りに徹すれば勝利は揺るがない。しかし、準々決勝のアレン・ディクソン戦で見せたように、エリオットはそのまま坐して試合終了を待つような男ではない。

「ふッ!!」

 エリオットが、果敢に打って出る。

「ッ!?」

 「秒読み」に入ったことで、ヴァートには焦りが生じている。エリオットの幻惑をちりばめた連撃に対する反応が、わずかに遅れてしまっていた。防戦一方となりながらも、辛うじてエリオットの剣を捌く。

 エリオットの攻撃が一瞬途切れた隙に、ヴァートはたまらず距離をとった。エリオットも、激しい連撃を繰り出したことで、息が乱れている。無理にヴァートを追おうとせず、いったん仕切りなおしとなった。

 そのときである。ヴァートの視界に、ファイナの姿が入った。両手を合わせ、祈るような表情で試合を見守るファイナ。

 前にも、こんなことがあった――そう、他ならぬ、マット・ブロウズとの一騎打ちだ。

(そうだ……俺には覚悟が足りなかった)

 たとえ模擬の手合わせだとて、常に真剣勝負のつもりで、命を賭す心構えを持つべし。ハミルトン道場でも、桜蓮荘でも、嫌というほど聞かされた言葉だ。

 ヴァートとしても、その言葉に従い、常に死を覚悟して戦ってきたつもりだった。しかし、甘かった。

 大きく息を吸って、鼻から吐き出す。

(思考を切り替えろ――この状況から生き残るためには、どうしたらいいのか――大事なのはそのことだ)

 飽くなき「生」への執着こそが、武術というものの本懐である。敵を倒すということは、あくまで結果に過ぎぬ。

 とたん、ヴァートの思考が明瞭になった。

「むッ……!?」

 距離を詰めようとしたエリオットの足が止まる。ヴァートの身に纏う空気が一変したからだ。

 それは、殺気とは別のなにか。ヴァートが持つ揺ぎない決意が、鎧となってその身を包んでいる――エリオットはのちに、そう述懐する。

 

「ようやく、本領発揮といったところにござるな」

「ええ。死に際の集中力――あれは、ヴァートさんだけが持ち得るものですわ」

 暗殺者に胸を刺し貫かれ、ヴァートはあのとき死んだはずであった。ヴァートが生き延びることができたのは、奇跡的な幸運に恵まれたからに過ぎない。

 ともあれ、九死に一生を得るというのは、普通なかなかできない経験であろう。「死」というものを誰よりも間近で感じたヴァートだ。そして、自分を逃がすために命を散らした家族の姿は、今でも脳裏に焼きついて離れない。だからこそ、ヴァートの「生」に対する執着は、人一倍強い。

 その強い執着心が、ここぞという場面での集中力を生み出しているのだろう――かつてマーシャは、ミネルヴァやアイにそう語った。


 刻々と残り時間は減っていくが、ヴァートはまだ動きを見せない。

 ヴァートがここから逆転するには、完全な一本――すなわち、真剣勝負であったならばその一撃で相手を絶命させるであろう、致命打を与えなければならぬ。

 幸い、エリオットは時間切れを狙うような性質たちではない。なれば、好機はかならず訪れるはず。そのときを見極め、確実にものにしなくてはならない。

 二人は睨み合ったまま、時間だけが過ぎていく。

「あと五十!」

 時間を計測する副審判の声が上がる。

 

「あのエリオット様が打ち込めぬとは……末恐ろしいものだ」

 今度は、リゲルが感嘆の声を漏らした。

 ヴァートと睨み合っている間も、エリオットは観客たちの目では判別できぬ細かな幻惑を入れ、踏み込みの機会を狙っていた。

 しかし、深い集中に入ったヴァートには、それが一切通じていない。

「まったく馬鹿者め、最初からその力を出していればよいものを……こうもむらっ気・・・・があると、見ているほうははらはらさせられる」

 マーシャは大きく嘆息した。

「しかしこの勝負、私の目をもってしても、どう転ぶのかわかりませぬ。エリオット殿も、牙の一本や二本はまだ隠し持っているのでしょう?」

「ああ、無論だ。それも、とっておきの奥の手がな」

 

「あと二十!」

 残り時間はあとわずか。ここで、エリオットが大きな動きを見せた。

 身体をたわませた前傾姿勢――速い踏み込みを狙う構えだ。

(しかしこのエリオットのことだ、素直に突っ込んでくるはずがない)

 ヴァートの狙いは、ただひとつ。エリオットが本命の一撃・・・・・を放った際にできる、一瞬の隙を突く――すなわち、返し技による一本だ。

 エリオットがどのような技で勝負を決めにくるのか、それを見極めることができなければヴァートに勝機はない。

「……いくよ」

 エリオットのどこか気だるげな両眼が、細められた。

「来い」

 対するヴァートの構えは正眼。攻防の均衡の取れた、基本の構えだ。

「しえいッ!!」

 エリオットが踏み込んだ。

 ヴァートはその動きに、ほんのわずかな違和感を覚える。

「『幻影』か!!」

 「幻影」は、エリオットの師・リゲルの得意技だ。勝負を決する場面で繰り出すのに相応しい技といえる。

 ヴァートははじめ、エリオットが左に動いたように感じた。「幻影」とは、本来の進行方向とは逆に動いたように錯覚させる技である。ならば、実際エリオットが狙うのはヴァートの右側――

(いや、違う! やっぱり左だ!)

 「幻影」は、二重に仕掛けられていた。

 しかし、極限まで高められたヴァートの集中力は、それを瞬時に看破した。自らの左側をかばおうとしたその瞬間である。

 ぞくり。

 ヴァートの背筋に、戦慄が走る。

 両足を踏みしめ、強引に身体を反転させた。

 果たしてそこには、剣を振りかぶってヴァートに迫るエリオットの姿があった。

 三重の「幻影」――一度の踏み込みの間に、エリオットは三度にわたって幻惑術を仕掛けたのである。

 生半な武術家ならば、二度目の「幻影」の時点で頭が混乱し、なす術もなくエリオットの剣の餌食となっただろう。

 三度目の「幻影」を見切ることができた理由は、理屈では説明できない。ヴァートの持つ生存本能が、エリオットの放つ剣気に反応した――言葉で表すなら、そんなところだろう。

 ヴァートが自らの踏み込みに反応したことに、エリオットの両眼は見開かれる。しかし、斬撃の体勢に入っていたエリオットは、そのまま剣を振り下ろした。

「おおッ!!」

 気合声とともに放たれたのは、なんの幻惑も差し挟まぬ、愚直な上段斬り。

 エリオットの幻惑術を警戒しているだろうヴァートにとっては、逆にこれが一種の幻惑となる――それがエリオットの思惑であった。確かに、エリオットの剣を目で追い、頭で読みきろうとしたならば、ヴァートはそれに対処することができなかっただろう。

 しかしヴァートの本能は、思考よりも先に反応した。即座に剣筋を見切ると、回避の体勢に入る。

(回避は可能! しかし、ただ避けるのでは駄目だ!!)

 反射的に後ろに下がろうとした身体を、意志の力でその場に押しとどめる。

 大きく退いてしまっては、エリオットに逆転の一手を打ち込むことができなくなる。ヴァートはわずかに身体を開き、上体を捻る。

 瞬間、ヴァートは時間がひどくゆっくり流れるのを感じた。それは、極度の集中が生み出した錯覚だったのだろうか。限界ぎりぎりの、紙一重の回避――エリオットの剣が、自分の身体の皮一枚を切り裂く感覚。

 刹那にも満たぬわずかな時間、ヴァートはエリオットと眼が合った。ヴァートは、その口元に一瞬笑みが浮かんだような気がした。

 鈍い打撃音が響く。

 ヴァートの木剣が、エリオットの無防備な脇腹を打った音だ。真剣ならば、内腑が零れ落ちていたであろう、完璧な一撃である。

「勝負あり!!」

 審判の宣告。

 しかし――審判の手は、エリオットに向けられていた。


 ヴァートは愕然とする。そして、それはエリオットも同様であった。

「どうして!? 時間はまだ残っているし、彼の一撃は確実に私を捉えたはずです」

 抗議の声を上げたのは、エリオットであった。勝者が判定に異議を申し立てるなど、普通はありえないことだ。審判も困惑気味である。

「い、いや、直前のエリオット・フラムスティードの上段斬りを有効打とし、その時点で一本ということだ」

 審判の目には、エリオットの斬撃がヴァートの身体にしっかりと当たっているように見えたということだろう。が、ぎりぎりで回避されたということは、エリオット自身が一番よくわかっている。

「しかし! あの一撃は――」

 なおも食い下がろうとするエリオットだが、ヴァートがそれを制した。

「いいんだ。さあ、試合終了の礼をしよう」

 一度下った裁定に異を唱えることを、ヴァートは潔しとしなかった。

 それに――結果こそ負けであったが、自分の戦いにヴァートは満足していた。悔しさがないといえば嘘になる。憧れのマーシャのように、無敗の大記録を打ち立てたい――そんな野心も、まったく抱いていないわけではなかった。

 しかし、エリオットという強敵と、自らのすべてを出し切って戦うことができた。むしろ、清々しい気分なのだ。ヴァートはエリオットに背を向けると、開始線に向かう。

 ヴァートにそう言われては、エリオットも引き下がるしかない。苦々しげな表情で歩き出すのだった。


 試合場脇に立つリゲルは、なんとも言えぬ微妙な表情を浮かべている。本来は、主であり、自らの弟子でもあるエリオットの勝利を喜ぶべき立場なのだが――優れた武術家である彼のこと、審判の判定が誤りであることに気付いていた。

「グレンヴィル、いまの結果は――」

「そこから先は、仰られぬよう。此度の勝負はエリオット殿の勝ちに間違いございませぬ」

 マーシャが、リゲルの言葉を遮った。

 ヴァートの見切りは、まさに紙一重。実際、エリオットの剣はヴァートの身体にほんのわずかながら触れていたのだ。審判も人間である。見誤ったのも仕方のないことだ。

 それに、「秒読み」という制度にも欠点はある。相手の攻撃によって負傷し、血が流れ出した場合のことを想定した制度であるが、失血によって死亡するまでの過程については考慮されない。本来大量に出血した場合、時間の経過とともに体力と集中力が失われていく。つまり、時間が経てば経つほどヴァートは不利な状況になっていたはずなのだ。負傷によって、身体の動きが鈍ることもある。

 百五十の「秒読み」時間の最後までヴァートが満足に戦えたのは、これが模擬の試合だったからなのだ。勝負に「もしも」はないけれども、これが真剣勝負だった場合、ヴァートは時間切れを待たずして敗れていたかもしれない。

「わかった。だが――いい試合だったな」

「ええ、とても。わが弟子も、いい経験になったことでしょう」

 そう言うマーシャの表情は、実に満足げであった。



 激闘を終えた翌日のことだ。

 桜蓮荘の中庭には、いつもの面々のほかに、エリオット・フラムスティードとヴィンス・リゲルの姿を見出すことができる。

「君も頑固だねぇ、ヴァート・フェイロン。どうしても受け取らないつもりかい?」

「だから、いいってば。頼むから、それは持って帰ってくれ」

 二人の間を、皮袋が行き来する。中身は、前日の大会の賞金だ。二人はしばらくの間、その皮袋を押し付けあっていた。

「昨日の勝負は私の負けだ。試合の記録は覆らないけれど、せめてこれだけは受け取ってもらわないと私の気が済まない」

「何度も言ってるじゃないか。昨日の勝負は俺の負け。賞金を受け取らなきゃならない理由はない、って」

 二人の主張は平行線であった。

 そんな二人を見守る桜蓮荘の面々は、一様に苦笑を浮かべている。

「エリオット様はあれでいて頑固なところがあるからなぁ。そちらが譲らないと、日が暮れるまでああしているぞ」

「頑固なのはヴァートも同じですよ、リゲル殿。まあ、ほどほどのところで仲裁に入りましょう」

 と、マーシャは肩を竦めた。

 意見を譲ることはできないけれども、ヴァートはエリオットにすっかり好感を抱いていた。自らの負けを認める潔さ、真っ直ぐな心根、そして前日の試合で見せたエリオットの剣技――自分同様、厳しい修業を耐え抜いてきた男だということは明らかだ。

「本当に強情だなぁ……そうだ、いいことを考えたよ」

「ん? いいこと?」

「ああ。この賞金、今日のところは、私が預かろう。そして、次に大会で私たちが相まみえたとき、負けたほうがこれを手にする。どうだろう」

「それは面白いかも……しかしそれなら、その次の試合で負けたほうに、またこれを渡すってのはどうだ?」

「なるほど。私たちが一線から身を引くまで、最後に負けたほうがこの賞金を手にする。そういうことだね」

 ヴァートは頷いた。

 賞金を受け取るということは、相手の主張を受け入れたのと同じことだ。どちらの主張が勝つのか、その決着がつくのは遠い未来に行われるであろう二人の勝負に持ち越されることになる。

「わかった、その提案受け入れよう。これは約束だよ。申し訳ありませんが、この場にいる皆様に証人になっていただきたい」

 マーシャ、リゲル、アイ、ミネルヴァの四人は、これに首肯した。

「そういうことで――これからもよろしく頼むよ、ヴァート」

 エリオットが、右手を差し出した。親しげに名前呼びされたヴァートであるが、相手は貴族の子息だ。どう応じるべきか、一瞬の躊躇を見せたものの――心からの親愛を込めて、その手を握り返す。

「ああ、よろしく、エリオット」

 のちに終生の友となり、また好敵手ともなる二人。その関係は、まだ始まったばかりであった。


 剣士ヴァートの初陣・了

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