異世界に渡ってきたけれど

鈴森一

第1話 いきなり死にかける

  最後に覚えているのは、迫りくるトラックから放たれる眩しいヘッドライトの光。どうしてそんな状況になったのか、そしてその後どうなったのか、その前後のことはよく覚えていない。トラックがヘッドライトをつけているということはおそらく夜だったのだとは思うが、分かるのはそれくらいだ。


 ただ眩しかった。目を開けていられないほどに眩しくて、だから俺は目をつぶる。それでもまぶた越しに光が近付いてくるように感じた。そうして光に全身が包まれるような不思議な感覚――それが、俺の覚えている最後の記憶だった。



 次に気がつくと、そこは森だった。


「…………は?」


 俺は思わず変な声をあげてしまう。気恥ずかしくなったが、幸いにも周囲にはその声を聞いているような人間は誰もいない。

 いや全然幸いじゃない。まだ誰かいてくれた方がこの状況ならよっぽど心強かった。


 気を取り直して周囲をもう一度見回して確認する。


 ――やはり森だった。それもかなり深い感じの森。いや、どこだよ、ここ。


 全く見覚えのない場所だ。しかも夜。どっちに歩けば森を抜けられるのか見当もつかない。どうしてこんな状況に陥っているのかも分からないが、次にどうすればいいのかもさっぱり分からない。八方ふさがりの状態だった。


 こうなったら適当に進んでみるかと、俺は足元に転がっていた木の棒を拾い上げ、その棒を適当に倒して進路を決定した。


 そうしてしばらく歩いてみたが、代わり映えのしない風景が続いている。本当にこのまま進んでもいいのだろうか? そんなことを思ったタイミングで、少し先の茂みから黒い何かが姿を見せた。


 犬、よりはオオカミに近いだろうか。オオカミの体毛を長くして頭髪用のワックスでピンピンに立たせたような、そんな生き物。

 当然だけど、俺はそんな動物を知らなかった。


 未知の獣が深い闇を思わせるような真っ黒な目でこちらを見ている。ただ見ているだけだが、俺には分かった。

 ――狙われている、と。

 理屈ではなく感覚、あるいは本能と呼ばれるものが「アレは危険だ」と告げてくる。


 逃げるか? と一瞬だけ考えて、俺はその考えを捨てる。

 逃げ切れる気がしないのもあるが、アレから目を逸らすことがどうにも危険に思えた。


 しかし、そうなると選択肢は……。


「……戦う? いや、それはさすがに……」


 仮にあの獣がドーベルマンくらいの強さだとして、それでも素手というのはさすがに無謀だ。いや、そもそもドーベルマンとだって戦ったことはないから分からないのだけど、せめて金属バットくらい欲しい。


 そんな無いものねだりを考えていると、突然目の前の獣が大きな咆哮をあげた。空気を震わせるようなそれに驚いて、俺は思わず一歩後ずさりをしてしまう。


 ――そして、次の瞬間には目の前で獣が大きな口を開けていた。


 5メートル以上はあったはずの距離をまばたきするような一瞬のうちに詰めて、その上的確に急所の喉元を狙っている。

 それは反則だろう、と言いたくなった。いくらなんでも速すぎる。


 普通の人間には反応出来るはずのない速度。けれどどうしてか俺の体はそれに反応していて、とっさに左腕で防御していた。

 しかし防御といっても首のかわりに左腕を差し出しただけで、状況が良くなるわけではない。むしろ逆だ。


「っ……!」


 激痛。牙がジャケットを貫通し、肉に食い込み、骨に到達する。だから痛いのは当然だった。

 けれど不思議なのはどうしてかそんな状況を、俺が冷静に把握しているということだ。

 普通だったらもっとこう、パニックとかを起こしてもおかしくない。

 そしてその隙に骨が砕かれて食いちぎられるはずだ。


 しかし今の俺の頭は、どこまでも冷静に考えを巡らせていた。

 ――反撃するなら、目か?

 次の瞬間には迷わずに、右手の指で獣の眼球を穿っていた。


「ガァァァァ!」


 苦悶の咆哮をあげて獣が食いついていた俺の左腕から離れる。俺はすかさず空中にいる獣の顎を蹴り飛ばした。


 そこで俺は一つの違和感に気付く。何というか、思っている以上に体が軽いのだ。元々運動自体は苦手ではなく、むしろ得意な部類ではあった。


 けれどいくらなんでも左腕に噛みついてきた獣の眼球にノータイムで反撃を入れて、その上で腕から離れた獣が着地する前に蹴りを入れられるほどの超人ではなかったはずだ。


 理由は分からないが、とはいえそれで困るわけでもない。むしろこれならあの獣が相手でも、何とかなるかもしれない。

 体勢を整えた獣は唸るような声をあげながら、再度こちらを狙っているようだった。


 そして最初と同じように、目にも止まらぬ速さで喉元を狙って飛びかかってくる。


 ――そうだ。


 ――喉元を狙っていると、何故か俺には最初のときから分かっていた。


 見えるはずのない狙い。反応出来るはずのない速度。けれど今の俺にはそれが見えるし、反応することが出来る。


 だったら――さっきと同じパターンの学習しない攻撃なんて、対応出来ない方がおかしい。


 俺は右手で拳を握り、振り上げたそれを向かってくる獣の鼻先へと、ただ全力で振りぬいた。

 ぐしゃりと、骨が砕ける感触。俺のじゃない。獣のそれだ。


 そこでふと、手ごたえが消失する。見るとそこにあったはずの獣の姿が、黒い霧のようになって消えていった。

 そして直後に、ころん、と何かが落ちる音がする。そこには水晶のような、透き通った石が落ちていた。


「……? さっきの獣が落としたのか?」


 拾ってみるが、価値があるものなのかはさっぱり分からない。しかしそんなに重いものでもないので、とりあえず持っておくことにしてポケットに放りこんだ。

 分からないことばかりだが、とりあえずは危機を脱したようだ。


 しかし根本の問題は何も解決していない。この森を抜けるまでは安心なんて出来るはずもないのだから。

 さて、状況は結局振り出しに戻ったわけだが、どうしたものか――。


 そんな風に思案に暮れていると、後ろから不意に声をかけられた。


「おぬし、こんなところで何をしておる?」


 口調とはアンバランスな、少女のように澄んだ声。

 俺は反射的に声のした方に目を向ける。


 そこにいたのは、純白でフードつきのローブを纏った、それこそ十二、三歳程度の身長の少女だ。樫の木を削りだして作ったような、少女の身長ほどの長さがある杖が特徴的だった。


 しかし何よりも特徴的なのはその長い髪の、色だ

 月明かりに照らされてか、どこか青みを帯びた綺麗な銀髪は、どこまでも幻想的だった。


 顔に目を向けると、すっと通った鼻筋に、形のよい唇とあごのラインは将来美人になることを保証している。

 そして吸い込まれそうなほどに大きな深紅の瞳が、真っ直ぐに俺を見ていた。


 そんな現実離れした美少女の問いかけ。それに俺は答える。


「……分からない」

「分からない? ……まあよい。それよりこのあたりでアサルトウルフの咆哮が聞こえたと思うのじゃが、心当たりはないか?」

「アサルトウルフ……?」


 聞きなれない単語だ。けれどウルフというからには狼の類だろう、それなら心当たりはある。だからそう言おうと思ったが、先に口を開いたのは少女の方だった。


「アサルトウルフを知らんのか? ……おぬし、ギルド所属の冒険者ではないのか? そうとすれば何故このようなダンジョン化した森の奥におるのじゃ?」

「ちょ、ちょっと待ってくれ。そんな一度に質問されても答えられない」


 ギルドに冒険者にダンジョン。ゲームや小説の中でしかまず見かけないファンタジーな単語のオンパレードだった。


「それもそうじゃな。……ではまず、おぬしは何者じゃ?」

「何者って言われても……俺は普通の学生だよ。気付いたらここにいて、右も左も分からないうちに妙な獣に襲われて、それを倒したと思ったら突然あんたが声をかけてきたんだ」

「倒した……?」


 そう呟きながら、少女は俺の左腕辺りに目線を向けた。


「というかおぬし、それは痛くはないのか?」

「それ……?」


 言われて、俺は自分の左腕を見る。そこにあるのは肉が食いちぎられて血まみれになった左腕。どうして今まで気付かなかったのか。


 ただ一つだけ分かるのは、気付いてしまった以上、これは滅茶苦茶痛いということだ。

 というか痛いどころの騒ぎじゃない、冷静に考えれば完全に致命傷だ。


「正直に言って死にそうなほど痛い。というか放っておくとこのまま死ぬまである」

「まあ普通に考えたらそうじゃろうな……という割には落ち着いておるが。……仕方ない、治してやるから少し大人しくしておれよ?」

「治すって、あんた医者か何かなのか?」

「医者ではないが……あんな不確かな連中よりは、よっぽど腕は確かじゃぞ?」


 そういって少女は得意げに笑った。

 かと思うと、次の瞬間には両手に持ち替えた杖をバットのように振りぬく。

 狙いは俺の左腕。当然ながら俺は後ろに跳んで避けた。


「こら、大人しくしておれと言ったじゃろ!」

「いや無茶言うなよ! 俺に止めを刺す気満々じゃねぇか!」

「確かに珍しい手法かもしれんが、これもちゃんとした治癒魔法じゃと言うのに」


 治癒魔法? またファンタジーな単語だ。

 まさかとは思う。けれどここまで来れば、俺にだってある程度察しはつく。


 もしかしたらここは、この世界は――。


「……まあよい。医者が怖い子供の気持ちというのは儂には分からぬが、そのようなものとして理解してやらねばのう。ということで杖はやめじゃ。うーむ……よし決めた。少し恥ずかしいかも知れんが、それくらいは我慢するのじゃぞ?」


 そう言って優しい笑みを浮かべながら少女が近付いてくる。

 いや、俺は別に医者が怖いとか、そういうわけじゃない。誰だって杖でぶん殴られそうになったら逃げる、あれは脊髄反射だ。


 俺はそう反論したが、少女はその意見を瑣末なこととして、幼い子供に向けるような慈愛に満ちた笑顔で黙殺する。いや、そんな目で俺を見ないでほしい。

 だが俺のそんな気持ちを無視したまま、目の前までやってきた少女は俺に言った。


「ほれ、少しかがんでくれんかの?」

「ん、こうか?」

「うむ。ではいくぞ? ……『女神のくちづけ』」


 少女がそう呟くと同時に、俺の唇に彼女の唇が重なった。

 その柔らかい感触に一瞬何が起こったのか分からなかったが、次の瞬間、俺の全身が燃えるように熱くなってそれどころじゃなくなる。


 そうして集まった全身の熱が、徐々に左腕に集中していくような感覚があった。温かいとか、そんな生易しいものじゃない。腕が燃えている。焼けている。溶けている。まさしくそういった感覚だ。


 そうして少女の唇がすっと離れていくと、俺は耐えきれず膝を折った。


「ぐっ、あ……っ!」

「今おぬしの体中から自然に治そうとする力を集めて一箇所の集中させておる。最も真っ当な治癒魔法じゃな。その分おぬしの体にも相応の負担が……ん? ……これは驚いた。まさかもう治るとは」

「はぁ……はぁ……何か、疲労感が凄いんだけど……」

「まあそういう術じゃからな。というより常人なら治った後も二、三日は寝たきりになる程の大怪我なはずじゃったが……」


 お前は本当に何者なんだ、という目で少女が見てくる。

 残念ながら俺にも分からないから答えようがないのだけれど。


「何にせよ、助かったよ。ありがとう……えっと」


 礼を言おうとして、俺は少女の名前を知らないことに思い至った。


「ん、儂の名前か? 儂は……そうじゃな、クリスとでも呼んでくれ」

「そうか。ありがとう、クリス。あんたのおかげで命拾いした」

「ふむ。……さて、それではその命の恩人である儂に、いくつか教えてほしいことがあるのじゃが、構わぬか?」


 そう言ってクリスはにやりと笑う。なるほど、上手いものだと俺は感心した。

 といってもまあ、俺には隠し事をする気なんて最初からなかったのだけど。


「それは別に構わないけど、その前に……場所を変えないか?」

「……それもそうじゃな、とりあえず出口を目指すとしよう。それではおぬし、歩けるか? 無理そうなら背負ってやってもよいがの?」

「いや、大丈夫だって。一人で歩けるよ」


 俺は反射的に拒否する。

 気だるさはまだあるが、それでも歩けないほどじゃない。

 というかクリスみたいな女の子に背負われるなんて恥ずかしいにもほどがある。


「それならば、行くとするか。……そういえばまだおぬしの名前を聞いておらんかったの?」

「ああそうだった。俺はシンだ」


 そうして俺が名乗ると、クリスは満足そうに歩きだした。


 俺にはまだ何も確信を持って言えることは何もない。けれどそれでも、俺の感じていることが仮に正しいのだとしたら。


 ――きっとここは、俺が今まで過ごしてきた世界ではないのだろう。



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