剣士ヴァートの回生

第1話

 夜更けの王都・レンの街を、一人の少年が駆けていた。

 年のころは十二、三か。十五を越えていないことは間違いない。癖の強い金髪と、鮮やかなみどり色の瞳が特徴的な少年だ。しきりに周囲を気にするその目には、恐怖の色がありありと浮かんでいる。

 衣類は土埃にまみれ、擦り切れた膝頭には血が滲む。

 早春の夜の冷たい空気の中、少年は全身にびっしょりと汗をかいていた。足下はふらつき、覚束ない。

 とうとう耐えかねたのか、その場に立ち止まり膝に手をやって荒い息を吐いた。しかし、背後から轟く複数の人間の足音を聞くや、少年はふたたび走り出した。

 少年は、追われていた。

 夜も遅く人通りが絶えた裏通りとはいえ、ここは九十万の人口を擁する世界有数の大都市、レンである。大声で叫べばすぐに人が集まるだろうし、官憲に助けを求めることもできよう。しかし、少年はそうしなかった。それに思い至らなかったのか。それとも――できない理由があったのか。

「父さん……」

 呟きながら、重い足を引きずるようにしてなおも少年は走る。

 追っ手らしき集団の気配は、着実に少年との距離を縮めつつあった。


 マーシャ・グレンヴィルがその場面に出くわしたのは、ただの偶然であった。

 馴染みの酒場で一杯やった後のことである。当年二十七になるが未婚であり、酒が何より好きな彼女は、しばしばこうして一人酒場に繰り出すことがあった。酔い覚ましに少し歩こうと、いつもより遠回りをして自宅へ向かっている途中のことだ。

 少し先の四つ辻を、一人の少年が駆けていくのが見えた。こんな時間に年端も行かぬ少年がなぜ――いぶかしむマーシャの前を、さらに三人の男が駆けていく。

 どうやら、少年が男たちに追われているらしい。尋常ならざる事態のようである。マーシャは迷わず走り出した。

 マーシャは女ながら平均的な成人男性よりも一つ抜けた長身であり、足も長い。一歩一歩が力強く、鍛錬のあとが見える。彼女が少年たちに追いつくのに、そう時間はかからなかった。

 石塀に囲まれた袋小路の奥で、少年が組み伏せられていた。追っ手らしき男の一人が少年の腕を抑え、もう一人が口に布を噛ませる。そして残る一人は少年に馬乗りになり、腰から短剣を引き抜こうとしていた。

「待て! きさまら、何をしている!」

 マーシャが大喝した。男たちはマーシャを一瞥したが、動揺した様子は見せなかった。

 馬乗りになった男は短剣を振り上げる。マーシャは舌打ちして駆け寄ろうとするが、距離はまだかなりあった。男は無慈悲に短剣を振り下ろす。

「止めろッ!」

 マーシャの制止の声も空しく――短剣は少年の身体に突き刺さった。胸部への一撃。心臓だ。遠目からもそれとわかる致命傷だった。

「……ッ!」

 思考が怒りに染まり、マーシャの足が一層速まる。マーシャは丸腰であったが、武装した男たちに恐れをなす様子もなく間合いを詰めた。

 少年の腕を押さえつけていた男が短剣を抜き、マーシャを迎え撃つ。

 と、マーシャと男との距離が、一瞬にして零になった。少なくとも、男にはそう感じられただろう。足捌きと歩幅を微妙に変えながら踏み込むことで相手の距離感を狂わせる、高度な技術である。

 虚を突かれた男であったが、それでも冷静にマーシャの顔面に右手の短剣を突き込もうとする。

 しかし、刃は空を斬った。そして次の瞬間短剣は男の手を離れ、音を立てて地面を転がる。刃を避けると同時に放たれたマーシャの手刀によって、男の手首の関節が砕かれたのである。

 残された二人は素早く目配せすると、俊敏な動きで袋小路の塀を乗り越えた。

「待て!」

 マーシャが気を取られた一瞬の隙を突き、手首を砕かれた男も踵を返しマーシャがやって来た方向へ走り出す。

 直ちに逃げ出すことを選択した男たちの判断は、結果的に正しかったといえる。なぜならこのマーシャという女性は、男たちが束になったとて到底敵う相手ではなかったのだから。

 マーシャはすぐさま男たちを追うことにした。少年はもう助からない。ならば、せめて犯人を捕えてやろうと考えたのだ。二手に分かれた男たちのどちらを追うべきか――一瞬、マーシャに迷いが生じた。そのときである。

「……ッ、ぐッ……!」

 かすかな呻き声が、少年の口から漏れた。

 特に、胸への一撃。あれはどう見ても致命傷だった。普通なら声一つ上げる余裕すらないはずだが、なぜ――

「これは……?」

 マーシャが目を見開いた。少年の傷は、心臓を損傷したにしては驚くほど出血が少ない。

「もしかすると助かるかも知れぬぞ、少年」

 凶賊を取り逃がしたことは不本意ではあるが、無論人命には代えられぬ。マーシャは少年を抱え上げると走り出した。


「まったく、奇跡と言うほかないわい。この小僧の胸を刺し貫いた刃は、心臓本体や重要な血管をことごとく避けて通っておる。肺にも傷がない。重傷には違いないがの」

 禿頭とくとうに浮かんだ玉の汗を拭いながらそう言ったのは、マーシャ馴染みの老医師である。名をシオドア・ホプキンズといい、口は悪いが腕は確かだ。立派な白い顎鬚を蓄えているので、ところの者たちからは髯の先生、などと呼ばれている。夜遅く診療所のドアを叩いたマーシャにさんざ悪態をつきながらも、見事な手際で傷の処置を終えたところだった。

 予断は許さぬ容態なれど、少年は危ういところで一命を取り留めた。

「しかし、自分の目が信じられませんでした。このようなこともあるのですね」

 安堵したマーシャが言った。

「うむ。臓器の位置や大きさには個人差があるでの。珍しい例だと、全身の臓器が全て鏡写しになっていることすらあるという。この小僧の場合、常人に比べ心臓がやや上に位置しておる。そのためか、普通なら心臓を貫いたはずの刃が、上手いこと心臓・肺・肝臓の隙間に滑り込むかたちになったのじゃろう。まあ、悪運が強いとはこのことよ」

「悪運とは、また口の悪い」

「ふん。人間、生き永らえることが必ずしも幸福だとは限らん。わしが救った者の中にも、いっそ死んでしまったほうがマシだと思えるような末路を辿った人間が大勢おるわい」

 なかなかにひねた人生観だ。しかし、この少年に関しては一理あるようにも思えるマーシャだった。

 少年を襲った男たちの動きは、素人のものではなかった――というより、高度な訓練を受けている者のそれであった。おそらくは、職業的な暗殺者。

 少年の殺害に成功したことを確信したから、男たちはあっさりと引き下がったのだ。もし少年が生きていることが露見すれば、彼らはふたたび少年の命を狙うだろう。

 少年が、必ずしも善なる存在であるとは限らない。自らのよからぬ行いが原因で、然るべき報いを受けようとしていたところだったのかも知れぬ。しかし、徒党を組んで年端も行かぬ子供を殺害せんとする連中が、「悪」でないはずがない。

 腕組みしてややしばらく考え、マーシャは口を開いた。

「申し訳ないが、この件――内密にしていただけないだろうか」

「通報もするな、と? 仮にも殺人未遂事件じゃぞ」

 マーシャは頷く。少年が死んだものと思われている間は、少年の安全は保障される。王国の治安を守る役割を担っている警備部は、豊富な人員で組織的な犯罪捜査をすることができるけども、それだけ多くの人間に少年の生存が知られることになる。

「……ふん。何か考えがあるようじゃの。勝手にするがいい」

 老医師は嘆息し、ぶっきらぼうに言った。


「首尾は」

 豪奢な調度品で飾られた部屋だった。これまた豪奢な衣類に身を包んだ男が、黒装束の男に尋ねた。

「間違いなくった。心配はいらねぇ」

「しかし、なぜ死体を回収できなかったのだ」

「邪魔が入ってな」

「ならばその邪魔者も始末すればよかったではないか」

「ありゃあ、勝てん」

「お前たち三人がかりでもか」

 黒装束の男は肩を竦めるのみだ。先ほど、マーシャ・グレンヴィルの眼前で少年に短剣を突き立てた賊である。

「この稼業は、鼻が利かないと長生きできねぇ。あの女はとびきり危険な匂いがしたぜ。十人がかりでも勝てたかどうか」

 男は、自らの失態を誤魔化そうと大げさに語ったわけではない。あくまでも冷静にマーシャの実力を測ったうえでの物言いだった。そのことは、雇い主らしき男も承知している。

「わかった、下がれ。それから、今宵のことは……」

「言われるまでもねぇ。あんたが俺たちを裏切らない限り、あんたの秘密は未来永劫守られる。それが、俺たちギルドの鉄の掟だ」

 殺人者は、物音一つ立てず部屋から姿を消した。

「ま、よいわ。官憲に死体を調べられたとて、どうにかなるものでもない。何しろ、あ奴はこの世に存在しないはずの人間なのだからな」

 男は、窓から差し込む月明かりの下、嗤った。

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