涙の理由
私は、とてもシンプルなある一つの理念を持っている。それは、物事に対して「なぜ」という疑問を持たないということだ。
なぜ生きるのか?
なぜ空は青いのか?
なぜ花は美しいのか?
「生きることに理由などない。空が青いのも物理的にそうだというだけだ。花が美しいのは見る者が勝手に美しいと判断するからに過ぎない」
これは私の尊敬するある人物の言葉である。
とにかく、私から言わせてみれば、目の前の現状に理由を求めることは非建設的である。この世のあらゆる現象は、些細なつまらない理由で起きる。だから、それに対して、どのように対処するかを考えるだけで十分である。それに、この世界で生きていくには、こちらの方が都合が良い。
そうですよね、お姉さま?
✳︎
夕暮れの中庭。
赤く染まる広場に、私は一人立っていた。
監視対象の不良生徒に特に不審な動きは無かったが、報告書のチェックが終わるまでは、下校できない。こういうやることのない時には、中庭でぼんやりすることが多い。
「氷坂先輩、こんにちは!」
いきなり声を掛けられた。
この声は……ああ、井戸田舞だ。
「あなたは、確か……井戸田舞……」
「相変わらず堅苦しいですね。舞ちゃんって呼んでくれていいんですよ」
舞は元風紀委員であり、私の後輩だった。委員を辞めた後も、こんな風に声を掛けてくる。
私は、舞が苦手である。一緒にいると、調子が狂うからだ。
「ねえ先輩、この漫画ちょっと読んでみてください」
舞は、長い髪を揺らしながら近づいてきた。そして、いつものように自作の漫画を差し出す。私はそれを黙って受け取ると、流し読みする。
風紀委員だった頃から、舞はこんな風に漫画を見せに来た。
「ど、どうですか?私としては結構、面白い作品に仕上がったと思うんですけど」
「あなたって、相変わらず女の子二人が不純同性交友する話しか書けないの?」
私は、極めて率直に感想を述べた。
作品の内容は実に酷いものであった。それに過激でもある。
この漫画を一言で表すなら、二人の少女が極めて不健全な行為をする作品というところだ。
「じゃあ、今回の作品は氷坂先輩の好みじゃなかったんですね……」
「いや、好みじゃないのはいつもなんだけど」
「でも、新作を一番に先輩に読んでもらえて嬉しいです」
舞はがっかりした様子だったが、すぐにいつもの調子を取り戻した。
「ところでなんだけど。あなた、風紀委員に不良生徒として目を付けられてるんだけど。その事実は認識してるの?」
「えっ、そうだったんですか!私も結構有名になったんですね」
初耳という様子だ。危機感もないらしい。
「あなた達、学園から許可を得ずに勝手に同人誌を刷って配布したらしいわね」
「ええっ!でも、アレは漫画同好会の活動ですし」
「あなたが所属してるのは、非公式の漫画同好会。風紀委員に目を付けられたくなかったら、公式の漫画同好会で活動しなさい」
「えー、あそこ作品描く上での制約が多過ぎるから嫌なんですよ」
舞は風紀委員を辞めてからしばらくは、公式の漫画同好会に所属していた。しかし、すぐに辞めたらしい。まあ、あそこでは舞のような作風の漫画など許されないだろうし、仕方ないだろう。
「そもそもあなたは、なんで風紀委員を辞めたの?」
自身のポリシーに反して、どうでもいいことを聞いてしまった。やはり、舞といると調子が狂う。
「あの仕事、私には向いてなかったんですよね。他人を尾行するのとか全然できなかったですし」
予想通り大した理由ではなかった。実際、舞が風紀委員として不適切だったのは確かで、一ヶ月ほどで辞めることになった。
だが、私が気になるのは最近の舞の動向である。
「それより、あなた最近は過激な作品も書いてるそうじゃない。《補導》されてもおかしくないわよ」
「ううっ……確かに前の作品はなかなかコアな内容でしたからねえ。でも、今回のは割と健全な内容ですよね……」
「十分コアな内容だし、そもそも不純同性交友に健全もクソもありません」
私はきっぱりと切り捨てる。
実を言うと、問題はそこではないのだが。
「何だかよく分からないですけど。私、明日にでも《補導》されちゃうかもってことですか?」
舞には本当に何の危機感もないらしい。私は正直、呆れていた。《補導》されればどうなってしまうのか分かっているはずなのだが。
まあ、風紀委員である私にあんな漫画を見せに来るのだから、自分は捕まらないと信じているのだろうけど。
「それじゃ、今日の内に氷坂先輩にずっと言いたかったこと言っときますね」
「一体何?」
「私、氷坂先輩のことずっと好きだったんです」
「えっ……」
私の思考が硬直した。
突然の告白。
しかも、よりによって女の私に。
彼女は一体何がしたいのだ。
私の心はざわつく。もしかして、私も彼女のことを……いや、そんなことがあってはならない。私は学園の秩序を守る風紀委員なのだ。
「あなたは一体なぜ、私の事が好きなの?」
混乱した私は、またしても無意味な質問をしていた。
なぜかと問うことなど、無意味であるというのが私のポリシーなのに。
「理由なんてないですよ。とにかく、私は氷坂先輩が好きなんです。ところで、氷坂先輩は私のことどう思ってるんですか?」
衝撃を受けた。私は、不測の事態には対処できるよう普段から心掛けているつもりだが、これはさすがに予想外だ。
私は、舞のことが……好きなのだろうか?
とりあえず嫌いではない。
好きかと言われたら、果たしてどうなのだろうか?
私には分からない。自分の心が分からないなんて。
もはや、私の思考回路は機能していなかった。
「別に好きではないけど……嫌いじゃないわよ」
長い沈黙の後、私はそんな風に答えた。
苦し紛れの回答だった。
「嫌いじゃないですか……でも、それ本当の気持ちなんですか?今日の夜じっくり考えて改めて答えてくれてもいいんですよ。明日の放課後もここに来ますし」
もはや私には返す言葉はなかった。自分の気持ちも彼女の意図も理解できなかった。
「あっ、そうだ。この原稿は氷坂先輩にプレゼントしちゃいますね。私の愛の証として受け取ってください!」
「ちょっと、あなた一体何のつもり!」
舞は強引に原稿を渡そうとする。
「先輩がこの原稿受け取るまで、私帰りませんからね!」
「やめなさい!」
私は必死に抵抗した。この原稿は絶対に受け取ってはならないのだ。
おそらく10分近く、私は舞と格闘した。
結局、私はそれを受け取ってしまった。
舞の事だ、私が受け取るまで本当に帰らないつもりだったのだろう。
舞はいつもこうだ。どんなに反対されても、絶対に自分の意志を貫き通すのだ。
舞が何を思って、こんなことをしたのかは理解できなかった。どうせ、つまらない理由だろう。私はただ苦笑いしていた。
こんな状況には、そうするしかなかったのだ。
「じゃ、私は帰りますね。氷坂先輩さよなら」
原稿を強引に受け取らせた舞は、満足げな表情で、私に微笑んでいる。
「さよなら……井戸田舞……」
舞は夕暮れの闇の中へと去っていく。
その後ろ姿は、夕陽で赤く染まっていた。
私はしばらく、その場で何も出来ずにいた。
しかし、いつの間にか声を出して笑い出してしまったのだった。
こんな出来事には笑うしかない。
なぜこんなことになったのか?
理由など考えてもどうにもなるはずがない。
それにこうなっては、もはや取り返しがつかない。
私に出来るのは、この現実に対処することだけだ。
その後、私はやるべきことを済ませ下校するしか無かった。
✳︎
私は今日も、学園の規律に基づき、風紀委員として秩序を守る。
規律が本当に正しいのか?
何のために秩序を守るのか?
そんな疑問は抱かずに。
私は夕暮れの中庭に一人立っていた。
今日は舞が来ないことを私は知っている。
舞は今朝、《補導》された。
どこに連行されたのかは分からない。
だが、次会う時には《再教育》されて全く違う人間になっているだろう。おそらく記憶を書き換えられて私のことは忘れているはずだ。少なくとも、あんな漫画を描ける人間ではなくなっている。
舞が《補導》されたのは、私があの漫画を上層部に提出したからだ。
舞は私が担当する監視対象の生徒の一人だったから、当然の処置である。
本音を言えば、私だって舞を告発するつもりなどなかった。舞のことは嫌いではなかったのだし。
実際、私はあの時、舞にちゃんと警告した。しかし、原稿を受け取ってしまった以上、こうするしかなかったのだ。
舞は、私が受け取るまで帰らないと宣言したし、原稿を安全に処理できる方法もないのだから避けられなかったことだ。
あの作品には、体制に対する風刺や批判が多く含まれていた。
舞は、確かに風紀委員の頃から上層部の意向に背くような言動は多かったが、その頃の作品には過激な特徴は見られなかった。おそらく、非合法の同好会の連中に影響されたのだろう。
しかし、舞が漫画をわざわざ風紀委員である私に見せ、よりによって渡したのか。舞の意図は理解不能である。
体制批判を含む作品を描けば、不良生徒とみなされるのは当然である。ましてや、舞は監視対象となっていた。私はわざわざそれを教えてあげたのに、舞は自ら《補導》に結びつくようなとんでもない行動に出たのだ。
いったい、なぜ?
舞は私のことをどう思っていたのか?
むしろ、私の気持ちはどうだったのか?
なぜ、彼女は原稿を渡そうとしたのか?
なぜ、私は原稿を受け取ってしまったのか?
私の心の中に無意味な疑問が渦巻く。
本当に規律は正しいのか?
本当に秩序を守る必要があるのか?
なぜ体制に背くものは不良生徒なのか?
なぜ私は風紀委員をしているのか?
なぜ「なぜ」という疑問を持ってはいけないのか?
私の疑問は風紀委員としてあってはならないものになっていく。
もはや無意味ではなく、この世界にとって危険な疑問に。
どうすればいいのですか、お姉様?
ふと校舎の壁に描けられた巨大な肖像画を見つめる。彼女はこの国の初代教育大臣で、学園の創設者でもある。その姿を実際に見たことはないが、この学園に入学して以来、他の生徒同様に「お姉様」と呼んで慕ってきた。
「生きることに理由などないし。空が青いのも物理的にそうだというだけだ。花が美しいのは見る者が勝手に美しいと判断するからに過ぎない」
これは「お姉様」の言葉だ。「お姉様」はなぜと問うことには何の意味もないとおっしゃられたのだ。
「お姉様」の言葉に従うなら私の抱いている疑問にも何の意味もないのだろう。
私は自身の心に渦巻く危険な考えを抑えつけようと試みる。
「お姉様」の言葉が間違っているはずはなく、こんな疑問を抱く私の方が間違っているのだ。無意味な疑問など忘れてしまえばいい。
「正しいのは氷坂先輩の方ですよ」
舞の声が聞こえた気がした。
中庭を風が吹き抜ける。
いつの間にか、私の目からは涙がこぼれていた。
私は必死にそれを抑えようとしたが、無駄だった。
涙は、風に乗り、舞が消えていったのと同じ夕暮れの闇へと流れていく。
なぜ涙を止めることが出来ないのか?
私はその理由を考えた。
分からない。
一体、どうして?
なぜ舞のことを考えると、涙をこらえられないの?
今まで、「なぜ」と問うことをしなかった私にその答えが分かるはずも無かった。
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